2016/9/7, Wed.

 随分と夜明けに近くなってから眠ったわりには、九時一〇分と早い時間に覚醒した。睡眠時間は五時間二五分というところである。多少の眠気は残っていたように思うが、早めの時間に覚めたことを有効に活用しようと、枕横の薄水色の本――マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて』第五巻――を手に取った。それで残った午前中の時間のほとんどを読書に費やした。一〇時半か一一時を前にして、母親はパソコン教室に出かけていった。同じ頃だったと思うが、文字を見つめている瞳の奥から睡魔が炭酸の泡のように増殖して、脳を痺れさせていた。それに耐えながら言葉を追っていたが、ある一瞬、意識の位相ががらりと変わって現実を離れ、しかし眠りに落ちはしない中途半端な状態を保ったまま、半ば夢のような精神世界のなかに落ちこんだ時があった。世界が切り替わると同時に、「許さない」という女性の声がはっきりと右耳に響き、その言葉が語尾まで到らないうちに脳内に何かが生まれて高まりはじめ、それと同時に自分の口がひらいて意味をなさない呻きのような声が出た感触がかすかにあった。そしてその声は、高まって脳内に浸潤していく液体のような何かと同化して叫びと化したのだったが、その叫びはおそらく頭のなかだけに響いていたもので、自分が実際にそれと呼応して声を上げていたのかどうかは定かではない。中途半端な昼寝を取った際に、金縛りのような状態で意識がちょっと覚醒して、脳が水のなかで溺れているかのように苦しげな時間が時折りあるものだが、それに似た苦しさと痺れの感覚があった。それはまた、(あとになってのことだが)過去の日記にも書きつけたいつかの夢をも思い出させた――どこかの一室で、やけにのっぺりとしたような顔の若い男がいるのだが、彼が口をひらいて、しわがれたような声音で何かを発すると、それを引き金として夢の世界がめくれて不穏な色に満たされ、直後に目が覚めたのだったと思う。それに似た、数秒間での素早い様相の変化を目の当たりにしながら、大麻を摂取するとこんな風になるのだろうか、またあるいは、統合失調症の人が体験する幻覚や幻聴というのもこんなものかもしれないな、とちらりと思った。叫びが静まったあとには、低くくぐもった、火薬の爆発するような音がいくつか小さく繰り返され、そのうちに目をひらいて現世に帰ってくることができた。読書を続けたのは、一一時四二分までである。そこから二〇分ほど眠気に身を任せて、そののちに瞑想をした。そうして上階に行った。台所に入ると、薩摩芋の煮物の残りがあった。それを電子レンジで熱しつつ、卵とハムも焼くことにしてフライパンを用意し、野菜スープもコンロで温めた。料理が焼けると丼の米の上に載せて、その他のものと卓に並べて、プルーストを卓上に置いてめくりながら食事を取った。一時前になると食器を片付け、下階に戻る前にベランダのタオルを取りこんで畳み、確か風呂も洗ったのだと思う。タオルを畳んだあと、ソファで新聞を読んでいた時だったと思うが、電話が鳴って、面倒に思いながらも出ると母親だった。パソコン教室をさらに追加したからまだもう少し掛かると言い、洗濯物を入れてと言うのにはもう入れたと返して、切った。そうして風呂洗いを済ませてから――さらにアイロン掛けも行ったかもしれない――下階に帰り、自分の穴蔵に入って、コンピューターを再起動させた。一年前の日記を読んで一時四六分、とメモにはある。前年の九月七日の記録には、通り一遍の、およそどうでもよいことしか書かれてはおらず、内容が薄くてつまらないことこの上なかった。やはり(少なくとも自分の心に引っ掛かったことは)詳細に書いてこそ、自分語りをしてこそ、のものなのだ――しかも、インターネットから撤退したいま、自分を語るのに誰の目を憚ることもない。