ほとんど掴みどころのないうっすらとした記憶だが、一〇時台、一一時台にそれぞれ一度覚めたのではないだろうか。正式な覚醒は一二時二五分になったが、五時五分からの睡眠として七時間二〇分だからこちらとしてはそう悪くはないと思う。このまま深い呼吸の瞑想を毎日重ねていれば、睡眠もある程度は自ずと短くなっていくのではないかと、そのような予感/見通しはそこそこの確かさで感じられる。心身を平静かつしなやかに保つとともに、できるだけ広範な物事に関心を持ってそれらを自己の内に取り入れ、義務的な事柄もそれなりにきちんとこなし、自らの生活/生を締まりを持った定かなものとして形作って行きたいと望むものである。
ここ二、三年のあいだは、現在が人生のうちで一番健康であると明確に言える心身の状態を更新し続けている体感があるのだが、こうなってみて初めて健康というもの、また若さと呼ばれるものが実感としてわかったような気がする。パニック障害になって以降は勿論のことだが、それ以前も自分の体調というのは、多分ほかの人々と比べて全般的に低調なほうだったのではないかと今となっては推測される。そもそも、高校生の時分だってあとから考えればパニック障害の前兆だったと思われるような体験はあったのだ。そうした体調の低空飛行ぶりには、やはりナイーヴさ、「傷つきやすさ」、自意識過剰などの心的傾向から来る精神的負荷が寄与していたのではないかと考えるものだが、その点について突っ込んだ分析は今はしない。ここのところこちらが理解できたように思うのは、世の健全なと言うか、元気に溢れているほうの一〇代二〇代の若者というのは、多分こうした/これ以上の心身の(あるいは精神はともかくとしても肉体的)充実を持っていたのだなということで、そうだとすればそれは徹夜もできようし、遊び歩くこともしようし、恋愛にも耽ろうしセックスだって愉しむだろうなと得心される気がするものだ。
起床時の瞑想は二〇分間行った。目を閉じて長い呼吸を続けながら自分の身体の感覚を注視し、内のほうがほぐれて軽くなってきたなというところで目を開けたのだが、体感としては二〇分以上、三〇分くらいは行っていたように覚えて、時計の進みが短く感じられた。そうして上階へ。(……)前夜の鍋を熱し、そのほか酢と葱を混ぜた納豆を用意する。新聞からは一面の、「伊方原発 差し止め命令 広島高裁 南西130キロ 「阿蘇火砕流 恐れ」」の記事のみを読んだ。そうして例によって食器を洗い、風呂の浴槽も洗ってから下階に帰る。それで一時半だろうか、Twitterを覗いたり(Twitterにはもう大方用はないが、情報収集ツールとしては使えなくもない)、Evernoteに記事を作ったりしてのち、日記の読み返しに入った。二〇一六年一二月五日月曜日を読む。それで二時を越える(……)。読み返しは一日分のみにして上階に行く(……)。まもなく洗濯物を取りこみはじめ(……)、タオルを畳んだ。そうして下階に帰る。一年前の日記に浅田彰の書誌情報をまとめたページがリンクされており、そのうちの映像の欄を見れば、磯崎新を交えてジャック・デリダと鼎談した番組などというものがあったらしく(確かNHKと書いてあったと思うが、凄い時代ではないか?)、youtubeのURLが付されていたのだけれど、もはやその映像は視聴できなくなっていた。そこから触発されて、こちらの見ていない浅田彰の映像はインターネット上に転がっていないかと検索したところ、目新しいものは何もなかったのだが、シンポジウム「ネットワーク社会の文化と創造」というニコニコ動画に上がっているものをまだ視聴したことがなかったので、この機会にちょっと覗いてみることにした。当初はほんの少しだけ目にして書き物なり何なりに移るつもりでいたのだが、結構面白くて止め時を見出せず、玄関前の掃き掃除も怠けて結局そのまま一時間半以上視聴し続けてしまうことになった。浅田のほかには宮台真司、斎藤環、それにこちらには初見の名だったが藤橋何とかと言ってアーティストだという人が参加していた(今しがた確認したところ、藤橋ではなくて藤幡正樹という人だった。/現在は一二月一五日の午前二時である)。浅田は例によって司会進行役、そしてほかの三者がそれぞれプレゼンテーションをしてから話を回すというような流れだったが、四分割された動画の三つ目、藤幡がこれから発表を行おうというところまで見て切り上げた。既に四時直前で、出かける支度をしなければならなかったからである。
上階に行き、(……)ソファに腰を掛ける。(……)ゆで卵を一つ食べて僅かばかりの栄養素を補給すると下階に帰って、歯磨きや着替えをした。着替えたのちに歌を歌っていると、また予定の時間を過ぎてしまう。
