覚醒すると、時計が一一時五分を指していた。この朝には珍しく、まだ早いうちに一度覚めたという記憶がなく、この時間までひと繋がりに眠っていたようだった。目覚めの感触は数日前よりも明らかに軽く、やはりとにかくゆっくりとして深い呼吸を普段から心掛け、入眠時にも実践するのが吉なのだなと確信された(ヨガに精を出すご婦人方がいるのも頷ける)。ただ、覚めたは良いものの、すぐに起き上がることができなかったのはいつも通りで、意識を落とすことこそなかったとは言え、そこから三〇分強、寝床に留まって自分の呼吸を見つめたり、微睡み未満の安穏さのなかで脳内に流れるイメージを眺めたりしていた。一一時四〇分になると布団を抜けて、(……)洗面所に行った。顔を洗うとともに嗽をして、トイレに入って用を足すと室に帰って瞑想を行った。それで正午を回って上階に行き、前日から引き続いてシチューを熱して食った。ほかに何か用意する気にもならなかったので、食事のメニューはそれだけである。二杯を食べながら新聞の国際面の記事をほとんど隅から隅まで読んだ(記事タイトルに関しては、のちにここに追記しておくこと)。(追記: 「コロンビア 地雷の傷痕 和平合意1年 失明の元警官「支援乏しい」」、「独CDU 大連立継続 模索で一致 首相、SPD党首と30日会談」、「「カタルーニャを無視ばかり」 独立是非 住民の思い 「民族主義の高揚危険」反対も」、「「ニーハオ」トイレ 早くおさらば 習氏 異例の「重要指示」」、「露空爆 死者53人に シリア東部 集合住宅が被害」、「エジプト テロ2週間前 攻撃予告 「イスラム国」 政府に批判の声」、「イスラエルの保健相 「安息日」めぐり辞任」)
食事を終えると食器を片付け、風呂洗いをしてから室に帰り、蕎麦茶とともにコンピューターに向かい合った。インターネットを僅かに覗きもした(……)。そうして一時四〇分付近に至り、二時半を迎えるまでに僅かでも文を綴っておきたいと思っていたが、その前に運動をすることにした。tofubeatsの音源をyoutubeで流しながら身体をほぐしたのち、テーブルに就いて書き物に移るわけだが、音源の連鎖の最後として、DAOKO "水星" を流していた。この曲はtofubeatsのもので(遡るとさらに元ネタがあるようだが)、youtubeの関連動画に登場するのだけれど、それ以前にも自分はこの存在を知っていた、と言うのは、(二時半を過ぎたのでここで一旦中断)
と言うのは、高校の同級生である(……)がこのDAOKO版の"水星"を好んでいて、カラオケで歌ったりもしていたのだ。ウィキペディアを見るとDAOKOという人は一九九七年生まれで現在二〇歳、となると(……)がこの曲を教えてくれた数年前にはまだ一〇代も半ばの若年で、随分と早くから活動しているのだなと思ったのだが、作品リストを見てみると"水星"が発表されたのは二〇一五年のことらしい。これには少々、自分の記憶と照らし合わせて納得の行かない思いが生じた。(……)からこの曲を聞き知ったのは、大学生の頃だったと完全に思いこんでいたのだ。あれがまだ二、三年前のことだとはとても得心が行かないものの、思い返してみると、多分あれが二〇一五年のことだったのではないかと思うが、もし時間があればどうだとゴールデンウィークにこちらから誘って会ったことがある。"水星"の発表は二〇一五年の二月らしいので、その時に教えられたのかと、今しがた(現在は一一月二九日の午前二時三九分である。認識としてはまだ二八日を終わらせていないので、この記事は当日に綴っている意識でいる)日記を遡ってみたところが、二〇一五年の五月初頭には(……)とは会っていない。ゴールデンウィークに会見したのはその一年後、昨年、二〇一六年のことだった。去年のうちは結婚式(七月三〇日)にしか顔を合わせていないものと思っていたがと、ここでも記憶の錯誤が挟まっていたわけだが、それはともかくとして話を戻すと、"水星"の存在をいつ知ったのか正確にはわからなくとも、それが二〇一五年以降でしかあり得ないというのは、繰り返しになるが、改めて考えてみても不可解を覚える。と言うのは、うまく説明するのが難しいのだが、自分は記憶の出来事と現在との距離を日記に結びつけて考えるところがあって、要するに、あのことは日記にこんな風に書いた覚えがあるなとか、あの頃はまだ全然文章がうまく書けていなかったから二〇一四年のことかなという具合で、当時に自分が書きつけた言葉や、その時点での文の質(と言うのは自分の場合、そのまま認識や感受性の質/きめ細かさと等しい)の記憶(手触り)を参照して、過去との距離を測る一助とするのだ。そうした観点から見た場合、(……)と喫茶店で向かい合って何かの音楽を教えてもらったとか、カラオケで歌っているのを聞いたとかいう記憶は完全に、自分がまだ文章を書いていなかった頃(すなわち、大学時代)、あるいはそこまで行かずとも、文を書きはじめて間もない頃の時期に分類されていたのだ。
