昼の日なたに踏み入り、温もりに染み入られているだけで鎖骨のあたりに快感を滲ませるような、長閑さの極まったような快晴だった。木洩れ陽の坂を上れば木の下でも温かく、しかし同時に涼しさも前から流れて触れてきて、それがまた肌に具合良い。眼下に覗く川の水は軽いような青磁色を湛えており、先日の台風以来色が変わったななどと思ったが、そんなはずもなく、昨年のさまを覚えていないが秋の川というものはもともとこんな色なのだろう。樹々が老いれば、川の面も応じて老いて淡くなる。
欲も得もないという表現は、欲得を考える余裕すらもないほどに差し迫ったという意で使われるのが一般らしいが、日溜まりに寛ぐ老人の自足を古井由吉が確かこの言葉を使って書いていただろうと、まさしくそんな老人になった心地で思い出し、背に陽射しの寄る道を行く。ぴりり、ぴりりと鳴る虫の音の、あどけないような小ささに響く裏路を歩き空き地に掛かると、こちらの背を越えるほどの芒の並んで簾のように視線を遮るその向こうに、まだ五歳にもならないと見える女児が三人集まって、ボール遊びをやっている。艶々と光を帯びたボールを脇に転がして三人寄ったその場面が、一つの風景として映じたようだ。芒は白い毛を生やして豊かな花穂を作っていたが、この一週間ほどあとに通り掛かった夜には、敷地が一面刈られて貧しく残った草の地に伏して、荒涼とした風情になっていた。
坂と交わる辻から家屋根の先に見た森の、粉をまぶして着色したような乾いた紅葉が、快晴と接して映えていた。一番手前に覗く林の縁の木枝が、風を取り込んで上下左右に細かくうねる。もう少し進んでから寺の枝垂れ桜に視線を向ければ、夏頃は濃緑の合間で薄紫に烟るようだった枝にもそうした色味はもはやなく、葉も大方落ちきったあとで、いくらか残る黄色いものが葉というよりは実のように見えた。
これも天気の得難いほどの明るさのためか、電車の窓に切り取られた町の情景が常になく滑らかに流れていく。座って本を読みつつ移動を待っているなか、ふとした拍子に膝の、ズボンの襞の先端に生えた繊維の微かな毛羽立ちに目が行った。扉の窓を通って四角くなった明かりのなかではっきりと見えるその細糸は、水底に並ぶ海藻を思わせる具合に縮れながら伸びているものの、空調の生む空気の動きが密室内にあるはずのところを、しかしほとんど不動で静まっている。扉がひらくと駅によっては床に目映く光が撒かれて、それを少々凝視してから頁の上に目を戻すと、緑色の光の残像が文の途中に入りこんできて、文字が束の間塗りこめられて見えなくなってしまうのだった。
武蔵境でサックストリオのジャズライブを観覧して出てくるともう暮れ方、線路に沿って長い道の果てる空の低みに、海面に集ったプランクトンの群れのようにして名残りの赤が仄めいている。駅の高架ホームに上がって今度は東を向けば、昇ってまもない満月の、遥かに向かい合った残照の色を吸ったように朱を帯びながら、上下に二つ並んだ雲の筋の隙間をくぐって乱されていった。