2016/9/3, Sat.

 最初に定かに覚めたのは一〇時二〇分、時計を見ながら時間を反芻して記憶に留めようとした覚えがある。ところが目を閉じているうちにふたたび眠ってしまい、次に覚めると正午ぴったりだった。この日と翌日は、地元の神社の秋祭りの日である。父親はそれで朝から駆りだされていたはずだが、一度帰ってきたようで、階上からは両親の声が聞こえた。便所に行ってきてから枕の上に腰を下ろし、一〇分間(一二時一〇分から二〇分までである)瞑想をした――長く寝はしたものの、寝転がったまま携帯電話を弄らずブルーライトを目に浴びなかったためか、寝起きの感触は悪くなく、それなりに締まった心身の調子だった。それから上がって行き、まず風呂を洗おうとすると、丹念に洗うようにと指示が飛んでくる――義姉が来るから、と言うのである。それに従って普段よりも丁寧に風呂桶を擦り、さらに浴槽の外側の側面や床や、戸の下部を受ける接触面なども洗ってから外に出た。食事は前日のカレーの残り、それにピーマンと肉の炒め物、ナスの味噌汁である。こちらが食事を取っているあいだ、一二時四五分に、父親はふたたび出かけて行った。昼のトークバラエティ番組をぼんやりと眺めたあと、自室の燃えるごみを上階の箱に移し、ついでにアイロン掛けもしてから下に戻ったのが一時半頃だろうか。ギターをちょっと弄ってから、ベッドに転がって新聞を読んだ。それから久しぶりに英語(Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Cholera)を読みはじめたのが二時二五分、寝転がりながらペーパーバックと辞書を交互に持ち、三時一一分まで英語に触れた。その後、インターネットをちょっと覗き、三時半から前日の記事に取り掛かった。Roger Smith『Green Wood』を聞きながら進めて、四時過ぎには仕上げ、この日の分にも入って、起きてから時間も短く、大したこともやっていないので一〇分強で済んで、四時二〇分である。そこから、書き抜きに入った。まずはマルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて』の二巻である。Sam Harris『Interludes』をお供にしつつ、こちらは三〇分弱で済ませて、さらにセネカ大西英文訳『生の短さについて 他二篇』にも入った。打鍵をしている途中に夏草の、少し苦いような匂いが香ってきて、イヤフォンを外せば外から機械のモーターの唸りが聞こえるのは、父親が草刈機を使って畑の斜面でも刈っているものらしい。音楽はSarah Vaughan『After Hours』を続けた。これが図書館で借りて以来ほとんど聞いていなかったが、大層素晴らしいもので、とりわけ冒頭の二曲、 "My Favorite Things" に "Everytime We Say Goodbye" ――この並びはJohn Coltrane『My Favorite Things』と同じである――を聞いただけで気に入られた。五時半頃から読書(『失われた時を求めて』第五巻)に移った。六時も近づいて、部屋のなかには稀薄だが明度の低い青緑色が侵入しはじめる。読んでいるうちに部屋はますます色に浸かっていき、水底に沈んだようになってくるのだが、ページも水色に染まって文字が読みにくくなるにもかかわらず、身体を起こして電灯の紐を引くのが億劫がられて動かないのだった。六時を回ったところで食事を取りに上に行った。兄が来ていたので挨拶をし、チョコチップの混ざった細長いパンと豆腐、それに生野菜のサラダを食べ、早々と室に帰った。そうして沈黙させていた『After Hours』の続きを流し、歯を磨きながら読書を再開した。六時四五分になるとシャワーを浴びに上に行った。父親が風呂から出るのをちょっと待ってから、浴室に入った。湯を浴びて出ると室に帰り、確かSarah Vaughanの "Everytime We Say Goodbye" を再度流しつつ服を着替えた。出発に向かって上に行くと、両親に兄の三人は新聞紙の敷かれた卓に就いており、ホットプレートでものを焼き、食いはじめていた。こちらは便所にちょっと籠って排便すると、家を発ち、自転車を駆って走りだした。明るい室内にいたために、黒々と道の上を淀ませている夜のなかに出ると、少しのあいだは距離感が曖昧になるかのようである。街道に出て緩い坂を下って行くと、虫の音が道端からひっきりなしに立ち、聴覚に近づいては離れてを繰り返すのだが、鳴き声が最も接近して耳のなかに入りこんでくる時には少し驚かれるくらいに大きく旺盛で、その音のなかに含まれるかすかな摩擦の質感は、ガラスか何かでできた球が空中で軽く回転して空気と擦れ合っているかのようだった。