九時になるころに一度覚めて、ふたたび寝付いてしまったが、この朝は一〇時五分には瞼をひらいたままにすることができた。前晩に、とにかく睡眠というものを無理なく短くしたいと強く願っておいたのが頭に働いて、目をひらこうとする意志を強くしたのかもしれない。睡眠時間としては相当に久しぶりのことだと思うが、六時間台に留まった。ダウンジャケットを羽織り、窓をひらいて瞑想を行う。犬の吠える声が遠くから聞こえ、それに重なるようにして幼児の声もどこかで立っていた。二五分を座ると上階に行く。前夜の残り物(ベーコンとエリンギとピーマンの炒め物など)を温めて卓に並べる。ものを腹に入れながら新聞を読む(「パレスチナ イランと会談 検討 米と関係悪化 不可避」(九面)、「「首都」認定 独で抗議 政府「反ユダヤ主義」警戒」(九面)、「在パレスチナ大使館 東エルサレムに開設 トルコ大統領意向」(九面)、「欧州の選択 カタルーニャ問題: 独立への賛否 拮抗 州議会選 過半数へ「中立派」カギ」(九面)、「駆逐 「イスラム国」5: ネット 組織拡大の要 戦闘映像 「劇的」に編集」(八面)、「立民、独自路線に固執 民進・希望の統一会派 警戒」(四面)、「憲法考5: 与野党合意 模索の自民」(四面))。窓の外に見える山の姿は、まだ正午前で陽が高く光線が傾かないのだろう、朗らかな色に霞まされることなく、むしろやや青く沈んだようになっていて、そうした様子を目にしたのも考えてみれば久しぶりのことである。食事を終えると風呂を洗い、自室に帰った。
正午前から早々と日記を書きはじめたのだが、しばらくすると人が帰ってきた物音がする。この日、母親は(……)(母親の妹=叔母)と一緒に墓参りに行っており、それを済ませて戻ってきたのだ。挨拶に出向かずに打鍵を続けていると、そのうちに呼ぶ声がするので中断し、机上に溜まっていた新聞を一気に抱えて上階に行った。階段を上って居間に出ると、すぐ前、卓の脇に(……)がいたので、相手が振り向くのを待ってお世話様ですと挨拶をして、室の隅に新聞を片付けておく。卓上にはオリジン弁当で買ってきた幕の内弁当や食器類が並んでいて、団欒の気配だが、こちらは先ほど食べたばかりなので弁当は食わないと明言した。しかしそれで室に去ってしまうというのも味気がなかろう、汁物を熱して二人分よそり、卓に並べたり、サラダの皿を運んだりして、こちらも食卓に就いた。母親と(……)は小さなグラスにビールを注いでいたが、こちらのそれはジュースを飲む気にもならなかったので空の状態、しかしそのまま乾杯が始まってしまったので、空のものを打ち合わせるという妙なことになった。腹はほとんど減っていなかったので、漬け物などをちまちまとつまむ。
例によって会話にはほとんど参加せず、向かいで母親と(……)が話しているのを散漫に聞いたり、テレビが映し出しているNHKの連続テレビ小説を見やったり、窓の外をぼんやりと眺めたりしつつ、白菜の漬け物を一枚一枚薄く剝いで口に運ぶ。(……)それで、例えば一〇代から二〇代に掛けての数年間というのは、外形的にも非常に変化の激しい時期として良く言われると思うが、五〇代から六〇代の、老いに差し掛かる頃の数年というのもことによっては、劣らず変化の甚だしい時間なのではないかなどとちょっと思いもした。ほか、朝晩歩いているという生活習慣の話があったり、のちにエネルギーを補給しに来た時に聞いたものもここにまとめてしまうと、(……)が(……)やはり一緒に歩いているという話があったり、(……)の会社の人間関係のことが聞かれたりして、最後のトピックは少々細かく書き付けておきたいような気もするが、今はそうするだけの意志が湧かない。あとは、テレビの話になった時に(……)が、具体的な番組名は忘れたが二つくらい名前を挙げて、それが週末の楽しみ、と口にしたのを聞き、自分には「週末の楽しみ」というような発想がまったくなかったなと気づき、ちょっと驚いたというか、新鮮さのようなものを感じた瞬間があった。こちらとて、日曜日は労働がないから気持ちが楽になるというくらいのことはあるけれど、基本的に平日だろうと休日だろうと、一年中どの日であろうと、自分の生活の中核は書くこと・読むこと(場合によってはさらに聞くこと)であり、毎日の中心が変わらないので、平日/週末という区別がそこまで截然としていないのではないか。(……)などの場合は、平日は家事やパートなどの義務的な事柄に大方占領されてしまい、言わば「オン」の日が続くので、「オフ」である週末の土日が気の休まる、趣味的・娯楽的な時間として際立ってくるのだろう(「普通に」働いている世の大抵の人々の生活意識は、多分大方そのようなものなのだろう)。
一時になったところで区切りとして、食器を片付けて自室に戻った。そうしてふたたび、一二月一八日の記事を綴る。二時前で止め、そこから運動を始めるまでのあいだに二〇分ほどあるのだが、このあいだに何をしていたのか定かでない。その後、Robert Glasper『Black Radio』を流しながら運動を行い、身体がほぐれると上階に行った。二時半過ぎだった。ゆで卵と即席の味噌汁を摂取しながら、上に記した話などを聞いた。ものを食べ終えると、母親と(……)が茶かコーヒーを飲みながら談笑し続けている傍ら、炬燵テーブルの上に台を出してアイロン掛けを行った。済ませて下階に戻ると歯磨きをして、その後便所に入って糞を排泄していると、上階から(……)がこちらの名前を呼び、またね、と言ってくるのが聞こえる。ひとまず返事をしながら急いで尻を拭き、水を流して室を出ると手を洗って階段を上った。そうして玄関に出て行き、帰途に就こうとする(……)を見送る。また遊びに来な、と言っても皆いる日があんまりなくて誘ってやれていないけれど、と言うのに、誘ってくれれば(……)の相手をするよ、と返して一緒に笑ってから、別れた。そして下階に戻り、Oasis "Wonderwall"を流しながら着替えて、出勤に向かう。
