2016/10/14, Fri.

 確かこの日も三時間くらい寝た時点で、一度覚めたのではなかったか。そのあたりの記憶は曖昧だが、続いて六時間ほど寝た九時台のうちにもまた覚めた。三時も半分を回ってから床に就いたのに、寝覚めがいつもより早く、しかも重くないのは三〇分の瞑想のおかげか、と思ったものだ。カーテンをひらいた先の窓ガラスには一面に白さが幕のように敷かれていたが、その中空には太陽がさらに深い白さを放って穴を穿っていた。正式な覚醒は九時四五分と定め、布団のなかにちょっと留まって蠢き、一〇時を回ってから瞑想を行った。瞑目して枕に座り、静止していると、またもや耳が鳴りを生みそうな雰囲気があって、そちらには向かないようにし、短めで良かろうと八分で済ませた。上階に行くと、食事はうどんだと言う。生麺が既に剝き出しで用意されているのを、鍋に水と麺つゆを混ぜて火に掛け、そのままでは素うどんになってしまうのに葱を鋏で刻んで、あるかなしかの具を持たせた。ほかに前夜の残り、大根の煮物も卓に並べて、新聞を読みながら食べたが、侘しい姿のわりにうどんは旨い。新聞も少々読むあいだ、この日も肌寒い午前で、ストーブが恋しがられるようだった。薬が尽きて財布のなかにある数粒のみになっていたので、医者に行くつもりだった。居間の片隅に貼ってある時刻表で電車の時間を見ると、一一時半のものがあり、それを逃しては受付終了の正午に間に合わない。食事を終えると食器を片付け、下階に行ってさっさと服を着替えた。そのあいだに流した音楽は、前夜にノーベル文学賞受賞の報を見たから、Bob Dylan『Live 1975: The Rolling Thunder Revue Concert』、そのなかの "Mr. Tambourine Man" からである。気温が低いとはいえやや陽の色のある日だったので、ジャケットでなくとも大丈夫だろうと、曲を口ずさみながら、シャツの上にデニム調のベストを久しぶりに羽織った。それで歯を磨き、待ち時間用の本と手帳を鞄に用意してから、上に行って用足しである。便所から出てくるともう出る時間が迫っており、急いで風呂を洗った。そうして出発すると小型鞄を片手に抱えて、最寄り駅へと歩いて行く。十字路から坂を上って、駅に着くとホームの一番先のほうまで行った。自分がこれから行く先、線路が果てへと吸いこまれていくほうを眺め、青さの稀釈された空も見上げていると、一瞬前後に平衡がぶれたような感覚があって、何も掴まるもののない広漠とした空間が意識されて、久しぶりのことだが、ごく軽い眩暈めいたふらつきが来そうになった。線路に平行に向いていたのを垂直方向に直って調子を見てから、再度レールの伸びていく先を見通してみても、大丈夫そうである。そうしていると電車が入線してきたので乗り、扉際で到着を待って、降りると乗り換えた。マルセル・プルースト/鈴木道彦訳『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラⅡ』を一〇分ほど読んで到着、降りて駅を抜け、住宅のあいだを行くと、陽がうっすらと背後から放たれて背が温もり、民家の庭木も淡く白さを漂わせる。医者の入ったビルに着くと、階段を上って三階に行った。室に入るとさすがに金曜日の正午で、待つ人は少ない。こんにちはとカウンターに声を掛けると、受付の女性から、何だか久しぶりな気がします、と言われたので、そうですねと受けて診察券に保険証を出した。保険証を返してもらうとすぐ向かいのソファに座り、ふたたび本をひらいた。相変わらず、無音の空間をただ埋めるだけとでも言わんばかりの、控え目で耳に残らないようなクラシック音楽が流されているが、冬や夏のあいだにはごうごうと動いて耳に障るようなノイズを撒き散らしていた空調機は停まっている。カウンターの向こうで職員二人が、やや陰口めいて患者のことを話すのを盗み聞きしながら、本を読んだ。診察の時間はすぐ、一二時一五分にはやってきた。携帯電話を覗きこんでいる男性がこちらより前からいたが、新規の人なのか彼よりも前に自分が呼ばれた。この制度についてはどういう意図があるものなのか未だにわからないのだが、初めて来る人間は、早めに待合室に入ってほかの人々が診察を受けるなかで待ち、診察時間が終わってからようやく医者に会うことができるのだ。ノックをして室に入ると、挨拶をして、ゆっくりと椅子に腰掛けた。取り立てて話すこともない。前回来たのは六月だから四か月ほど保ったと医師のほうから言ってきた。そうですかと受け、少々受け答えをするなかで、以前にも増して良くなってきているという自覚があることを告げ、また、ほとんど完治と言っていいのでは、との言葉が自ずと洩れた。話は五分も掛からずに終わり、同じように薬を出してもらうことに決まって、退室し、会計をして建物をあとにした。隣の薬局に入って、ここでも本を読みながら少々待った。番号が呼ばれるとカウンターに行く。