五時半の覚醒が訪れると、鳴り響く時計を黙らせてベッドに戻った。カーテンを開けて窓のほうを向いてみても、瞼が一向にはっきりとひらかない早朝である。重さに屈して目を閉じ、一瞬後にあけるたびに一〇分か一五分ほどが一気に経っている。六時二〇分頃になるとなんとか起きあがって、洗面所に行った。瞑想だけはきちんとやろうと、戻ってくると枕に座り、六時二五分から三五分まで一〇分、何をというわけでもないが、黙考した。それからまだ細い目で上がっていくと、茄子の味噌汁を作っていた母親が、味噌を入れてと言う。冷蔵庫から出し、味噌を適当に溶いておいて完成、ほかにゴーヤ炒めの残りがあったのでそれを温めて卓に置いた。それから新聞を取りに玄関を出た。家脇の日陰から陽の渡る道の先を窺うと、空気が洗われたように澄んでおり、うっすらと青みがかって見える。ポストに近づいて日向に出ると、まだ低い太陽が視界に光を広げ、もうそちらのほうは目を細めずには直視できず、繊細な青みなど粉砕されてしまった。新聞を持って席に戻ると、それを読みながらものを食べた。下階に帰ったのは七時一五分かそこらではないか。確か部屋に戻りがてら隣室に入って、ギターをいじったのだと思う。それから自室でコンピューターを起動して、Evernoteにこの日の記事を作成し、読書量や家計や瞑想時間など、前日の諸々の記録を記入した。それから歯を磨きつつインターネットを回っているうちに、八時近くになったので、制汗剤ペーパーで肌を拭いてから服を着替えた。黒と灰で分かれたネクタイを付け、上がっていき、ソファに就いてちょっと目を閉じてから出発した。家の横に下りていくと、掛かってくる陽射しが濃密で、日を追うごとに厚みを増しているような気がする。熱いサドルに跨って走りだした。道中、取り立てて目についたものはない。裏通りに広がる高校生や、ちょこちょこと歩く小学生らとすれ違って職場に行き、働きはじめた。正午過ぎまで労働をこなし、退勤前に、ぼんやり立って暇そうにしている院生の同僚に声を掛けると、電車の時間まで待っていると言う。雑談が始まって、以前言語学をやっていると言っていたのを話題に出し、どんな本を読むのかと訊くと、チョムスキーと返ってきた。生成文法理論など名前しか知らないのだが、そのあたりの話を簡易に聞きつつ、ソシュールもやるのかなどとも訊いたりもし、じきに時間が来たので、一緒に外に出て、駅に行く相手と別れた。それでまた自転車を駆り、袖を捲って落ちる光を肌に浴びせながら帰宅した。居間に入ると両親ともいて、飯を食ったあとらしい。ネクタイを外し、ワイシャツと肌着は洗面所に入れてから自室に帰り、下着一枚の格好になった。それでまたなぜかギターをいじってしまったのだが、一〇分くらいで切りあげて、自室の窓辺で瞑想をした。汗疹のできている両肘の裏が痒くて、集中できずに動き出したいのを我慢して、一時一二分から二四分まで座った。汗疹にはベビーパウダーを擦りこんでおいて、上に行き、茄子の味噌汁に茄子焼きと茄子ばかりをおかずにして米を食った。ソファにもたれて目を閉じていた父親は、そのうちにのそのそと仏間に移ってうめきを洩らしながら転がり、本格的に眠りはじめた。飯を終えると母親のものもまとめて洗い物をし、続いて新しく米を研いだ。すると、ベランダの前にいる母親に、カーテンを引っ掛けてくれと呼ばれる。背を伸ばし、布の端に付いた金具を吊り具の穴に入れていき、整うとそのままなんとなく誘われて、ベランダに出た。陽は既に陰っており、空は薄白い。裸足の触れる床が温もっており、腕を乗せた柵も熱を失って柔らかく温い。左右両方の耳の聴覚を伸ばしていった先にアブラゼミの音が拡散し、その内側のところどころでミンミンゼミが調和など気にせず気まぐれなタイミングで声を揺らしていた。風はあるかなしかで、梅の枝の先が揺れていても、肌には気のせいのような涼気が触れるばかりである。母親がまた呼ぶのでなかに入って、今度は反対側の窓のカーテンも、古いものを外して洗ったものを取り付けた。それから風呂を洗って室に帰り、椅子に座ると書き物を始めた。二時半前だった。John Coltrane『One Down, One Up: Live at the Half Note』を聞きながら進めていると、背中に汗の玉が湧いて煩わしい。