日記の読み返しに関しては、毎日行いたい気持ちがあるのだが、このあとで、そのためにはこれも作文量や読書量などを毎日記録しているのと同様に、日々の記録事項の一つに加えるのが良いのではないかと思いついた(そして実際、この翌日から始めた)。自分の場合、何かを毎日続けるにあ当たっては、その時間や量について記録を付けることがモチベーションを維持してくれるようである。一年前の記事を読み返したあとは、『失われた時を求めて』三巻の書き抜きを始めた。傍ら前日の夜に途中まで聞いたBobby Battle Quartet『The Offering』を流し、それが終わると、二日前に一度流したOmer Avital Group『Room To Grow』に移した。この作品も、売却か保持か一度では判断が付かなかったので、繰り返したのだ。ニューヨークはSmallsでのライブを収めた盤で、ベースとドラムスにサックスが四本(テナーが三本にアルトが一本で、Gregory Tardyはクラリネットとフルートにも持ち替えている)という変則的な編成で繰り広げられる三曲は、二二分、二二分、一六分とどれも長尺のもので、アレンジもそれなりに凝っているし、熱演と言ってよい質を充分に持ち合わせていることは聞き取れるのだが、それと欲望とは別の問題のようで、繰り返して聞きたいという気持ちが湧かないことがわかったので、売却のほうに分類した。三時前まで書き抜きをすると、腕立て伏せやスクワットをしてから、再度ベッドに転がって読書をした。途中で窓のほうに目をやると、アサガオの葉はもう一部萎んで、蓑虫のように茶色く小さくなってぶら下がっており、ほかの葉も黄ばんだなかに黒点を散らしていたり、緑のものにも同じように、皮膚感染症のように点が付されていて、この植物のネットは全体としていかにも生気を失っており、かすかにグロテスクな感触をも受け取らせる。花はもはや見られず、そのあとから種を包んだ蕾がいくつも生まれ、尖った角を何本か上に伸ばしていた。それらの向こうに覗く空は、青さも見えるが、筆でさらさらと撫でたように雲が軽く乗っている。四時一七分まで本を読み、その後瞑想をしてから、上階に行った。母親は既に帰ってきていた。ゆで卵と、母親の買ってきたゼリーを食うと、多分ソファに乗ってちょっと窓外を眺めたのだと思う――空の様子の記憶が残っているのだ。陽の色はない空で、雲が上下に分かれて湾のように曲線を作り、そのあいだを満たす空の青さは、ミルクを目一杯混ぜたカフェオレのようにまろやかで、同様に周りの雲の灰色も雨の香りを感じさせない和らぎ様で、二つの接する領域が長閑にまとまって調和していた。窓の左側から鳥が小さく現れ、空の前を通過する時はその姿がかろうじて視認されるのだが、電線の上に降り立って川沿いの林を向こうにすると、もう見えない。右方からは、どこかでものを燃やしているらしく、煙が湧いて、少しずつ形を変化させながらもしかしその中核の灰白色は保って、左へとゆっくり這うように流れていった。それから、ナスとピーマンを切って豚肉と炒めておき、そののちにシャワーを浴びた。浴室にいるあいだに五時の鐘が鳴った。余裕を持ったつもりが、出てきて歯を磨いたり着替えたり用を足したりしているうちに、出る頃にはいつもと変わらないくらいになっていた。自転車を駆って街道に抜け、再度裏に入って走っていった。左を見れば森の上空には毛布めいた柔らかい雲が広がっており、つまめば襞を作って引き寄せられそうな質感である。右方、南側は、そちらよりはやや明るく、空の地も見えているものの、こちらでも雲はごちゃごちゃと乱雑に群れていた。道の先に女子高生たちが広がって壁を成しているのが見えたので、表に出たのだが、こちらはこちらで歩道が狭く、走りづらいのだ。歩道の脇に下りて、車が背後から次々過ぎる横をゆっくりと走り、職場に向かった。労働はつつがなく済ませて、九時半頃退勤である。ひどく小さなチョコレートを五つ、誰にも見られないところで勝手にポケットに収めて、この日で顔を合わせるのは最後となる旧上司と挨拶を交わし、職場を出た。