2016/8/8, Mon.

 何らかの夢――今はもう失われてしまった――を見ていると、そのなかに突如としてけたたましい響きが闖入してきて、脳内で繰り広げられていた舞台劇の世界を破り、意識が現へと回帰した。五時半の時計の叫びを止め、まだ瞼のひらききらない身でベッドに戻った。カーテンは暖色に満たされている。開けると眩しい朝陽がアサガオの葉や蔓に投げかけられているなかに、白い花が口をひらいて、その周りを飛び回る蜂の低い唸りが寝起きの頭に本能的な忌避感、警戒心のようなものを生じさせた。いくつか伸び並んだ蔓葉の緑のあいだを埋める空は青一色で、雲の姿は見えない。寝床にしばらく留まってから起きあがり、便所に行ってきてから枕の上に座って瞑想を行った。近所の家で朝食の支度をしているのだろう、フライパンから油の弾けるぱちぱちという響きが聞こえて、一瞬葉を叩く雨音のように錯誤した。それに被さって包丁のリズムも耳に届く。音は次第にじりじりと厚いものになって、耳をそこから外して遠くに向けると、ミンミンゼミが既に旺盛に鳴いている。蟬は窓の近くにもやってきて、電動髭剃りの駆動音めいた低い鳴りを聞かせていたかと思うと、段々と高まってうねりを強くした。五時四七分から始めて、目をひらくと五七分だった。一〇分間の瞑想を済ませて上階に行くと、冷蔵庫から前夜のトマトソース料理、それに鮭を取りだしてそれぞれ温めた。米にこの二品がこの日の朝食である。卓に就いて、もう飽きてきたトマト風味のジャガイモをかじり、塩気のある鮭をおかずにして米を頬張った。室に下りたのは六時四五分かそのあたりだったと思う。すぐに歯を磨き、それからコンピューターを起動して、前日の各種記録を完成させた。それから、七月の勤怠をチェックする必要があったので、モレスキンの小さなノートにコンピューターに記録してある勤務日時を写して、貰える額の予測も計算しておく、そんなことをしていると七時を回った。片山昇・安藤信也訳『サミュエル・ベケット短編小説集』を読むか、それともベンヤミンの書き抜きをするべきかと迷ったのだが、やはり何よりも先に書き物をするべきだろうと決断して、一〇分付近から前日の記事に取り掛かった。音楽は聞かずに打鍵をしていき、七時五五分でそろそろ時間が厳しいと中断した。裸にならず、さらさらとした肌触りのNikeのシャツを着ていたのだが、早くも首すじや背に汗が湧いて、肌がぴりぴりとしていた。上に行き、制汗剤ペーパーで身体を拭いたあと、戻ってワイシャツとスラックスに着替え、ネクタイも締めたのだが、また居間に上がって鏡の前に立つと、肌着に大きく書かれたNikeの白文字がシャツの下に透けてださかったので、着込んだ服を脱いで肌着を替えた。それから何かものを取りに自室に行ったついでに、もう瞑想をする時間はなかったので、ベッドの縁に腰掛けて五分くらい沈思し、朝起きてからのことを回想しておいて、そして出発に向かった。玄関を出て、自転車を取りに家の側面のほうに下りると、東南方向の空から注ぐ光が、視線をちょっと上に傾けることもできないくらいに眩しい。車輪に掛かっていた蜘蛛の巣を箒で払って、サドルのひどく熱い自転車を駆りだした。坂を上っていって陽のなかに出ると、すぐにその熱量が、最高気温が三五度に達した先週の晴れ日よりも強いなと感じられた。裏通りを進みながら、陽は額のみならず身体の下のほうまで広がって、早くも太腿や膝のあたりまで征服している。そのなかを目を細めながら走って行き、職場に就くと労働である。一二時半過ぎまで働いて退勤し、ふたたび自転車を駆った。裏道に入ったあたりで、路上がところどころ湿っているのに気付いた。乾き残りというよりは地から滲みだしたような染みや、ところによっては薄い水溜まりがあり、左右の庭木の葉も艶めき光るものが見られ、マンホールの蓋の網目模様のなかには水が残っている。室内にいてまったく気付かなかったが、どうやら雨が通っていたらしい。進んでいくと、坂の途中に出る手前の民家にサルスベリが咲いているのだが、その紅色が随分と鮮烈に見えた。