2017/11/16, Thu.

 この朝の(と言うかもはや昼なのだが)寝床は、どうしてなのか、かなり身体が重くなっていた(前夜の就床時には、三〇分もの長きに渡って瞑想を行ったのだが、それが睡眠の質にまったく反映されていないわけである。とは言え、その瞑想が長くなったのは、日記の書き方をまた(構築への熱情ではなく)記録的欲望に基づいた方式、つまりは、文の質などには大して拘らずに、一日の自分の生活をなるべく詳細に跡付けて行くというやり方(短く言い換えれば、書きたいこと/書けることを「すべて」書く、という方式)に戻すことにしたので(と自分が明確な意思を持って決めた/判断(判決)を下したと言うよりは、欲望が勝手にそちらの方向に転換して行く動きが窺えたので)、枕の上に尻を乗せて瞑目しているあいだ、一五日のおのれの生活の記憶を起床時から細かく辿っていたためである。それで頭を回しすぎて、かえって脳が疲労してしまったのかもしれない)。(……)一一時頃か、あるいはそれよりも前にも覚めた記憶があるのだが、肉体の固さのために起きられなかったようだ。また、何故かわからないものの、普段の寝起きより体温が下がってもいたようで、布団のなかにありながら寒気を感じた覚えがあり、起き上がってから鼻をかむと鼻水が(透明なもので、黄色く濁ってはいなかったので鼻炎にはなっていないようだが)結構吐き出されたし、その後の起床時の瞑想のあいだにも、くしゃみが出たのだ。
 (ここで一応、改行をしたわけだが、これに関しても迷われるところだ。と言うのも、一年前のこちら(記録的情熱に従っていた時期のこちら)は、改行をまったく使わず、一日の記事の初めから終わりまで切れ目なく一段落で綴るという方式を採用しており、いましがた(と言うこの現在は一一月一八日の午前二時(体感上は一一月一七日の二六時)だが)この記事を書きはじめる前の自分は、自ずとそれを想定していたからだ(既に投稿した一五日の記事に関しては、日記に対する新たな態度/向き合い方をどうするのか、はっきりと決められないうちに中途まで綴っており、そこでは改行が採用されていたので、最後までそれに従ったのだ)。しかし実際には、迷いながらも自然と改行を使う心になったので、当面はそれに応じてみるのが良いのだろう(書き方などわざわざ悩まなくとも、これに関しても自分の欲望が勝手に適した場所に連れて行ってくれる、と言うべきだろうか?))それで瞑想を済ませると階を上がって行き、食事を取った。(……)テレビは、食事のあいだはちょうど、NHK朝の連続テレビ小説わろてんか』の再放送が流れており、そのまま『ごごナマ』に移行したあたりで食事を終えていたのだが、毒蝮三太夫がゲストで来ているその昼の情報番組を少々眺めた。毒蝮氏がラジオだか何だかの仕事で各地に行った際には、放送を終えたあとに必ず、三〇分かそのくらい集まったファンの人々(大方は老年のようである)と寄り合って話をするようにしている、というようなことが紹介されていた。食後、室に帰ると、他人のブログを読み、続けて日記の読み返しをした(二〇一六年一一月一一日金曜日の記事である)。すると二時に至ったので上階にふたたび行き、洗濯物を取りこんでタオルを畳むとともにアイロン掛けをした。家事をこなしながら視線を上げて窓の外に送ると、近所の家の屋根から生えた金色の風車が良く動いており、回転のなか、光が各部にかわるがわる細かく宿って弾かれる。その動きからすると、風が結構吹いて、あまり途切れる間もないようである。(……)アイロン掛けを終えたこちらは石油ストーブのタンクを持って、玄関から外に出た。そして勝手口のほうに回り、石油の保存してある箱をひらいて、電動ポンプを使ってタンクに補給をする。液体が流しこまれるのを立ったままに待っていると、道の先にある楓の樹の、薄緑混じりのグラデーションを描く過渡期を終えて、一面に赤(その赤の濃淡には、それはそれでまた各部の差異が見受けられるようだったが)に染まったのが風に揺らいでいるのが目に入る。道には陽射しも降りてはいるものの、空は晴れ晴れという風でなく、青さの上にへばりつくような雲の多い天気だった。そうした風景に目を向けるあいだ、頭の内でそれらの様子が自動的に言語に落としこまれていくのだが(つまり、脳内の「テクスト的領域」とでも呼びたいような区画に(まさしくノートの白い頁にメモを取るように)「書き込まれて」いくわけだが)、そのような頭の働きを感じながら、「反芻」の技法を習慣的に行ったほうが、「現在」の時間に遭遇する物々への感度が高まるのではないかと浮かんだ。