この日も朝からの労働だったので、五時半の目覚ましで支障なく起こされたのだろうが、その時のことはもはや記憶にない。朝の瞑想が六時四分から一五分までになっているところでは、覚めてから三〇分ほど寝床に留まったのも常の通りだろう。上がっていくと既に母親が起きており、肉を炒めてくれと言うので、玉ねぎを切り、豚肉と合わせてフライパンに放った。火を通したのちに足もとの戸棚から醤油のボトルを取って垂らすと、見る見るうちに炒め物は濃い茶色に染まっていった。思ったよりも塩辛い味付けにしてしまったそれをおかずに、米を食った。ほかには確か豆腐に刻んだ葱と鰹節を乗せ、即席の味噌汁にも葱をおろし入れて、合わせて食した。食事を終えて食器を片付け、風呂を洗おうかと浴槽を覗きに行くと、まだ洗濯物に使う分を汲みこんでおらず湯が深く残っていたため、後回しにして、確か帰宅したあとに洗ったのだと思う。自室に下りて出かけるまでのそう長くはない時間、何をしていたのか今や定かでない。服を着替えて、相変わらずの手ぶらのスタイルで眠気だけを抱えて、八時五分には出たはずである。道中のこともやはり覚えていないのだが、灰色を帯びた雲が大挙して空は閉じていた。大気が不安定でじきに大雨が来ると予報で聞かされていたが、傘は持たず、まだ降りはじめることもなかった。職場に就いて労働、そのあいだに驟雨が通りかかって、生徒に説明をしながらばちばちと雨粒の弾ける音が聞こえて顔を上げたし、入り口の扉がひらいた拍子には激しい雨音が押し入ってきたものだ。労働は一二時半過ぎに終えた。外に出ると既に雨は過ぎており、水気をはらみながら熱された空気が生暖かくて、腰のあたりに温もりがわだかまった。裏通りに入ってしばらく行き、足もとに目をやると、落ちる薄陽にアスファルトが白く照っている。路面を構成する骨材一粒一粒の作る微小な隙間に、光がいちいち入りこんでは宿ってあたりに無数の白さをばら撒き、それがこちらの歩みに応じてちらちらと絶えず身じろぎして路上の均一な固さを乱しているさまは、上空遥かから見下ろされた静かな海面の揺らぎにも似ていた。進みながら先に目をやると、女子高生が二人並んで歩いているその地点と自分とを繋ぐ道路が、光と水気の具合でか普段より色を稀薄にしていて、まるで空の色が垂れ落ちて広がったように薄青い。そこを過ぎて坂道の途中に出ると、路面から湯気が湧いており、立ちあがらずに地にぴったりと伏せて、右方の坂上から僅かな風に流されて這ってくる。道の見えない向こうに巨大なドライアイスでも仕掛けてあるみたいだと見ながら渡り、ふたたび裏通りに入った。空にはいつの間にか雲が減って、晴れ間が覗いている。街道に出てやけに空間が明るいと感じたのは、やはり濡れた路面が光を跳ね返しているからだろう。歩む足のすぐ傍には白点が群れ遊んで表面のざらつきが露わだが、進む先の道路は先ほどの裏通りと同じく、空を映したような淡青色を均一に塗られて微細な起伏を視認させずに緩く身を持ちあげながら伸びていて、まるで女人の背中めいたその滑らかさの上を走る車の鼻面に天の光が丸く集中すると、それが道にも映って薄衣のような白影が車の先に掛かるのだった。また一つ、この世の事物の新しい表情を発見したことに満足しながら帰宅し、居間で汗にまみれた身体を晒し、洗濯物を洗面所に置いておくと、室に帰った。一時八分から一八分まで、すぐに瞑想をしたが、その頃には雷が空の彼方で転がっていた覚えがある。上に行き、朝の残り物やらを用意していると、また驟雨が降りだしたので、ちょうどいいタイミングで帰ってこれたものだなと思った。母親は仕事で不在、無人の居間で飯を食い、室に帰ったのち、メモによると二時半前から書き物を始めたらしい。既に乱雑に記録していた文言に沿って素早く打鍵していき、三時を過ぎて七月三一日の分を仕上げ、三時半には前日のものも終えて、合わせて五二〇〇字程度を記した。その頃には、眠気が高まっていた。二〇分ほど仮眠を取ろうとベッドに転がり、携帯電話のアラームを四時にセットして、上半身裸のまま布団を被った。時間通りに夢から引き戻されて、二度寝に陥ることもなくベッドを離れたあとは、ここ一週間性欲を解消していなかったので、久しぶりに下腹を軽くして、それから前日日記にメモしておいた動画――東浩紀、津田大介、夏野剛(この人は初見だった)、ひろゆきが集まって、ニコニコ生放送で都知事選について放談したもの――を閲覧しはじめた。宇都宮健児が出演するというので見てみたのだが、彼が去ったあと二人目のゲストとして猪瀬直樹元都知事が出てきて、今次都知事選の総括をして、今回の選挙はインターネットの力が初めて本当に発揮された選挙だった、というのは、内田茂自民党都連幹事長の存在に光が当たったからだ、と話した。内田茂という名前は投票日直前に、インターネット上で名前を見るだけは見て、結婚式の日に喫茶店で都職員と話した時にも、あの人は本当に黒らしいと笑いながら言うのをちょっと聞いたのだったが、遅れ馳せながらその疑惑の実情をここで知ることになったのだ。それを見ているうちに六時になったので、一旦停止して上階に行き、既に帰宅していた母親と台所に入って、豚汁を作ることにした。ラジカセでBill Evans Trioを流して、大根、人参、玉ねぎをそれぞれ切り、豚肉も軽く切り分けて鍋で炒め、水を注いだ。母親が隣のコンロに置いていったフライパンでは、マグロの切り身が焼かれている。既に醤油が注がれているそれを見張りつつ、生姜をすりおろして熱し、水気が少なくなったあたりで火を止めると、鍋の野菜が煮えるのを待ってラジカセの前で音楽を聞いた。しばらくしてから大根に用事を通してみると軽く貫けたので、味噌を適当に投入して、味見もしないで完成とし、食事に移った。胃のために大根おろしを作ってつまみながらマグロを食べ、豚汁は我ながら美味だったので二杯を食った。それで確かすぐに風呂に入ったはずである。出てくると九時頃だっただろうか、シャツにアイロンを掛けてから室に帰った。書き物をしなくてはならないと思いながらも、先ほどの動画の続きを閲覧し、終えると今度は都知事選の告示日に同じメンツが集った動画も視聴した。結局最後まで見続けて零時を越え、そこからようやくベッドに映って、Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraの語彙を一〇ページ復習したのち、W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『目眩まし』をひらいた。払っても払っても眠気が寄ってきて仕方がないので、一時には読書を諦めて瞑想を始めたが、こちらも身体が揺れて形にならないので二、三分で諦め、床に就いた。