坂に出て左を見やれば、新聞屋の前の白いサルスベリも、先頃はこの位置から見ると確かに饐えかけたような色を混ぜていたはずなのに、今はまた純なような一色にまとまっている。サルスベリというのはどうも開花期間が長い、しかも一度萎れかけたのがあとからあとから色を足して復活しているような素振りさえある、と思った。日記を検索してみたところ、今夏初めて花を見かけたのは、七月八日のことである。裏通りの小家の塀から小さな木が顔を出して、紅色を灯していたのだが、その頃は確かに、周辺でほかに咲いているのを見かけなかった。その早咲きの木を思いだしながら自転車を進めると、件の木が、先日には確かにすべて花を落としていたはずなのに、またちょっと紅色を生じさせている。同じ木の内でも枝によって、開花に時間差があるのだろうか。大方のものはいまが盛りらしく、裏通りから表へ曲がる角の家――ここの木は今夏二つ目に、定かに目を向けたものである――でも、二つ並んだ木が隙なく装っているその紅色が、どぎつくはないものの凝縮されたように濃く強く、ちょっと甘みを覗かせながら明るく映えていた。坂を下って自宅前まで来ると、老婆の住む隣家の戸口にも、同種の紅色が見えた。自転車をしまうと汗がどっと湧いており、汗疹のできた肌がぴりぴり痛い。家に入ると、ネクタイを外して上半身を裸にし、室に帰るとスラックスも脱いで下着を晒した。それで枕に腰掛けて瞑想、また回想をしたり思考に遊んだりして、一二時五五分から一五分経つと終わらせて食事を取りに行った。トマトソース風味のジャガイモがまだ残っていたので、半ば飽きながらも食わねばならない。ほかには味噌汁やインゲン混じりの卵焼き、豆腐に乗せた鰹節が吹き飛ばされないよう、扇風機をあさってに固定して、卓に運んだ。そして酢と大根おろしを混ぜた納豆を久しぶりに用意し、米に掛けて食べはじめた。汗疹が痛いと言うと、母親が即座に、祖母が買っておいたものだというベビーパウダーを取りだしてきてくれたので、皮膚の赤くなっている肘の折り目のところにまぶした。そのほか胸や背にも適当に擦りこんでおくと、なるほど汗をかけば粉を施したところとその他の場所で、乾燥感やひりつきが違うのがよくわかる。一時四五分かそのあたりまでゆっくりして、食器を洗うと一度下階に行った。ベビーパウダーを改めて身体の広範囲に塗っておき、ベッドの上で休んでから風呂を洗いに行き、それから戻るとコンピューターを点してインターネットへ、三宅洋平安倍昭恵首相夫人が共に沖縄県東村高江を訪問した件を追ったりしているうちに三時が回って、リンクの妙でちょうど今上天皇の国民に対する発言を流すNHKのサイトに繋がった。それで一〇分ほど、天皇が原稿を読みあげる姿を全画面表示にして閲覧し、それから同じサイトで放送されていたニュース番組の様子もちょっと見てから、書き物に取り掛かった。三時四〇分前だった。John Coltrane『Giant Steps』を流し、ペットボトルの水を飲みながら打鍵を続けて、前日の記事を仕上げこの日の分も現在時に追いつかせると、五時一二分だった。夕食の準備をするために上階に行った。母親は眼科に行くと言って出かけていた。台所に入り冷蔵庫を覗いた結果、適当に豚汁でも作ればいいかと判断して、BGMにする音楽を取りに一旦部屋に戻った。それでRichie Kotzen『Return of the Mother Head's Family Reuninon』を選んで戻ってきたのだが、ラジカセからファンク混じりのこなれたロックが大きな音で出てきたのをちょっと聞いて、違うなという気分になった。やはりジャズだなとCDを部屋に持ち帰って、気分に合うものを求めて棚を見て、久しぶりにArt Blakey Quintet『A Night At Birdland』でも聞こうかと思ったが、ディスクのありかがわからず、結局またBill Evans Trioの例のライブを選んで台所に戻った。音楽を流して、玉ねぎ、人参、ジャガイモを適当に切り、肉は冷凍庫にほんの一欠片残っていたものを解凍して、鍋で炒めはじめた。