2017/11/18, Sat.

 この日の睡眠は四時一〇分から一二時五五分までと、久しぶりに九時間近くの長きに達してしまい、これにはさすがに眠りすぎだろうとの反省の声を自らに差し向けざるを得なかった。これほど眠ってしまったところを見ると、この前の晩はやはり、街に出て様々な情報(=「意味」)に触れたことや、深夜にモニターを前にして書き物に邁進したことによって、結構な疲労が溜まっていたらしい。床を離れるのが遅くなってしまったので、起床時の瞑想は行わなかった。かなり冷え冷えとした調子の曇天だったようである。(……)厳しい寒さのために、台所に行くより先にまず自ずと椅子に就いてストーブを点けてしまい、足先をしばらく暖めてからハムと卵をフライパンで焼いた。黄身まで熱が通らないうちに丼に盛った米の上に移し、卓に戻ると醤油を垂らしながら黄身を崩して、米と絡めて混ぜつつ食べ出した。新聞をひらいて読むのは相変わらず国際面ばかりで、この時は、カタルーニャ州議会選に向けた見通しを述べる記事、ジンバブエムガベ大統領が退陣を拒んでいるという記事、イラクで「イスラム国」の最後の拠点が奪還されたという小さな記事、そして、カンボジア最高裁判所が最大野党の救国党に解党命令を下したという記事(そんなことができるものなのか、とナイーヴに驚いたものだ)を読んだと思う。これらの記事は未だ(現在は、前文が語る時点から丸三日と半日ほどが過ぎ去った一一月二二日の午前一時二六分である)書抜きをされずに放置されていたので、日記を綴っているいま、ついでに済ませてしまおうと思う。
 二一日の記事に、新聞からの引用を済ませて戻ってきたわけだが、この日の生活に話を戻すと、食後に自室へ帰ったあとは、いつものように緑茶を飲みながら日記の読み返しを行った。二〇一六年一一月一三日、日曜日の記事である。これは両親とともに兄夫婦の宅を訪れた休日で、長く外出していたから全体で一万字を越えた長い日記になっている。兄夫婦の家では昼食に、豚カツやたこ焼きなど豪勢な食事を振舞われてたらふく食っておきながら、その後の会話には退屈を覚えてソファに移ってうとうと微睡むという、礼を欠いたような振舞いを取っている。「キヌア」と言って南米の穀物だったと思うが、それを初めて目にして食しているのもこの時である(そしてその後、この食材を口にする機会は得ていない)。特段に美味いものでも不味いものでもなかったはずだが、サラダ様にしてあって、ぷちぷちとした独特の触感を持っていたのではなかったか。一年前の自分もなかなかに頑張って文章を綴っていたようで、現在の記事に引いておこうというくらいに興味を覚える部分が結構発見された。そのなかから一つ、特に印象に残っている場面を、この日記本文にも引いておく。

 (……)神田に着くと、乗り換えである。ホームの端に陽が掛かって、温かいそのなかを殊更好んで歩く。首を振れば、小さな虫が空間から欠片が零れて遊ぶようにして、白い軌跡を空中に丸く描いている。前方に視線を戻せば、先に行く両親は、身体が接しそうなほどに近づきながら、ゆるゆる進んでいる。腕を組まないのだろうかと、その距離感に思っていると、目を離したうちにやはり、母親が父親の腕を取ったようで、次に見た時には腕が交差していた。二人のその背を、電線の影が斜めに渡って宿り、何か線の上に設置されている機具だろうか、時折り出っ張りを作りながら、歩みに応じてするすると、縄が引かれるように流れて行く。

 「腕を組まないのだろうか」と書いてしまった部分は、「腕を組むのではないか」と言うのが正確だったように、今からは思われる。両親が腕を組んで寄り添っている姿など、当然ながら、普段見付けているわけでない。この時にはしかし何だか、そんな予感がしたのだ。それはあるいは「予感」と言うよりもむしろ、「期待」だったのかもしれない。つまり、快晴の正午前の「美しい」光に染まった空気のなか、ここで二人が腕を組めば、「物語」的な場面としてより完成されたものになるではないか、というこちらの気持ちの現れだったのではないか(もしそうだとするならば、先の記述は「腕を組まないのだろうか」のほうが、こちらの「期待」が正確に反映された表現だということになる)。実際、「美しい」という言葉を思わず恥ずかしげもなく使ってしまいたくなるような、ひどく透き通った明るさの大気だったことをよく覚えている(そしてやはり、小沢健二"さよならなんて云えないよ"の感傷的な一節、「本当は分かってる/二度と戻らない美しい日にいると」をこの時にも思い出している)。