欠伸を洩らしながら自転車を漕いで帰宅すると、残暑の夜で、結構な汗が湧いている。服を脱いで洗面所の籠に放り、部屋に帰ると下着姿になって寝転んだ。プルーストを少々読んでから瞑想し、夕食に向かった。炒め物の半分をよそり、豆腐の上に大根おろしを山盛りに載せ、サラダやスープとともにテーブルに置いた。風呂から出た父親も食事を始めるところだった。テレビは家を売る女のドラマが流れており、母親はそれを見ながらもうとうととしている。こちらも携帯電話をいじって他人のブログを読みながらも、時折りそちらに目を向け、一一時を迎えた。食器を片付けて入浴を済ませたあと、自室に帰ったのだが、疲れのためだろう(頭痛らしきものもあった)、書き物に取り組む気が起きず、娯楽的な動画を眺めた。一本で済ませるつもりがもう一本を見てしまい、それで文を綴るのは一時過ぎからとなった(その前に、Bill Evans Trio "All of You" のテイク一と二を聞いてもいる)。前日の記事はおよそ一時間掛けて二八〇〇字ほどで完成させ、前々日のものにもサルスベリの開花に対する驚きを書き足したあと、この日のものはもはや取り組む気力が起きず(何しろ既に二時を回っていたのだ)、イヤフォンを外した――すると、いつの間にか雨が降りだしていて、部屋を囲む響きが一気に耳に入ってきたのに驚かれた。歯磨きをしながら読書に入り、三時直前まで読んだあと、瞑想は怠けて明かりを落とした。



 (……)じじつ彼は今なお自分の妻に、ボッティチェリを見出すのを好んでいた。反対にオデットの方は、自分自身のうちにある気に入らないもの、たぶん芸術家にとっては彼女の「性格」ということになるのだろうが、女としては彼女が欠点だと思っているもの、そうしたものを際立たせるのではなくて、それの足りないところを補ったり、それを隠したりしようとしていたから、このボッティチェリという画家の話など耳に入れようともしなかった。スワンは、青とバラ色のまじったみごとなオリエントふうのスカーフを持っていたが、彼がそれを買ったのは、これが『聖母讃歌[マグニフィカト]』のなかで聖母マリアのつけているスカーフにそっくりだったからである。けれどもスワン夫人はこれを身につけようとしなかった。たった一度だけ彼女は、夫が『春』のなかの「春の精」にならって、小さなヒナギク矢車菊忘れな草、つりがね草などを一面にあしらった衣裳を彼女のために注文するのを、そのままにしていたことがある。ときどき夕方になって彼女が疲れてくると、自分では気づかぬうちにその物思わしげな手は、ボッティチェリの聖母が聖書の上になにか文字を書こうとして天使の差し出すインク壺にペンを浸しているときの、繊細でいくぶん不安げな動作を帯びており――その聖書にはすでに(end337)「聖母讃歌」の文字が書かれているのである――スワンはそっと声をひそめて、どんなにそれが似ているかを私に指摘するのであった。けれどもスワンはつけ加えて言うのだった、「けっしてこんなことをあれに言ってはいけませんよ。知ったら最後、あれはきっと別なやり方に変えてしまうでしょうからね」
 (マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 3 第二篇 花咲く乙女たちのかげにⅠ』集英社、一九九七年、337~338)

     *

 だが結局のところ、離れていることにも効果があるものだ。今はこちらを見誤っている人の心にも、いつかはまた再会の気持やその欲望が生まれてくる。ただそれには時間が必要だ。ところで時間にかんして私たちが行なう要求は、変化を求める心の要求と同じく、途方もないものである。まず第一に時間の余裕こそ、私たちが他人に対して最も与えたがらないもので、それというのも私たちは苛酷な苦しみを一刻も早く終えてしまいたいと思っているからだ。