2016/10/5, Wed.

 起床時のことはもはや何ら覚えていないが、一〇時だったらしい。例によってちょっと臥位を続けていたが、確かこの時に母親が室にやってきて、草取りを手伝ってくれないかと言った。だらだらと朝寝をしておいて不遜だが、まだ床を離れてすらいないのに、と少々不快な気分になって、草取りというほとんど無意味としか思えない仕事自体にも嫌気が湧いたので、なるべくやらない方向で済ませようと便所に行って、戻ってくると瞑想をした。一〇時一七分から三〇分まで、一三分を座ってから上階に行くと、台所にはガラス製らしき皿に収められたカレードリアがある。それを電子レンジで熱して食し、新聞も読んでいるあいだ、母親は一人で草取りをしていたようだが、そのうちに物置を通って中に入ってくる音が下階から聞こえた。上がってくると、ピーマンの肉詰めを作ろうと言う。風呂を洗ってから、こちらはちょっとだけ手伝うかと包丁を持って、小さなピーマンを二つに切ってなかの種を取って行った。それからひき肉と混ぜる用の玉ねぎも微塵切りにするのだが、一筋包丁を入れた途端に目に刺激が送られてきて、細く刻んでいるうちに涙が耐えがたくなる。動きを止め、目をぎゅっとつぶって耐えようとしても無駄、視界は崩れるばかりで手もとを見るのも覚束ないので、一度洗面所に行って顔を洗ったが、戻ってくるとまた涙が出てくる有り様、それで半分を刻んだところで恐れをなして、あとは任せると下階に逃げ帰った。そうしてこの日最初に取り掛かったのは『失われた時を求めて』四巻の書き抜き、一二時一九分からである。The Jimmy Giuffre 3『Trav'lin' Light』、続けて『The Jimmy Giuffre 3』と流しながら一時間、この時も途中で目が痛くなったので洗いに行ったりもしつつプルーストの文章を写し、それから英語に入ったようである。仰向けに寝転がって辞書を時折り掲げながら、僅か二ページを読み進めるのに二六分も掛かってしまい、紙質の悪いペーパーバックを閉じた頃には既に二時を回っていた。この日の労働は、普段よりも一時限早くからである。自転車で行くとして――曇ってはいたが、空の白さの裏に籠った明るみの気配が見えることもあり、雨は降らないと思われた――四時前には家を出なくてはならず、とすると三時過ぎにはシャワーを浴びたい。そういうわけでさっさと書き物に取り掛かるべきところを、しかし臥位の安楽さにかまけて、プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『休戦』を読んだ。そして二時半、労働前に書き物をするのは諦めて、腹も減っていたので上に行くと、既に肉を詰めたピーマンを調理して米も炊いたと言う。汁物も出来ていたので、それらを皿に盛って食事を取っていると、じきに母親は出かけて行ったのではないか。食器を片付けたところでおそらく三時二〇分頃、眠ったあいだの分泌物によって頭が僅かに脂を帯びている気がしたが、涼しい日で汗もかいていないし、シャワーは良かろうというわけで、下階に行った。それで歯を磨いたり服を着替えたりしつつ、日記の読み返しを少々行った。過去の文章はいまの目からすると未熟で、特に文体にしても姿勢にしても、その他の点においてもまったく出来上がっていない二〇一四年の文章は、真っ向から見据えるのが気恥ずかしいような感じがあって、どうしても真面目に読む気にはならない――しかしそこをこらえて、なるべく一文一文を拾って行って、二〇一四年の九月二九日と三〇日の分の箇条書きを作ったところで三時四五分だったので、出かけることにした。上に行き、靴下を履くと、ソファに就いてちょっと息を吐いてから、玄関に向かった。自転車を駆り出して、音を出して息を吐きながら坂を上って行き、街道に出た。緩い坂を下っているあいだに、隙を突いて対岸に渡り、歩道に乗って下りきると、折れて裏道である。民家のサルスベリは、まだ点々と花を灯していたが、さすがにそろそろ尽きようというところか、その紅色は盛りよりもよほど薄くなって、ピンクと言うべき感触だった。角を再度折れて裏に入ったところで、正面の家の柿の木が、橙がかった色の実を膨らませて、それが所狭しと集まり重なって吊るされているのが目に飛びこんで来た。思い返してみれば柿の実が地に落ちて潰れているのを、この秋既に見かけた覚えもあるが、これほど実っているのが意識に入ったのは初めてで、季節の行き過ぎを感じるようだった。過ぎて自転車を、この日は妨げとなる一団もおらず、悠々と走らせて行く。駅が近くなって前方に、女子高生たちが現れはじめたが、うまくそのあいだをすり抜けるようにして抜いて進んでいると、さらにもう一団いて、そのうちの一人が突如前方に駆け出し、スカート姿なのにサッカー選手の真似でもしているのか、剽軽なような振る舞いで脚を蹴り抜いていた。それを見ながら笑っている女子らの横を過ぎながら、こちらも少々微笑みそうになったのだが、振り向いた件の女子高生の顔を見やると、自分で呆れたような力の抜けた微笑みになっていた。そうして駅前に入ると、黄土色のマンションの屋上付近を、鳥たちが隊列を成して回り、飛んで行く。ロータリーを通りながら、もう一度見られるかと上空に視線を向けたのだが、再度現れることはなく、職場に到着して自転車を停めた。労働を済ませて八時前だったが、生徒の自習に付き合ったり――と言って二問しか教えていないし、それも半ば答えを参照しながらだったのだが――でちょっと遅くなって、出た頃には八時一〇分か一五分かそのくらいだったのではないか。雨が降ったようで、湿り気を帯びた夜道は涼しく、風が留まることなく吹き過ぎて行き、それが身に染み入るようで、シャツのみの格好には僅かに肌寒いような感じもあった。帰り着くと、母親はまだ帰宅しておらず(パソコン教室があったのだ)、真っ暗な居間の電灯を点けて、手を洗ってから室に行った。それで服を脱いで寝転がり、携帯電話を持ってだらけているうちに、九時が近づいて、瞑想に入った直後に母親が帰ってきた。こちらにやってくるまでと動かず座り続けていると、母親の動く気配や時計の針の音や窓外の虫の音などが、瞑目して闇に落ちた視界のなかでそれぞれの方向から現れるのが、外界にあると言うよりはこちらの頭のなかに含まれたような感じがし、また反対に、脳内を遊んでいる断片的な思考や音楽のメロディ("Don't You Worry 'Bout A Thing"が流れ続けていた)は、それら外界の知覚とほとんど種類や質の差がない情報として聞き取られ、まるで内外の境が消えて一つの同じ平面と化したかのようだった。母親の足音が部屋に近づいてきたのを機に目を開けると、時刻は八時五八分だった。そうして食事に行った――メニューは昼と同じである。その時は食わなかったサラダ類(鶏肉と玉ねぎを和えた物や、モヤシとシーチキンのそれ)も食べて、だらけてから入浴すると、確か一〇時半頃だったはずである。蕎麦茶を持って室に下がり、インターネットを回って一一時から、日記の読み返しを再開した。二〇一四年の分は一〇月五日まで追いついて、それから二〇一五年のものも二日分読むと零時、流していたPaquito D'Rivera『Havana Cafe』は売却と決めて、そこで書き物に移るはずが、今年の日記を遡って読みはじめてしまった。適当に七月のあたりを選んだのだが、これがなかなかに面白く、最近はこんな風に書いていないなと思うほど力の籠った描写もあった。例えば次のようなものである。

