九時に鳴るよう仕掛けておいた目覚ましに一度起こされた。立ち上がって時計を停めたものの、すぐに布団に戻る。しかし、前夜にゴルフボールをたくさん踏みつけたおかげもあって、眠気のもたらす混濁はさほどでなく、ひらいたカーテンのあいだから降る陽射しを顔に受けながら深呼吸をして、段々と意識を確かなものにしていった。九時二五分を迎えたところで起き上がると、心身の感覚は概ね落着いている。便所に行ってきてから、すぐに瞑想をするのではなく、蓮實重彦特集の『ユリイカ』をひらいた。布団を抜けてベッドの縁に腰掛けた際に、積まれた本のなかから『表層批評宣言』の背表紙が目に入り、この特集の巻頭インタビューのことを思い出していたのだ。具体的には、蓮實重彦自身が決して読み返したくない著作として、『表層批評宣言』と『小説から遠く離れて』の二つを挙げていたなと思い起こされて、何故かその発言の箇所を確認したくなったのだった(より些細な点にこだわると、この二作にそのように言及する際に、「告白すると」というような言い出し方をしてはいなかったかと、その点が何故か気になったらしかった)。そうと言ってしかし、該当の部分をすぐに探して確認するのでなく、部分的にしばらく文字を追ってしまい(そのかたわら、例によってボールを踏んでいた)、一〇時まで時間を使ったところで瞑想に移った。
食事を取るために上階に行くと、卵とハムをフライパンで焼いた。それを丼に盛った米に乗せ、ほか、前日の汁物やサラダを合わせて並べる。新聞からは、「スペイン国旗 なびかぬ町 バルセロナ近郊 独立支持75% 住民 強い民族意識」と、「ハマス、蜂起呼びかけ警告 米「首都エルサレム」認定なら」の二記事のみを読んだ。食後、食器を片付けて風呂を洗うと、ストーブのタンクを二つ持って外に出た。葉っぱが随分と散らかっており、自宅の敷地と道路の境に差し挟まれた砂利の地帯が半ば覆い隠されるようになっていた。勝手口のほうに回ってタンクに石油を補充し(……)作業を終えると屋内に戻り、手を洗って下階に帰った。
インターネットで電車の時間を調べると、一二時台後半のものがちょうど良さそうである。既にこの時点で一一時を回っていたはずで、正午には家を発つ必要があるから、もうさしたる時間はない。Oasis『(What's The Story)Morning Glory?』を流しながら体操をして身体を少々ほぐすと、歌を歌いながら服を着替えた。それから歯磨きをしていなかったということに気づいたので、口内を掃除し、出発に向かった。
道を歩き出したのだが、しばらくして、歩調のなかに何か妙な感触が混ざっているなと気づく。それで足もとを見下ろせば、左の靴の前面が割れかかっており、足を踏み出す際にそれがひらいて余計なリズムを差し挟むのだった。この靴も、もう二年くらいは履いているはずだから致し方ない。さすがにこれではと道を戻って玄関に引き返し、別の靴を履いて再度出発した。坂を上って行く。出口の付近で裸になっている樹の枝の、毛細血管じみて細く分かれたその先端までもが、白っぽい空を背景にして良く目に映る。と言うことは、この日の天気は晴れ晴れとしたものではなく、暗くはなかったはずだが、陽射しらしいものもこの時にはなくなっていたのではないか。道中について、特段の印象深さは残っていない。
駅前まで来ると、コンビニに寄ってATMを使い、財布に金を補充した。そこでついでに年金の支払いもしようかと思ったが、レジには人が並んでおり、また電車の時間を考えても数分しかなかったので、あとにしようと退店した。公衆トイレに寄ってから駅に入り、先頭の車両に乗って席に就いた。『ダロウェイ夫人』の文庫本を持ってきてはいたが、文を読む気にはならず、目を閉ざして心身を休める姿勢に入った。