ついで、相手の心が変化するために必要としているこの時間とは、それを利用してこちらの心も変化することになる時間であり、したがって私たちの自分に課した目的が到達可能なものになるときには、それ(end355)はもう目的ではなくなっているのである。もっとも、この目的がいつか到達可能になるだろうとか、また幸福というものは一つ残らず、それが私たちにとってもはや幸福でなくなるときにはかならずそこに到達できるようになるものであるとか、そういった発想にはたしかに真理の一部が含まれているだろうけれども、しかしそれはほんの一部にすぎない。なるほど幸福は、私たちがそれに無関心になったときに降って来るものだ。しかしまさしくこの無関心のために、私たちの要求は減少しており、だから私たちは過去を振り返って、以前ならこの幸福に心を奪われたことだろうにと思うのだが、しかし以前のその時期であれば、たぶんこんな幸福ではまるで不充分なものに思われたことだろう。人は自分がいっこうに気にかけていないこととなると、あまり気むずかしくもなれない代わりに、あまり的確な判断を下すこともできないものだ。自分がもう愛していない人の示す愛想のよさは、無関心な自分にとってこそ今なお過度のものに思われるけれども、もし相手を愛していたときだったら、おそらくはとうてい充分なものとも考えられなかったことだろう。相手のこまやかな言葉や待ち合わせの申し出を耳にすると、私たちは以前ならそれがどんなに嬉しく思えたことだろうと考える。しかし以前ならすぐまた次のやさしい言葉や待ち合わせの申し出を聞きたくなったろうとか、またこんなふうな貪欲さが禍[わざわい]してたぶんそれを聞かずじまいになったろうなどということは、考えようともしないのである。したがって、もはや幸福を享受することもできず、相手を愛してもいなくなったときになって、とつぜん遅まきにやって来る幸福が、かつてそれを得られなかったためにあれほど惨めな気持になったあの幸福とまっ(end356)たく同じものであるなどとは、けっして言いきれるものではない。それを決定することのできる唯一の人間は、当時の私である。その私は、もういないのだ。またおそらく、当時の私が戻って来さえすれば、それだけで幸福は、そのころと同一のものであろうがなかろうが、たちまち消滅してしまうことだろう。
 (355~357)

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 (……)けれども私には、とうとう平静さが戻って来た。というのは、私たちの精神状態や欲望を変化させつつ夢を利用して心のなかにはいりこんで来たものも、また徐々に拡散していくからである。いつまでも変わらずに続くことが約束されているものは、何もない。苦痛でさえ同じことだ。そもそも恋愛によって苦しむ人びとは、ある種の病人について言われるように、自分自身を治療する医者である。その人たちにとって心の慰めは、彼らに苦痛を与える恋人からしか来る(end359)はずがないし、またその苦痛は当の相手から発せられたものにほかならないのだから、最後にはこの苦痛のなかにこそ、彼らは治療法を見出すことになる。ある時期になると、苦痛は自分から彼らにその治療法を示してくれるのだが、それというのもこの苦痛は、彼らが自分の内部でそれを反芻するにつれて、懐かしい相手の人の別な面を示すようになるからだ。ときにはひどく憎らしい相手なので、いっしょに楽しむ前に相手を苦しめてやらなければと考える結果、会いたいという気持すら起こらないことがあるかと思うと、ときにはこのうえもなくやさしいので、人はこのやさしさを認めて相手をたたえたり、そこから希望の理由を引き出したりするようになる。けれども私の心にふたたび湧き上がった苦悩は、結局鎮まりはしたものの、もはやどうにもならなかった。私はもう、ごくたまにしかスワン夫人の邸に足を向けようとは思わなくなったのである。というのはまず第一に、愛している相手から見捨てられた人の場合、彼らの日々をとりまく期待の感情は――たとえ本人が自覚しない期待であれ――ひとりでに変化するからで、一見同じように見えようとも、それが最初の状態のあとに正反対の状態をもたらすからだ。