女性職員が、いまは一日一回で飲まれていると聞いていますが、と言うのに、飲まない日もありますと返し、ここでも良くなっているということを告げたが、口調が何故か、やけに丁重なようになった。会計を済ませて外に出てもまだ一二時半、思ったよりも時間が掛からなかったなと気分が緩んで、歩調も和らぐ。陽の色はなかったが、ミルクをふんだんに混ぜたコーヒーめいた空は柔らかで、一歩ごとに身がくぐり抜けて行く大気も、粒子の結合が緩くなったように肌に快かった。駅に入ると反対側に渡り、スーパーの入ったビルの横から下の道に下りた。少し前に切らした蕎麦茶を買いに行くつもりだったのだ。それで、自転車も徒歩の人も結構行き来する道を、彼らの誰よりもゆっくりと歩いて行く。街路樹の葉の合間に赤い色が灯っているのを、遠目に花かと見て、寄ってみれば小さな実だが、五つか六つほど丸く寄り集まっている様は花弁を模したようでもあった。スーパーに着くと余所見をせずに茶の棚に行き、蕎麦茶を三袋分だけ手に持って、会計に行った。ポイントカードの発行を勧められたのには、今日はいいですと断り、買ったものを小型鞄に入れて提げ、道を戻った。駅で掲示板を見ると、乗り換えに接続する電車には時間がある。今日はもう歩いたからと、帰路に長い徒歩を取るのはやめにして、電車に乗って地元まで行くとベンチに就いて待った。一時半前だった。向かいの小学校は昼休み中らしく、赤帽に白帽、あるいは最年少を示す黄帽で頭を彩った子どもたちが、沸騰した鍋のなかの泡のように駆け乱れて、ざわめきを伝えてくる。それをちょっと眺めてから本を読んでいるうちに、いつの間にか子どもらは授業に戻って、校庭には一つの人影もなくなっていた。やってきた電車に乗って、またちょっと読みながら待ち、最寄りで降りると帰路を行った。帰り着いたのは二時過ぎだったはずである。ジャガイモの、ソテーと言うべきなのか、細かくスライスしたものをフライパンで炒めた料理と、隼人瓜のスープを作ったと言うが、それは夜に残すことにして、昼食はカップ蕎麦を選んだ。済ませて室に帰ると、インターネットを回ったり、長野の知人への返信をし、またもう一つ、名古屋の知人への返信も考えたりして時間を過ごした。返信は、最初はいくらかまた考えたことを綴ろうと思っていたのだが、言葉を落として行ってもどうもうまく文脈が作れないので、結局は削って短めにまとめた。まだ正式決定はせず、あとでまた文言を確認しようと置いておき、そうして五時過ぎから書き物である。音楽は、Martin Taylor『In Concert』を流した。母親はその頃には出かけていたのではないか――六時半からパソコン教室だという話だった。前日の記事を綴っていたが、何かの機会に部屋の外から人の気配が聞こえて、それが母親のものでなく、父親の重い足取りなので、もう帰ってきたのかと意外に思った。作文は二時間弱掛けて、七時直前に終わらせて、上がって行くと確かに父親が、もう入浴も終えて寝間着姿で、タオルを首の周りに巻きつけながらいつもの炬燵テーブルで、食事を取っている。こんなにも帰りの早い理由は訊かず、腹がまだあまり減っていなかったので、先に風呂に行った。済ませて、飯を食っている途中に確か母親が帰ってきたのだと思う。食事を始めながら、パソコン教室で、次に何の講座を受けたら良いのかと目の前のこちらに尋ねてくる様子に、ちょっと躊躇うような、顔色を窺うような調子があった。それは再三こちらが、自分で考えろと払って来て、時には他人任せのそうした問いにうんざりして声を荒げたこともあったからだろう。しかしこの日は平静を崩さず、ただし何かしら答えになるような言を与えることはもうやめることにしていたのでやはり、知らないと軽く返した。前はワードやエクセルを習って事務職に就きたいと思っていたが、やってみるととても難しくて、もう年齢も年齢だし無理そうで、と母親は弱音を漏らす。そうした卑屈な態度が気に障ったのか知らないが、父親は何故か妙に苛立っているようで、身振りのいちいちが何となく険悪で、粗雑なように物音を立てていた。苛立ちというものが有害なのは、それが他人に感染し、そうでなくとも不安を惹起するからである。怒りという感情はまだしも必要な場合もあり、ことによると時には深いものを持つものもあるだろう、しかし苛立ちという、矮小な情はまったく不要だと断言できる。(……)極々小さな一つの振舞いに、人間性や、視野の広さ、客観的な自己認識の有無などは現れるものであり、細部までおのれを律して、なおかつ自然に振る舞える人間という存在は、そう多くはない。そんな話はともかくとして、食事を終えて室に帰ったのはおそらく九時過ぎ、先のメール案を推敲して送ってしまうと、一〇時前からふたたび書き物に入った。この日の分である。三〇分だけ綴ろうというわけで、一〇時二五分まで書き、それから先日見たアニメの続きを視聴しはじめた。物語を最後まで見終えてしまうと既に零時過ぎ、さらにだらだらとインターネットを回り続け、(……)二時である。その後ようやく読書に入って、三時を回ったところで眠りに向かった。