三時半である。陽はまだ山の前にいくらか残っている。街道を越えて裏通りに入ると、森にも暖かい色が掛けられており、空は見た限り雲の残骸も見えず晴れ晴れとしている。視線を上げて、色づいている森のほうを眺めながら進む。家並みの合間に、先日一軒の崩されて空になった敷地が現れ、前に見た時には塀に囲まれたその奥の角に柚子の樹だけが残っていたが、この日にはそれももうなくなっており、その一角の土の上に樹や葉の残滓だろうか、粉を振りかけられたようにちょっと色の変わった部分が見られた。首を横に曲げてそちらのほうを見るままに過ぎると、線路の上の電線のあいだを上下に繋ぐ金具が光を溜めて輝く。顔の向きを前に戻すと、今度は反対側の広い空き地に接してある一軒のガラスに陽が移って膨らみ、進む歩に応じてそれもすぐに見えなくなったと思えば次には右手の背後のほう、家々に隠されていた太陽の本体が西空に出てきて視界の端から眩しさを送り、左手に続く白い塀が投射された明かりで仄かに色づいていた。
労働中については特にない。この日は長丁場だったが、前日と同じくほとんど心を揺らすことなく、落着きを保って過ごせたと思う。しかし疲労のほうはこごって、終わる頃には頭痛が始まっていた。それで帰路は長く歩かずに電車に乗ってさっさと帰ってしまいたかったのだが、間に合わなかったので結局冷え冷えとした夜の路地を行く。「実践的芸術家/芸術的実践者」、ヴィパッサナー瞑想―言語化・対象化・相対化・メタ認知―精神の平静―観念の解体―ある場/瞬間における意味・力・作用の網目を把握してそこに介入すること、などといった一連のテーマについて、歩きながら思いが巡ったが、それらに理路を付けて記述するのは面倒臭い。
帰宅する。日記の読み返しをしている。二〇一六年一二月八日の記事なのだが、この日の夜には「マツコ・デラックスとナインティナインの矢部が、ゲストを招いて話を聞く番組」を目にしており、そこで「桑島智輝」という、安達祐実の夫であるカメラマンの「プロジェクト」を知って、多少の感銘を受けている。それは妻たる安達祐実の写真を生活の折節に撮り続け、彼女が死んで棺桶に入ったさまを写真に収めるところまで行って、安達祐実「全記録」のようなものを拵える、というようなものなのだが、言うまでもなくこうした試みは、死ぬまでのすべての一日を余さず記録に残したいというこちらの欲望と響き交わすところがあるわけである。桑島氏の試みは、この一年前の番組収録の時点で写真にして二万三〇〇〇枚を数え、アルバムで七五冊目が進行中だということだった。写真によって他者の断片を切り取り続ける彼の試みは順当にうまく行くと「完結」してしまうのだけれど、日記というものは自分の死を記録することができないがゆえに決して完結せず、どうあがいても中途半端なところで未完になることを運命づけられている、それが日記の良いところだなどと書いているが、現在から見るとこうした考えはやや単純過ぎるようにも思われる。その周辺の記述をこの日の日記にも引いておき、食事を取りに行った。晩餐は昼に食べなかった弁当で、一つ一つの具材を口に運びながら、何か妙に美味いな、という感じがした。
その後多分入浴して、室に帰ると瞑想をする。昨日(一二月二〇日)は怠けてしまったが、風呂を浴びたあとの身体が温まっている状態で瞑想をするという習慣を取り入れるとより良いのではないか。そうして零時を越え、少々本を読んだあと、それぞれ三〇分くらいの単位で遊び、文を書き、その後音楽を聞く。Bill Evans Trio, "All of You (take 1)", "Gloria's Step (take 3)"、THE BLANKEY JET CITY, "僕の心を取り戻すために", "胸がこわれそう"(『LIVE!!!』: #3,#12)、Art Tatum, "Yesterdays", "I Know That You Know", "Willow Weep For Me"(『Piano Starts Here / Gene Norman Presents An Art Tatum Concert』: #8-#10)、Wes Montgomery, "Four On Six"(『Smokin' At The Half Note』: #4)で四五分ほどである。三テイクある"Gloria's Step"はこのテイク三が一番面白いような気がする。冒頭の無闇な三連符の連打からして明らかだが、Scott LaFaroの演奏のテンションが何だか高いようで、「蛮勇」とも言いたくなるような振舞いを見せているからである。Wes Montgomeryは、その前に"Willow Weep For Me"を耳にして、Wesのこのアルバムでも演じていたなと連想が働いたのだが、しかしその曲ではなくて"Four On Six"を聞いた。久しぶりに流したものだが、改めて聞いてみると例のオクターブ奏法がこんなに滑らかだったかと少々驚かされる。ソロの途中に半音ずつ推移して行く場面や、終盤ではスライドを繰り返す場面があったと思うが、乱れや途切れ目がまったくなく良く滑る質感だった。
音楽を聞いたあとは(……)四時前から本を三〇分ほど読み、瞑想をしてから床に就いた。