最初の状態は、私たちの気持を転倒させた痛ましい事件の結果であり、その反映だった。次には何が起こるのか、それを待ち受ける気持には恐怖感が混じっている。とりわけそのとき私たちは、愛している女性の方から何も新しい態度が示されないなら自分の方から行動したいと思うものだし、そのくせ行動の成否もおぼつかないばかりか、いったんやってしまえば別な行動にとりかかることももはや不可能であろうから、恐怖感はそれだけいっそう増大するのである。けれどもやがて自分でも気(end360)づかないうちに、期待の気持は継続し、それはすでに見たように、もはや私たちのこうむった過去の思い出によって決定されるのではなく、想像上の未来への希望によって左右されるようになる。こうなると、期待はほとんど快いものになるのだ。それに最初の期待は少し続いているあいだに、私たちを待機の状態で生きることに慣らしてしまった。最後に何度か会ったころの苦しみは、まだ心に残っているけれども、しかしすでにそれもまどろんだ鈍い苦しみにすぎない。私たちは、あわててその苦しみを新たにする気持にもなれないし、まして今では、自分が何を求めているのかもよく分からないだけに、なおさらである。たとえ愛している女をもう少しよけいに所有したところで、それはまだ所有していないものをいっそう必要にするばかりであろうし、そうしたものは、私たちの欲求が満足から生まれる以上、やはり他に還元できない何かとして残りつづけることだろう。
 (359~361)

     *

 春が近づいたのに、また寒さのぶり返すあの<氷聖人>のころや、不意にみぞれの通り過ぎて(end365)ゆく聖週間のころ、スワン夫人が自分のサロンは凍るように冷たいと言って、毛皮を着たままでお客をしている姿を私はよく見かけたが、彼女の寒がりな手と肩は、どちらも白貂[しろてん]の毛皮で作った大きな平たいマフとケープの、白くきらきら輝いている覆いの下に隠れており、そのマフとケープを彼女は家に帰っても脱ごうとしないので、それはまるでふつうの雪よりもしつこい冬の最後の雪の塊が、暖炉の熱にも季節の進行にも溶かされることなく残っているように見えた。凍るような寒さのくせにもう花は開いているこのころの何週間かを含むすべての真実は、やがて私が足を向けることもなくなるこのサロンにおいて、ほかの白いものによっても暗示されており、それが私をいっそう恍惚とさせるのだった。たとえば「大手毬[ブール・ド・ネージュ]と呼ばれる花の白さがそうで、ラファエロ前派の絵にあるまっすぐな灌木のようにむき出しの高い茎の天辺に、細かいけれども一様な花弁が球を形作ってたくさん群がっているその花は、まるでお告げの天使たちのように真っ白で、またレモンのような香りに包まれているのだった。(……)
 (365~366)

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 けれどもこのタンソンヴィルの小さな坂道を思い出したのは、行きすぎだった。うっかりするとその思い出が、わずかに残っているジルベルトへの愛を維持しかねなかったからである。だから、こんなふうにスワン夫人を訪問しているあいだにまったく苦しみを覚えることがなかったとはいえ、私はその訪問の間隔をあけて、できるだけスワン夫人に会わないようにした。ただ私は相変わらずパリを離れていなかったのだから、せいぜい彼女といっしょにときどき散歩するのに同意するだけにした。ようやく陽気もよくなって、暖かい季節がもどって来ていた。スワン夫人が昼食前に一時間ほど外出して、エトワール広場と、名前でしか知らない金持たちを眺めに来る(end367)人びとのために「文無しクラブ」と呼ばれている場所とに近いあたりのボワ・ド・ブーローニュ大通りを、ぶらぶら歩きに行くことが分かっていたので、私は両親の許しを得て、日曜日は――というのも、週日のこの時間には暇がなかったからだが――両親よりもずっとあとで、一時十五分すぎぐらいに昼食をとり、それに先立ってその辺をひとまわりして来ることにした。