2016/9/24, Sat.

 ぼやけた視力で時計の短針の文字に対する位置も定かならず、一〇時なのか一一時なのかも見分けられずに目を覚ました時があった。しばらくしてからもう一度目をひらくと、まだ一〇時台だったので安堵したのだったが、やや重さのある眠りに意識を持ち上げられず、またまどろんで、覚醒は一〇時五〇分を迎えた。睡眠時間は八時間と三〇分、前夜はその前日よりも一〇分早く床に就いたにもかかわらず、眠りはかえって一時間増えた格好である。窓の向こうの白く濁った空を見ながら脚をちょっとほぐしてから寝床を抜け、便所で用を足してきてから瞑想を行った。そうして一一時を越えると上へ、母親が卵を焼いたら、と何故かわざわざ促してきたので、それに従って、焼豚を切り分けて卵とともにフライパンに落とした。丼に盛った米の上に箸を使ってそれを引きこみ、鍋で熱されていた葱と豆腐の味噌汁も持って、卓に行った。ほかのおかずは、前夜の茄子とひき肉の炒め物の残りである。新聞をややなおざりに読みながらそれらを食べ、皿を片付けると、そば茶を用意し、母親が切り分けた梨を口に放りこんで下階に帰った。Stevie Wonder "Don't You Worry 'Bout A Thing" を繰り返しスピーカーから吐き出させながら、前日の記事の記録事項を埋めたり、インターネットをちょっと覗いたりしたのち、日記の読み返しを行った。二〇一四年の分は即座に削除し、二〇一五年の分もさっと読んで、さしたる時間も掛けずに箇条書きをまとめた。後者は二二〇〇字程度の記事で、その前年に比べればよほど進歩して、描写の精度もそれなりに高まってはいるが、大した文章とは言えない。翻って今年のものはどうだろうと、同じくらいの字数の記事を比較して読んでみることにして、二四〇〇字である二一日の分を読み返した。それで記述に欠陥を見つけて訂正してから、六月あたりの過去の記事を適当に選んでこちらも読んでみると、そこそこ書けているようで、読んでいてあからさまにつまらないようなものでもなかった。そんなことに時間を使ったあと、一二時四〇分から書き物に入った。Ralph Peterson Quintet『The Art Of War』を流してヘッドフォンで聞いたが、これは売却に決定された。前日の記事が、既に一四〇〇字綴ってあってあとそれほど書くこともないだろうと思ったところが、予想よりも遥かに時間が掛かって一時間一〇分を費やし、全体で五三〇〇字弱にもなった。するともう二時直前、労働は三時前からで、歩いて行くので移動に三〇分ほどは掛かるので、そろそろ準備を始める必要があった。とはいえ二〇分か二五分あたりに出れば良かろうと、悠長に腕立て伏せを行い、便所に行って腹を軽くし、歯磨きをしながら本を少々めくってから、上に行った。風呂をまだ洗っていなかったので浴室に入って、ブラシと洗剤を使って浴槽を擦って水垢を落とし、出てくるとデオドラントシートで肌を拭いた。居間に母親の姿はなかった――書き物の終わる少し前に、こちらの部屋に外出を伝えに来た。どこへかと問うのに、緩くうねって左右に膨らんだ茶髪を指差したところでは、髪を整えに行ったらしい。肌を拭うとワイシャツを着てスラックスを履き、黒と灰色で分かれた細く地味なネクタイを首に付けた。余裕綽々でStevie Wonderを一曲流して口ずさみ、ロラゼパムを一錠飲んでから上へ、靴下を履いて出発した。雨はかすかなものだったが、黒傘を広げて歩き出した。坂道の脇では、群れなす緑の葉の合間から、ヒガンバナの紅色が顔を出して、まだ弱ったものも見えずみな蜘蛛の足のような細い花弁の先を、ちょっと曲げながら空に向けている。街道を越えて裏通りに入り、民家の庭木に目を向けながら歩いて行く途中、塀の内側のサルスベリは、と気付いた。気付くとともにすぐ横にアパートの塀があって、ここかと見たが、僅かに残った紅色すら見えず、木の形も覚えと何となく異なっている。それで後ろを振り向くと、他家に入っていく敷地を挟んで一軒先に件の塀があって、もうよほどかすかだが赤さも点じられているのが見える。そこはこじんまりとしたような二階建ての民家の敷地で、いままでこのサルスベリはアパートという語と結びついて記憶されており、日記にもたびたびそう書き付けてきたはずだが、それが勘違いだったことにここで気がついたのだった。いまにも途切れそうなほど細く降り続く雨に、それでも傘を閉ざさずあるかなしかの粒を受けながら、背すじを伸ばし、悠々と歩いて職場に向かった。自習監督を頼まれたのだった。自分の立った付近の女子中学生はみな、黙々と自ら課題を進めており、特に説明することがなさそうなのをこれ幸いと、日本史の問題集を持ってきて確認をしていた。