炒めているうちに底がどうしても焦げ色に染まってしまうのに、コップから水を少々撒いて応急処置しておき、じきに鍋を蛇口の下に持って行って水をなみなみと注いだ。それで洗い物をしながらしばらく放置、ラジカセの前で "All of You" を聞きながら灰汁が湧いてくるのを待ち、取り除いたあとは粉末だしと味の素を振って、また音楽のほうを向いて煮込んでいると、母親が帰ってきた。玄関から呼ぶ声がするので出ていくと、買い物の荷物を運んでくれと言う。上半身が裸だったが、人目を憚らずそのまま玄関を出て、大きな買い物袋二つを運びこむと、なかのものを冷蔵庫に収めた。それが終わるとそろそろ野菜も良い具合だったので、火を止めて味噌を溶き入れ、味見もしないで完成として、次に餃子を焼くことにした。先日に母親が作りためておいた自家製のものである。凍ったのそれをレンジで解凍してから、フライパンに並べ、底に焦げ目を付けてから裏返し、水を撒いて蓋を閉じた。ところが水が少なすぎたようで即座に蒸発してしまったので、もう一度撒いておき、しばらく待って完成、六時頃だったが、もう食事を取ることにした。自分で作ったものや、母親が横で作っていたサラダを取り分け、卓に就いた。夕食を取って少々ゆっくりしてから立つと、窓外の黄昏れた空気の色が、暗いような明るいようなはっきりしない、穏やかな風合いである。窓に寄って眺めると、西空に茜色を帯びた雲が何筋か流れており、それと同じ色が地上にも混ぜこまれて、夜の進行を遅らせているのだ。しかしそれから皿を洗って室に帰り、ベッドに乗ると、外からは暖色の風味が失われて、ひやりとした青みが渡っている。僅か五分かそこらのあいだに、と驚いた。それからしばらくだらだらとしたあとに、John Coltrane『Kulu Se Mama』をイヤフォンから流しつつ、『ベンヤミン・コレクション1』の書き抜きを始めたのだが、眠気が生じて視界がぶれて仕方がない。ひとまず部屋を出て便所に行ったが、立って放尿しながら首が前に折れて、瞼が今にも閉じそうな有り様だった。上階に行って冷蔵庫から冷えた水のペットボトルを取ってきて、体内に流しこんでもみるのだが、またイヤフォンを付けて打鍵していると眠気がしつこく粘りつく。これは眠らなくては駄目だと諦めてベッドに移った。本格的に眠りに落ちないようにと枕とクッションを背にして、中途半端な姿勢でまどろんだのだが、しばらくすると上階からうるさく呼ぶ母親の声で覚めた。父親がじきに帰ってくるから風呂に入れと言うのだが、上がっていくと、やることがいくらでもあるんだから、と言ってぷりぷりと機嫌を損ねていた。寝起きの身体が熱を持って、まだ血液が回りきっていない停止感があった。洗面所で服を脱ぐと、腕を上に伸ばしたり、ぐるぐると回したりしてから浴室に踏み入った。熱い湯に浸かると意識がどうなるかわからなかったので、窓をひらいて外に留まり、洗面器で汲んだ湯を脚のほうから恐る恐る身体に掛けた。たわしで身体を擦りながら身体を熱気に慣らすようにして、そのうち背を前に曲げて頭を洗面器の湯に浸した。髪を洗ってからも結局浴槽には入らず、また身体を擦ってから、冷水を浴びるのも気後れして温かい身体のまま上がった。室を出ると九時過ぎだった。部屋に戻り、またベビーパウダーを肌にまぶしておいてから、『ベンヤミン・コレクション1』の書き抜きに復帰した。一〇時まで打鍵をしてのち、歯磨きをしつつ『サミュエル・ベケット短編小説集』の読書に移り、口をゆすいできてからはベッドに転がって読み続けた。このまま行けるところまで進もうと思っていたところが油断して、一一時四〇分頃からインターネットに繰りだしてしまい、じきに零時半が近づいてきたので英語に触れることを諦め、残りの猶予をまた読書に使った。ベケットの小説を読みながら、以前放棄した散文第二番のことを思いだし、やはりあれは――あのような形のものを――再挑戦するべきだなと思った。そのためにはまずもって、読んでおかなければならないものがいくつかある。カフカは再読する必要があるし、場合によってはローベルト・ヴァルザーもそうである。ほかにはベケットは勿論として、トマス・ベルンハルト、そしておそらくフィリップ・ソレルスのいくつかの作品と、エルフリーデ・イェリネクを読んでおくべきだという気がする。この日は少し早めに読書を終えて、零時四三分に瞑想を始めた。気が付けばあらぬ方向に逸れている思念のやんちゃぶりに妨害されつつ、この日の未記録の事柄を一つずつ回想をしていき、目をひらくと一時七分である。消灯し、アイマスクを付けて仰臥、自律訓練法の真似事をやっているうちに眠ったらしい。



