例によって定かに覚めたのは、一一時二五分の遅さである。即座に起きあがる気力が湧かず、またもや携帯電話の助けを借りることになった。それで正午頃になって上に行くと、母親はまたパソコン教室に出かけており、台所にメモ書きが残っていた。まあゆっくり落ち着いた心で一日を過ごそうと決めて便所に行き、鷹揚とした調子で風呂を洗った。風呂場の窓から覗く外の道には淡い暖色が宿っており、その明るさに呼応するようにミンミンゼミの声が立ち騒いでいたので、台風が本当に来るのだろうかと思った。浴室を出るとハムと卵を焼き、合わせて前夜の豚汁とカボチャを熱して、卓に就くと丼に乗せた黄身を崩して醤油と混ぜつつ米を頬張った。一方で新聞を読み、皿を片付けて我が穴蔵に帰ると一時、その頃には早くも陽は陰っていた。コンピューターの速度を取り戻すために再起動させ、合間に『失われた時を求めて』四巻を読みながら待ち、前日の諸々の記録を付けたあとに、手の爪を切って、そうして一時四〇分から書き抜きをすることにした。読みはしたものの書き抜きを済ませていない本が四冊あり、そのうちの二冊は図書館の本(『失われた時を求めて』の二巻と三巻である)なので、早々に済ませなければならないのだ。手帳をひらくと『失われた時を求めて』二巻の欄にはやたらと多くページが記されているが、一日一時間ずつやって行けば延長した返却日までには終わるだろうというわけで、Gerry Mulligan『California Concerts - Volume 2』を流しながら一時間、打鍵をした。続いて凝った身体を休めるために寝床に転がり、『失われた時を求めて』四巻を読んだ。本に集中してそのうちに顔を上げて、雨が降っていることに気付いた。洗濯物は出していないだろうなと居間に確認しに行き、戻ってからまた読んでいるうちに、いつの間にか母親も帰ってきていたようで、トイレに行く足音が下階に響いた。一時間半読んだあと、四時二〇分から書き物を始めて、前日の記事を冒頭から記しはじめたのだが、もう支度をしなきゃと母親が上がって行ったので、四時四五分までで一旦中断して台所に行った。ゴーヤ炒めを作るらしい。ゴーヤを輪切りにしたのちざるに入れて塩で揉み、それを茹でる一方で玉ねぎと豚肉も切り分けた。それらをフライパンで炒め、塩胡椒を振って簡便に完成させると残りのことは任せて自室に帰った。携帯電話を見ると職場からメールが届いていた。こちらが先ほど、ある同僚について、今日はいるかと送っていたのにいると返信が来たのだ。その人は(先日の飲み会で初めて明かされたのだが)ここで留学するということで、別れの挨拶をしておきたかったのだ。飲み会の時に済ませれば良かったものが、件の人はほかの会合にも呼ばれていたようで、いつの間にかいなくなっており、きちんとした挨拶ができなかった。三〇日が最後の勤務だというので、元々明日に行くつもりだったところが、その頃には台風が関東に上陸するという話である。さらに、その日には地区担当の上役も来てお別れをするらしく、何となく人が多く、もしかするとお別れ会めいたことまで軽くやりそうな雰囲気を嗅ぎつけたのだが、自分は端的にそういったものと相性があまり良くない。その前にひっそりと済ませるのが良かろうというわけで、この日に相手がいれば挨拶しに行くことにしたのだった。勤務の終わる九時半頃に行きますと送っておき、五時二〇分からふたたび書き物を始めた。六時直前に前日の分を仕舞え(二七〇〇字である)、この日の記事に移りながら、モニターが見づらくなってきたなと後ろを向くと、部屋のなかにほんのり淡く、オレンジともいえない色味が差しこまれている。外は暮れにかかる前の、黄味の混ざって飄々としたような妙な色である。ベッドの足もとの窓に寄ってみると、山の上に乗り出した雲が黄色ともオレンジともつかない微妙な色をはらんでおり、しかしそれは美しくはなく、硫黄のにおいを思わせるような、あるいは小学生が乱暴に使ったパレットを連想させるような汚れた色で、灰色と混ざって濁っており、そこから離れてやや晴れている西の空には青さが覗いているのだが、いくつもの雲の筋に乱雑に乱されているそれも固いような質感で、まるでCGの空のようだった。