2017/8/28, Mon.

 温もりはかすか、腹のあたりに寄ってくるものの、全体に涼しげな朝の街路である。表から裏へと折れてすぐ、盛りの百日紅の紅鶸色が家と家の合間に差しこまれているのが道の先に覗き、通りざまに横から見上げると、鮮色の満ち満ちたなかにまだひらいたばかりのものなのか、淡く控え目な花弁が混ざっている。道中、ほかにもところどころで、丸くふくよかに盛っているのが見られた。
 朝の早きに、森から届く蟬の声がまだ心なしか弱いような気がする。空は雲がちで白波が長く湧いたようになっているが、眩しさも含まれており、高い所まで見上げることはならない。暑さはなくて、起伏なく穏やかで、清潔な空気だった。駅前に入ると陽がかすかに洩れだしたが、圧はなく、温もりもほとんど感じられないような軽さだった。
 朝からと思ったのは勘違いで、この日から労働は夜番、来たままにとんぼ返りをすることになった。散歩の時間が取れたと考えれば、悪くはない。帰り道の足もとには薄影が浮かび、既に歩いてきて血が巡っているためか、行きとは違って暑くなり、汗も滲んで背を伝う。体感による錯覚とも知れないが、蟬の声も、行きよりも強くなったような感じがする。家に続く下り坂の終盤、近所の家並みが眼前にひらくと、青々と深んだ緑色の広くを占めて優勢ななか、林の縁に一本闖入した百日紅の、はぐれ者の赤さが殊更目を惹いた。
 午後の遅きに再度出勤する頃には晴れて風が湧き、玄関を抜けると近間の樹々が音を立てて靡いている。肌に沁み入る陽の感触に、液体じみた、と久しぶりの比喩を思いながら行くと、裏道に届く蟬の合唱も泡立ちが細かく密になって、森そのものが全体で揺れ、立ち騒いでいるようにも聞こえてくる。視線を上げれば鮮明な青さに、手で柔らかく丸めたような雲が浮かんで、やや盛り上がった上部の縁は殊に白く明るんで、確かな形と量感を成していた。
 夜道を歩いて帰るのも久しぶりのことである。もうよほど秋らしく、種々[くさぐさ]の虫たちがてんでに鳴き乱れるなかに、露の溜まった葉が揺らされて雫の一挙になだれ落ちる瞬間を思わせるものや、室外機の駆動音のように鈍く持続するものやらが聞かれる。カネタタキも、そこここで鳴いていた。鉦の打音に喩えられるあの短く詰まった鳴きを聞くといつも、尾崎放哉がこの虫のことを随筆に記していたのを思い出す。正確な文言は覚えていないが、地の底から遠く響いて来るような、などと言っていたはずだ。共感とともに思い出すのではない。凡庸とも言えるほど愛想なく単調に鳴き重ねる実際の声を聞いても、放哉の抱いた暗鬱な、いくらかおどろおどろしいようなイメージをどうしても引き出すことのできない、その差の故に思い出すのだ。
 道の最後の下り坂に入ると、足もとに浮かんだ影が濃いように思われて、それは勿論電灯の生んだ影だが、月はとそこで初めて見上げると、雲が混ざっているらしく、くすんだ色に広がったなかに姿は見えず、星もない。と言って暗むでなくて明るい空に、暦を読んでいないからいまどのあたりか知れないが、月はそう遠くはないようだった。家に入ると居間の気温計は三〇度、かえって昼間よりも夜の室内のほうが暑いようで、更けても蒸して汗ばむ夜が続く。