2017/12/29, Fri.

 携帯電話のアラームを九時に設定していた。父親の還暦祝いということで兄が昼食の席を企画し、一〇時半頃には家を出ることになっていたからである。この朝のこちらはアラームが鳴るより前、八時四五分に覚醒して(それよりも以前に一度覚めた記憶もある)、布団のなかに留まったまま二度寝に陥ることなく、呼吸を繰り返して身体の感覚が調うのを待った。そうして携帯が鳴り出す直前にベッドを抜けてアラームの設定を解除し、便所に行ってきてから瞑想を行う。九時五分から二六分である。
 上階に行き、昼食までさほどの間もないので、食事は前夜のサラダの残りとゆで卵のみで取ることにした。それぞれを用意して卓に就き、早々と食べると、使った食器を片付ける。風呂を洗っておいてから下階に戻り、さっさと歯を磨いて着替えをした。フーコー・セミナーの本を読み終えて、次に何を読むのか迷っていた。小説とそれ以外のものを交互に読むという原則を一応は設けているので、順番としては次は小説、それも日本のものが読みたかった。清岡卓行アカシヤの大連』が良いような気がしたのだが、何となく煮えきらず、夏目漱石『門』を考えたり、あるいは原則を破ることにはなるが石原吉郎『望郷と海』が読みたくなったりしたものの、最終的に古井由吉『白髪の唄』が読みさしだったではないかと思い出して、ひとまずはこれを最後まで読んでしまおうと決定した。そうしてカバーを取り払ったその本を鞄に入れて、上階に行く。
 父親の運転する軽自動車(母親のもの)に乗って出発である。車内で、(……)のビル(我々はこれからそこへ向かうところだったわけだが)の、上層階にある駐車場に続く通路の入口の看板に、「右折禁止」という表示が書かれているということを母親が言い、それに対して父親が、それは「公の」ものではないから大丈夫だ、破っても逮捕されるわけでない、などと返しているのを聞きながら、「恥の心性」について少々思考が駆動されるところがあったが、詳しくは記さない(勿論この時想起されていたのは、例のルース・ベネディクトの『菊と刀』の書名だが、自分はまだこの本を読んだことがない)。(……)に着き、七階の駐車場に停めると、建物の内に入る。エレベーターが上がって来るのを待つ。フロア内には、ヨーロッパの(何となくフランスの)それを思わせるような、洒脱な、と言われるだろう類の雰囲気を持ったジャズ風BGMが掛かっており、オルガンとヴァイオリンが編成に含まれていたと思う。エレベーターに乗って、階を下りる。店舗の合間を抜けて外に向かうのだが、母親は一人ですたすたと、随分と早足で先に行ってしまい、建物の外に出たあたりから父親も先行しはじめて、こちらはそんなに急ぐでもあるまいとのろのろと離れてあとを追う。駅舎に続く円型の通路を行けば、太陽の光が目に眩しい。
 駅に着くまでに、両親の姿は見当たらなくなってしまった。こちらはひとまずトイレに寄ることにして、清掃中の看板が置かれているが入って行くと、小便器を掃除している女性の清掃員がいたので、使っても良いですか、と声を掛けようとしたところが、喉に痰が絡んで声がうまく発せず、咳払いをしてから言い直すことになった(その時には既に、了承が返ってきていたのだが)。放尿したのち、礼の声も掛けておき、手を洗って室を出る。ホームに下りると、ちょうど目の前に両親がいたので合流し、やって来た電車に乗った。
 座席に座るとメモを取ろうと思って手帳を取り出し、ほんの少しだけ書きはじめたのだが、すぐにやめた。と言うのは、隣に座っている母親に見られたくないなという心があったからである。それで瞑目して休むことにした。前日の労働中に突発的な緊張の高まりがあったので、この日もまた何かの拍子にそれが訪れやしないかと警戒する頭があったのだが、心身の感覚を探ってみるに、特段の緊張の要素は見当たらなかった。行程の序盤は、車両内に話し声がほとんどまったくなく、静かななかに電車の走行音だけが聞かれていたのだが、じきに乗ってくる人が増えると、いくらかの会話が聞こえるようになった。