ベビーパウダーを擦りつけてみると、さすがのものでもう玉が転がったりはせず、汗自体も控えめになった。前日の記事は手短に済ませて、この日のものに入って、ゆったりとした気持ちで進めているうちに、一九〇〇字書いて三時半である。それから、ベッドに仰向けになった。眠気があったので、また自律訓練法めいた要領で身体をだらりと伸ばし、休んでいたのだが、じきにまどろみに落ちた。気付くと三〇分が経っていて時計は四時を指しており、ちょうど良い時間で覚めたなと思ったところが、いつの間にかふたたび意識を失って、結局そのまま、室内に闇がわだかまる六時まで寝過ごした。覚めても身体を起こせず、仕方なくブルーライトの助けを借りることにして携帯を取り、三〇分ほどだらだらしてから立ちあがって、明かりを灯した。そうして、新聞記事の写しである。八月九日のものを終えると、七時前になっており、空の腹も呻いていたので、上階に行った。母親はパソコン教室で不在、父親は風呂に入っており、テーブルの上には餃子を焼くようにと書き置きがあったが、珍しく父親がやったようで台所には油っぽい匂いが漂っていた。米に餃子に汁物とコールスローサラダをそれぞれ取って席に就き、新聞を読みながら食べた。そのうちに父親が出てきてテレビを点けると、リオ五輪での日本選手の活躍ぶりが語られる。テレビの声に乱されないように、文字の横に指を置いてなぞりながら新聞を読み、食器を洗うと自室に帰った。そして、『ベンヤミン・コレクション1』の書き抜きである。七時四五分から一時間と思ったが、John Coltrane『Live at the Half Note』と、『Quartet Plays』を流しながら続けているうちに、九時が過ぎた。京都の知人から瞑想の効果と行うべきタイミングを問うメールが届いていたので、返信してから入浴に行った。母親は既に帰ってきていた。湯を浴びて室に戻ってくると、汗疹のできた腕にベビーパウダーを擦りこんでおいてから、汗を乾かしに上のベランダに行った。空は曇っており、西の山に接して薄墨色が淀んでいる。そのために眼下は闇に包まれて、梅の木は枝先がほんの少し視認できるくらいで、幹や低い位置の枝葉はその下の畑の敷地と黒く一体化していた。風はほとんどない。蟬が濁音を吐いて飛んだな、と左のほうを見やっていると、肩に触れるものがあって、雨が降りはじめたなと気付いた。直後に空気がうねって涼気がこちらの立つ場所に流れこんできて、雨も次第に勢いを持ちはじめた。ちょっと浴びてからなかに入って、雨が降ってきたと報告して室に帰った。そうして、ベッドに就いてGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraを読みはじめた。辞書をめくりめくりのろのろと読んで、一〇時四〇分頃になると、片山昇・安藤信也訳『サミュエル・ベケット短編小説集』に移った。仰向けに寝転がった姿勢で読んでいたのだが、顔やら首やらの諸所に痒みが点々と生じて、そちらに手を動かしていると言葉に集中できない。それなので、両手は本の両側を支え持ったまま動かさず、じっと痒みを無視して目だけを動かして文字列を追った。時折り横を向きながら一時間ほど読むと、歯ブラシを取りに立ち、歯を磨きながらまた読んで、その後も読書を続けた。零時四〇分か五〇分くらいになると、腹がよほど空になって、ページに当てる指先がかすかに動揺するので、胃にものを入れることにして居間に行った。例によって簡便に、カップラーメンである。湯を注ぎ、『サミュエル・ベケット短編小説集』をひらいて待っていたのだが、カップラーメンなど食いながらベケットを読むのは困難だなと思われたので、部屋に置いてきて、代わりに携帯電話で他人のブログを読みながら啜った。スープを飲むと、容器を洗って片付けておき、室に帰ると下腹部を軽くするべくポルノを閲覧した。射精して手や性器を洗ったのちは、ふたたび読書に戻ったのだが、二時半頃から意識がぶれはじめたので、四〇分か四五分には眠ることにした。就寝前に行うべき瞑想を怠けて布団にもぐり、容易に寝付いた。