ジルベルトがその女友だちの別荘に行っていたので、その年の五月いっぱい、私は一度もこれを欠かさなかった。ちょうど正午ごろに私は凱旋門に着く。そして大通りの入口に待ち伏せながら、目はたえず、一本の小さな通りの角をうかがっている。そこからわずか数メートルのところに住んでいるスワン夫人は、かならずその道からあらわれるからだ。もうたいていの散歩者が昼食のために家に帰って行く時刻だったから、残っている者の数は少なかったし、それもたいていはエレガントな人たちであった。不意に、砂の敷かれた散歩道の上に、正午にならなければ開こうとしない世にも美しい花のように、こんな遅い時刻になってもなおゆっくりとした足どりで、入念に身づくろいをしたスワン夫人が、毎回かならず違った衣裳の花をそのまわりに咲かせながら――もっとも私が思い出すのはとりわけ薄紫[モーヴ]色の衣裳であるが――登場するのであった。それから彼女の発する輝きが頂点に達するときが来ると、はらはらと散る花弁のようなそのドレスと同じ色調の大きな日傘をぱっと開き、長い茎の上にこの絹の旗を高く掲げるのであった。大勢のお伴が彼女をとりまいていた。スワンがいた、四、五人のクラブのメンバーもいた。彼らは午前中に彼女を訪問したか、あるいはたまたま道で出会った人たちである。黒かグレーのこの従順な集団は、オデ(end368)ットをとりかこむ生気のない額縁のようにほとんど機械的な動きをしながら、ひとりだけ生き生きと目を輝かせている彼女に、まるで窓辺で外を眺めるようにこの男たちのあいだから前方を見つめているといった風情を与え、またそのドレスの優しい色合いに包まれた彼女を、まるでか弱い姿を怖れ気もなくむき出しにさらす人のようにくっきりと浮かび上がらせるのであったが、それはなにか異人種で未知の種族の人、けれどもほとんど戦士のような力を備え、そのために自分一人で大勢のエスコートと拮抗できる人が出現したかのようであった。たえず微笑みを浮かべ、晴れてぽかぽかとした太陽にすっかり満足しながら、あたかも作品を完成した制作者がほかのことはいっさい気にも止めていないような自信と平静さをたたえつつ、自分の衣裳が――たとえ趣味の悪い通行人たちには評価されなくとも――ほかのどんな人の衣裳よりエレガントであると信じきっている彼女は、まず自分のため友人たちのために、ごく自然にその衣裳を着ているのであった。けばけばしさもなく、かといってまるでさり気ないわけでもなく、彼女はコルサージュとスカートにつけた小さなリボンを、彼女自身もその存在に気づかない生き物のようにひらひらさせ、それが彼女の足どりについて来るかぎりは、寛大にもこれらの生き物を勝手に自分のリズムで動きまわるがままにさせておくのである。そればかりか、やって来るときにはたいていまたすぼめたままの薄紫[モーヴ]色の日傘にも、ときおりパルムすみれの花束でも眺めるようなうきうきとした視線を落とし、それがあまりに優しい視線なので、友人たちに注がれたのではなくて生きていない品物に注がれているのに、依然としてそれは微笑みかけているように見えるのだった。こんな(end369)ふうに彼女はエレガンスのための場所をとっておいて、衣裳にそれを埋めさせていたのである。そしてスワン夫人がだれよりも親しげに話しかける男たちは、その空間と必然性とを尊重していたけれども、そこにはずぶの素人が持つ一種の敬意が含まれていた。つまり自分たちの無知を告白して、ちょうど病人の特殊な療法だの子供の教育だのにかんする能力と権限が、病人本人や子供の母親に委ねられるように、エレガンスの領域にかんする能力と権限を、女友だちのオデットに認めていたのである。