 立川で降りる。階段を上がり、両親はトイレに寄るというので、そこで別れる。この時一一時半というところだったが、待ち合わせは一二時、(……)という中華料理屋だったので、もうそこに行っておけば良かろうと改札を抜け、ビルに入った。エスカレーターに乗るのだが、ここには四階だか五階だかまで繋がった長いエスカレーターがあり、それに乗っていると、通常のものよりも長く、高く感じられるものだから、こわごわとした気持ちが湧いた。
 七階まで上がると、フロアを回って店を探す。場所を確認しておくと、ふたたびトイレに行く。トイレにせよフロア内にせよ、若い父親と男児の組み合わせを多く見かけるような気がした。その後店の場所まで戻ってきて、店舗の外、通路の脇に並んだ椅子の一番端に腰掛けて、時間が来るまでと読書を始めた。古井由吉『白髪の唄』である。メモを取ろうかとここでも試してみたのだが、行き交う人の気配や音が気になって、記憶がうまく想起されてこなかったので、やはり駄目だなと書見に移ったのだった。周辺の知覚情報のために文字を読み取るのもなかなか難しいので、意識を集中させていると、こんにちは、と声が降ってきて、はっと顔を上げれば兄夫婦だった。兄が抱っこ用の道具を身に着けて、(……)を胸に抱いていた。こんにちはと挨拶を返して、店内に入っていくのに続きながら腕時計を見ると、一一時五三分だった。奥にある個室へ通される。
 円卓である。(……)用の椅子も用意されて、両親が来るのを待つあいだ、彼女の隣に腰掛けて、目を大きくひらいて見つめてくるその視線と瞳を合わせた。じきに両親も到着する。
 飲み物は、父親と兄がビール、母親と(……)がノンアルコールのビール、こちらは例によってジンジャーエールである。食事は、いくつか品の入っているものが良さそうでないかと兄が提案して、皆でそれにすることに決めた。こちらは実のところ、五目焼きそばが食べてみたいとちょっと思っていたのだが、特段こだわるつもりもなし、周りに合わせた。注文の際には、個々人で選択可能な品目を選んでいく。一つには、エビや野菜の炒め物か、酢豚かという選択があり、もう一つには、炒飯か、担々麺か、あるいは五〇〇円をプラスしてフカヒレスープか、という選択があった。こちらは炒め物と炒飯(辛いものは苦手であるため)を選んだ。父親は酢豚と担々麺、母親は炒め物と炒飯、(……)は酢豚と炒飯、兄は酢豚と、後者は一人フカヒレスープを注文していた。
 やって来た膳には、先の前者の選択品が右上にあるほかに五つの小さな品目が揃えられており、四角形のスペースの下辺と左辺に接するようにして並べられている。店員が説明していくのを聞きながら、詳細をすぐに忘れてしまったのだが、まず右下の角にあったのが、帆立の一品で、その左隣りが大根と蕪を小さなブロック状にしたもの(「聖護院かぶら」という固有名が聞かれた)、左下の角が春菊の巻物、そこから上に行ってクラゲの和え物に、最後がよだれ鶏と言うらしい鳥の肉で、固形の山芋が添えられていた。
 食事の始まってすぐの頃合いだったかと思うのだが、兄がロシア土産を母親にプレゼントする一幕があった(兄はロシアに赴任しており、年末年始で一時帰国してきたのだ)。青い彩色が成されたカップの類(三つ)で、こちらは全然知らないのだが、「グジェリ」というブランドだか何だかのものらしかった。母親が欲しいといって、頼んでいたのだと言う。
 店内に流れていた音楽は、大方J-POPのヒット曲をBGM用にアレンジしたもので(オルゴール風の音色がメインだったような気がする)、例えばコブクロ絢香が組んで出した"Winding Road"などが聞かれたのだが、なかに一つ、毛色の違うものが流れるのに気づいた時があった。メロディに覚えがありながら、何だったかと思い出せないでいるうちに、これは確かThe Beatlesだったなと思い当たったのだが、その先の曲名までは繋がらない。旋律に当て嵌まる歌詞を探ったところ、何となく"sun"という語が入るような気がしたらしく、二枚目だかにそんなような曲がなかったかと当たりをつけて(しかしこれは四枚目の間違いだった)、帰ったあとに調べてみると、『Beatles For Sale』に"I'll Follow The Sun"という曲がある。これでなかったかと掛けてみたものの、明らかに違う曲で、しかしThe Beatlesであることは違いないはずだがとほかの曲目を眺めていると、"Here Comes The Sun"に行き当たって、ああそうだ、これだった、と解決に至った。