コオロギの類だろうと思うが、同じ虫の音を道連れにして裏通りを行き、職場に到着した。奥のスペースには既に椅子と机が並べられて会議用の席が作られていたが、すぐには座らず後輩に当たる同僚と適当な雑談を交わした。それから各々席に就いて、七時四五分をほんの少し過ぎた頃から会議が始まった。主な話題は上司の交代と、夏期講習の振り返りである。最初に諸々の、数字関連等の報告がなされ、それから伝言ゲームと題された催しが始まった。二人一組になって一方が紙を持ち、そこに描かれた幾何学的な図形を言葉のみで相手に説明し、受けた方はその説明をもとに図形を再現するというゲームである。自分は東京学芸大学で声楽を学んでいるという同僚とペアになって、まずこちらが図を再現するほうを担った。わりと完成度の高いものを拵えたあと交代して、頭を使いながら説明し、この時も比較的再現度の高い図が完成された。それから休憩になって、両隣が飲み物を飲みに立つとこちらは話す相手もおらず、周囲を適当に見回していたのだが、先の同僚が左に戻ってくると少々雑談をした。いま何年生かと訊くと、三年だと言う。確か音楽系のことをやっているとは覚えていたのだが、詳細がはっきりしなかったので、専攻はと尋ねると、声楽をやっていると答えが返った。オペラを学んでいるわけかと言うと、舞台には立たないがそういう曲を歌うと言う。そこで特に話題の続きも思いつかなかったので、オペラという語に関連させる形で、『失われた時を求めて』のことを出してみるかと口をひらいた。自分は小説ばかり読んでいるのだが、いまは『失われた時を求めて』というやたらに長いものを読んでいて、ちょうど来る前にオペラ座が出てきたところなのだ、というわけである。相手は題名に聞き覚えはあったようだが、詳しくは知っておらず、カミーユでしたっけ、と作者の名を訊くので、マルセル・プルーストと言う、と答えた。そのうちに相手は例のマドレーヌを起点に記憶の蘇るという主題を、うろ覚えで媒介物は違っていながらも挙げてきたので、間違いを訂正しながらそういう場面が有名だと説明した。どれくらい長いのかとの質問には、ハードカバーで一巻が大体四五〇ページ以上(ハリー・ポッターと同じくらいですか、と尋ねられたが、ちょっと困惑しつつわからないと返した)、それが邦訳で一三巻あると述べた。さらに、どんな小説ですかと訊かれたものの、うまい説明が思いつかないし、もとよりあまり語るつもりもなかったので、何しろ長いので、こういう話ですとうまく言えないんですよね、などと返していたところ、休憩が終わって会議後半が始まった。そこから夏期講習の振り返りとして反省なりを一人ずつ述べていく流れになり、こちらは、課題は以前から変わらない、要はどう復習の時間を取り入れて行くかであると述べた。最後に新しい上司となる女性(今年二六歳になったと言うのでこちらと同年、学年としては一つ下のようである)が少々発言し、旧上司もこれまでの感謝を述べて閉会となった。席を元の状態に片付けたあと、書類を記入してあとは帰るのみなのだが、雨が降りはじめており、やまないだろうかと窺いながら職場に残って、同僚たちとぐずぐず適当な会話を交わした。彼らは何となくの雰囲気で、居酒屋に行くことになったようである。自分は行かないと言いながらも職場を出るのは彼らの後ろについてとなった――おそらく一〇時一五分は過ぎていたのではないか。同僚たちに別れを告げて自転車に乗った。雨はやや霧めいた細かいもので、前日の大粒よりはましだろうと思ったところが、走りだしてみると顔の全体に広がって貼りつくような感じで、これはこれで煩わしいものだった。横断歩道を渡って裏通りに入って行きながら、どうせ雨の勢いが変わらずに濡れて帰るということはわかっていたはずなのに、随分とぐずぐずしてしまったなと思った。以前だったらものを読んだり書いたりする時間、あるいは完全に自分の自由になる時間が減ることを潔癖なまでに避けて、即座に帰宅に向かっていたはずだが、この日などは雨を口実にして自ら居残ることを選んだような雰囲気すらあった――一人で自室で本ばかりを読んでいる生活のなかで、他愛のない会話であれ、他人とのコミュニケーションを求めているということなのかもしれない。職場の同僚たちと共有される飲み会などの時間を無駄だと思う気持ちもなくなった――それは一面では己に対する厳しさがなくなったということでもあるのだが、極端ではなくなったという一面を取れば、良いことなのだろう。