(……)「『試み』の刊行は、ある種の仕事がもはやさほど個人的な体験であるべきではなく(作品性格をもつべきではなく)、むしろ特定の施設や制度の利用(変革)にこそ向けられている、そうした時点でなされるのだ」。従来からあるものの更新が宣言されるのではない。まったく新しい試みが計画されているのである。文学は、ここでは、作家の感情というものには、もう何も期待しはしない。この感情が、世界を変革しようという意志において冷徹さと同盟を結んではいないからである。文学に残された唯一のチャンスが、世界の変革のための非常に多岐にわたる過程での副産物となることにあるのを、この新しい文学は心得ている。『試み』において、文学はまさにそうした副産物としてある。しかも、計り知れぬほどの価値をもった副産物として。主産物は、しかし、ひとつの新しい態度[ハルトゥング]である。リヒテンベルクはこう言っている。「ひとが確信しているところのものが重要なのではない。重要なのは、彼のその確信が彼から何を[﹅2]生み出すか、である」。この<何を>にあたるものが、ブレヒトにあっては態度なのだ。この態度は新しい。そして、この態度のもっとも新しいところは、それが習得できるものだ、という点である。「ここに収めた二つ目の試み『コイナーさん談義』は」、と作者は言う、「身振りを引用可能なっものにしようとする試みである」。(……)
(ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』ちくま学芸文庫、一九九五年、523~524; 「ベルト・ブレヒト」)
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ブレヒトについて決定的なことを簡潔に言わねばならないとしたら、次のようにだけ言うのがいいだろう――彼が対象としているのは乏しさ(Armut〔貧困〕)である。思考する者が、この世に存在するわずかばかりの正しい思想で、書く者が、私たちのもっているわずかばかりの確固たる根拠のある文言で、政治家が、人間に具わっているわずかばかりの知性と行動(end532)力で、どのように遣り繰りしてゆかねばならないか、それがブレヒトのすべての仕事の主題なのだ。リンドバーグたちは、自分たちが乗りこむ飛行機についてこう言う。「彼らが作ったもので十分だとしなければならない」。かつかつ[クナップ]の現実にぴったり[クナップ]密着せよ――これがスローガンである。乏しさは、どんな富者にも為しえないほど現実に肉薄することを可能にする、ひとつの擬態にほかならない、とコイナー氏は考える。ここに言う乏しさとは、もちろん、メーテルランク風の貧困の神秘主義ではないし、また、リルケが「なぜなら乏しさとは内奥からの偉大な輝きなのだから」〔『時禱詩集』第三巻、一九〇五年〕と書いたときに思い浮かべていた、フランシスコ会風の貧しさの神秘主義でもない。――ブレヒトのこの乏しさは、むしろひとつの万人共通服であって、それを意識的に着る者に重い責務を与えるのに適している。手短に言えば、それは機械の時代における人間の生理学的、経済学的な新しさなのである。「国家は富み、人間は貧しくあるべきだ。国家には多くを為しうることが義務づけられ、人間にはわずかばかりを為しうればよいと認められているべきだ」〔『リンドバーグたちの飛行』に付された注〕。これが、ブレヒトによって定式化された、普遍的人権としての乏しさへの権利である。人間のもつこの乏しさへの権利が、彼のさまざまな著作のなかでその有益さを検証され、また、彼の痩せぎすで、粗末な衣服をまとった外見上の姿において、展示される。
(532~533; 「ベルト・ブレヒト」)
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ブレヒトは自分の演劇を、狭義での劇的演劇と対立させて、叙事的と呼ぶ。劇的演劇の理論を定式化したのはアリストテレスである〔『詩学』〕。それゆえブレヒトは、リーマンが非ユークリッド幾何学を導入したように、叙事演劇のドラマトゥルギーを、非アリストテレス的ドラマトゥルギーとして導入する。この類比から、問題となっているのは演劇におけるこれら二形式のあいだでの競合関係といったことなどではない、ということがはっきりするだろう。リーマンでは平行線の公理が取り除かれた。ブレヒト演劇において取り除かれたもの、それは、アリストテレスのいうカタルシス、つまり、主人公[ヒーロー]の劇的な運命に感情移入することを通して激情を排泄し浄化する作用である。