すると先輩が来て、暇なら仕事を、と薄褐色の大きな封筒の束を一度は机に置いたが、全然やりたくないですと苦笑で洩らしていると、こちらが問題集を持っているのに気付き、日本史の勉強しててもいいよ、と許されたので、礼を言ってそれに甘えた。それで時折り、歴史事項をノートにまとめている女子の疑問に答えたり、勉強の仕方を助言したりなどしつつ、こちらも勉強を続けた。終盤になって上司に、日本史を担当している大学受験生についての報告も済ませて、最終的に問題集は寛政の改革あたりまで進めることができた――思わぬ僥倖だった。帰って行く子供らにさよならと声を掛けて見送り、書類を記入すると各人の授業記録をチェックして、職場をあとにした。珍しく早い退勤、六時二〇分頃だった。帰路は漣めいて緩く波打ちながら身体を過ぎて抜けていく風のなか、物思いをしながら歩いたようで、取り立てて何を見たとの印象もない。帰宅後の残り時間を計算しながら一つ考えたのは、一日のうちにこなすべきノルマの種類が多すぎるということで、考慮の結果、英語のリーディングは一時停止するのが妥当だろうな、と思われた。日本史を勉強する必要が生じて以来、もとは一時間だった英語の時間をそちらに半分充てるようなつもりでいたのだが、やはり一日三〇分ごときでは何をやるにも不足、せめて一時間は時間を取らないと大した進みにならないというわけだ。個人的な勉強としてであれば本来英語のほうが優先順位は高いのだが、日本史に関しては前者とは異なってこちら一人の事柄ではなく、仕事としてやることだから、責任も生まれる――だとすると、日本史の勉強に区切りが付くまで、あるいは受け持っている生徒の受験が終わるまで、一時英語を犠牲にするのはやむを得まい、という考えだった。帰宅すると、母親のおかげで既に飯は用意されていたと思うが、記録によると七時半まで、マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方Ⅱ』を読んでいる。それから瞑想をしたのち、食事に行ったのだろうが、何を食ったのかはもはや忘却の彼方である。飯を食ったのち、すぐに風呂に入って、出てくると『世界ふしぎ発見!』が放映されていたのではないか――あるいは風呂に行く前にそれを目にしたのかもしれない。母親と並んでソファに座ると、広島は宮島の穴子飯を映しているテレビのほうを、母親は手に持った雑誌から目を上げて、それでも顔はうつむき気味で顎を引いたまま、眼鏡の裏から上目がちの視線をまっすぐ通すように見つめ、おいしそうだね、とか何とか言った。その横顔をちらちらと見ていると、眼鏡を掛けていることも相まって、ややふっくらとした頬の形――細かな皺が砂の上の線のように薄縞を作っているなかに、ところどころ深めのものも刻まれている――や、鼻筋から口周りまでの輪郭などが祖母の顔貌を思い出させて、だんだん似てきたなと口にした。同時に、そうして黙っていれば歳相応の落ち着いたような婦人に見えるのだが、とも思ったものだが、口をひらくとそうした雰囲気は一挙に壊れてしまうのだった。頬に小皺が列になっているのに、もう六〇だからと言えば、まだ五七だとあった。番組は、宮島・厳島神社とフランスはモン・サン=ミシェルを所々比較しながら紹介する趣向らしい。後者のなかで、四角い中庭を円柱列で取り囲む形の回廊は、「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれているという話だが――いましがた調べたところでは、この回廊のみではなく、修道士たちの居住スペースにあたる北面の棟すべてがそう呼ばれるらしいが――、ここを手掛けた名の残っていない建築家四人が、名前の代わりに自分たちの顔を柱の上部に刻んだのだと紹介されて、幾許かの共感とロマンを覚えた。厳島神社の大鳥居の解説なども見て、番組の途中で下階に帰って、しばらくすると書き物を始めた。一〇時一〇分である。音楽は、Chris Potter『Traveling Mercies』を流した。一時間弱を費やして職場を出たところまで書いて中断し、娯楽に耽ったらしい。しかし『失われた時を求めて』は読み終えるつもりでいたので、零時半前から読書に入って、一時を回って六巻を読了した。それからはまたインターネットに繰り出し、ポルノを使って射精も済ませ、コンピューターから離れたのは二時である。精を放ってすぐ寝るのは馴染まないため、ふたたび書見に入って、新たな本は新渡戸稲造矢内原忠雄訳『武士道』を選んだ。それを一時間読み、予定の就寝は遥かに越して、三時一五分になると明かりを落とした。