読み書きが自身の第一の主題であることは勿論変わりがないが、その仕事とほかのことをする時間とのあいだにひらいていた絶対的な格差が縮小し、大概のことは大らかな心で受け入れられるようになったようである。そんなことを考えながら、雨を顔や太腿に受けて帰路を走った。帰るとちょうど義姉が風呂に入っているところだったので、洗面所を開けるのは何となく憚られて、階段縁の壁の上に脱いだシャツを丸めておき、室に帰って服を着替えた。それから食事である。台所に立って乾燥機のなかの食器を片付けていると洗面所の戸がひらいた。振り向くと、湯上がりで頬を赤く染め、湿った髪を上げて額を晒した義姉がいたので、こんばんはと挨拶した。彼女が通りすぎて行くと、石鹸の香りが鼻に残った。それからカレードリアに焼いた野菜や肉と餃子、ワカメと卵の汁物にサラダと巻き寿司を卓に並べ、食事を始めた。テレビはパラリンピックの選手たちの頑張りを映しており、酒の入った父親などはうんうん頷きながら顔をにこやかにしてしきりに感心している。ちょうど先日、NHKが障害者を健常者の感動の道具の如く消費するようなテレビ番組(のみならず、当然情報物全般の問題であるわけだが)の作り方――「感動ポルノ」という語が用いられている――について議論する番組を放映したという話だが、自分としては父親のような態度には違和感を覚える――そこに映っているのはいかにも紋切り型で抽象的な物語そのものであり、本当に語られるべきことはおそらくほかにあるはずなのだ。件の議論番組が標的としていた「24時間テレビ」(何しろこの番組のちょうど裏でやっていたと言う)にしても同様で、その手法はマイノリティに特別な場を設えてあげ、その頑張りを演出するというものであり、頭ではそれが「茶番」だとわかっていながらも、その「頑張り」を目にして少々涙ぐんでしまうようなナイーヴなところがこちらにもあるのだが、やはりそのナイーヴさは良くないものだろうと思う。いわゆるマイノリティの姿を伝えるにしても、そのような「特別」で「大きな」形でない、ほかの方法があるはずだろう――しかし一方で、多くの人々はそうしたものには自ら接しようとしないという問題があるのだろうが――。ともかく、飯を食っていたのだが、そのうちに、義姉と並んで向かいに座っていた兄が、~~よ、とこちらの名前を呼び掛けてくる。改まった雰囲気を感じて何を言われるのかと思った――最初は、そろそろ将来のことを考えろとでも言われるのかという思いがよぎったのだが、続く兄の発言で(それがどういう台詞だったかは忘れてしまったのだが)、これは義姉が妊娠したという報告だなと予想がつき、次の言葉を待つと、果たしてその通りである。おめでとうございます、と頭を下げて、続けて何を言えばいいのかよくわからず、可愛がります、と願望を洩らした。義姉が胎内の写真を見せてくれた。最新の時点(九月一日のものだったかと思う)では胎児は一四. 三ミリとなっており、手らしきものがかすかに芽生えていると言う。一大報告であり、両親などは家庭の幸福というものを噛み締めているところだろうが、こちらは報告を受けてもまったくと言っていいほど感情の動揺が起こらず、ほとんど他人事として捉えているかのようで、このあたりはおそらく世間一般からずれており、冷血漢の気が強すぎるのかもしれないなという気がした。喜びというよりはむしろ、一種の不安がかすかに生じるようだった。と言うのは、自分はそもそも子を成すということに対して、ある種の忌避感のような、恐怖のような感情を薄く抱いており(そういうこともあっていまのところ子孫を残そうという思いはないのだ)、そのような事柄が(わかっていたこととはいえ、また、世にありふれていることとはいえ)、自分自身のすぐ近くで起こるということに対して、自分のことでもないのに不安を覚えるらしかった。とはいえその不安は淡いもので、一方では、甥あるいは姪が生まれたらたくさん接して、(自分で子を作る気がないのでその分)可愛がってやりたいという気持ちも強くあった。じきに兄が風呂に行った。義姉にパリのオペラ座で歌ったことはあるのかと(多分あるのだろうが)話を振ってみようかと思いながらも、どうも実際に言い出す気にならなかった。それは一つには、こうした「ハイカルチャー」に属するような――本当にそうなのか、あるいはオペラ座プルーストの小説が「ハイカルチャー」とみなされるとして、どの程度のものなのかもわからないのだが――、あるいは多少「インテリ的」であるような話題を我が家族のあいだで出すのを、場違いのように思う気持ちがあったからのようである。義姉と二人になる機会があったら訊いてみようと考えたが、兄は早々と風呂から戻ってきて、その機会は訪れなかった。