 無意志的記憶[メモワール・アンヴォロンテール]のなかに定住しつつ、ある直観の対象のまわりに集まろうとするさまざまな表象を、この対象のアウラと呼ぶとすれば、直観の対象にまとわりつくこのアウラは、ある使用対象に習熟として沈着してゆく経験にまさに対応するものである。写真機およびそれ以後に出現した類似の器械を用いた諸技術は、意志的記憶[メモワール・ヴォロンテール]の範囲を拡大する。出来事を器械を使って、映像と音響で記録することがつねに可能になる。したがってこれらの技術は、習熟が衰微してゆく社会における、重要な収穫となる。――銀板写真[ダゲレオタイプ]はボードレールにとって興奮と驚愕を呼び起こすものであった。その魅力は「残酷で驚くべき」〔「フランスの諷刺画家たち数人」〕ものであると彼は述べている。したがって彼は右に述べた関連を、見きわめていたというのではないにしても、感じ取ってはいた。彼がつねに目指していたのは、<近代的[モデルン]なもの>のための場所を確保しておくこと、特に芸術におけるその場所を定めるこ(end467)とであったが、写真に対する姿勢も同様であった。彼は写真に脅威を感じるたびごとに、その責任は写真の「進歩が悪用された」〔「一八五九年のサロン」〕ことにあると考えようとする。ただしこれが「大衆の愚昧」〔同前〕によって促進されることを彼は認めている。「この大衆は、自らにふさわしく自らの本性に適合した理想を希求していたのです。……一人の復讐の神がこの大衆の願いを聴きとどけてくれました。ダゲールが彼らの預言者となったのです」〔同前〕。それでもボードレールは、もっと和解的な見方がないかと探してみる。「われわれの記憶の保存所の中に一つの場を要求する」権利をもつにもかかわらず消え去りやすい物たちを、写真がみずからのうちに収めるのはかまわないが、ただし「手に触れ得ぬもの、想像されるものの領域」〔同前〕、すなわち「人間がその魂のいくばくかをそれに付与する」〔同前〕ものだけが存在しうる芸術の領域に、写真は踏みこんではならない。以上が彼の裁定であるが、これはあまり名裁定とは言えない。意志による推論的な追想がつねに待機状態にあると――これは複製技術によってますます容易になる――空想力[ファンタジー]の活動範囲は削減されてしまう。空想力とは、ある特殊な種類の願望、すなわちその実現として<なにか美しいもの>が与えられうる願望をいだく能力と定義できるかもしれない。この実現がどんな条件と結びついているかは、またもやヴァレリーが詳しく述べてくれている。「あるものが芸術作品であるとわれわれが認識するのは、それがわれわれのうちに目覚めさせるいかなる観念も、またわれわれに示唆するいかなる振舞い方も、そのものを用済みにせず、そのものを汲み尽くさないという点によってである。嗅覚に快い花の香りをどんなに長く吸っても、われわれのうちに(end468)欲求を呼び覚ますこの香りと、手を切ることはできないのだ。そしていかなる追想も、いかなる思考も、いかなる振舞い方も、その香りの効果を無効にしたり、あるいはその香りがわれわれに及ぼす力からわれわれを解放することはできない。芸術作品を作ろうと欲する者の追求するところもここにある」〔「芸術の一般概念」〕。この見解に従えば一枚の絵は、ある眺めにおいて眼がいくら見ても見飽きないものを再現する。絵の根源に投影される願望を、どうやって絵が実現させるかと言えば、この願望を不断に養っているものによって、ということになる。何が写真と絵を分かつか、そしてなぜ双方に共通する<構成>原理がひとつもありえないのかは、したがって明らかである。ある絵をいくら見ても見飽きないまなざしにとって、一枚の写真のほうは、空腹にとっての食べ物、渇きにとっての飲み物にずっと近い意味をもつのである。