椅子に戻ると背後では橙めいた色が最後の明るみを見せたのだが、ちょっと打鍵してからまた振り向くと、その二、三分のあいだにもう灰色がそれを隙なく拭い取っていたので、電灯の紐を引いた。そうしてこの日の記事を現在時刻のことまで綴り、六時四〇分前を迎えた。出かける前に夕食を済ませてしまい、風呂にも入るつもりだった。それで一〇分間瞑想をしてから上階に行き、ゴーヤ炒めや豚汁の残りでもって食事を取ったあと、自室に戻ると久しぶりに小沢健二の曲を流して歌った。八時になったところで入浴に行き(その頃にはまた雨が降りだしていた)、戻ってくると出発までの時間を使ってGabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraをめくった。九時を前にしたところで服を着替えて、小型鞄に年金の支払書とプルーストを入れて部屋を出て、風呂に入っていた母親に出かけると告げてから玄関に行った。開けると、外は大層な雨降りで、暗闇の空間を線が音とともに隈なく埋め尽くしていた。傘をひらいて道に踏み出ると、アスファルトの端には水が溜まって、足もとは間断なく打たれて無数の点が弾け、誕生しては即座に死んでいく微生物の動きを鳥瞰しているような感じがする。先頃の台風の日を思わせる降りように、電車が停まってはいないだろうなと不安になって、携帯電話で遅延情報を調べた。電車は問題なく運行しているという話だったし、調べているあいだにもいましがたは激昂のようにあれほど甚だしかった降りが、もう弱まって月並みなものになっていた。これなら大丈夫そうだなと歩き出して、駅に上がる坂の下まで来た頃には、完全に止んで傘を叩くものがなくなったくらいである。誰かが先ほどの降りに難儀して乗ってきたのだろう、正面の坂の脇の家からタクシーが出てきて、ライトのオレンジ色が道の上に混ざるとともに虹のような色合いを生みだして長く伸ばしていた。折れて駅へと坂を上がって行き、ホームに入ってベンチに座った。雨が降ったから涼しいかと思えばとんでもない、ひどい空気の蒸されようで、服の裏に湿気が籠り、捲った下の腕もべたべたと濡れていた。電車が来るまでプルーストを読もうと本を取りだし、ひらいたところが、何か変だなと思った。栞が見つからないし、文字面にも既視感があって、閉じて表紙を見ると、カバーが外されて薄水色一色のなかに金文字で「スワン家の方へⅡ」とあって、それで間違った巻を持ってきたことに気付いた。いま読んでいるのは四巻、「花咲く乙女たちのかげにⅡ」なのだが、書き抜きをしていた関係でコンピューターの横に置いてあった二巻のほうを、「Ⅱ」の文字だけ一瞥して四巻だと思いこみ、鞄に入れてしまったのだ。仕方がないので携帯電話で他人のブログを読みながら電車を待ち、乗ってからも読み続けた。降りると便所に寄ってから駅を抜け、職場に行った。扉をひらくと現上司とともに新たに来る上司もいたので、名を名乗り、よろしくお願いしますと挨拶をした。件の同僚は奥にいると言うので靴を脱いでフロアを進み、ほかの同僚と話し合っていた相手に挨拶をしにきた旨を伝えた。恐縮してみせた相手に適当に言葉を述べたあと、餞別を用意していない、と一度置き、いいですよと言う相手に、しかしコンビニで何か奢るくらいならできるので、いまから行きましょうと出口のほうを示した。相手はいいですよ、と再び恐縮したが、もう一度押すと、いいんですか、と文言が変わったので肯定すると、ちょっと待っててくださいと一度その場を離れた。戻ってきて、もう一人の同僚も交えてちょっと話してから、行きましょうと再度告げて、連れ立って外へ出た。並んで傘をさしてコンビニへ行き、こちらは先に年金を払ってからレジを離れると、同僚はこれがいいですと何かのグミを示してみせる。ほかにはいいんですかと勧めていると、嬉しそうににやにやしながらアイス買ってもいいですかと言う。それで相手をアイスのほうに行かせ、こちらはチョコレートを二箱選んでから合流し、ふたたび会計をした。コンビニを出て駅の入り口まで行くと、じゃあここでと言って向かい合い、人々が駅から流れ出てくるその脇でやりとりをした。