 それからまた文字を追って、何かの拍子に顔を上げて窓外に目をやった。視線の貫き抜けていくその軌跡の中途に立ちふさがって視認できないほどの雨粒が何層にも重なっているのだろう、空気には石灰水のような濁った白さが染み渡っており、電線の姿は消え、川岸に広がる木々の葉のあいだの襞にもその白濁した粒子は浸透して、そのために横に連なる木々の姿はまるで二枚の透明な板によって前後から押しつぶされたかのように、あるいはそれ自体が窓ガラスの表面に描かれた単なる絵であるかのように平面的に感じられた。空は普段よりも遥かに下方まで垂れ下がって、山は表面の模様を完全に失ってただの薄影と堕し、そのせいで並ぶ丘のいくつかの盛りあがりは植物と土の集積だとは思えず、むしろ巨大な生き物が霧のなかでじっと動かず寝そべっているかのように見えるのだが、しかも眺めているあいだにも雨が強まったのだろうか、白い空の断片が宙から剝がれ落ちて山の周りに次々と堆積していくようで、霧の幕は深み、稜線の半分以上は没して途切れてしまうのだった。(2016/7/5, Tue.)

 窓外をちょっと眺めると、空は水彩画の淡く滑らかな水色のなかに、かすかな皺が寄っている箇所の一つもない。折れ曲がった手のひらのような棕櫚の葉に陽が宿って白さを塗り、その輝きのなかで葉脈の筋が隠されるどころかかえって明らかになって、その棕櫚の向こうから横に広がる梅の葉は、太陽の快活さに喜ぶというよりは辟易するかのように浅緑に乾いてくしゃりと身を曲げていた。視線を手近に巻き戻すと、よほど小さな虫でなければ通れぬ網戸の目に光の微細片が極小のビーズとなって引っ掛かり、青空を背景にして上から下へと星屑のように雪崩れているのだが、塩粒のようなその星々はこちらの頭が僅かに動くに応じて一瞬で宿りを移していくので、白昼の窓に生まれた天の川はまさしく現実の川のように、一刻ごとにうねってその流れを変化させるのだった。(2016/7/7, Thu.)

 こうした我ながらなかなかに大したものだと思うくらいの文章を読むと、この三か月前よりもいまのほうが筆力が落ちているのではないかと、そんなことを考えても仕方ないしそんなことを考える類の文章でもないはずなのだが、焦りのようなものが出てきて、一時も間近になってからようやく取り掛かった一〇月四日の記事では、もっとうまく、密で強さのある文を書きたいと欲が湧き、それでかえって手が鈍くなり、記憶に残っていないものを無理やり思いだそうと無駄な時間を費やして、一時間掛けて仕上げたところが一八〇〇字ほどしか足されなかった。途中、一時三七分のことだが、母親が珍しくこのような遅い時間に部屋にやってきた。化粧を落として歳の露わになった顔を顰めるようにして、袋にごみを入れて出しておいてと言う(それが聞こえたのは、掛かっていたPietro Ciancaglini, David Kikoski, Ferenc Nemeth『Second Phase』のピアノトリオが、ちょうど静かな曲調の場面だったからだ)。続けて早く寝なよ、と残して去って行くのに、集中をそれほど乱されもしないが、いつ眠ろうがこちらの勝手だろうがとかすかな苛立ちを覚えた。この日の分は翌日に回すことにして、ものを書き終えると歯を磨きながら、プリーモ・レーヴィ『休戦』を読みはじめた。ベッドに移って臥位でいるあいだに、ひやりとした空気の入ってくる窓は閉め、二時四〇分まで読み進めて、瞑想を行ってから就寝である。三時も目前で、さすがに疲労感があり、部屋を暗くして布団の下で身体を伸ばすとともに、即座に寝入れそうな心地よさが広がった。