 以上のようなかたちで現われてきている芸術的再現の危機は、知覚そのもののある危機の重要な一部として論じることができる。――美の快楽を鎮めがたくするのは、ボードレールが郷愁の涙のヴェールをかけられていると呼んだ、あの前世のイメージである。「ああ、汝は いまはもう絶えた世に/わが妹 わが妻なりき」〔ゲーテシャルロッテ・フォン・シュタイン夫人に手紙として送った詩〕。――この告白は、そのようなものとしての美が要求することのできる貢物である。芸術が美をめざし、どんなに素朴なやり方でであれ、それを<再現>するかぎりは、芸術はそれを(ファウストが美女ヘーレナをそうするように)時の深みから連(end469)れてくることができる。これは技術的複製においてはもはや生じない。(そこには美の居場所はない。) プルーストは、ヴェネツィアに関して意志的記憶[メモワール・ヴォロンテール]が与えるイメージの乏しさ、深みのなさに文句をつけているが、それに続けて、<ヴェネツィア>という単語を思いついただけで、このイメージの宝庫が写真の展覧会のように味気ないものに思えてきたと書いている(*)(『失われた時を求めて』第七篇「見出された時」参照)。無意志的記憶[メモワール・アンヴォロンテール]から浮かび上がるイメージの特徴がアウラをもっていることだとすれば、写真は<アウラの凋落>という現象に決定的に関与している。銀板写真において、非人間的、いわば殺人的な点と感じられざるをえなかったのは、器械を(しかも長いあいだ)見つめることであった。なぜなら器械は人間の像を写し取り、しかもその人にまなざしを送り返すことがないから。だがまなざしには、自分が見つめるものから見つめ返されたいという期待が内在する。この期待(それは、言葉の普通の意味でのまなざしにと同様、思考の領域での注意深さという志向的まなざしにも付随していることがある)がみたされるとき、まなざしには充実したアウラの経験が与えられる。「知覚されうることとはひとつの注意深さ」〔一七九九年頃の断章〕であるとノヴァーリスは断じている。彼がそのように述べている<知覚されうること>とは、アウラが知覚されうることにほかならない。したがってアウラの経験は、人間社会によく見られる反応形式の、無生物ないし自然と人間との関係への転移に基いている。見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを打ちひらく。ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしを打ちひらく能力を付与することで(end470)ある。無意志的記憶の発掘物はこのことに対応している。(ちなみにそれらの発掘物は一回的なものである。〔意志的〕追想がそれらを摂取しようとすると消え去ってしまうものである。無意志的記憶の発掘物のこうした性格は、アウラを「ある遠さが一回的に現われているもの」(ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」参照)と把握するアウラ概念を根拠づける。この定義の優れた点は、アウラという現象の礼拝的性格が明確になることである。本質的に遠いものとは、近づきえないもののことである。事実、近づきえないことが、礼拝の対象の主要な性質のひとつである。) プルーストアウラの問題にいかに精通していたかは、あらためて強調するまでもない。彼がアウラの理論を含む諸概念におりに触れて言及しているのは注目に値する。「神秘を愛する人びとは、こう信じたがる、――物には、過去にそれをながめたまなざしのいくぶんかが残っていると」。(これはまさにまなざしを送り返す能力)ということであろう。)「彼らの意見では、史蹟や絵画は、幾世紀にもわたって多くの賛美者の愛と観想が織りなした柔らかなヴェールをかぶってしかわれわれのまえに現われない」〔『失われた時を求めて』第七篇「見出された時」)。ここでプルーストはやや話の方向を変えて、次のように結論する。「そのような幻想も、この人びとが、各個人にとって存在する唯一の現実、つまり各自に固有の感覚世界にその幻想を関係づけるならば、真実となるであろう」〔同前〕。(……)