これはあなたにあげるものなので、と言い、独り占めしてもいいですし、皆さんで分けてもらってもいいです、と続けてビニール袋を渡すと、相手は、絶対にあげません、見せびらかせて独り占めします、と大層笑って冗談を言った。それじゃあ元気で、と別れて駅に入り、ホームに上がってベンチに腰掛け、電車を待ちながら他人のブログを読んだ。そこそこ待ってから乗り、最寄り駅に着く頃にちょうどよく読み終えて、降りると雨はもはや降っていなかった。ゆったりと坂を下りて帰宅し、両親のいる居間に入るとシャツを脱いで、自室で着替えてきた。腹が減っていた。それで初めは夕食に出た酢の物(豆もやしとシーチキンを合わせたものである)をつまんでいたが、結局カップ蕎麦を用意して新聞を読みながら食べることになった。容器を片付けて室に帰ったのが一一時直前だっただろう。自宅に今月分の金を入れていないことに気付いて、たった五〇〇〇円ぽっちではあるが、母親に渡しておき、それから支出を整理記録しようとした。まず年金の支払証明書をまとめておこうと思ったが、これには職場で給与明細を入れて渡される袋を利用して年度ごとに分け、クリアファイルに収めている。今年度分の袋はまだ作っていなかったので、先に昨年以降の給与明細を一つの袋にまとめて整理しようとしたところが、それらの保管してある机上の棚がごちゃごちゃしていたので、まずそこを片付けることになった。不要な書類を丸めてごみ箱へ放ったあと、二〇一五年分の給与明細を一袋にまとめ、二〇一六年の七月までのものも同じようにまとめた。その途中で小さなメモノートを発掘したのだが、覗いてみると、二〇一三年の終盤の日記、その断片的なメモが記されていた。二〇一三年と言えば文章を書きはじめた年であり、このメモを元にしていまと同じく毎日記述をしていたはずなのだが、その本記事のほうはあまりの拙さに耐え切れなくなって、二〇一四年中にすべて削除してしまった。いま読んでみるとこの断片的なメモは、いかにも記録然とした素っ気ない事実基調のものとなっていて、本記事のほうを冒していたはずの無駄な自意識の発露が少なく、その素っ気なさがわりと面白く思われたので、捨てずにそのうちに写しておこうと考えた。それから諸々を整理して、机の上にもちょっとスペースをひらいたのだが、それでもあと半分ほどはCDと本で埋まっている。これらを移す場所もなく、部屋のなかからCDと本を減らさなくてはどうにもならないのだが、そのためには聞いて読むしかないのだ。給与明細と年金支払証明書をまとめてファイルに入れ終えたあとは、二〇一三年のメモをふたたび読み返して、一一時三七分を迎えた。それからノートに記されたなかの最初の日をコンピューターに写した。
2013/11/20, Wed.
『雪の宿り 神西清小説セレクション』
12時出発、天気、美しい日. 雲ほぼなし. 西の空に綿がちぎれたようなものが少し. (駅). 『My Favorite Things』聞く. 眠れず.後頭部がむずむずする感じ.半分くらいから眠気.立川.すばらしい日.雲上空にはなし.空が広い.ビルの影.ムージル.図書館、返却.プルースト全集、書簡.ラテン・イタリアの前.チャイムなる.排便.手洗う.歯磨く男.退出.本屋へ.HMV素通り.ムージル『特性のない男』Ⅲ~Ⅵ.14271円.ルミネ地下.多少見て回る、ケーキ、マドレーヌなど.わりとすぐにプリンに決める.4つ.1400円くらい.両手ふさがる.イヤフォンに苦戦.立川からHへ.ドア右脇に立つ.左に目をやれば、優先席に座る女性とその胸に赤ん坊.女の子だろう.白いニット帽.こちらに目線.とても小さいと思った.Hで乗りかえ.電車から下りた瞬間に、陽光が射して頭の左側を照らす.乗り変え.S線の電車に乗って、一駅手帳にメモ.S.公園とも言えない公園、ベンチなし.植木を囲む低い石段に腰かけてメモ. "But Not For Me" がかかっていた.
見上げると西の空に要塞じみた大きな雲が1つ.音楽は終わった.外す、工事の音.電車が風を切って動く音.小学生下校.やや風.振り向けば、マンションの頭頂と太陽が重なっていた.日向だったはずが日陰に.