彼女をなかに囲んで他の通行人たちの存在も目にはいらないように見えるとりまき連中のために、またそれに劣らず彼女の登場する時刻が遅いために、スワン夫人は、彼女が長々と午前の時間を過ごした家、そして今はやがて昼食にもどらなければならないあの家を思い起こさせた。まるで庭のなかをゆっくり歩くような落ち着いたそぞろ歩きによって、彼女は家が近いことを示しているように見えたし、またその家の内部の冷んやりとした暗さを身のまわりにつけて運んでいるかのようだった。けれどもまただからこそ、彼女の姿を目にすると、私はかえって戸外と暑さの印象を与えられたのである。とりわけ儀式や典礼に深く精通しているスワン夫人のことだから、その衣裳も必然的で唯一の絆によって季節や時刻と一体になっているはずだと信じきっていただけに、私にはいっそう、しなやかなその麦藁帽の花飾りや、ドレスの小さなリボンなどが、庭だの森だのに咲く花よりもさらに自然に五月のさなかから生まれてきたように見えるのであった。気候がまた崩れたのではないかと思うときも、それを知るのに私はスワン夫人の広げてさした日傘――まるで本物の空より近くにあって、円く、穏やかに、くるくる動(end370)くもう一つの空のような――その日傘までしか目を挙げはしなかった。というのも、スワン夫人の精通しているこうした儀式は、たとえ最高のものでも、甘んじて朝や春や太陽などの変化に服従することを栄光としており、それゆえにスワン夫人の栄光もまたそこにあったからだ。ところが、こんなにエレガントな婦人がたえず朝や春や太陽の変化を見逃さないように気をつけて、そのために明るい色のドレスだの、軽い布地のものだのを選んだり、広がった衿や袖が、首筋や手首の汗ばんでいることを思わせたり、要するに、まるで一人の貴婦人が陽気に田舎へ出かけて行って下々[しもじも]の人たちと会うときに、どんな田舎者からも一人残らず顔を知られているというのに、それでもわざわざその日のためにどうしても田園ふうの衣裳を着ようとするような、そういう貴婦人なみにスワン夫人がしきりに朝や春や太陽のご機嫌をとろうとしているのに、相手はたいして嬉しそうな顔もしないのであった。スワン夫人が姿を見せると、私はすぐ彼女に挨拶する。スワン夫人は私を制止して、微笑みながら「グッド・モーニング[﹅8]」と言うのであった。私たちはしばらく並んで歩く。そして私は、あたかも彼女が偉大な女司祭として最高の叡知に仕えるように、その服の着方の規範に服従しているのは彼女自身のためにほかならないことを理解するのであった。それというのも、あまり暑くなりすぎて、彼女が初めはきっちりと着ているつもりだったジャケットの前を少し開けたり、あるいはすっかりそれを脱いで私にあずけたりすることがあると、けっして聴衆の耳に達するはずがないとはいえ、作曲家が念には念を入れて作った管弦楽のいくつかの部分のように、幸いにしてそれまで目にふれることのなかったさまざまの小さな刺繍がブ(end371)ラウスにほどこされているのを、私は発見するからであった。あるいはまた、畳んで私の腕にかけたそのジャケットの袖口に、何か素敵な細工のほどこされているのに気がついて、ついそれに見とれたり、または彼女へのお世辞からわざとそれに眺め入ったりすることもあった。たとえば得も言われぬ色合いのテープがついていたり、ふだんは誰の目からも隠れているが、それでも外側の部分と同じように丁寧に仕上げられている薄紫[モーヴ]色の綿繻子[サティネット]がつけられていたりするのである。あたかもどこかの大聖堂の地上八十尺の手すりの裏側に隠れているゴシック式彫刻が、正面玄関の浮彫りと同じくらい完璧なものであるのに、たまたま旅行で通りかかった一人の芸術家が二つの塔のあいだから町全体を見下ろすために空高くそびえる大聖堂に上る許可を得るまでは、誰ひとりこれに目をやろうともしないようなものである。
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