 (ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫、一九九五年、467~471; 「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」)

: プルーストの原文では<ヴェネツィアではなく<スナップショット>という単語が「私の記憶を写真の展覧会のように退屈なものにしてしまった」とされている。

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 (……)だがシュルレアリスムが霊感を与える夢の波というかたちで創始者たちの上に降りかかってきた当時、それは最も統合的な、最も結論的な、最も絶対的なものと見えた。シュルレアリスムの触れたものすべてが統合された。目覚めと眠りのあいだの敷居が、満ちては引く潮である大量のイメージに浸食されたかのように、各人のなかで踏み減らされてしまっているときにのみ、人生は生きるに値すると感じられた。音とイメージが、イメージと音が自動機械のような精密さでうまくかみあい、その結果<意味>などというつまらぬものが入りこむ隙間が残されていないときにのみ、言語は言語そのものであるように思われた。イメージと言語が優先する。サン = ポル = ルー(end495)は明け方近く眠りにつくとき、ドアのところにこういう注意書きを出しておく――「詩人は仕事中」〔ブルトンシュルレアリスム(第一)宣言」参照〕。ブルトンはこう書きとめている。「静粛に。私はまだ誰も通ったことのないところを通っていこうとしている、静粛に。――どうぞお先に、いとしい言語よ」〔ブルトン「現実僅少論序説」〕。言語が優先するのである。
 意味よりも優先するだけではない。それに加えて、自我よりも優先する。世界の構造のなかで、夢は個的存在性を虫歯のようにぐらつかせる。陶酔によるこの自我のぐらつきは、同時に実り多く生き生きした経験なのであって、この経験がシュルレアリストたちを陶酔の呪縛圏から脱出させてくれたのであった。本論はシュルレアリスム的経験をすみずみまで明確に描き出す場所ではない。だが、このサークルの著作において意図されていたのは文学ではなくて別のこと、すなわち宣言、スローガン、記録、さらにこう言ってよければ、はったりや偽造であって、まさに文学だけは意図されていなかったことに気がつけば、ここでの話題は文字通りさまざまな経験ということであって、理論とか、ましてや妄想などではないことも分かってくる。そしてこれらの経験は、決して夢の経験とか、ハシッシュを飲み阿片を吸っている時間の経験に限られない。それどころか、<シュルレアリスム的経験>として私たちに知られているのは宗教的エクスタシーないしは麻薬によるエクスタシーだけだと思ったりしたら、非常に大きな誤りである。レーニンは宗教を民衆にとっての阿片と呼んだが(*)、この二つのものをここまで接近させてしまうのは、シュルレアリストたちも望まな(end496)いことであろう。ランボーロートレアモンアポリネールシュルレアリスムを世に生み出したとき、彼らはカトリシズムに対して激しく情熱的に反抗していたのであるが、これについてはあとで論じることになろう。さて、宗教的な啓示[エアロイヒトゥング]の真の創造的な克服は、麻薬によってなされるのでは絶対にない。克服は<世俗的啓示[﹅5]>において、すなわち唯物論的・人間学的な霊感においてなされるのである。この霊感への入門としては、ハシッシュや阿片や、その他どんなものでも役立つことがある。(ただしこうしたものによる入門は危険性をともなう。そして諸宗教による入門に厳しさの点で及ばない。)(……)