しかし、このような気持ち自体がもはや時代遅れのもので、情報と文化の流通と侵犯が行き着くところまで行った感のある現代において、いわゆるハイカルチャーサブカルチャーの境など明確に存在しないのかもしれない。これより以前に、兄が義姉の肩を叩きながら、彼女がテレビを見てゲームばかりやっていると言ったのもその一つの現れのように思われた。西洋文化の華々しい伝統を引き継ぎ、ヨーロッパ各地の大劇場でその歌声を披露してきたはずの義姉本人が、大衆文化の最たるものであるテレビとゲームを日常的に楽しんでおり、また好んで読む本なども言ってみればそこまで「文学的」なものでもないようである。おそらく、それまで截然と分かれていたはずの上下の文化の境が融け合い、一人の人間のなかで自由に混合するという時代が訪れているのだ。兄の持ってきた日本経済新聞をめくり、普段読んでいる朝日新聞と取りあげられている記事に違いがあるのかなどを何となく調べたのち、風呂に入った。出た頃にはおそらく、零時半は過ぎていたはずである。自室に戻ると、隣室の二人はもう寝に入る雰囲気だった。John Coltraneの "Everytime We Say Goodbye" と、いつも通りBill Evans Trio "All of You (take 1)" を聞いて一時、あとは二時半まで『失われた時を求めて』を読み続けた。二五分間の瞑想をしてこの日のことを回想しておき、ほぼ三時ちょうどに就寝である。



 スワン夫人がウールのポロネーズに身を包み、頭にはキジの羽根を一本飾りにそえた小さな縁無し[トーク]帽をかぶり、胸許にはスミレの花束をさし、急ぎ足で、まるでただ帰宅の近道にすぎないからとでもいうようにアカシア通りを歩いて横切りながら、車にのった男たちに――遠くから彼女の姿を認めて挨拶を送り、これほどシックな女はまずほかにないと言い合っている男たちに――目くばせで応えているのを見たとき、私は簡素さこそ、美的な価値もあれば社交界でも珍重され(end417)ており、この領域で第一位を占めるものだときめてしまった。けれども、私は簡素さではなくて豪華さを最高位におくこともあった。それは、もう歩けないとか、足が「めりこんじまう」などとこぼすフランソワーズを一時間もむりやり引きずりまわしたあげくに、とうとうポルト・ドーフィーヌに通じる道からあらわれた二つとないほど見事な無蓋四輪馬車[ヴィクトリア]を見かけたときであった――その馬車は私にとって王室の威光と、女王のご到着を示すイメージであり、その後は本物の女王もだれひとりとしてこのような印象を与えてはくれなかったが、そのわけは私がそういったものの持っている力について、もう少しはっきりした、また経験に裏づけられた概念を持ったからだ――。コンスタンタン・ギースのデッサンに見るような、鋭く、すらりとして、輪郭のはっきりした、飛ぶように走る二頭の馬にはこばれ、「故ボードノール」の「虎」を思わせる小柄な若い馬丁のかたわらの席にどっかり坐ってコザックのように毛皮に包まれた大男の馭者をのせているその無蓋四輪馬車を見ると――というよりも、私の心に、くっきりとした執拗な傷あとをつけて、その形が刻印されるのを感じると――それがわざといくぶん背が高く作られ、その贅を尽くした「最新流行」の型を通して、古い型の車をそれとなく見下しているのが分かるのだが、その奥にゆったりとくつろいでいるスワン夫人は、今では髪にもブロンドにひと筋だけ灰色の束がまじり、その髪のまわりには花――たいていはスミレの花――のついた細いリボンがまかれて、そこから長いヴェールが垂れさがり、手には薄紫[モーヴ]色のパラソルがにぎられ、唇に浮かぶあいまいな微笑は、私の目には女王陛下の好意としか見えないが、そこにはとりわけ高級娼婦[ココット]の挑発があ(end418)らわれており、その微笑を彼女は、自分に挨拶する人びとの上へ、静かに傾けるのであった。(……)コクランが、自分の話に耳を傾けている友人たちにとりまかれて、滔々と弁じながら通りかかり、馬車の人たちに、手振りで、芝居がかった大げさな挨拶を送った。けれども私はスワン夫人のことしか念頭になく、しかも彼女に気づかないような振りをしていた。というのは、「鳩撃ち場」のところまで行けば彼女が馭者に、通りを歩いて逆戻りするから馬車の流れを横切って止めておくれ、と言うことを、知っていたからである。それで、彼女のそばを通る勇気があると感じられる日には、フランソワーズをその方向に引っ張っていくのだった。そのうちに、案の定、歩行者用の道をこちらへ向かって歩い(end419)てくるスワン夫人の姿を認めるのであったが、彼女はその薄紫[モーヴ]色のドレスの長い裾をうしろに広げ、庶民の想像する女王のように、ほかの婦人連中が身につけることのない布地や、立派な衣装を身にまとい、ときどきその目をパラソルの柄に落としながら、通りかかる人にはほとんど注意も止めず、まるで彼女の大仕事、彼女の目的は、少し運動をするということででもあるかのように、自分が見られていることも、みなの頭が彼女の方に向けられていることも、まるで気がつかないといった様子だった。それでもときどき振り返って自分のつれているグレーハウンドを呼ぶさいに、彼女はそっとまわりに視線を配ってみるのだった。