道中のことは省く。代々木に着くと、改札を出てメールに返信し、壁を背にして駅舎と外の道の境あたりに立った。(……)を待ちながら、行き交う人々を眺める。山水楼という中華屋がすぐそこにあるのを、初めて明確に認識した。代々木には大学時代に結構来ていたのだが、その頃には何かを見る目というのがまったく養われていなかった。中華屋の二階の窓際に就いている人の姿や、一階のフロアのなか、人々が動き回る様子を眺める。ギターを背負い、エフェクターケースを載せた小型の台車を引いて通る女性がいる。それを見て、バンドをやっていた時代のことを思い出した。代々木には昔、PAN School of Musicという専門学校があり(一度潰れたということを聞いたような記憶があるが、さらにその後、名前を変えて再始動したと聞いた覚えもあるような気がする)、そこに通っていた友人に誘われてギターを弾いていたことがあるのだ。じきに(……)が来る。喫茶店(……)に向かう。入店し、二階に上がり、階段脇の席に就く。カフェインを断つことにしていたので、せっかくコーヒーが売りの店に来ながら、こちらは葡萄ジュースを注文した。
『ダロウェイ夫人』について、諸々話す。最後の一連のパーティの場面が何だかわからないが良かった、そのなかでも特に、ダロウェイ夫人がある青年(セプティマス)の訃報を聞き、一人で別室に行って物思いをする部分が良かった、という点で感想が一致した。こちらが話したのは概ね、一一月二六日の記事や一二月二日の日記に書いたようなことである。ほか、(……)が最近読んだという『暗夜行路』についての話など聞く。途中、男性が二人入ってきて奥の席に就く。そのうちの一人を一見して、(……)に似ているなと思った。本人なのだろうかと思ってそちらのほうをちらちらと窺い、また聞き耳を立てたところ、岩波書店の「世界」(のことだったと思うのだが)がどうのとか、(……)がどうの(……)がどうのという話をしていたようなので、多分当人だろうと判断した。そうしたこともある一方で、何故かわからないが、(……)の話を聞いている途中、突発的に尿意がやや高まりはじめて、それによる緊張に気を取られて、目の前の話をあまり細部まで集中して聞き取ることができなかった(……)。その時(……)が語っていた事柄というのは、『暗夜行路』には至るところに「不在」のテーマが見出されるようだということで、一応緊張を気取られないようにもっともらしく、重々しいような調子で相槌を入れることはしておき、話に区切りがついたところで、少々性急なようになってしまったと思うが、トイレに行ってくると言い出して便所に行った。用を足して戻ってくると、その後は特に困ることはなかった。(……)
四時頃に店を出たと思う。出るや否や、(……)に、奥の席に座っていた人を見ましたかと訊く。あれは多分(……)で、(……)の友人の人ですよと教える。話しかければ良かったじゃないですかと(冗談混じりに)(……)には言われたが、彼の著作は読んだことがないし、その著作を読んだことがある相手だとしても、自分はおそらくそのような振舞いはしないだろう。
新宿へと歩いて向かいながら、二か月前に読んだ(……)の小説、『(……)』の感想を告げる。ここで述べたことをまた細かく再構成して、改めてこの日記に記しておこうという気でいたのだが、いざこの段を前にしてみるとやはり面倒臭く思われてくるので、仔細に書き記すことはしない。要点のみ触れると、『(……)』は明らかに秩序だった構築への意思を持たずに場当たり的に書かれた作品であり、言ってみれば「失敗作」に当たると思われ、こちらとしても釈然としないような部分は多くあったが、しかしその一方で、話者の主体/人格に何かほかに類例がないような「奇妙さ」の気配を、幽かにではあるが感じ取ったようで、その点が気になったということが一つある。「奇妙さ」と言うとまず、冒頭のほうにもっとわかりやすい形の奇妙さ/わかりやすい奇妙さの形が一つある。話者は母親の飼っている蜥蜴を地中に埋めるのだが、そのたびに蜥蜴は「何事もなかったかのように」家のなかに立ち戻っている、そうした現象を受けて話者が導き出す論理として、「ぼくは埋めるという行為自体を信用しなくなった」と述べられているのだ。