 (495~497; 「シュルレアリスム」)

: この言葉はマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』にある。

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 (……)私たちがもの悲しい鉄道の旅の途上(鉄道は老化しはじめている)、大都市のプロレタリア地区の侘しい日曜の午後、新しいアパートの雨に濡れた窓を通して最初の一瞥で経験したもの、そうしたもののすべてをブルトンとナジャのカップルは、革命的行動とはいかぬまでも革命的経験のなかで、解き放ってやるのである。彼らはそうした事物のうちに潜んでいた<気分>の巨大な力を爆発に至らせる。もしこれとは異なり――読者はどう思われるであろうか――ここぞという瞬間に、よりによって最近いちばん人気の高い流行歌に左右されてしまう人生があるとしたら、その人生のかたちはいったいどのようなものになるであろう。
 (501; 「シュルレアリスム」)

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 シュルレアリストたちのパリも、ひとつの<小世界>である。ということは、大世界つまり宇宙のほうも同じような具合にできているわけだ。あちらの方にも十字路があって、亡霊のような交通信号が点滅し、いろいろな出来事がはからずも似かよっていたり交錯したりするのが日常茶飯事になっている。シュルレアリスムの抒情詩は、こうした空間について報告している。このことは、<芸術のための芸術[ラール・プール・ラール]>につきまとう誤解に対抗するためだけにでも言っておく必要がある。というのは、芸術のための芸術というのが、文字通りに受け取るべきものであったためしはほとんどなかったのである。それはほとんどつねに、まだ名前がないので表示できない荷を載せた船が掲げる旗のようなものであった。私たちが目撃している諸芸術の危機を、他に類を見ないほど解明してくれるであろう仕事、すなわち秘教的文学の歴史を書くという仕事にとりかかるべきときが来ているのではなかろうか。そうした本がまだないのは決して偶然ではない。その本はどのように書かれるべきか。個々の<専門家>が、それぞれ自分の領域において、<もっとも知るに値することを提供する>論文集ではなくて、ひとりの著者が内面的な欲求から、秘教的文学の発展史よりもむしろ、この文学がいく度となく新たに、根源的に蘇るさまを叙述するという形式の、基礎のしっかりした著作でなければならない。もしそのように書かれるならばその本は、どの世紀にも何冊かある、学問的信条を明確に打ち出した書物のひとつになるであろう。その最後のページには、シュルレアリスムのレントゲン写真が見られるにちがいない。ブルトンは「現実僅少論序説」〔一九二四年〕のなかで、中世における哲学上の概念実在論が、いかに詩的経験の基盤をなしているかにち(end504)らりと触れている。だがこの概念実在論――つまり諸概念は、事物の外部にあるにせよ内部にあるにせよ、特殊な仕方で現実に存在するという信念――は、論理的な概念の領域から魔術的な言葉の領域へと、いつも非常にすばやく移行した。そしてすでに十五年来、アヴァンギャルドの文学全体(それが未来主義と呼ばれようがダダイズムと呼ばれようがシュルレアリスムと呼ばれようが)を貫く特徴となって熱心に行なわれている音声上・グラフィック上の変換ゲームは、魔術にひとしい語実験であって、曲芸的なお遊びなどではない。ここでスローガンと呪文と概念がいかにごたまぜになっているか、それを示すのが、アポリネールの次に引用する言葉である。彼は一九一八年に最後の宣言文「新しい精神と詩人たち」のなかで述べている。「群衆や民族、宇宙といった非常に複合的な存在物を、手っとり早く単純に、たった一語で表現することにこれまで私たちはみな慣れてきた。こうした手っ取り早さ、単純さに現代において対応するものは、文学のなかにはない。