Tにメール<*赤い線で矢印が伸びて、先の「やや風」のあとに挿入>. 14:20くらい.~19:00までT宅.19:20 - H駅.月 - 満月.やけに黄色い.そして低い? もしかしたら月ではないかも.
T宅.誕生日プレゼントのプリンを食べた.ピアノをつくる.アコギひく.お母さんと少し顔を合わせる.似ているかと聞かれる.二極化するらしい.コードや理論について教える.aikoなど.辞去。寒い.Paul Weller聞く.
それからまたノートを読むのに時間を使ってしまい、零時半前になった。歯磨きをしつつ新聞を読んだあとは、音楽を聞くことにして、例によってBill Evans Trio "All of You (take 1)" を聞いたのだが、瞑目した視界のなかに(というのは集中して音に耳を傾ける時、それは「聞く」というよりは「見る」ような感じがするからなのだが)広がる音空間に霞が掛かっているような具合で、ピアノにしろベースにしろ、そちらに意識の触手を伸ばしてみても、音の一つ一つの連なりを確固と捉えることができず、距離が遠く、触れる前にすり抜けていってしまうような感じだった。続いて『Warne Marsh』から、 "Too Close To Comfort" と "Yardbird Suite" も聞いてコンピューターとはおさらばし、ベッドに移って『失われた時を求めて』四巻を読んだ。二時四五分まで読んだところでこの日は終了とし、瞑想をしてから眠りに向かった。
旅行をしていて、あまり知合いになろうとしない方がエレガントだと思われるような一家に出会ったとしよう、だがその家族のなかの一人の女性が、未知の魅力に飾られて彼の目の前にあらわれたとしよう。そのときに相変わらず「取りすまし」たままで、この女によって生まれた欲望をごまかし、彼女とともに知り得たかもしれない快楽を別な快楽に置きかえて、昔の愛人の一人に手紙を書いてすぐとんで来るようにと求めること、こういったことはスワンにとって、まるであちこちと実際に旅行するかわりに自分の部屋に閉じこもってパリの景色を眺めているように、人生に対する卑怯な棄権であり、新たな幸福の愚かしい放棄であると思われたことだろう。彼は(end20)自分の交際範囲という建物のなかに閉じこもらなかった。むしろ、気に入った女のいるところであればどこにでも家をすっかり新しく建て直せるようにと、探検家が持ち運ぶような折畳式テントにそれを作りかえていた。持ち運びのきかないもの、または新たな快楽ととり替えられないものだったら、ほかの人にはどんなにもったいないと思われても、スワンはそれをただでくれてしまったにちがいない。たとえばある公爵夫人が、これまで数年にわたってスワンの歓心を買おうと思っていたのに、その機会が得られなくてうずうずしながらスワンに心を寄せていたときに、スワンはまるで飢えた男がダイヤモンドを一片のパンととりかえるように、公爵夫人に失敬な電報を送って、夫人の執事の娘を田舎で見初めたので即刻この執事に自分のことを紹介する電報を打ってほしいなどと要求し、こんなふうにしていっぺんに相手の信用を失ったことも一度や二度ではなかった! そればかりか、後になってそれを面白がってさえいるのだった。というのも、彼のうちには、類い稀な繊細さでつぐなわれているとはいえ、一種の人を食ったところがあったからだ。そのうえ、聡明な人たちのなかにも、ずっと無為な生活を送ってきながら、こうした生活が自分の知性に対して芸術や学問と同じくらいに興味をそそる対象を提供していると考え、また「人生」はどんな小説よりも面白く、どんな小説よりも小説的な状況を含んでいると考えて、そこに心の慰めを求め、おそらくは言訳を求めている人たちがいるものだが、スワンもそのカテゴリーに属していた。そしてこのようなことを、彼は社交界の友人のなかで最も洗練されている連中には少なくとも断言してきたし、また彼らを容易に説得してもきたのであって、とりわけシ(end21)ャルリュス男爵に対しては、自分の身に起こった刺激的なアヴァンチュールを物語って、相手を大笑いさせては面白がったのである。たとえば汽車のなかで一人の婦人に出会い、その人を自宅へ連れ帰ったところ、彼女はさる国王の妹であることが分かり、しかも兄の国王の手のなかではこのときヨーロッパの政治の糸という糸が絡みあって握られていたので、スワンはいつの間にか、きわめて快い形で政治情勢に通じていたとか、あるいはまたさまざまな状況が複雑にからんで、スワンがある料理女の情人になれるかどうかが、ひとえに教皇選挙会議の結果にかかっていたとか、そういった話であった。
(マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』集英社、一九九七年、20~22)
*
(……)スワンはすでにいくぶん迷いの醒めた年齢に近づいており、その年齢の人は愛する喜びのために愛することで満足する術を心得ていて、あまり相手からも愛されようとは求めないものだが、それでも心が近づくことは、たとえごく若いころのように恋愛がかならずそこに向かってゆくべき目的ではなくとも、そのかわり一種の連想で強く恋愛と結びつけられているので、もしその心のふれあいが恋愛より前にあらわれたとすれば、それが恋の原因にもなり得るほどなのである。以前なら、人は好きになった女の心を所有することを夢見たものだった。ところが後になると、一人の女の心を所有していると感ずるだけで、この女を愛せるようになる。こんなふうに――女の美しさを好む心が恋愛の最大部分を占めているように見える年齢では、たとえその基盤にあらかじめ欲望が存在していなく(end27)とも、恋愛――それも最も肉体的な恋愛――の生まれることがあるものなのだ。一生のこの時期には、人はすでに何度も恋に見舞われた経験を持っている。そしてもはや恋というものも、不意に私たちの心を襲って驚かせ、未知の宿命的な固有の法則に従ってひとりでに進展するものではなくなっている。私たちの方が恋を助けにかけつけて、記憶や暗示でこれをでっちあげるのだ。恋愛の徴候の何か一つでも認めると、私たちはすぐに他の徴候を思い出してこれをふたたび作り上げる。私たちは恋の歌をちゃんと所有しており、それはすっかり心に刻まれているので、一人の女がその歌の出だしのところを――彼女の美しさがかきたてる賞賛の心に満ちた出だしのところを――歌ってくれなくても、つづきの文句が見つけられるのだ。また女が真ん中から――すなわち心が近づくところ、二人がたがいに相手のためにしか存在していないと語りあうところから――歌いはじめても、私たちはもう充分にこの音楽に慣れているので、すぐさまパートナーの待ち受けている条[くだり]で相手に合流するのである。
(27~28)
*
その前の年、彼はさる夜会で、ピアノとヴァイオリンで演奏されたある音楽を聴いたことがあ(end50)った。はじめのうちは、楽器が作り出す音の物質的特徴しか味わえなかった。そしてヴァイオリンの、細く、手ごたえのある、密度の高い、曲をリードしてゆくような小さな線の下から、突然ピアノのパートが、巨大な波の打ち寄せるように、さまざまに形を変えながら、しかしひとつながりになって、平らに広がり、たがいにぶつかりあい、まるで月光に魅せられて変調した波が薄紫[モーヴ]色にたち騒ぐようにわき上がってこようとしているのを見たとき、それだけでもうすでに大きな喜びを覚えたのだった。けれども、途中のある瞬間から、自分を喜ばせるものの輪郭をはっきり識別できず、それに名前を与えることもできなかったのに、突然魅惑されてしまい、まるで夕べの湿った空気のなかにただようある種の薔薇の香りが鼻孔をふくらませる特性を持っているように、通りがかりに彼の魂をいっそう広く開いていったその楽節ないしはそのハーモニーを――彼にもそれがなんだか分からなかったが――拾いあげようとしていた。ことによると、彼はこの音楽を知らなかったからこそ、これほど混乱した印象を持ったのかもしれないが、にもかかわらず、それはおそらく純粋に音楽的な唯一の印象、物質的な広がりを持たない、完全に独創的な、ほかのどんな種類の印象にも還元されない印象の一つであった。こういった類いの印象は、しばしのあいだ、言ってみれば sine materia (無実体)なものである。なるほど、そのようなときに私たちが耳にする音は、その高さや量に従って、すでに私たちの目の前でさまざまな大きさの面を覆い、唐草模様[アラベスク]を描き、広さや細さ、安定性や気紛れなどの感覚を私たちに与えがちである。けれども、そういった感覚が私たちの内部に充分に形成されないうちに音は消えてしまい、(end51)その感覚は、それにつづく音どころか、それと同時に響く音の呼び起こす感覚のなかにさえ、埋没してしまう。