叙事演劇の上演は観衆のリラックスした関心に向けられているが、この関心の特質はほかでもなく、観衆の感情移入能力に訴えて生じるものではほとんどない、という点にある。叙事演劇の技巧とは、感情移入ではなく、それに代わってむしろ、驚きを呼び醒ますことなのだ。定式化して言えば、観衆は、主人公[ヒーロー]に感情移入することではなく、それに代わってむしろ、主人公の振舞いを規定している状況に驚くことを学ぶ、これこそを期待されている。
ブレヒトの考えるところでは、叙事演劇は筋を展開させるよりも、状況を表現しなければ(end542)ならない。だが、ここに言う表現とは、自然主義の理論家たちがいう意味での再現のことではない。むしろ、なによりも重要なのは、まずもって状況を発見することなのだ。(状況を異化すること、と言ってもよいであろう。) 状況のこの発見(異化)は、出来事の流れを中断することによってなされる。もっとも単純な例として、ある家庭の場面を挙げよう。この場面に突然、ひとりの他人が入ってくる。そのとき母親はまさに、ブロンズの置物をつかんで娘に投げつけようとしており、父親はちょうど窓をあけて警官を呼ぼうとしていた。この瞬間に、その他人が戸口に現われるのだ。一九〇〇年頃に流行った用語で言えば、<劇的情景[タブロー]>である。すなわち、この他人は状況に直面させられる。三様にうろたえた顔つき、開いた窓、こわれた家具。だが、ここにひとつのまなざしが存在し、このまなざしには、市民生活のもっともありふれた場面でも、右の例と同じように異化された姿に見えるのだ。
(542~543; 「叙事演劇とは何か」)
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(……)評判の高かったイギリスの肖像画家デイヴィッド・オクタヴィアス・ヒルは、一八四三年の第一回スコットランド教会総会をフレスコ画に描くにあたって、多数の肖像写真をもとにした。ただしこれはヒルが自分で撮ったものであった。地味な目的のための、舞台裏で使用される補助手段にすぎなかったこれらの写真のおかげで、画家としては忘れられてしまったヒルの名前は歴史に残ることになった。もっとも、写真という新しい技術の本質を、この肖像群よりもさらに深く理解させてくれるようなヒルの習作がいくつかある。それは肖像ではなく、無名の人びとを撮った写真である。絵画では、そうした人物像は昔からあった。無名の人物を描いた絵でも、それが家庭内に所蔵されているうちは、ここに描かれている人は誰かという問いが繰り返し口にされた。だが二、三世代後には、そうした関心は消えうせている。それでもまだ絵が残っているとすれば、それはたんに、その絵を描いた人間の芸を証明するものとして残っているのである。ところが写真の場合には、ある新しい、そして奇妙な事柄が生じてくる。人の心をそそる素朴な恥じらいを見せて目を伏せている、あのニューヘヴンの魚売り女のうちには、写真家ヒルの芸の証明ということで片づけられないほかのなにかがある。どうしても沈黙させることのできないなにかがあって、それはあそこで生きていた女、ここでもまだ現実の存在であり、決して完全に<芸術>の領域に入ってしまおうとしないあの女の名前を、あくまで要求してやまない。「そしてわたしは問う、この髪とこのまなざしの/優美さは、昔の人びとをどんなに虜にしたことか!/いま炎のない煙のような情欲が、無意味に絡みつ(end557)いてゆくこの口は、/ここでどのように接吻したことか!」〔シュテファン・ゲオルゲの詩集『生の絨毯』一八九九年、所収「立像 その六」〕。あるいは詩人マックス・ダウテンダイの父である写真家カール・ダウテンダイが、婚約時代の妻といっしょに写っている写真を開いてみよう。