だが今日の詩人たちはこの空白を埋めている。つまり彼らの綜合的な文学は、もろもろの新しい存在を作り出していて、それらの立体的な姿は、集合を表現する言葉の姿と同じように複合的である」。とはいえ、アポリネールブルトンがこの考え方をさらに精力的に推し進め、「科学によって得られるものは、論理的思考に基づくよりもシュルレアリスム的思考のほうにずっと多く基づいている」という説明でシュルレアリスムを周囲の世界に結びつけてしまうとき、あるいは別様に言えば、彼らが神秘化――その頂点は詩[ポエジー]であるとブルトンは見なすのだが、この見方は認めてもよい――を、科学と技術の発展に対しても基礎をなすものであると考えるとき、その(end505)ような統合はいささか性急に過ぎると言わねばならない。シュルレアリスム運動を、ろくに理解してもいない機械の驚異とあわてて結びつけようとすること、――アポリネールが言うには、「かつておとぎ話であったことは大部分実現された。いまや詩人たちは新しいおとぎ話を考え出すべきである。そうしたら発明家たちのほうはまたそれを現実のものとするであろう」〔「新しい精神と詩人たち」〕――このうっとうしい幻想を、シェーアバルトのような人の、風通しのよいユートピアと比較するのは、とても参考になる。
 (504~506; 「シュルレアリスム」)

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 陶酔のもつもろもろの力を、革命のために獲得すること――これこそがシュルレアリスムのあらゆる本や企ての中心問題である。シュルレアリスムは、それを自分のもっとも自分らしい課題と呼ぶことができる。私たちが知っているように、あらゆる革命行為のなかには陶酔の要素が生き生きと脈打っているが、しかしそのことだけでは先の課題を果たすのに十分ではない。陶酔の要素とアナーキズムの要素というのは同じものである。だがもっぱら後者にアクセントが置かれるとなると、革命を方法的に規律をもって準備することはすっかりなおざりにされ、練習なのか前祝いなのか分からないような実践が優先されてしまうであろう。(end513)それに加え、陶酔の本質はあまりにも安易に、非弁証法的に考えられているということがある。「驚きの状態にある」画家や詩人の美学、不意打ちされた者の反応としての芸術という美学は、いくつかのきわめて不吉な、ロマンティックな偏見にとらわれている。オカルト的、シュルレアリスム的、幻像[ファンタスマゴリー]的なものにかかわる才能や現象を真摯に究明しようとするとき、つねに前提となるべきは弁証法的な交錯をとらえることであるが、こうしたものをロマンティックな頭脳は決して受けつけないであろう。つまり、謎めいたものの謎めいた面をパセティックに、あるいはファナティックに強調しても、なんら先へ進むことにはならない。むしろ私たちは、秘密を日常的なもののなかに再認する程度に応じてのみ、その秘密を見抜くことになるのである。その際私たちが援用するのは、日常的なものを見抜きがたいものとして、見抜きがたいものを日常的なものとして認識するような、弁証法的な光学である。たとえばテレパシー現象のどれほど情熱的な研究でも、それが読むという行為(これはすぐれてテレパシー的な過程である)について教えてくれることは、読むという行為の世俗的啓示がテレパシー現象について教えてくれることの半分にも満たないであろう。あるいは、ハシッシュの陶酔のどれほど情熱的な研究でも、それが思考(これはすぐれた麻酔薬である)について教えてくれることは、思考の世俗的啓示がハシッシュの陶酔について教えてくれることの半分にも満たないであろう。阿片使用者、夢見る人、陶酔した人と同じく、読む人、思考する人、待つ人、遊歩者も、啓示を受けた人間のさまざまなタイプである。しかも先の人びとよりもさらに世俗的である。私たちが孤独のうちに飲用する、あのもっとも恐ろしい麻(end514)薬、つまり私たち自身については言うに及ばない。
 (513~515; 「シュルレアリスム」)