「反芻」と言うのは、要はおのれの日常生活の記憶を折に触れて思い返すということであり、ここで直接的に考えられていたのは、前の晩眠る前に行ったような、その日の生活を初めの覚醒時から順番に覚えている限り辿っていくという方式だったのだが、これが感受性を高めるというのは、一七日と一八日を経過してきた現在(この現在は、一九日の零時四九分である)、確からしく思われる。と言うか、正確にはこれは「反芻」の技法の問題と言うよりは、むしろこちらの意識内における「書くこと」の内的なシステムの転換による変化で、要はつい先日までは構築的な欲望のほうが優勢だったから、しっかりとした文を作り上げて書きたいと思うほどの事柄でなければあまり顧みられずに捨て置かれていたところが、今は「書くこと」の記録的な機能のほうが主に発揮されるようになったので(こちらの意識のなかで、「書けること/書く気になることは大方何でも書く」という方針が前提となっているので)、大した印象(意味/ニュアンス)をもたらさないおよそささやかな物事でも、拾い上げられるように(脳の内で「あとで書き記すこと」として振り分けられるように)なってきたということだろう(毎日の生活及び経験を文に綴ることを習慣化した人間の脳というのは、こうした主題の取捨選択を自動的に(それこそほとんど機械のようにして)行っている)。そうした話は措いて、石油の補充を済ませてタンクをストーブ本体に戻してくると、また玄関を抜けて掃き掃除を始めた。竹箒を動かすそのあいだにも風が流れて、一箇所に集めようとしている葉の群れを少々乱し、数枚を集団から奪って滑らせていく。途中で、小学生が下校することを知らせる二時半の市内放送が響いてきた。
 掃除に区切りをつけて屋内に戻ると、手を洗ってから肌着を畳み、室へ戻って運動を始めた。youtubeにアクセスして例によってtofubeatsの曲を流し(必ず"WHAT YOU GOT"から始まり、"BABY"を経由して、場合によっては"朝が来るまで終わる事のないダンスを"を挟み、最後に森高千里と組んだ"Don't Stop The Music"に至る)、脚の筋を伸ばしたり、スクワット風に屈み込んだ姿勢のまま静止したり、ベッドの上で柔軟運動を行ったりした。ここのところ怠けていた柔軟運動を久しぶりにやったところ、下半身が相当に軽くなり、身体も全体的にまとまって輪郭と中身がぴったりと一致し、自身の一挙手一投足が良く「見える」ようになったので(それによってさらに、気持ちの静まりが得られるわけだが)、肉体を良くほぐすということが精神にとっても大事だという今更のことを改めて実感した。その後は歌を歌って気持ち良くなり、三時半から書き物に入った。一五日の記事に取り組んだのだが、外出の時間が近づいても終わりそうになかったので、終盤はのちのちのために細かなメモを取るほうに移行した。
 そうして四時を回ると上階に行き、味噌汁に豆腐とゆで卵の食事を取った。片付けをして下階に戻り、歯磨きをするとFISHMANSの曲を流しながら服を着替え、"いかれたBABY"などを歌ってから室を出た。(……)そして靴下を足につけると出発である。
 空には先ほどから変わらず雲の網が形成されており、東側ではその隙間に醒めた水色が覗き、煤けたような鈍い乳白色の雲がそのなかにあるとあるかなしかの赤の色素をはらんだように見えるのだが、視線を西に振ればそちらは冷たい青さのうちに完全に沈み、山際は綿を厚く詰め込まれたように雲の壁が閉ざして残照など微塵もない。比喩でなくそのまま身体の震える寒さであり、ポケットに両手を突っ込んで身を縮めるようにして坂を上って行った。(……)街道に入って気づけば、身体が温まったようで震えは止まっている。とは言え気温の低さはやはり結構なもので、裏路を行きながら、頬に当たる冷たさが張り詰めているようだ、あるいは頬そのものが張り詰めてくるような、とその場で体感に言葉を当て嵌めた。じきに耳の穴も、冷気に痛むようになった。
 (……)
 帰り道は、この日の冷気のなかをまた歩いていくのには気後れがしたので、電車を取ることにしたが、職場を出るのが発車間近になってしまったものだから急いで駅に入り、機械に小銭を一遍に投入して切符を買うと(ICカードを持ってきていなかったのだ)、改札を抜けてまた走った。何とか間に合って乗ると扉際に就き、この日の起床時のことを反芻しながら到着を待つ。最寄り駅から坂を下って行けば、やはりコオロギの音が木立のなかから洩れてきて、少し前にはこれももうなくなったと思っていたのだが、気温が下がってからかえって復活したような印象を受ける。
