2016/9/5, Mon.

 覚醒の意識が固まったのは、一〇時半だったらしい。快晴の、暑い朝だった――陽射しを受けるのを避けてカーテンは閉ざしたままにし、布団をはだけて、脹脛を膝で刺激しながら本を読むのだが、脚が汗で湿ってきてうまく滑らないのだ。本のページの上には、カーテンの隙間から入りこんだ陽射しが宿って、アサガオの葉の影を網目状に映してみせる。『失われた時を求めて』第五巻を一時間読んで一一時四五分になったところで切りあげ、瞑想を行った。一旦帰ってきた暑さに呼応するように、窓外ではミンミンゼミの鳴き声が響いて、カーテンのあいだをまっすぐ貫くようにして耳まで届いてくる。それから上階に行って、確かすぐに風呂を洗ってから、食事を取ったが、そのメニューはもはや覚えていない。食べている最中から新聞を読み、食後も少々記事を追った。母親が三四度だよ、と言うのに顔を上げて、南窓の脇の気温計に目を移してみれば、確かに針がそこを指している。食器を洗って一時頃下階に戻ったが、すぐにやるべきことに移れずだらだらとした時間を過ごした。母親は板金会社の面接――何でもフィギュアを組み立てる仕事だとか言ったが――があって、どれがいいかと服装を迷ってこちらの部屋の戸口にも見せに来たあと、出かけていった。二時前になって、ようやくインターネットから離れて前日の記録を付け、次に英語を読んだ。Gabriel Garcia Marquez, Love in the Time of Choleraである。まだまだ知らない単語がしばしば出てきて調べる時間が多いとはいえ、遭遇したら即座に辞書を繰るようにしたために以前よりはページの進みが速くなっている――それでも三〇分強で五ページ程度のものではあるが。二時半過ぎまで読んだあと、水を取りに部屋を出ると、母親が帰ってきていた。フィギュアの制作を少しやったようだが、非常に難しかったと言う。畳まれたタオルを洗面所に運んでから下階に戻り、腕立て伏せをしたのちに、『失われた時を求めて』三巻の書き抜きを始めた。その途中で、どこからかフローベールの書簡のことが連想されて、ブラウザをひらき、Amazonの欲しい物リストに加えていたフローベール全集の情報を見たのだが、書簡を収めた八巻と一〇巻の値段が一〇万円とあり(九巻だけはなぜか、高騰から免れていた)、これは何かの陰謀だろうかと思った。一五〇年も前の文豪の書簡が一〇万円も出さないと読むことができない――こうした文化的後進国そのものとも言いたいような状況は、やはり異常で許しがたいものだと思わざるを得ない。このような惨状の解消を一刻も早く図りたい――要はフランス語からの翻訳を(誰もやらないのなら)己の手で行って、インターネットにでも公開し、誰の目にも閲覧できる状態に整えたい――ものだが、この先数年ほどの現実的な選択肢としては英語で読む以外のことはできないだろう。ともかくそれから書き抜きを済ませ、さらに九月三日の記事を書き足して手短に仕上げると、腹を満たしに上に行った。四時過ぎである。チョコチップスティックパンと豆腐、さらに食パンを一枚食べて、室に戻るとBill Evans Trio "All of You (take 1)" を聞いた。それからシャワーである――汗を流しているあいだに五時の鐘が鳴った。出てくると諸々の身支度を済ませて、八月の勤務記録を手帳に写した。それから、ふと気になって、日記を遡ってこの頃の毎日の読書時間をチェックしてみると、大概二時間くらいは読めているようである。目標としてはやはり一日三時間は読みたいものだと考えた――一時間で三〇ページとして、そうすれば一〇〇ページ弱は読めるのだ。余裕を持って出ようと思っていたはずが、そんなことをしていると時間がなくなって、急いで上に行き、便所で腹を軽くしてから出発した。次第に空気の明るみが減じてきているが、ツクツクホウシのみならず、ミンミンゼミもまだ鳴いていた覚えがある。自転車に乗って坂を上り、街道に向かうと、家屋根に隠された西空の際が、雲が広がって西陽の色は露わではないものの、金属が焼けつくように白く輝いていた。裏通りに入るところで民家の横に生えたサルスベリが、花はもう落ちていたはずなのに蘇ったかのようにまた紅色を膨らませているのが目に入って、驚いた。一月ほど前にも同じ驚きを記した覚えがあるが、まことに開花の長い花である――見る限り、花が散っても終わらずにあとから何度もついているようなのだが、一体、どういう仕組みになっているのだろうか。そこのみならず、通りの途中、侘びしいようなアパートの脇で、塀の上に顔を出している小さな木のほうも、同じように再度花を灯していた。腕時計を見やって、これは予定時刻に間に合わないなと思い、無理に急がずに進んでいったところが、ぴったりの時刻で職場に着いた。すぐに働きはじめ、労働を乗り切って九時半である。勤怠の確認を済ませ、書類を渡した同僚(先輩)に明日の件はどうなったかと尋ねると、話していた通りの事態になっていた――つまり、大学受験生に日本史を教えなければならないのだ。さすがに大学受験を受け持つためには、ある程度勉強をしなおさなければならないので、非常に面倒なことになったものだ。同僚と、どの教材を使うのが良いだろうかなどと、その場にあるものを見ながら話し合った結果、こちらの持っている標準問題集を持ってくるということに落ち着いた。それで職場を辞すと、日中の暑気がまだ籠って残った、ひどく温い夜気だった。どういう風に授業を構築したら良いだろうかと考えつつ、夜道を渡って帰宅し、服を脱いで室に帰った。ちょっと寝転がってから瞑想を行い、そして夕食へ、カレー風味のチキンなどをおかずにして米を食べ、よく覚えていないが、食事を済ませたあとすぐに入浴したのだと思う。室に帰ったあと、すぐに書き物に取り掛かるはずが、日本史にまた取り組まなければいけない億劫さが気力を削いで、だらだらとエンターテインメント系の動画を閲覧し、零時四〇分からようやく前日の記事を書きはじめた。流したのは、Omer Avital Group『Room To Grow』である。それで二時前まで打鍵をして、三八〇〇字弱を綴ったところで中断とした。歯磨きをしながらまた動画をちょっと眺め、それから就寝前の読書に入った。三時直前まで読んでから、瞑想をして就寝である。