そしてこの印象は液体のように流れてとけあい、ときどきかすかにそこから浮かびあがってはただちにまた沈んで消えてゆくモチーフ、特別な快楽によってわずかに知られるばかりで描きだすことも思い出すことも名づけることも不可能な、言うに言われぬモチーフを、その流動性や「ぼかし」によって、いつまでも覆いかくすことになったろう――もっともそれは記憶が、まるで定まらない波のあいだにしっかりした基礎をすえようと立ち働く労働者のように、これら逃げ去る楽節の複写を私たちのために作りあげて、それにつづく楽節と比べたり区別したりすることを可能にしてくれなかった場合の話である。そんなわけで、スワンの覚えた甘美な感覚が消えるか消えないかのうちに、彼の記憶はたちどころにその感覚のおおざっぱで一時的な写しを提供してくれるのだが、その写しに目をやっていたあいだにも曲は進行しているので、同じ印象が突如戻ってきたときには、もうそれがとらえられないものになっているのだった。彼はその印象の広がり、均整のとれたその集まり、その書き方、表現力などを思い浮かべる。彼がいま目の前に見ているものは、もはや純粋音楽ではなく、デッサンであり、建築であり、思想であり、しかも同時に音楽を思い出させるものだった。そして今や、彼ははっきりと、音の波の上にしばしのあいだ浮かび出た一つの楽節を認めた。その楽節はただちに彼に特殊な官能の喜びをかもしだしたが、それはこの楽節を聴くまで思いもよらなかったもの、この楽節以外の何物も知らせることのできないようなもので、それに対して彼はこれまで知らなかった恋に似たものを覚えたの(end52)であった。
(50~53)
*
スワンが自分の大好きな楽節について、二、三の細かい指摘をしたのに対してさえ、
「まあそうですの、面白いこと。わたしいっこうに気がつきませんでしたわ。あんまり細かいことにこだわったり、針の先ほどのことでうろうろしたりするのが、好きになれませんのでね。ここでは重箱の隅をつついて時間を浪費するようなことはしませんの。家の性に合わないんでしょう」とヴェルデュラン夫人は答えたが、こんなふうにたくさんの決まり文句の波に揺られてたわむれている夫人を、コタール医師はうっとりとした賞賛のまなことひたむきな熱意とでじっと眺めるのであった。もっともコタールとその夫人とは、庶民のある人たちも備えている一種の良識で、音楽について意見を述べたり感心しているふうを装ったりするのを控えていた。そしていったん家に帰ると「ムッシュー・ビッシュ」の絵と同様にこの音楽もさっぱり分からないということを、たがいに白状しあうのである。大衆は、自分たちがゆっくりと同化したある種の芸術の、(end58)型にはまった作品のなかから汲みとってきたもののみを自然の魅力や美や形態だと考えるものだが、独創的な芸術家はそのような月並みな作品を排除することから始める。だからこの点について大衆のイメージそのものであるコタール夫妻は、ヴァントゥイユのソナタにも、例の画家の肖像画にも、彼らが音楽の諧調や絵画の美を形作っていると考えるものを見出すことができなかった。ピアニストがソナタを弾くと、彼らには当てずっぽうに音符をつなげているように思われたし――じっさい彼らの慣れ親しんでいる形式では、このような音は結びつくはずのないものだった――また画家は画布の上に勝手に絵具を投げつけているように見えた。その画布のなかに一つの型が見つかる場合でも、彼らはそれが重苦しく通俗的だと思い(つまり絵画のある流派のような優雅さに欠けていると見なしたのであって、彼らは街で人間を見るときですらその流派の観点で眺めるのであった)、またあたかもムッシュー・ビッシュには、肩というものがどうできているかも分かっておらず、女の髪が薄紫[モーヴ]色でないことも分かっていないと言わんばかりに、その形が真実を欠いていると見なすのだった。
(58~59)
*