 帰り着くと(……)自室に帰って足の裏をほぐしつつ、Ernest Hemingway, The Old Man And The Seaを五〇分ほど読んだ(七〇頁から七五頁まで)。そうして一一時も近くなってから食事に行った。(……)(本当に関心を持っているとは言えないはずの事柄について、誰もが何かを言いたがってやまないというのが、この現代という時代の醜悪さである)。その後、(……)TEDのスピーチを取り扱う番組が映し出された。初めは、R・ベンジャミンという米国の黒人のジャーナリスト(この日のプログラムはどうやら、黒人差別に関しての演説を取り上げるものだったらしい)が、ホワイトピアと言って白人のみで固まって暮らすコミュニティに滞在した経験について報告していた。スピーチ映像が終わると一旦スタジオに場が戻って、MITのメディア関連の教授だったと思うが何とか言う人と、スプツニ子という人(この女性についてもその名は聞いたことがあるものの、アーティスト/現代美術作家と呼称される類の人であるということしか知らない)がいくらかコメントをして、その次に、名前を忘れてしまったのだが、詩人だという男性のスピーチが始まった。これは自分の幼少期の体験も踏まえて大変に真剣味を帯びたもので、直截に黒人(人種)差別廃絶を訴えるものだった(「呼吸をしているすべての人が生きる価値を持てる社会に」というような文言で末尾を締めていた)。その様子を受けるとこちらもやはり真面目なような気分になって、映像を黙って見つめ続けた(……)。印象に残っているのは、演説者が子供の頃(一二歳くらいのこととして話していたのではなかったか)の体験として語ったことで、曰く、夜になって友人と駐車場かどこかで水鉄砲を使って戦争ごっこをしていたところ、父親に腕を強く掴まれて室内に連れて行かれた。そこで父親が大層真剣に子供の目を真っ向から覗きこんで言うことには、お前には悪いと思うが、自分たちは、黒人の子供というのは、ああいうことをしてはいけないのだ、と。白人の子供と同じように、暗いところを走ったり、銃を打つ真似をしたりしてはいけないのだ、なぜなら、水鉄砲を本物の銃と勘違いされてその場で即座に[﹅7]撃ち殺されるかもしれないからだ、と諭されたと言う(父親がその後も折に触れて子供に与えた助言のなかには、「動作をする時はゆっくりと、はっきり見えるようにしたほうが良い、突然、速い動きで身体を動かしたりしてはいけない」というものもあったと語られていた)。これは当時の米国という国家の社会の一側面を明らかにする、大変に具体的で説得力に富んだ証言ではないだろうか?(この「当時」と言うのは、正確にはいつなのかわからないが、演説者の外見を見る限り、彼は三〇代後半からせいぜい四〇代前半くらいの歳ではないかと思われた。そうだとすれば、概ね二五年から三〇年ほど前の時期に当たるわけで、と言うことは最も古くとも八〇年代後半の話だということになる。五〇年代や六〇年代のことではまったくない! 公民権運動を通過して二〇年が[﹅4]経った時点での話であり、そしておそらく、現在においてもこうした挿話は色々な場所で起こっているのだろう) 
 食後、入浴を済ませ、出てくると緑茶を用意して室に帰った。茶を湯呑みに注ぎながらまたニュースを瞥見したところでは、例の横綱問題には色々と不透明な事柄があり、被害者側の動きにも疑問を呼び起こす点がたくさんあるというような語られ方をしていたようで、そんな展開になっているのかと意外には思ったものの、しかしこの件に関してこちらのなかには特段の興味はない。自室ではインターネットを回って何をしたいのかあまりはっきりしないような時間を過ごし、その後、音楽を聞いた。一時半から二時を回るまでの四〇分ほどで、FISHMANS, "SLOW DAYS"(『空中キャンプ』; #3)、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)", "My Foolish Heart"、Will Vinson, "The Clock Killer"(『Perfectly Out Of Place』; #9)、Nina Simone, "Seems I'm Never Tired Lovin' You"(『Nina Simone and Piano!』; #1)、同じくNina Simoneの"I Want A Little Sugar In My Bowl"(『It Is Finished - Nina Simone 1974』; #5)と移行し、大変に素晴らしく満たされた気持ちになった。
 そうして二時過ぎからようやく書き物に入ったのだが、書き物と言ってもこの時に行ったのは、この一六日の生活のメモのみだったようである。そのあとのことはメモをつけておらず、思い出すこともできないので、この日に関してはここまでとする。