2017/12/8, Fri.

 まったくもっていつも通りの覚醒から起床の流れである。九時頃に一度覚めたものの、結局はだらだらと寝過ごして、正午前に至ったところでようやく意識を確かなものとした。洗面所に行き顔を洗って、用を足してくると、窓をちょっとひらいて瞑想を行う。この正午にも、長閑なような烏の声が聞こえてくる。深呼吸を繰り返しているうちに、瞑想は何だか心地の良い状態に入りこんで、呼吸そのものの動きがほぐれたような感じになり、自ずと三〇分間続いた。目をひらくと、湯を浴びて肉体を流した時にも似たような、さっぱりとした心持ちになっていたようである。そうして上階に行くと、炒飯や前晩の残り物などで食事を取る。この日は寒々とした曇天であり、雨が来るような雰囲気もないではなく、新聞の天気予報を見れば長野などでは雪となるらしい。記事のなかからはやはりエルサレムの話題を追い、一時を回ったあたりで席を立って食器を片付けた。風呂洗いをして室に帰ると、ここのところ日記を読み返していなかったからとまずはそれを行うことにした。二〇一六年一一月二四日の分である。この日は東京では五四年ぶりとかで一一月に雪が降ったという珍しい日であり、そうした希少な自然の様相に交感させられたのか、読み返していてもなかなかに良いと思われる描写がいくつもあったので、下に引いておく。

 「ものを食べながら見やる窓は、結露が周縁から黴のように侵蝕して、外部の明確な像を保っているのは真ん中あたりの小さな範囲のみである。ぼやけた部分の向こうには白さが、形を成すことなく曖昧に広がって、そうして窓のほとんど一面が白さで繋がれると、いかにも降雪のなかに閉じこめられているような感じがした」

 「緩く角度を作ってゆっくりとした降りの雪片が、あとからあとからやって来て去ったもののあとを継ぎ、宙を埋め続けて流れの途切れる隙もない。そのうちの一つに目を寄せてみれば、無害な虫のようにも見えて、すると途端に、目の前を落ちていく大群が、降っているあいだだけきらめく生命の粒の様相をかすかに帯びる。その網の向こうで、林の木々は黄褐色やら臙脂やらに色付いているが、その上にもまた白さが乗って彩りを差し挟んでいた」

 「一段ずつ下って行き、また上がって行くあいだ、フードで区切られた狭い視界の外から、それこそ力尽きた羽虫のような雪の欠片が零れ落ちてきて、地に到ればその小さなもののなかにも厚みがあってそれぞれ特有の形の歪みを持っているようで、一挙にではなくじわじわと、寄り集まったものが少しずつ剝がれていくように、白さが諸所から失われて行き、苔の長く棲みついて同化し、濁ってしまったかのような段に染みこんで、無色になる」

 「まだ二時半そこらとあって、室は明るい。磨りガラスの窓には勿論白さが宿っているが、そこから入ってくる明るみも、タイルの壁に掛かればくっきりと平坦に白く、そこからさらに湯気の合間に広がって、これほど明るい時間に風呂に入ったことは長くないから、何とはなしに気分が良かった」

 「路上にはそれでも、氷の欠片がまだいくらか、薄く貼り付いて広がっている。目を凝らして、その罠のもっとも薄いところを見極めて通って行くのだが、見通すと先のほうのアスファルトは、濡れた表面に雲の逃げはじめた空の色を映し返して、薄青く発光している。そのなかにぽつぽつひらいている水溜まりは、そのまま鏡で、淡青の合間に降り残しのような雲がうろつく空を、くっきりと取りこんでいる。その発光も鮮やかな像も、近づいて足もとになれば色味を失って暗く沈むのだが、先に視線を転ずれば、また新たな反映が生まれているのだった」

 「最寄りに降りて、階段を下りると、通路を抜けたほとんどその一歩目から触れんばかりに、あたりには楓が落ちて足もとを埋め尽くしており、和紙の小片を貼り合わせて、視線を滑らせればその行き先が赤と黄と茶の色が不断に移り変わるなかに囚われてしまうような、調和的な抽象画を作ったようになっている」

