六時起床。携帯電話のアラームの音で眠りから強制的に引っ張り出される前に、何らかの夢を見ていたはずだが、覚醒とともにまったく失われてしまった。ベッドを抜け出し、反対側の壁の手前、積んだ本の上面に置いておいた携帯を手に取り、響きを停める。そのままその場に立ち尽くして息をつき、身体が眠りの鈍さを脱するのを待つ。部屋は薄暗闇に包まれていた。非常に冷たい空気だった。ベッドに戻ってカーテンをめくると、南の山際に密な青さと仄かに兆しはじめた曙光の橙とがある。
枕に尻を載せて瞑想を行うが、寒くて仕方がないので途中で目をひらいて空調を入れた。そうして三〇分間を座り、上階に行く。台所に入り、フライパンでハムと卵を焼く。それを米に載せ、黄身を崩して醤油を混ぜるいつもながらの朝食である。
食って下りると、七時二〇分頃だったようだ。この日はコンピューターを点さず、白湯を飲みながらミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』を読む。その後、読書を続けながら歯磨きも済ませると、さっさと支度をして出勤に向かわなければならない。音楽も掛けずに服を着替えて、室内でもうストールを巻いてしまい、上階に行くと靴下を履き、便所に入って出すものを出し、そうして出発した。八時五分頃だった。
当然ながら寒いのだが、天気予報では最高気温が昨日から五度落ちると言っていたわりに、二日目で耐性ができたのか前日よりも冷気が何となく凌ぎやすい。コートは何だか面倒臭くて着る気にならない。街道まで行くと日なたを求めて北側に渡った。そうしてやはり裏に入る気にはならず、車の通り過ぎる横を歩いて行く。中途で珍しく、少々急ぐかという気になって、歩幅を気持ち広めにして進む。前日と同じく駅前の公衆便所に寄って用を足す。この日の清掃員は昨日とは違って女性の人で、排尿したあと手を洗おうとすると行き会ったので、ありがとうございましたと礼を告げた。
労働は、やはり眠りが少ないためだろう、終盤になって何か頭が緩いようになってきて参った。そうすると職場にいる、公共の場にいるという緊張感がまったくなくなり、(……)と向かい合っていても友達と話しているような感覚になってくる。不安を覚えるよりはそのように気楽にやれたほうが良いのだろうが、この緊張感のなさはこれはこれで危ういと感じられるものであり、余計な口を滑らせやしないかと警戒が働く。徹夜をすると気分がハイになるなどとは良く言われることだと思うが、ある種そういった状態だったのだろうか。また、最近のこちらの認識における相対化機能の強化も寄与しているのかもしれず、社会的通念(場合によっては道徳的通念もそこに含まれるかもしれない)の類がより解体されたということの現れなのかもしれないが(要は「職場」などというのは、不安や緊張を身に生じさせながら振舞いを律するほどに大した場ではないという心持ちになってきているということだ)、あまりそれにしたがって自由にやりすぎても、無用な齟齬を生むのではないかとやはり危うい気持ちがする。とは言ってもしかし、もう長くいる同僚の様子など見ていても、何か得々としているというか結構楽しそうにやっているもので、(……)など、(……)とのコミュニケーションもこちらよりもよほど親しげで、友達めいていると思う。彼らはこちらよりも随分と職場に「馴染んで」、かなり気楽/気軽に働いているのではないか。何と言うか、自意識過剰で神経質な性分のこちらが今まで勝手に自己を萎縮させていただけで、世の人々はわりあいに皆、図太く、ある意味で「恥知らずに」生きているのではないかという気がしたものだ。
眠気で頭が重かったが、退勤して駅を覗くと電車が来るまで結構あったので、徒歩を取った。裏路を行くが、中途で表に折れた。緩い坂になった道を下って行くと、新聞屋の前で数人、中年の男性たちが溜まって煙草をふかしている。こちらが通り掛かると、店舗のなかから一人、配達に向かうのだろう、行ってくると言って出てきたものがあって、その背に頑張れよ、と声が掛かった。
街道をしばらく行って南のほうを見上げれば、雲が大きく湧いていて、太陽は時折りちょっと出てくることもあるが、その裾に引っ掛かっており、色の曇った空気のなかに風が寄せて冷たく、昼日中なのに身体が震える。
帰って食事を取ると、やはり前日と同様、眠気が重くてすぐには立ち上がれない。頬杖を突きながら瞑目して休み、その後、もうここでしばらく意識を落としてしまったほうが良いなと思われて、卓上に突っ伏し、二〇分ほど仮眠を取った。起きると、体温が下がったのだろう寒気を感じ、腕も痺れて冷たくなっていたが、しかし頭のほうはわりと定かに固まっていた。
諸々のことを行ったあと(書抜きはミシェル・フーコー/中山元訳『真理とディスクール パレーシア講義』にようやく入ることができた)、七時前から運動を始めた。背景に流したのは、Thelonious Monk『Solo Monk』である。体操および柔軟運動を行い、この日は何か身体が軽いようだったので、そののち、腹筋や背筋の運動、また腕立て伏せも久しぶりに行うことにした。と言って、筋力トレーニングとして行うのではなくて、あくまで身体をほぐし温めたいという程度の動機しか持たず、この時はヨガのポーズを検索して、見様見真似でそれらしいことをやってみることにした。「コブラのポーズ」というものがあり、うつ伏せの状態から胸の横、あるいはやや前方に両手を置き、上体を反らして持ち上げるという姿勢だが、これなどを実行してみると、筋肉が伸びてほぐれるのがまざまざと感得されて、今まで自分の肉体がいかに凝り固まっていたのかがいっぺんに理解された。そのほか、腹筋様のもの、背筋様のもの、仰向けの状態から腰のあたりを持ち上げる「橋のポーズ」と呼ばれるものなど諸々行ってみると、身体がほぐれていくのが非常に気持ち良く、終えると気分がとても落着いて、明るいように、爽快になっていた。四五分間も運動を行ったのは初めてである。その後、二四日の日記を記しはじめたのだが、これを書いていても時間の流れが遅くなったかのようで、打鍵もゆっくりと落着いて、先を急ぐ心が微塵も生まれなかった。
その後のことは、メモがないし、何か特段頭に引っ掛かることを思い出すこともできないので、省略する。