のちに彼は妻が、六番目の子供を産んだすぐあと、モスクワの彼の家の寝室で、動脈を切って倒れているのを発見することになった(*)。彼女はこの写真で彼の隣にいる。彼が彼女の背中を支えているように見える。しかし彼女のまなざしは彼のかたわらを通り過ぎ、不幸をはらんだ彼方を一心に見つめている。こうした写真に長いこと思いをひそめていると、この場合も両極端は相通ずることが分かってくる。すなわち精密きわまる技術は、その産物に魔術的な価値を与えうるのである。絵画は私たちにとっては、このような価値をもはや決してもちえない。この写真家の腕は確かであり、モデルの姿勢はすみずみまで彼の意図にそったものである。にもかかわらずこの写真を眺める者はそこに、現実がこの写真の映像としての性格にいわば焦げ穴をあけるのに利用したほんのひとかけらの偶然を、<いま―ここ>的なものを、どうしても探さずにはいられない。この写真の目立たない箇所には、やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまった撮影のときの一分間のありようのなかに、今日でもなお、まことに雄弁に宿っている。だから私たちは、その来ることになるものを、回顧を通じて発見できるのである。(……)
(557~558; 「写真小史」)
: これはベンヤミンの思い違いで、自殺したのは先妻であり、場所はサンクトペテルブルグだった。
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(……)そもそもアウラとは何か。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。夏の真昼、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは眺めている者の上に影を投げかけている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現われ方にかかわってくるまで、目で追うこと――これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。さて、事物を自分たちに、いやむしろ大衆に<より近づけること>は、現代人の熱烈な傾向であるが、それと並んで、あらゆる状況に含まれる一回的なものを、その状況を複製することを通じて克服するのも、同じく彼らの熱烈な傾向である。対象をごく近くに像(Bild〔絵画や直接イメージ〕)で、いやむしろ模像(Abbild〔写像〕)で所有したいという欲求は、日ごとにあらがいがたく妥当性をもってきつつある。そしてイラスト入り新聞や週間ニュース映画が提供するたぐいの模像が、像と異なることは見まがいようがない。像においては一回性と持続性が密接に結びついているとすれば、模像においては一時性と反復可能性が同じく密接に結びついている。対象をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある種の知覚の特徴である。この知覚は、この世に存在(end570)するすべて同種なるものに対する感覚をきわめて発達させているので、複製という手段によって、一回的なものからも同種なるものを獲得する。(……)
(570~571; 「写真小史」)
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どんなに完璧な複製においても、欠けているものがひとつ[﹅3]ある。芸術作品のもつ<いま―ここ>的性質――それが存在する場所に、一回的に在るという性質である。しかし、ほかならぬこの一回的な性質に密着して、その芸術作品の歴史が作られてきたのである。その歴史に作品は、これまで存続してきたあいだ従属していたわけである。時がたつにつれて作品の物質的構造がこうむる変化にしろ、場合によっては生じる作品の所有関係の変遷にしろ、その歴史の一部である。物質的構造の変化の痕跡は、物理学的ないし化学的分析によってのみ明らかになるが、これを複製に対して行なっても仕方がない。所有関係の変遷の痕跡は、ひとつの伝統の問題であるが、この伝統を追跡するためには、オリジナルが存在している場所から出発せざるをえない。