 日記の読み返しを仕舞えると、その後はインターネットを回ったのだろうか、日課の記録には空白が挟まれている。そうして、三時から他人のブログを読み、続けて運動を行った。二〇分ほど体操と柔軟をこなしたのち、例によってそのまま歌を歌っている。四〇分も歌い散らして四時を回ると書き物に入った。と言って、正式な文を作るのでなく、メモである。この時点で一六日の記事がまだ済んでいなかったので、一七日のことを忘れてしまう前にと記録したのだったが、そのメモを取るだけで一時間も掛かっている有様である。それだったらもはやメモなど取らずに記憶に基づいてさっさと書いたほうが良いのではないかとも思われるが、そうするとやはり与えられた時間内には終えられず、記憶が失われて、記したかったはずのことを記せなくなってしまうだろう。
 五時二〇分頃、上階へ行った。(……)こちらは台所に入って夕食の品を拵えることにして、冷蔵庫を覗くと、前日にも食った牛肉がパックにまだわりあい残っていたので、手軽なところでこれを炒めるかと固まった。玉ねぎと、赤いピーマンも僅かに残った半端なものがあったので加えることにして切り分け、牛肉も元々薄かったものをさらに少々細かくした。肉は全面に偏差なく、鮮明と言って良いほどに赤の色に満ちていて、包丁で切り分けながらその色の強さに目を惹かれたのを覚えている。作業の背景には、料理の傍らに音楽を掛けるのは久しぶりのことだが、小沢健二『刹那』をラジカセで流していた。"さよならなんて云えないよ(美しさ)"を口ずさみながら、野菜を炒めはじめ、自ずと顔を前に出してフライパンの上に持って行ったが、すると玉ねぎの成分が目に痛い。しばらく炒めてからにんにく醤油で味付けをして仕上げると、時間が早いがもう食事を取ることにした。七時台後半から勤め先でのミーティングがあったからである。白米と即席のシジミのスープに、今しがた炒めたものを卓の上に用意し、夕刊に目をやりながらエネルギーを補給した。この時読んだのは、三面に載っていたシリア調査団任期切れの記事のみで、これは例によってまだ書抜きをしていないので、いまここでついでに済ませてしまおうと思う(現在は、一一月二二日の二一時〇二分である)。
 食事を終えると洗い物を処理し、アイロン掛けを始めた。この時テレビには『MUSIC FAIR』という音楽番組が映っており、東方神起から二人がゲストとして招かれて、なかなか上手な日本語で喋っていた。MCの一人である仲間由紀恵が、私も彼らの曲が好きで、楽屋などで聞いているんです、というようなことを言っていて、少々意外に思ったと言うか、何となくイメージに合わないような気がしたが、そんなことはまったくどうでも良く、わざわざ書き記しておくほどのことではないと思う(その時に流れたVTRは過去のものだったようなのだが、そこで披露されているラップ調の曲を見てみても、何と言えば良いのか、「オラオラ系」と言うとちょっと違うと思うのだが、ある種の「男性らしさ」の印象=意味素を感じさせるようなもので、ありがちな考え方ではあるけれど、甘いマスクを持っていながら同時にそうした「男らしさ」をも兼ね備えているという点が、女性ファンの心を掴むのかもしれない)。アイロン掛けを続けていると次に登場したのはAKB48の面々で、二列になってずらりと並んでいるのに、何人いるのかと数えてみたところ、前列には九人が並んでいた(後列は、この時はカメラの対象がすぐに全景から個人に移ってしまったために数える隙がなかったが、あとで確認してみると八人だった)。AKB48並びにアイドルというジャンルには、今のところ特段の興味はない。この時にも、渡辺麻友がここで卒業だという話が成されていたが、彼女の名前自体は聞いたことがあったものの、顔を明確に認識したのはこれが初めてである。その隣には柏木由紀というメンバーがいたのだが、彼女のほうはどこかで見たことがあって、辛うじて名と顔が一致していた。トークののち、渡辺麻友の過去の番組出演映像が流れはじめて、(……)。次に、水樹奈々渡辺麻友が共演した回に移ったが、水樹奈々の歌う楽曲はさすがに良くできたものだと思われた。声優に提供される楽曲やアニメソングの類をどこかで端々耳にするたびに、こちらがそうした方面の音楽に覚える全体的な/一般的な印象を一言にまとめれば、それは「手が込んでいる」というものである。アニメというものを今は基本的に視聴しないので(パニック障害のために大学を休学していた時期などは、多少見ないでもなかったが)知らないけれど、そちらのほうの音楽というのは、ポップミュージックの一ジャンルとして、かなりユニークな分野になっているのではないかという気もしないでもない。
 掛けるものを掛け終えると室に帰り、Radioheadの『Kid A』を流しながら歯磨きをした。その後、服を着替えて外出へ向かう。今秋初めてのことだが、さすがにストールを巻かないわけには行かない気温の低さだった。行きの道中には、この日のメモを取った時点で、「驚くほど印象に残っていることがな」かったらしい。外界に目を向けるのではなく、大方頭のなかの動きを見ていたようである(その物思いだって散漫なもので、記憶に残るほどの形を成さなかったわけだが)。
 (……)