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 2 第一篇 スワン家の方へⅡ』、417~420)

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 なんということだ! と私は自分に言いきかせた。こういう自動車を、昔の馬車のようにエレガントだなどと思えようか? なるほど、私はもうあまりに年をとってしまったのかもしれない。だがそれにしても私は、婦人たちの身体をしめつけるドレスが布製でさえないような世界には、とうてい向いていないのだ。もしも、微妙に紅葉してゆく葉の下にかつて集まってきたものが、今は何ひとつ残っていないのだったら、もしもその葉の額に縁どられた得も言われぬ美しい一幅の絵が、卑俗と狂気にとってかわられたのだとしたら、こういう木々の下にやって来たところで何になるだろう? なんということだ! エレガンスというものが失われてしまった今日、私の心を慰めるのは、ただかつて知っていた婦人たちに思いをはせることだけなのだ。けれども、鳥籠か花畑のようなものに覆われている帽子をのせたこのおそろしい女どもを眺める今の人たちは、ただ小さな薄紫[モーヴ]色の婦人帽[カポット]か、たった一輪のアイリスをまっすぐさしただけの小さな帽子をかぶったスワン夫人を仮に見かけても、そこにひそんだ美しさをはたして感じとることができるだろうか? 冬の朝スワン夫人が馬車から降りて歩いているのに出会ったとき覚えた昔の感動を、あの連中に分からせることすらできたろうか? 彼女はカワウソのマントに身をくるみ、ただのベ(end429)レー帽をかぶり、そこにシャコの羽根を二本、ナイフのようにぴん[﹅2]とさしただけだが、胸許で圧[お]されているスミレの花束を見ただけでも、暖められた彼女の住居の様子が周囲に浮かびあがってきたし、灰色の空、凍てついた空気、葉が落ちて枝がむきだしになった木々を前にして、生き生きと青い花を咲かせていたこのスミレは、ちょうど彼女のサロンの、火の燃えている暖炉のそばや絹張りのソファの前におかれた花瓶だの植木箱だののなかから、閉ざされた窓ごしに雪の降るのを眺めていた花と同じような魅力、季節や天気を単なる額縁としか思わずに、自分は人間的な空気、この女性の空気のなかで生きてゆこうとするものの魅力、そういった魅力を備えていたのであった。(……)
 (429~430)


 誰よりも勢力があり、高い地位に就いた人たちが、閑暇を望み、閑暇を称え、閑暇(end18)を自分にあるどの幸[さち]にもまさるものとする言葉を漏らすのを目にすることがあるはずだ。時として彼らは、安全にそうできるものなら、自分のいるその頂きから降りたいと願う。なぜなら、外部から襲いかかり、外部から打撃を与えるものが何もなくとも、盛運は自壊するものだからである。
 (セネカ大西英文訳『生の短さについて 他二篇』、18~19; 「生の短さについて」)

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 要するに、何かに忙殺される人間には何事も立派に遂行できないという事実は、誰しも認めるところなのである。雄弁しかり、自由人にふさわしい諸学芸もまたしかり。諸々の事柄に関心を奪われて散漫になった精神は、何事も心の深くには受け入れられず、いわばむりやり口に押し込まれた食べ物のように吐き戻してしまうからである。(end25)何かに忙殺される人間の属性として、(真に)生きることの自覚ほど稀薄なものはない。もっとも、この生きることの知慧ほど難しいものもないのである。他の技芸の教師なら、ざらにおり、数も多い。中には、まだ子供ながら、人に教えられるまでに内容を習得した者さえ見受けられる技芸もある。だが、生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。