2017/9/7, Thu.

 昼日中から薄灰色に沈みきって既に日暮れのような雨もよいに、室内もよほど暗んで、コンピューターのモニターが目に悪いほどになる。窓の内からは降っているともいないとも定かにはつかず、音もなく、ただ霧っぽい白さが湧いているのを見ていたが、夕刻を迎えて外に出ると、郵便受けの上に雫が溜まっていた。傘を持って坂に入ると、鵯の張る声が瞭々と通って、よほど衰えた蟬の声に取って替わりつつある。坂を出際にミンミンゼミの鳴きが一つ追ってきたが、上がらぬ気温に生気の鈍ったような、低く這うように間延びして勢いのない声だった。
 風はない。しかし温くはなくて、と言ってとりたてて涼しくもない。湿り気を含んだ空気が、柔らかく安々と肌に馴染んでくる。路地を行くあいだの百日紅には、主として目を向けているものが三本ある。初めに当たるのは、街道から一度垂直に折れて進み、裏路地に入る角をもう一つ折れる間際の家の抱いたもので、近頃は萎えているようにも見えたが、この日は色を薄めた花の端に、新しい紅色が咲き継がれているのを見つけた。路地の中途の一軒に、低い塀からちょっと顔を出しているのが二つ目で、これはほかの二本よりも紅色が強く、極々小さな細い木で花も多くはないが衰えを知らず日増しに充実するようで、この日も目を向けると思わず驚くほどに赤々と、水を吸ってなおさら色濃くなったか、湿った空気のなかで目覚ましいほどに鮮やかだった。もう一本は、裏道の合間に直交した坂を渡ってすぐの家の、これはなかなかに高くすらりと伸びた木だが、今年は早めに枝を落とされて以来奮っていない。
 帰路には雨がややあった。大した仕事でないのだが、労働というものはやはり疲れるなと、疲労感によって精神のひらかず狭く縮こまったようになっているのを感じながら行く。傘を打つ雨の音というものを、久しぶりに聞くような気がした。道中、周囲から盛んに鳴き寄せてくるのは、青松虫というものらしい。高く澄んだ声で、遠く聞いては鈴虫の音とも紛らわしいようで、今までそれと思っていたなかにもあるいは聞き違えがあったかもしれないが、後者に比べると青松虫は屈託なくまっすぐに、群れで堂々と鳴き盛るのではないか。鈴虫と言って思い出すのは家の近間から最寄り駅へ続く坂を夜通る時に聞こえるもので、そこに漂うのは輪郭の周囲に光暈めいた余韻をはらんだ音色であり、狐火を思わせて繊細に震えながら樹々の合間の闇の奥に見え隠れする控え目な声である。精妙な揺らぎのうちに金属の擦れ合うような感触もより強い、あれがまさしくそうなのだろう。
 雨はじきにほとんど降り止んで虫の音の方が高くなり、またもや作句の頭が働き出したが、今回はうまく形にならなかった。街道を行く車が途切れると、道の左右からふたたび、青松虫の声が湧き出て鳴きしきっていた。