 夜更けた帰路はかえって、行きよりも身に寒さがない。こちらの身体に熱が生まれているのだろう。特に動いたわけでなく、この日は働いたわけでもないが、人中にあるとそれだけでやはり気もいくらか張り、体温も上がるのではないだろうか。疲労感もなかなかにあった。面白いことがあって、手を叩いて馬鹿笑いをしたりもしたのだが、しかしから騒ぎの類だな、と一人になった夜道を行きながら醒めたような気分になった。人々のあいだにあると、何をしなくともそれだけで、やはり精神的に疲れるようだった(こちらに差し向けられてくる意味の量が多いのだ)。それで歩調が自ずと緩いものになった。裏路を通りがかりに見上げた樹の樹冠の影が、背景の夜空よりも尚更暗んできのこ雲のような形となっており、過ぎる間に葉が離れたようで頭上の梢からも葉っぱ同士で擦[す]れる音がして、そのあと地に触れる音も立った。風は道よりも高いところに吹いていたようで、道中、線路の向こうの林の梢が鳴るのを聞いた覚えがある。
 帰り着いて玄関に入ると、(……)時刻は一〇時四五分頃だった。居間に入るとテレビは『超入門!落語 THE MOVIE』という番組を流しており、(……)。自室へ行って着替えをして、足を少々ほぐしてから、一一時を過ぎて食事に向かった。(……)要するに、(……)傲岸/厚顔な振舞いは何よりも、端的に不快であり[﹅8]、互いに目の前に向かい合った人間と人間とのコミュニケーションとして望ましいものではまったくない、ということなのだ。エドワード・W・サイードが、自分は「怒り」という感情は勿論理解でき、それを抱いてもいるが、「憎しみ」という感情については正直なところ良くわからない、イスラエル側の人間に対しても、彼らを「憎んだ」ということは今までないように思う、というようなことをどこかで述べていた曖昧な記憶があり、自分も今までそれには同意するところだったのだが、しかし、こちらがこの世のうちで明確に「憎む」もの(つまりは、この世界から完全に[﹅3]消滅してほしいと、心の底からはっきりと[﹅10]願う対象)、これこそが自分の「敵」であると言いたくなるものがもしあるとすれば、それはこうした「傲岸さ/厚顔さ」を措いてほかにはないだろうとこの日には思った(そして何よりも厄介なのは、そのように考える自分自身ですら、この「傲岸/厚顔」から免れているかどうか確言できないということなのだ。例えばこうした日記を綴り、それを(部分的に検閲しながらも)公開しているということが、誰かにとって「傲岸」な振舞いとして映るということも(どのような理屈でそうなるのかはわからないが)ないとは言えないのではないか?)。
 (……)
 (……)食事を終えるとこちらは入浴に行った。湯に浸かっているあいだ、風に流される枝葉の響きが耳に届いてきた。出るともう零時に掛かっていたようである。室に帰ると、一六日の日記を書きはじめ、急ぐことなく気楽に進めた。これも折に触れて目標として心中に浮かんでくる考え方だが、この日の書きぶりは、「ただ書く」という方向により近づいていたと自分自身によって評価されたらしい。脳の自然な動きに従うと言うか、歌を歌っている時など、興が乗ってくると、どのように歌おうとか音程を正確に調整しようとか何らかの能動性を働かせなくとも、自分の歌声を「見ている」だけで、声のほうが勝手に適した方向に動いてくれて、そんな時には自分自身が歌声そのものに「なっている」かのような感覚を覚えるものだが(スポーツ選手などが体験する「ゾーンに入る」というような状態も、おそらくこれと同種のものだろう)、それと同じように、自分が書くことそのものに「なっている」、書くという動きと完全に一致していると感じられるような状態が、「ただ書く」の内実ではないか(それはおそらく、「書くこと」が一つの高度な瞑想となるような体験である。そして、この「なっている」というような状態が、書くことやその他の時間に限られず、生の全域にまで拡張され、存在の基盤として据えられたような様態がいわゆる「悟り」というものなのではないだろうか。ヴィパッサナー瞑想は、おそらく究極的にはそれを目指しているのだと思うが、実際のところやはりそれは実現困難なもので、現実的には「悟り」というのは多分、断片的な/部分的な/局時的な状態としてしか顕れてこないのだろう)。この時の書き物は、一時間四〇分で三七七六字を綴ったらしい。
 その後は特段のこともないが、古井由吉『白髪の唄』を読み、「紫の肌」の篇まで読み終えたところで、この本の読書は一旦中断することにした。と言うのは、一二月四日に(……)会合を控えており、その日のためにヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読まねばならないところ、『白髪の唄』をこのまま読んでいては間に合わないのではないかと危ぶまれたからである。この夜は、就床前の瞑想は怠けたらしい。起床時のものも遅くなってやらなかったので、一日瞑想をせずに終わった。