あれほど多くの偉人たちが、富や公務や快楽を拒絶し、すべての障害を排除して、生きる術を知るという、ただこの一事のためにのみ全生涯をかけた。しかも、彼らの中には、自分はいまだにそれを知らないと告白して世を去った人も多い。生きる術は、いわんや、何かに忙殺される人間には知るべくもないものなのである。いいかね、これは本当のことだ、人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。彼らの生の寸刻たりとも人間的陶冶に費やされず、実りに費やされぬ時間はなく、寸刻たりとも他人の支配に委ねられる時間はなかった。それも至当で、時を誰よりも惜しむ時の番人として、自分の時間と交(end26)換してもよいと思う価値のあるものは、彼らには何も見出せなかったのである。彼らには何も見出せなかったのである。彼らには生は十分な長さであった。しかし、自分の生の多くの時間を人に奪い取られる者が生を不足とするのは理の当然ではないか。(……)
 (25~27; 「生の短さについて」)

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 (……)人は、より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺(end31)される。生の犠牲の上に生を築こうとするのだ。人は、これを、次にはあれを、と考えをめぐらせ、遠い将来のことにまで思いを馳せる。ところが、この先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。(……)
 (31~32; 「生の短さについて」)

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 それに反し、過去を忘れ、今をなおざりにし、未来を恐れる者たちの生涯は、きわめて短く、不安に満ちたものである。終焉が近づいたとき、彼らは、哀れにも、自分がなすところなく、これほど長いあいだ何かに忙殺されてきたことを悟るが、時すでに遅しである。また、彼らが時に死を願うことがあるという論拠をもって、彼らの過ごす生が長いという事実を証明できると考えてよい理由はない。彼らは、思慮のなさから、自分が恐れる当のものへと突き進んでいく不安定な情緒に苦しめられるのである。彼らが死を望むのは、往々にして死を恐れているからにほかならない。また、一日が彼らに長く思われることがしばしばあるという事実や、彼らがよく、夕食時と決められた時間が来るまでのあいだ、時間が遅々として進まないとこぼすという事実も、彼らの過ごす生が長いと考えてよい論拠にはならない。事実、彼らは、忙殺されていた何かに見離される時がいつかやって来れば、閑暇の中に取り残されて狼狽し、その閑暇をどう処理してよいのか、その閑暇をどう引き延ばせばよいのか、途方に暮れるのである。忙殺される何か別のものに彼らが救いを求めるのはそのためであり、あい(end53)だの空き時間のすべてが彼らにとって厄介なものであるのはそのためなのである。それは、ちょうど、剣闘士競技の催しの日取りが公告されたとき、あるいは、その他の何かの見世物や娯楽の当日が待望されるとき、人々がそれまでのあいだの日々を飛ばすことができればと願うのと同じなのだ。どんな場合でも、待望するものが延び延びになるのは、彼らには待ち遠しくて耐えられないのである。しかし、彼らが好きなことをして過ごす時間は短く、瞬く間のことで、しかも、その短い時間もみずからの悪癖のせいでなおさら短いものになる。所を去り、所を去りして、次から次に快楽を変え、一つの快楽にとどまり続けることができないからである。彼らにとっては、一日一日が長いのではなく、一日一日が疎ましいのだ。だが、それに反し、娼婦に抱かれて過ごす夜や、酒に浸って過ごす夜の、何と短く思われることであろう。詩人たちは、ユッピテルが同衾の快楽に心も蕩[とろ]けて、夜の長さを二倍にしたと想像したが、作り話で人間の過誤を増殖させる詩人たちのこうした妄想も、それで説明がつく。われわれ人間の悪徳の権威ある先例として神々の名を記し、神々のみに許される放埒を人間の病癖の手本として与えることは、とりもなおさず、われわれ人間の悪癖を焚きつけること以外の何ものでもないであろう。それはともかく、これほどの出費をしてまで購[あがな](end54)う愛しい夜が、彼らにとってあまりに短すぎると思われるのも当然ではないか。彼らは夜の待ち遠しさで昼を失い、後朝の恐れで夜を失うのである。
 (53~55; 「生の短さについて」)