 曲を同定しようと頭を回していた時というのは、ちょうど(……)が食事を取りはじめたあたりで、疑問に気を取られていたためにあまり定かな印象をその場面から引き出すことができなかったが、(……)が(……)に食べさせていたのは、しらすの雑炊である。ゼリー風の容器に入れられた既製品で、ああしたものがあるのだなと目に留めた。またさらに、バナナを潰したものも食べさせられた((……)がバナナの断片を取り出して皮を剝いた時、その香りが円卓の上を渡ってこちらの鼻にまで広がり、伝わってきた)。その後また、ミルクも与えられたが、この時には兄が(……)を抱いて飲ませていた。その後に背中を刺激してゲップを出させると、兄は隣のこちらに赤子を差し出してきたので、受け取って膝の上に乗せ、胸に抱えこんだ。以前はうまい抱き方もわからず、生まれてまもないこともあっていかにも脆そうで、こわごわとしてしまい、うまく抱くことができなかったのだが、もうだいぶ身体も出来てきており、多少力を込めて扱っても大丈夫だろうというわけで、この時には気楽に受け持つことができ、こちらの顎を赤子の頭に乗せながら腹を触ったり、足をさすったりした。自分の父母以外の人間に抱かれるのにも慣れたらしく、抱いているあいだ、泣かれることはなかった。しばらくして、父親に渡し、そこから母親にと移って行く。
 デザートの杏仁豆腐を食べてちょっとするとこちらはトイレに立った。その時、フロアを行きながら携帯電話を取り出して時刻表示を見やると、一時三八分だった。戻ってきたあとだったか、それともこちらが立つ前に既に行っていたかわからないが、(……)は赤子のおむつを替えに行った。待っているあいだ、こちらはドアの脇に控えて、ドアボーイの真似事をする。と言うのも、この室の引き戸が一部滑りが悪くて(店員も少々苦慮していた)、赤子を背負って荷物を抱えた状態で片手で引き開けるのには力がいるだろうと、(……)が出て行った際に見留めていたからである。やはりトイレに立っていた母親が帰ってきた時なども扉を開けるのを手伝ってやり、(……)も戻ってきたあと、ふたたび赤子がこちらの手に渡された。立ったままで受け取って、席まで移動して座り、こちらの脚の上でじたばたと動くのを押さえていると、写真を撮ろうということになった。それで皆の視線が一挙に向いたためだったのだろうか、赤子が泣きはじめて、しばらく泣かせるがままに抱いていたのだが、そのうちに仕方がないと隣の兄に受け渡して、すると兄は、赤子を胸に引き寄せた状態から、声を出しながら上体を前傾させて赤子を前方に倒すようにして(この時、赤子の姿勢は、その頭が少し前の床を指すくらいの傾きを得る)、戻してはまた倒す、という風にしてあやしはじめて、そうすれば子も楽しそうにして笑顔を見せたので、さすがだなと思われた。
 その後、店員にも手伝ってもらい、写真撮影を終えると退店である。店員と言えば、なかに一人、所作の優雅な女性がいた。身体の動作が大変に落着いていてしなやか[﹅4]であるのが、明らかに目に見えてわかり、顔に浮かべた笑みも柔和で、不自然さのまったくないものだった。
 退店したのは二時過ぎである。フロアを通ってエレベーターに至り、下階へと下りる(人が乗ってくるたびに、操作盤の前に陣取った父親が、一階で良いですか、と尋ねていた)。皆はアイスを食べに行くと言うが、こちらはそれに同行する気にはならなかったので、別れることにした。駅舎を南北に抜ける大通路を歩きながら、(……)と少々会話をする。まず、立川は(……)の庭だもんね、というようなことを言われ、そうは言っても本屋くらいしか行かないですけどねと返し、(……)その後ちょっと歩いて、(……)は、と今度は訊かれたのに、四日からまた始まりますとか、何を言ったのかは忘れたが、ここでも多少の言を返した。