 (……)「けれども備えある者は憂いなく、二倍の力を発揮するものです。こういった罵倒を、彼は一蹴してしまいました」と彼は、いっそう力を入れて、残忍な目つきをしながらつけ加えたので、家の者は思わず一瞬食べるのをやめたほどであった。「アラブの美しい諺にもあるではありませんか、《犬どもは吼えなば吼えよ、隊商は進む》とね」 この引用をみなの前に投げ出すと、ノルポワ氏は口をつぐんでみなの顔を見つめ、引用の効果を判断しようとした。その効果はてきめんだった。諺はみなが知っているものだったからである。これは今年になって、立派な人びとのあいだで、もう一つの諺、「風を蒔く者は嵐を刈りとる」にとって代わったもので、こちらの方は「プロイセンの王様のために働く」のように疲れを知らぬ強靭な多年生のものではなかったから、休息を必要としたのである。(……)
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 3 第二篇 花咲く乙女たちのかげにⅠ』集英社、一九九七年、65)

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 フランソワーズは毎日そばに来て言うのであった、「まあ、坊っちゃまのお顔色! 鏡をごらんにならなかったんでしょう。まるで死んだ人みたい」 もっとも、私がちょっと風邪をひいただけでも、フランソワーズは同じように痛々しい様子をしたことであろう。そうした心痛は、私の健康状態のためというよりも、むしろフランソワーズの属する「階級」によるものであった。そ(end129)ういうとき、私は、フランソワーズのこのペシミスムが、心の痛みからくるのか満足からなのか、見分けがつかなかった。そこでとりあえず、これは社会的で職業的なものだと結論を下したのであった。
 (129~130)

