2017/3/7, Tue.

 外出、三時半頃である。往路、家を出た途端に、冴え返った空気の辛さが頬に染みる。雨は消えて、雲はまだ多いが、南の方から陽が浮遊してきて雨跡のまだ残る路上に薄く宿っていた。青から黒さの抜けきっていない空と林の、暗めの色調の背景を横切って、ちょうど川の上空にあたる経路だろう、白い鳥が一羽渡って行くのを、坂下の畑の脇に寄り集まった年嵩の、老婆と言っても良さそうな姿形もなかに含まれている女性たちの三人ほどが、揃ってそちらを向いて眺めているような雰囲気だった――この白い鳥は、ここのところ暮れ方に差し掛かるとたびたび、自宅の居間から南窓を通して、遠くてほとんど紙か袋のように見える姿で同じように東から西へと渡って行き、川沿いの林のあたりに降りて行くのを目にしていたが、名は一向に知らない。葉はとうに落としきって枝だけが赤紫色を仄帯びている楓の木に近寄ると、枝先についた思いがけない白さが目の端を掠って、一瞬梅の花を思ったのだが、さらに寄って見れば、両側に分かれた羽状の物体がぶら下がっているだけのことだった――翼果、と言うらしい。過ぎて入った坂は、木の下から抜けるところまで来ると、水気の落ちていない路面に空の色が反映して、滑らかで落ち着いた勿忘草の青を発している。坂を上りきれば、脇に並ぶ家屋根を越えて遥か果てに、陽の輝きのある気配が段々窺われて来て、別の坂の角まで来て左手が一挙にひらくと、西に向かって上って行くその軌跡が一面白光を撒き散らされており、とても直視できないほどで、その途中に立った人影もほとんど光の内に取りこまれて、およそ曖昧な造形で細めた視界の端に浮かんだだけだった。街道に出る頃には、太陽が雲を逃れる時間も多くなり、こちらを追い抜かして東へと進んで行く車の、背面のガラスや車体には必ず、何万分の一かそれとも何億分の一か、激しく縮小された天体の分身が白く凝縮された姿で映し出されており、さらにそこから、これもやはり濡れ跡が残っているためだろう、足許のアスファルトへも反映が飛んで、車の各々は、湯のなかで踊る溶き卵を思わせるように不定形で、かつ半透明な、光の反射の成れの果てを地に引きずりながら走って行くのだった。肌や鼻孔に触る空気のなかに、締まって澄んだ冬の名残が確かに感じられる――しかし同時に、それが名残でしかないのもまた確かであって、つんとした冷たさのかすかに香るのに、ふた月前はこの匂いがもっと強かったものだと、もはや去った季節の幻影を鼻の内に呼んだ。背中に受ける陽の温もりが恋しくて、裏通りには入らず、久しぶりに表をそのまま歩いて行った。眼前の、足先あたりの地面に目を落として視界を狭めながら、聴覚を代わりに周囲に広げるようにしていると、横を過ぎて行く車たちの、間断なく波を描いて繰り返される走行音に、川に臨んでいるような心地が訪れる瞬間があった――それもあるいは、タイヤが地を擦る音のなかに、水の感触が僅か含まれていたためだったかもしれない。

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 電車を降りると、駅舎を越えて盛り上がった雲の、水っぽく沈みがちな青さのなかに茜色が混ざった暮れ方の西空に、ホームではカメラを向けている女性がいた――電車に乗った駅を入る前に、そこの高架歩廊から見た時には、噛み合いが僅か崩れたように上下に割れて、ぎざぎざとしたその裂け目から夕光りの洩れる雲はまだ練ったような白さを残していたものだが、それから一〇分か一五分くらいでもう青に浸っているのに感じるところがあった。

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 六時前、最寄りからの帰路、坂を下りて家の通りまで来ると、東南の空の低みに、夕刻のグラデーションを見る――精妙な、という形容動詞が改めて、実にふさわしく感じられる自然の巧手で、青から白さを中途に孕ませながら紫を通過しまた青へと、粒子の集合体の切れ目なさでもってごく仄かな色調を描いて行くものだが、同じそれは先月の半ばだったら、午後五時の、上って行く坂の出際から、市街の上に良く目にしていたもので、時間のずれが淡く印象に残った。