「常識的な」論理というか、蜥蜴を埋めてもそのたびにいつの間にか戻ってきてしまうといった場合、「お約束」としては、蜥蜴という「行為の対象物」のほうに何らかの特殊性が備わっていると考えるのが一般的ではないかと思うのだが(と言って本当にそうなのかあまり自信はないものの、少なくとも、我々はそのように考えることに慣らされているのではないかと思うのだが)、この話者は反対に(?)「埋めるという行為」そのものの全般的な有効性を疑うようになるわけである。これは、「詭弁」と呼ばれる類の論理ではないかと考える。要は、多分フランツ・カフカやローベルト・ヴァルザーや磯崎憲一郎あたりが良くやっている(と思うのだが、今、具体的なテクストの箇所として指摘することはできない)道筋の作り方(通常、分かれ道が見当たらないはずのところに無理やり抜け道を拵えてしまうというか、舗装された道から突然横に折れて林のなかに突っ込みはじめるような、言わば「獣道」的な進み方)と大方同じものだと思われ、これはこれでちょっと面白かったのだけれど、こちらがこの話者に感じたようである「奇妙さ」というのは、もっと得体の知れないようなもので、曖昧な印象であってどこからそれが生じてきたのかということは具体的に説明はできない。ただ、その萌芽があるような気配は幽かに覚えたので、この点をもっと突き詰めて探究し、一つのものとして展開できれば、それは面白いものになるのではないかという風に述べた。過去の小説のことも引き合いに出して、(……)はこうした「奇妙さ」とか、もう少し広く言って「狂い」のようなものを書くのが得意なのではないかということも伝えておいた。あとはやはり、今回の小説の場当たり性も踏まえて、ローベルト・ヴァルザーのようなものを書いて欲しいと、それも『盗賊』のようなものをいつか拵えて欲しいとこちらの希望も告げた。今は構築するようなタイプの作品に取り掛かっているらしく、それはそれで良いと思うのだが、そのようにして文を書く底力のようなものを養っていったあとに、思いつきだけで適当に作っていって、何だか知らないけれどそれが偶然うまく行ってしまった、というようなものを(……)には是非とも作って欲しいと望むものである。(……)
(……)新宿駅南口に出る。巨大な人波のなかに紛れて、やけに広い横断歩道(くるり "グッドモーニング")を渡る。東南口のほうへ折れる。道の脇で、男性が一人、北朝鮮がどうのという演説をしている。いつもここで誰かしらが演説をしていますよねと(……)と交わしながら、過ぎる。(……)に、来年の目標はありますかと訊かれて、間髪入れずにないです、と返す。自分でも笑えるような反応の速度だった。東南口の階段を下り、左に折れて、しばらく行ったところで街中に入り、紀伊國屋書店へ向かう。
二階の文芸のフロアに入り、例によって海外文学あたりから見ていく。意外にもパク・ミンギュ『カステラ』がなかったので、あとで立川に寄るかと考えた。しばらくして、日本文学の棚の付近にいた(……)と合流し、何か良いのはありましたかと訊くと、後藤明生コレクションを示す。あるいは、坂口恭平が俺はドゥルーズだと豪語している例の、小説なのか何なのか知らないがその作でも良いという話で、こちらはどちらでも良いと(……)に選択を委ねると、それでは後藤明生にしましょうと決定された。五巻あるコレクションのうちの、後期のテクストを揃えた四巻目を読むことになった。(……)一冊のみ残されていたそれをこちらが保持し、その後文庫のほうに行って適当に見て回る。このあたりでこちらは、尿意が股間のあたりを内から刺激するのがやや気に掛かっていたが、トイレに行こうと思えばすぐに行けるのだと考えて慌てずにやり過ごしつつ、本を眺めた。どういうわけなのか、歩いているあいだでなく、立ち止まって本の背表紙に記されたタイトルを注視していると、感じられるものが強くなってくるようだった。しかしそののち、階を上がって哲学/思想のコーナーを見ているうちにこの尿意はいつの間にか消散していたようである。