通りより少し高くなった一階にはオデットの寝室があって、裏は表通りと平行した道に面していた。寝室を左手にして、暗い色に塗られた壁のあいだにまっすぐな階段がついており、その壁からは東方[オリエント]の布、トルコの数珠、絹の細紐でつるされた大きな日本の提灯などが下がっていた(提灯には、訪問者から西洋文明の最新の快適さを奪わないようにと、ガス灯がついていた)。階段の上は大小二つのサロンになっている。サロンの前には小さな控えの間があって、その壁は庭にあるような細かい格子、ただし金色をした格子で碁盤縞になっており、また壁際いっぱいに長方形の箱が置かれていて、まるで温室のように一列に大輪のキクが咲いていた。これは、のちに園芸家が栽培に成功したキクの大きさにはとうてい及ばないが、当時としてはまだ普通には見られないものだった。スワンは、その前の年からキクが流行ってきたのをいまいましく思っていた(end70)のだが、しかしこのときは、どんよりした日にぱっと束の間の光を放つこれら星たちの香り高い光線によって、バラ色に、オレンジに、白にと、縞をなして染め分けられた部屋の薄明かりを眺めるのが楽しかった。オデットは首筋や腕をあらわにして、バラ色の絹の部屋着で彼を迎えた。そして、部屋の奥まったところにしつらえられていて、シナの飾り鉢に植えられた大きなシュロの木とか、写真や結んだリボンや扇子などがとめてある屏風などに守られている、たくさんの神秘的な壁のくぼみの一つにスワンを招いて、自分の傍らに坐らせるのであった。そして、「そんなふうにしてらしちゃ、お楽じゃないでしょ。ちょっとお待ちになって。うまく直してさし上げますわね」と言うと、何か特別な発明をしたときにでもするように、さも得意げに小さな笑い声を立てながら、まるで貴重な品も物惜しみせず、その値打などどうでもよいと言わんばかりに、日本絹のクッションをくしゃくしゃにして、スワンの頭のうしろや足の下に宛てがうのだった。けれどもやがて従僕が、次から次へとたくさんのランプを持ってくると、それはほとんどどれもこれも、シナ陶器のなかに入れられていて、ぽつんと一つだけで、あるいは対になって、まるで祭壇のようにみなあちらこちらの家具の上に置かれて燃えており、もうほとんど夜といってもいい冬の夕方の薄暗がりに、実際の日没よりも長くつづく日没、もっとバラ色がかって人間くさい日没をそこに再現していたが――そしておそらく外の通りでは、だれか恋する男が足を停めて、ふたたび燃え上がったこのガラス窓によってそこにいることが示されていると同時に、その存在が隠されてもいる人の、不思議な気配を前にして、当てもない夢想にふけったことだろう――その(end71)ときになるとオデットは、従僕がランプを決められた場所に正しく置くかどうかと、横目づかいにきびしく監視するのであった。一つでも置くべきでない場所に置かれると、サロン全体の感じが破壊されてしまい、フラシ天を張った斜めの画架に掛かっている自分の肖像画もうまい具合に照らされなくなる、と考えたのである。だから、彼女はこのがさつな男の動作を熱心に目で追い、壊されるのが心配で自分で掃除することにしている二つの植木の箱のわきをすれすれに通ったと言っては、彼を叱りつけ、近くに寄って、角を欠いたりしなかったかと調べてみるのだった。彼女はこういった自分の持っているシナの骨董品が「面白い」形をしていると考え、またラン科の花、とくにカトレアが面白いと言うのだった。そのカトレアはキクとともに彼女のお気に入りの花で、そのわけは、カトレアが花のようではなく絹か繻子[サテン]でできているように見えるところがたいそうよかったからだ。「この花はまるでわたしのコートの裏地から切りぬいたみたい」と彼女はスワンに一輪のランを指さしながらそう言ったが、そこにはこの「シックな」花に対するある尊敬のニュアンス、自然が彼女に思いがけなくも与えたこの優雅な妹、生物の等級からすれば彼女の足許にも及ばないけれども、しかし洗練されていて、たいていの婦人たちよりもこのサロンに席を占めるにふさわしいこの妹に対する、ある尊敬のニュアンスがこめられていた。陶器の花瓶の飾りになっていたり衝立[ついたて]に刺繍されたりしている焔の舌の怪物、ランの花束の花冠、暖炉の上で翡翠のヒキガエルと隣りあっているラクダ――象眼をほどこした銀製のもので、その目にはルビーがはめこまれていた――こういったものを次から次へとスワンに見せながら、彼女は、悪(end72)い怪物を怖がったり、おかしな怪物のことを笑ったり、花の露骨さに顔を赤らめたり、また彼女が「いとしい人」と呼んでいるラクダやヒキガエルに接吻しに行きたくて矢も楯もたまらなくなったり、次から次へとそういった振りをしてみせるのであった。(……)
(70~73)