こうした計測の仕方というのは、文を書く力の進歩・発展の度合いを、過去との距離の大きさと概ね同一視するということなのだが、そう考えた場合に、例えば昨年の(……)の結婚式にしても、あれが二〇一六年という年号=数値で表される年の出来事だったというのは確かな認識としてあるが、そこから現在までの距離を測ってみると、まだあれから一年と四か月しか[﹅2]経っていないのか、という感想が起こり、もっと遠い過去の事柄であるように感じられる。これを翻訳すると、自画自賛になってしまうけれど、この一年で自分は相当に文を書けるようになったな、ということなのだ(さらに別の言い方をすれば、今の自分があの結婚式を経験したならば、もっと色々なものを感じ取り、細部をより繊細に汲み取って、もっと面白い文章が書けていただろう、ということになる)。他人から見るとどうかわからないけれど、少なくとも主観的には、数値上の距離と自分の実感としての距離感覚とが相応しないくらいに、自分はこの一年で認識の発展=主体的変容を遂げてきたわけである。日記を書くというのは(つまり自らの「生」を綴るというのは)、自分の経験上、自身に対して観察の目とそこに付随する「権力(あるいは端的に、力)」の作用を差し向け、それによって、比喩的イメージを用いるならば彫刻家が鑿でもって素材を削り取ってある形を作り出すように、自分自身の形を成型/変形させていくということなのだ。言い換えれば、「自己の解釈学」の働きを絶えず駆動させることで、体験/生と言語/文の(主体がこの世から消滅するまで永続する)往還運動のなかに自らを放り込み続けるということである。晩年のミシェル・フーコーはおそらく、「ものを書く」という行為/営みが主体形成に果たす役割について、このような事柄を考察していたのではないかと予想しているのだが、まだ文献を読んでいないので詳しいことはわからない。
上の部分までは、この一一月二八日当日に記した記述である。ここからは一二月三日日曜日の午後八時直前から記しはじめている。二八日は、二時半過ぎまで書き物をしたあと、前日のシチューの残りを食ってエネルギーを補充した。洗濯物はこの時に室内に入れた(……)。服を着替えると、歌をちょっと歌ってから三時半に出発した。
坂道を歩いて上って行くにつれて、道の脇から、山吹色やら紅やら渋緑やら様々な樹々の彩りが登場し、それらが前後で複数の層を成して交錯しながら流れて行く。坂上まで来ると、街道の向こうの林が目に入り、例年の比喩だが、砂でもって着色をされたようなと乾きの意味素を含んだ印象が湧く。いつの間にやら随分と紅葉が進んだなという感を受けた。近間の木の間からは、鵯らしき鳥の声が頻りに立ち上がっている。街道を渡った先の裏路地でも、先ほどよりも近くに見る森が、目にしていなかったこの数日のあいだに急速に色を変えたのではないかと思われた。前日に保安灯の彩りを見た空き地では、ショベルカーを出張らせて何かの工事を行っていた。
帰路は半月をたびたび見上げながら帰った。その他、特段の印象はない。帰り着くと足裏をほぐしながら(……)を読み、そののち食事に行った。(……)脚を組みながら、何やら随分と落着き払って、箸や腕の運びが丁寧なような挙措の食事だった。(……)ハワイにも出雲大社があるのだということを知った(……)。
入浴して室に帰ると、長めの労働だったので疲労感が強い。世の中の人々はもっと長く、しかも毎日働いているのだから本当に凄いなと思った。日課の類に取り掛かる気力が湧かず、ゴルフボールを踏みながらだらだらとインターネットを回り、二時をだいぶ過ぎたところでようやく書き物に入った。三〇分程度綴ればひとまず良かろうと思っていたところが、知らず一時間二〇分ほど続けていた。それでもう午前四時も近いのだが、読書をまったくしないというのは嫌だったので、ヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』を三〇分のみ読んでから(二二四頁から二三二頁)、瞑想をする気力もなくそのまま床に就いた。