ここも結構長く見て回って((……)は日本の思想の棚の前で、ずっと何かを立ち読みしていたと思う)、奥の壁に沿った棚にある社会学のコーナーも見てみると、いくつか気になる本が見られたので、手帳にメモを取っておいた。池田今日子『ユダヤ人問題からパレスチナ問題へ』、P・スローターダイク『シニカル理性批判』(これはわりと色々なところで名前を目にする気がする)、レス・バック『耳を傾ける技術』(これはいずれ購入するような気がする)、ジュディス・バトラー『権力の心的な生』『自分自身を説明すること』(フーコーの権力/主体論を継受し、精神分析的な視点も活用して補完したような仕事だと聞いた覚えがある)である。哲学のコーナーにはいくらでも欲しいものがあるのだが(こちらは一応、生の本意として小説を書きたいと思っているはずなのだが、棚を回っていると、文学作品よりも哲学/思想的な著作のほうが明らかに食指を動かされるものが多いのはどういうことなのか)、この日はミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』のみを購入することにした。これは先日来、岩波現代文庫版を探していたもので、今回見つけたのは「岩波モダンクラシックス」版の単行本のほうなのだが、文庫はどこの書店を見ても見当たらないし、もうこれで良かろうと購入を決断したのだった。ほかには、ダン・ザハヴィ『自己と他者』という著作があって(この人の名前は、地元の図書館に『自己意識と他性』という著作が入っていたのを見て知った)、最近出たばかりのもののようで、めくってみると大変に興味を惹かれる感覚を覚えてこれも買ってしまおうかと思ったのだが、新刊だからきっと立川の本屋にもあるだろうと考え、ここでは留まった(しかしその後訪れた立川の書店には、何故か入荷されていなかったのである)。
出ると六時である。駅へ向かう。(……)
改札に入ってまもなく(……)と別れる。その後は電車内で非常に自足的な気分になっていることに気づき、人々の顔がきめ細かくくっきりと目に映って、古井由吉が『白髪の唄』で明視感ということを取り上げ、雑踏の人々の顔がことごとく「羅漢さん」に見えるというようなことを書いていたのを思い出し、あれは小説だけれど現実にそういうことも確かにあるのだろうなと得心が行く、ということがあったりもしたのだが、面倒なのでこれ以上詳細には記さない。立川で降りてラーメンを食い、本屋の前にHMVに寄りもしたが、ここでの詳細も割愛する。音楽は何も買わずに書店(オリオン書房)に入って、パク・ミンギュ『カステラ』を保持し、ここでも哲学の棚を見る。トマス・ネーゲルの著作三つ、『どこでもないところからの眺め』『理性の権利』『コウモリであるとはどのようなことか』が揃って所在されていたので、以前から少々(考えてみると、この「以前」とは遠く大学時代からのことである。大学生協の棚にも彼の著作があるのを目に留めていた記憶が今蘇ってきた)気になっていたそれらを改めて手帳にメモしておく。ほかの本屋ではもう大方売れてしまっている『ミシェル・フーコー思考集成』が、ここには棚の最上段に一〇巻中の八巻分くらいは揃っていて、こちらがもっとも気を惹かれている第一〇巻、第九巻もあるものだから、勢いに任せていまここで購入してしまおうかとも考えたが、やはりさすがに一巻六五〇〇円には心が怯む。荻窪の(……)にでも一〇巻セットで揃って三万円くらいで売ってはいないだろうか?
その後、Oxford University Pressから出ているVery Short Introductionsのシリーズがどこに行ったのかと移ったあとを追って語学の区画に所在を確認し、また先日は見付けられなかった『ロトの紋章』続編の居場所も発見しておいてから、ミンギュのみ買って店をあとにした。これ以降の生活についても色々と記録したかったことはあるが、この日から一二日が経過してしまった現在、億劫な気持ちが先に立つので省略し、この日の日記はここまでとする。