 過去の日記を読むと間髪入れずに書き物に移って、前日の記事を仕上げ(正確には一事項、長くなりそうなものを後回しにしてまだ記していないが)、この日のこともここまで記録すると現在は二時四三分に至っている。一時間ほどで記述を生活に追いつける、手早い仕事ぶりである。しかし現状、一二月一日と四日の記事がまだ仕上がっていない。前日の記事は随分とすらすらと綴ることができたのだが、これは昨日のうちに折に触れて生活の端々を思い返しておいたためだろう。特に風呂に入っているあいだや、瞑想の時などに記憶に触れてその形と流れを再構成しておくのだが、そのようにして頭のなかで先に「書いてしまう」ことができれば、いざコンピューターに向かい合った際の仕事も楽になるに違いない。
 書き物に切りをつけたあと、一旦室を出て上階に上がった。洗濯物を畳もうかと思って居間の隅に吊るされたものに近づいたが、触れてみるとこの冷たい曇天で(また、ことによると気付かないうちに雨も降っていたのかもしれない)大して乾いてもいないのでひとまず捨て置き、アイロン掛けを行った。手早く済ませると、まだエネルギーを補給することはせずに、ふたたび下階に戻った。とにかく、音楽を聞きたかったのだ。ここのところ音楽というものに耳を傾ける時間が取れていなかったので、久しぶりにそれを享受したかったのだが、労働を終えたあとの夜だと大概疲労感のために、眠気にやられて音を仔細に聞き取ることができないので、意識が明晰なうちに僅かであっても時間を取っておかねばならないと思っていた。一日のうちで音楽というものに集中して意識を寄せる時間をまったく取れないというのは、こちらとしてはやはり勿体ないことだと思う。自室に戻ると三時直前、出かけるまでに残り時間もあまりないが、まず身体をほぐすことにして、Oasis『(What's The Story)Morning Glory?』を流して軽い運動を行った。脚を前後にひらいて伸ばしたり、また左右にひらいて腰を落としたまま身体を停止させたりと、肉体を柔らかくして温めると椅子に腰を据えて、音楽を聞きはじめた。と言って、時間は少なく、Bill Evans Trioの"All of You (take 1)"と"Waltz For Debby (take 1)"の二曲を聞けたのみである。しかし、身体をほぐしたためだろうか、それとも朝に瞑想を重点的に行ったので心身が良く調律されていたのだろうか、聴覚的視界のなかに展開される音群がいつもよりも鮮明に見え(という風に、「聞こえる」と言うよりはどうしても視覚の比喩を使いたくなってしまうのだが)、"All of You (take 1)"のあいだには右方に次々と連なって繰り出されるBill Evansのフレーズの、その一つ一つの音の粒が実に際立って浮かんでくる。それを追っていると、やはりここでのBill Evansの演奏はとんでもないものではないかと思われた。一九六一年のBill Evans Trioの"All of You"はtake 1からtake 3までどれもそれぞれ異なった表情を持ちながら甲乙つけがたい名演の一揃いで、ここにはどうも得体の知れない複雑さが現前しているのではないかという直感を以前から抱いてはいる。その直感にしたがって、音楽を聞くという時には基本的には必ず最初にこれらの"All of You"のうちの一つを聞くという原則を設け、何度も繰り返し耳に通しているのだが(以前は毎回take 1ばかりを聞いていたので、プレイヤーの履歴を見るとこれは今までに六三回再生されている)、聞いている最中に何ら観察や分析というものが浮かんでこず、得体の知れなさの正体をまったく掴めないままである。と言って別に批評をやりたいわけではないので殊更に何らかの知見を得たいとは思わず(しかし六一年のBill Evans Trioの達成したものを(インタープレイがどうのこうのなどと手垢にまみれきった用語を使って安易な納得に安住するのではなく)具体的に[﹅4]かつ徹底的に[﹅4]分析し、明晰に論述(言語化)するという仕事は、おそらくまだ誰も成し遂げていないはずであり、誰かがやらなければならない仕事でもあるはずだとは思う)、ただそこにある音のすべてを記憶したいと思って何度も聞いているのだが、これが全然覚えられないというのがこの"All of You"の不思議なところだと今日改めて実感した。(……)
 その後ふたたび瞑想を行って二五分間座り、上階に行った。ゆで卵か何かを食べて僅かばかりの栄養素を補給し、歯磨きをしたり服を着替えたりしたのち、出発したのが四時三五分頃だった。玄関を抜けて軒下から手を出せば微かではあるが落ちるものがあるので、傘を取って差して行く。路傍の楓がもうその葉を小さく縮めて萎えさせて、燃え尽きたあとの花火の風情であり、薄暗んだ青さの空を向こうにいかにも乏しい。道中は勿論、明確に寒かったはずだ。服の内で肌の表面が毛羽立つようになっているのがまざまざと感じ取られる冬の気だった。
 その寒さのなか夜道を長く歩くのも気後れするようだったし、翌日は朝が早いということもあったので、帰りは電車に乗った。最寄り駅からの道に特段覚えていることはない。帰るとまだ一〇時前、気楽な室内着に服を替えるとコンピューターを立ち上げて、(……)を読んだ。それから、自然と気が向いてこの日の日記を綴りはじめた。ボールを踏んで足の裏を柔らかくしながら四五分間進めて、疲労が多少軽くなったところで、瞑想を行った。帰宅後の瞑想は以前には習慣に組み込んでいたのだが、腹が空になっていることに加えて疲労も高じているので、やっていると眠気が寄ってきたりして座っているのが苦しいようなのでいつか途絶えさせていた。しかし、ボールを踏みながらちょっと休んでからやればそうした障害も多少緩和されるので、また習慣化できればそうしたほうが良いだろう。食事のあいだのことについては覚えていないけれど、夕刊には例のエルサレムの話題が出ていたはずで、それを追うことはしただろう。一一時から始まったものだったかと思うが、テレビのニュースはスウェーデンにいるらしいカズオ・イシグロにインタビューをしたと伝えて、女性アナウンサーがのちに報じるその談話に触れて、彼が作品を通して訴えたかったメッセージとは、という風な紹介の文句をあまりに安々と口にするのには、やはりげんなりさせられる。この世界がそういうものであり、これからもそういうものであり続けるということは重々承知しているし、「訴えたいメッセージ」というものが作家のほうに[﹅6]ある(とその作家当人が自認する)ならばそれはそれで悪いことではまったくないとも思うが、しかし同時に、このような言葉が何の疑問も伴わず滑らかに発せられて清々しいような顔で堂々と闊歩しているのを目にする時には、そのたびにどうしても、多少なりともうんざりとするような気分が滲むのを禁じ得ないというのが、こちらの体質/生理である。
 入浴するともう日付が変わるのも間近だったと思う。翌朝は六時には起きるつもりで目覚ましを仕掛けたので、さっさと眠るべきなのだが、床に就く気が湧いて来ず、と言って日記を記したり本を読んだりするでもなく、だらだらとウェブに遊んで二時半に至った。そうして二〇分間瞑想をすると就寝である。