オリジナルのもつ<いま―ここ>的性質が、オリジナルの真正さという概念を形づくる。そしてまた他方では、この対象を今日まで同一のものとして伝えてきたひとつの伝統、という考え方は、真正さを基盤として成り立っている。真正さの全領域は、技術的――そしてもちろん技術的なものだけでない――複製の可能性を受けつけない。手製の複製に対しては、真正なものはその権威を完全に保持するのであり、手製の複製に通例、偽造品という烙印を押してきたのだが、しかし技術的複製に対してはそうはいかない。それには二つの理由があ(end588)る。まず技術的複製は手製の複製よりも、オリジナルに対して独立性をもっている。たとえば写真において技術的複製は、オリジナルのもついろいろな面のうち、位置を調節することができ視点を自由に選べるレンズだけが迫りうる、人間の目には見えない面を強調することができる。あるいは拡大やスローモーション撮影といった手法を使って、自然の視覚がまったくとらえることのできない映像を記録することができる。これが第一の理由である。加えて技術的複製は第二に、オリジナルの模像(Abbild〔写像〕)を、オリジナルそのものが到達できないような状況のなかへ運んでゆくことができる。とりわけ、技術的複製によってオリジナルは受容者のほうへ歩み寄ることができるようになる――写真というかたちであれ、あるいはレコードというかたちであれ。大聖堂はその場所を離れ、芸術愛好家のアトリエで受容される。ホールあるいは野外で演奏された合唱曲は、部屋のなかで聴かれる。
芸術作品をとりまく状況のこのような変化は、他の点では作品のありように影響を及ぼさないかもしれないが、しかし芸術作品の<いま―ここ>的性質だけは必ず無価値にしてしまう。このことは決して芸術作品だけに当てはまるのではなく、たとえば映画で観客の目の前を通りすぎてゆく風景にもそれなりに当てはまるのではあるが、芸術作品の場合この過程は、あるきわめて敏感な核に触れるのである。自然物は、これほど傷つきやすい核をもってはいない。この核とは芸術作品の真正さである。ある事物の真正さとは、この事物において、根源から伝承されうるものすべてを総括する概念であり、これにはこの事物が物質的に存続していることかっら、その歴史的証言力までが含まれる。後者つまり歴史的証言力は、前者つま(end589)り物質的に存続していることに基づいているから、物質的な存続が人間に依存しなくなってしまっている複製においては、この事物の歴史的証言力もまた揺らぎ出す。もちろん揺らぎ出すのは歴史的証言力だけである。しかしそのようにして揺らぎ出すもの、それは事物の権威、その伝統的な重みなのである。
これらの特徴をアウラという概念でひとまとめにして、こう言うことができる――芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである。この過程は徴候的だ。すなわちこの過程のもつ意味は、芸術の分野をはるかに超えて広がってゆく。複製技術は――一般論としてこう定式化できよう――複製される対象を伝統の領域から引き離す。複製技術は複製を数多く作り出すことによって、複製の対象となるものをこれまでとは違って一回限り出現させるのではなく、大量に出現させる。そして複製技術は複製に、それぞれの状況のなかにいる受け手のほうへ近づいてゆく可能性を与え、それによって、複製される対象をアクチュアルなものにする。この二つの過程を通じて、伝承されてきたものは激しく震撼されることになるのであり、このような伝統の震撼は、人類の現在の危機および再出発と表裏一体をなしている。この二つの過程は、今日の大衆運動ときわめて密接に関連するものである。その最も強力な代弁者は映画である。映画の社会的な意義は、その最も建設的なかたちにおいても、いやまさにこのかたちにおいて、映画のもつ次のような破壊的な面、浄化[カタルシス]的な面抜きには考えられない。すなわち、文化遺産における伝統価値を清算するという面である。(……)
(588~590; 「複製技術時代の芸術作品」)