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 そのようにスワン家の人たちといっしょに外出することになっている日には、スワン夫人がランチ lunch と呼んでいる昼食のために、まず彼らの家に行くのであった。招かれる時間は十二時半であったし、当時、両親は十一時十五分に昼食をしていたから、両親がもう食卓を離れたあとになって私はこの高級住宅地に向かって行くことになるのだが、いつの時間もかなりひっそりとしているこの区域は、とりわけみなが家にはいっているこの時刻には閑散としている。冬で氷(end174)が張っていても天気さえよければ、私はシャルヴェの店で買ったすばらしいネクタイの結び目をときおり締め直しながら、またエナメル革のショートブーツが汚れはしないかと気にしながら、十二時二十七分まで、大通り[アヴニュ]をあちらこちらと歩きまわるのだった。スワンの家の小さな庭のなかに、太陽がむき出しの木々の枝を霧氷のように輝かせているのが、遠くから認められる。とはいえ、この庭には二本しか木がないのだが、ふだんと違った時刻にはそれが新たな光景に見えるのであった。この自然の与える楽しみ(習慣の中断や空腹によってさえいっそうかきたてられる楽しみ)に、スワン夫人のところでの昼食という、わくわくするような期待が混じりあい、それは自然の楽しみを影の薄いものにするのではなくて、それを支配し、服従させ、それを社交的なアクセサリーにしている。だから、いつもはそういったことに気づかないこの時刻に、私が晴天や寒さや冬らしい陽ざしを発見したように思うとすれば、それは卵のクリーム煮の一種の前ぶれとしてであり、スワン夫人の住居というこの神秘的な礼拝堂の外塗りに、さらにつけ加えられた緑青の色や、バラ色のさっぱりとした上塗りのようなものとしてであった。そしてその住居の中心には、これと逆に暖かさと香水のかおりと花々が、いっぱいにつまっているはずだった。
 (174~175)

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 (……)だから天才的な人物は大衆の無視から身を避けるために、おそらくこんなふうにひとりごちるだろう、同時代人には必要な時の隔たりが欠けているから、近すぎるところからでは判断できないある種の絵画のように、後世のために書かれた作品は後世によってのみ読まれねばならない、と。けれどもじつのところ、誤った評価を避けようとする臆病な配慮はどれもこれも無駄であって、そうした評価は避けられな(end185)いものである。天才的な作品がただちに人びとに賞賛されることがむつかしい原因は、それを書いた者が非凡であって、彼に似た人はほとんどいないからだ。むしろ彼の作品自体が、天才を理解することのできる数少ない精神の芽を作り、それを伸ばし、また増やしていくことになるだろう。五十年の歳月をかけてベートーヴェンの四重奏曲の聴衆を生み出し、それをふくらませてきたのは、ベートーヴェンの四重奏曲自体(十二番、十三番、十四番、十五番の四重奏曲)であり、それらはこんなふうにしてすべての傑作と同様に、たとえ芸術家の価値の進歩とは言わぬまでも、精神の社会の進歩を実現したのであって、その社会は今日では、傑作出現当時には見出しようもなかったもの、すなわちそれを愛することのできる広汎な人びとによって構成されているのである。人が後世と呼ぶところのものは作品の後世である。作品は(事を簡単にするために、同じ時代に何人もの天才が併行して未来のためによりよい読者を準備することがあり、その読者からさらに他の天才たちが利益を引き出すことになるという事情は、今は考慮しないでおくが)、作品自身で自分の後世を作り出すものだ。(……)
 (185~186)

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 (……)昼食のあとで私たちがサロンの大きな出窓のところで陽に当たりながらコーヒーを飲むことになり、スワン夫人が私にお砂糖はいくつ入れましょうかとたずねるとき、以前に――(end200)バラ色のサンザシの下で、ついで月桂樹の茂みのわきで――ジルベルトという名前のなかに私が認めたあの辛い魅力とともに、あのころ彼女の両親が私に示していた敵意をも同時に発散させているのは、単にスワン夫人が私の方へ押しやるこの絹張りの足台だけではなかった。しかしとりわけこの小さな家具はその敵意をよく心得ていて、それを分け持っているように見えたので、私は自分がそれにふさわしくないように感じたし、またこの無防備な絹張りのクッションに足をのせるのがいささか卑怯なことのように思われるのであった。人格を備えた一つの魂によって、この足台はひそかに午後二時の光に結びつけられており、その光は他のどんなところの光とも違っていて、この湾のなかで私たちの足許に金色の波をたわむれさせ、その波間からまるで魔法の島のように、青味がかったソファとかすんで見えるタピスリーとが浮かび上がっていた。暖炉の上にかけられたルーベンスの絵に至るまで、すべてがスワン氏のはいている編上靴や、そのフードつきマントと同じ種類の、ほとんど同じくらいに強烈な魅力を備えていた。そのマントは私がぜひとも似たようなものを着てみたいと思ったものだけれども、私が彼らと連れ立って外出するときになると、オデットは夫に向かってもっと洗練されたお洒落をするために別なマントととり替えるよう注文するのだった。彼女もまた着替えに出て行こうとする。そして私が、クレープ・デシンや絹のすばらしい部屋着にはどんな「外出着」もとうてい及ばないと抗議したにもかかわらず、スワン夫人は昼食のときに着ていたその部屋着、それはくすんだバラ色だったり、桜色だったり、またティエポロふうのバラ色、白、薄紫[モーヴ]色、緑、赤、黄色だったり、さらに無地のときも(end201)模様のときもあるのだったが、その部屋着を着替えに行ってしまうのであった。そのままで外出されればよろしいのに、と言うと、彼女は私の無知がおかしいのか、あるいはお世辞がうれしいのか、声を出して笑う。そして、着ていて楽なのは部屋着しかないからこんなにたくさん持っているのよ、と言訳を言い、私たちのそばを離れて、みなを威圧する女王のような衣裳を身につけに行くのであるが、それでもときどき私は彼女に呼ばれて、彼女に着てもらいたいと思う衣裳を選ぶようにと言われることがあった。
 (200~202)

