2017/2/2, Thu.

 母親と墓参りへ。玄関を出ると、身を取り囲んで肌に触れる空気に幾許かの冷たさがある。大気のその「辛さ」が、淡青の空の澄明さを対比的に強める感じのする、輝かしいような日である。

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 駅で叔母を拾って寺へ。我が家の墓所の前まで来ると、こちらは毛先の歪んだ箒を使ってそのあたりを掃き、落葉などを塵取りへ取り入れた。叔母が花受けを洗いに行っているあいだに作業を止めて墓所に正面から向かい合っていると、台に小池のようにひらいた水受けに溜まったものの反映が、墓石の表面に揺蕩っているのがかすかに見える。その前に置かれた小社めいた形の石の器のなかでは、前回に参った時に供えたらしい線香が、色褪せている――もともとその色だったのか、それともよくある濃緑のものが風化して色を剝がされたのか、くすんだ鴇色とも言うべき、着物を思わせるような色合いだった。風が流れて、周囲のあちこちで卒塔婆が触れ合って、かたかたと鳴りが立つ。三人でそれぞれに線香を供えると、社の大きくひらいた口から煙が朦々と吐き出されて大気中に散らされて行く。母親と叔母は大して拝んだ素振りもなかったが、こちらは手を合わせると、いつも通り、金と健康と時間とを願った――何度も繰り返し頭のなかで唱えたので、随分と長いあいだ両の掌を貼り合わせたままだった。墓所をあとにしようというところで、女性二人が、梅がもう咲いていると言ったが、墓地の際に立ったその二本の方を向いても、光をはらんで背景にひらいた薄水色の空が、明るすぎて目が眩み、花が点いているかどうかなど見分けられなかった。出口に向かうあいだに見えた木は、白が灯っているのが確かに見留められて、そのなかに黄を仄かにくゆらせていた。

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 池に近づいて縁に立ったが、鯉は中ほどに浮かんだ小島の下の深みに引っこんで、姿を慎ましく見え隠れさせるのみで、一向に出てこなかった。なかに一匹、明るく透くような黄色のものがいて、水中を斜めに貫き射している陽のなかにそれが入ると、色がより一層強くなって、艶に美しかった。

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 帰路、裏通りに入ると、肌に触れるものが朝と同じく、なかなかに冷えている。普段なら意に介さずに受けて進むところだが、この日はこの週の労働も終わりで気分がひらいていたのか、温かいものでも飲みたいという気になって、一〇〇円のものばかり売っている自販機に寄った。ココアを買って、熱された缶を両手で包み、また頬や耳のあたりに当てながらちょっと歩き、途中で、特にきっかけもなく道端に立ち止まって飲んだ。一口目は熱の塊が、空の胃に入っていって圧を生む様子が面白いようにわかるが、続けて飲み進める液体の感覚は、既に広がった温かな膜のなかに紛れて識別しがたくなるのが物足りないようでもあった。空になると缶は途端に冷えはじめて、それをつまんだ左手の掌がひりつくようだった。月は前日、ちょうど笑みのように下向きに孤を描いて細かったのが、少々厚みを増して、船くらいになっており、色も前夜は赤みが香ったのが、薄く明るく冴えていた。左右の家々が静まって窓に薄明かりのみ貼られ、対向者も後続者もいない動きのなさのなかで、風が吹き付けるわけではないが路上の空気は常に細かく動きやまず、肌を擦っても熱をもたらしてはくれず、ただ冷たさのみが置かれて行くのだった。