四時四五分過ぎに出発である。(……)萎えきった楓の向こうに、薄青く暮れた空を見る。確か雲が溶け混ざっていたのではないか。(……)辻ではちょうど行商の八百屋のトラックが到着したところで、通り掛かると八百屋の旦那は周囲の家々に到着を知らせて呼びかけているところで(インターフォンを鳴らすわけでもなく、外から「まいどーっ」と声を上げるのみだった)ちょっと距離があったので、挨拶はせずに通り過ぎた。そろそろコートを着ても良い寒気なのだろうが、どうももう一枚羽織って身の周りを厚くする気にならない。裏路地の中途の空き地には例によって保安灯が並べられており、明滅して静かに騒ぐその明かりを手前から見据えると、光の形がものによっては蝶の姿にも映るようだった。
路程の中ほどから、何となく排便の欲求が滲まないでもなかった。実のところ、家を発つ前にもトイレに行っておこうかと思っていたのだが、時間が遅くなってしまったので室に入らずに出てきたのだった。さほどのものではなくて、別に解消せずとも勤務中、容易に耐えられるだろうとも思われたが、一応万全の状態にしておくかということで、駅前に出る手前で図書館分館へと曲がった。そうしてトイレに入ったところが一つしかない洋式の個室が埋まっている。とりあえず小便器に向かいあって放尿しつつ背後の気配を窺ってみたのだが、携帯電話を操作しているらしき音が微かに聞こえてくるので、これはすぐには出ないなと判断して手を洗い、館をあとにした。ここが駄目だとなると、寒いだろうからなるべくならその手は取りたくなかったが、駅前の公衆便所に行くかと決まった。そうして薄汚れたような暗い建物に踏み入り、個室のなかで便座に腰を掛ける。尻が大層冷たいだろうと思っていたが、予想したよりも全然弱い冷たさだった。足もとは清掃時の水がまだ乾いていないのだろう、濡れてじめじめしており、目の前のくすんだ壁には落書きが見える。こういうところにお定まりで卑猥語の類が連ねられているのだが、それが横にまっすぐ並ぶ文字の二列になったもので、几帳面な落書き者だと思われた。いざ座ってみると糞は腸のなかからほとんど出てこなかったのだが、ともかくも始末を付けたところで、職場に向かった。
帰路は寒いなかを歩くのが嫌がられたので電車を取った。駅に入って車両に乗り込むと、席の一つに横になっている男性がいる。初老というほどの年頃である。そこから向かいの扉際に陣取り、ガラスに映る男性の姿を窺いつつ、大方酒を飲んだあとだろうが体調が悪くなってはいないだろうなと思っていると、乗り換えの客がやってきた時の物音で目を覚まし、呆けたような顔ではあったが身体を起こしたので、大丈夫そうだと判断した。最寄りで降りて、急がず帰途を歩く。空は曇って淀み、星がない。
帰り着くと、(……)前日と同じようにストーブの前で深呼吸をして温まり、そうして手を洗ってから室に帰った。服を着替え、コンピューターを立ち上げて他人のブログを読むと、そのまま日記を記しはじめた。ともかくも、なるべく記憶と現在時刻の距離が離れないうちに記録をしてしまうのがやはり肝要であり、書いていて面白くもあるだろうと考えたのだ。その日のことはなるべくその日のうちに記し、記述をそのたび現在時に追いつけることができるのが良い(ずっと以前はそのようにやっていたはずである)。と言ってこの時綴っていたのはまだ前日の一三日のことで、三〇分ほど書いて仕上げると食事を取りに行った。
(……)食事を終えたあとにこちらは何となく眠たくて頬杖を突きながら目を閉じている(……)食器を洗い、(……)白湯と菓子を持って自室に帰った。(……)風呂を待つあいだにここでは岡崎乾二郎「抽象の力」を久しぶりに読み、ようやく最後まで辿り着くことができた。そうして零時を回ってから入浴に行き、出てくると零時半過ぎ、室でふたたびコンピューターに向かい合い、新聞記事の書抜きを始めた。随分と遅れ馳せだが、一二月六日と七日の版から中東関連の情報を写しておき、すると一時、一二月一四日の記録に移った。一時間行ったところで区切りとして、歯磨きをしてから読書である。パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳『カステラ』を読むのだが、寝転がっているとやはり眠気が湧いてくる。身体を起こしてベッドの縁に座りながら頑張っていたけれど、三時四五分に至ったところでもう眠ろうと決まって、瞑想もせずに明かりを落とした。緑茶を飲まなくなって心身が落着いたのは良いが、眠気のために活動を切り上げなくてはならないのは如何ともしがたい(おかげで入眠に苦慮することもなくなったわけだが)。