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 (……)なるほど平凡な模倣者たちは新聞や著書のなかにたくさんの「ベルゴットふう」のイメージや思考をふりまいて自分たちの文章を飾っているけれども、私たちの読むベルゴットの一ページは、(end218)とうていそうした模倣者のだれかれに書けるようなものではないということである。この文体の差異は、「ベルゴット的なもの」が何よりもまず一つひとつの事物の中心に隠されている貴重で真実なある要素であって、ついでそれがこの大作家の手で、彼の天才のおかげで、そこから掘り出されるということに由来するのであるが、この発掘こそがやさしき<詩人[うたびと]>の目的ではあっても、ベルゴットらしいものを作り出すのが彼の目的ではないのである。本当を言えば、彼は心ならずもベルゴット的なものを作り出していたのだ。なぜなら彼がベルゴットだからであり、またその意味で、彼の作品にあらわれる一つひとつの新しい美は、一つの事物のなかに埋もれていた少量のベルゴットであり、そこから彼が引き出したものだからである。けれども、たとえそのためにこれらの美の一つひとつが他の美と似通ったものとなり、ひと目で分かるようなものになったとしても、やはりそれを生み出した発見と同様に、一つひとつの美は依然として特殊なものであり、新しいものであり、それゆえベルゴット調と呼ばれるものとは異なっている。そのベルゴット調なるものは、すでに彼が見つけ出して書いてしまったすべてのベルゴット的なものの曖昧な綜合であり、それだけからでは天才でない人間にとって彼がこれから別な場所で発見するものを予測することはできないのである。すべての大作家がこんなふうで、彼らの書くものの美しさは、ちょうどまだ知合いにならない女の美しさのように、予見できないものなのだ。その美は彼らの思い浮かべる外的対象、そして彼らがまだ表現していない対象にぴったり貼りついていて、文章自体に付着しているわけではなく、だからこそこれは創造になっているのである。(……)
 (218~219)

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 (……)けれども天才はもとより、すぐれた才能にしても、他人よりもまさった知的要素や社会的洗練からもたらされるというより、むしろそうしたものを変形し、それを移し替える能力から来るものだ。液体を電灯で熱するためには、でき(end225)るだけ大きなランプが要るのではない。電流がものを照らすのをやめて、方向を変え、光ではなくて熱を作り出すことができるような、そうしたものが必要なのである。空中を歩きまわるためには、このうえなく強力な自動車を持つことが必要なのではない。いつまでも地上を走りつづけるのではなくて、それがたどってきた地面の線を垂直の線によって断ち切り、水平のスピードを上昇の力に変えることのできる車を持つことが必要なのである。同様に、天才的な作品を作り出す人びとは、ごく繊細な環境のなかに暮らしていて、目ざましい話術や広汎な教養を身につけている人たちではなく、むしろあるとき突然に自分自身のために生きることをやめて、自分の人格を鏡に似たものにする力のある人間、こうして彼らの生活が、たとえ社交的に、いや、ある意味で知的に見てさえどれほど凡庸なものであろうとも、それがこの鏡に映し出されていくような人たちなのである。天才とは物を反映する力のなかに存するのであって、反映される光景の内在的な質のなかに存するものではないからだ。(……)
 (225~226