こちらにはこのようにして、問われたことに対する説明をし終えると、それで自分の仕事は終わりとばかりにまた黙ってしまうという性向が基本的にあって、会話を繋ごうという努力をしないから、そのあたり、(……)が、何を話せば良いのかわからない、というような、ややぎこちないような雰囲気を少々発していたような気がしないでもない。何か言いたいことや問いたいことが思いつかなければ無理に話さなくても良かろうというのがこちらのスタンスであり、この時もそれにしたがって黙っていたのだが、また、騒がしい雑踏のなかで歩きながらこちらの声を相手に届かせるということが面倒臭かったのかもしれない。さらには、そうした見地とも関連するはずだが、こちらにとって「話す」というのは、別に「真面目な」話でなくて世間話でも雑談でも、基本的に一対一で、正面から向かい合ってするコミュニケーションとして捉えられているのではないか。
 兄夫婦とありがとうございましたと挨拶を交わし、皆と別れると、こちらは一人、書店に向かった。特別、行きたいという強い欲望もなかったのだが、このまま帰るのも何だかなあという気分があって、見に行くだけは行ってみるかと決めたのだ。駅前広場を過ぎて歩廊を歩きながら、一人で歩くというのは、やはりとても落着くものだな、と思った。別に家族といる時間が退屈だとか、嫌だとか、以前ならばともかく今はもうそのように思うことはないが、こちらが最も心落着くのは自分一人でいる時(ハンナ・アーレントの言葉を借りるならば、「自分自身とともにいる」時、一人のうちで二人/単独性のなかにおける複数性という状態にある時)であるということは、疑いがない。道の脇に寄って、手に持っていたストールを首周りに巻きつけた。
 モノレールの駅舎下の暗い通路を行くと、北西方向にひらいた街並みと青空を背景にして、手前を歩いてくる人々の姿形が、その先の明るさに作用されて黒く塗り潰され、顔が見分けられなくなっている。書店は、高島屋のなかに入っている淳久堂のほうに行くことにした。思想関連の棚でも眺めて、めぼしい本を確認しておくかと思ったのだ。
 百貨店のなかに入り、エスカレーターで上って書店に着くと、まっすぐ件の棚に入る。入口から近いところにある言語学関連の棚を眺めていると、大学生らしい若い男女が入ってくる。話しているのを盗み聞きすると、男性のほうが女性のほうに、何やら「真面目な」調子の話を語っており、女性のほうも誠実そうにそれに受け答えをしている。良いなあ、自分もあんな風に思想やら社会やらの話を真正面からできる恋人、あるいは女性の友人でも欲しかったなあなどと、とりあえず頭のなかでそう思ってはみたものの(そのような言葉を形成してはみたものの)、しかし自分が本当にそんな風に思っているのかと気持ちを見直してみると、疑わしいところもあった。そんなことはもうどうでも良いのではないか? ともかくも、そのようなことはすぐに忘れて、棚を見ていると面白そうな本ばかり次々と見つかってしまい、手に取ってひらき、目次を見たり適当に頁を眺めたりしては、興味の度合いが一定以上に達したものは手帳にメモを付けていく。バンヴェニスト『言葉と主体』、アラン・クルーズ『言語における意味』、ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン『肉中の哲学』、ヤコブソン『言語芸術・言語記号・言語の時間』、S・ダーウォル『二人称的観点の倫理学』、三浦俊彦『虚構世界の存在論』、リチャード・シュスターマン『プラグマティズムと哲学の実践』がこの周辺の区画でメモされた著作群である。なかでは特に、レイコフの『肉中の哲学』というのが、何がどうというのは勿論わからないが、何かしら「やばい」雰囲気を持っているように直感された。
 その後、フーコーの区画に移って、そこを起点として周辺を見分する。ジャコブ・ロゴザンスキー『我と肉』、M・アンリ『受肉 <肉>の哲学』、入谷秀一『かたちある生』、B・ヴァルデンフェルス『講義・身体の現象学』『経験の裂け目』、中敬夫『行為と無為』『身体の生成』『他性と場所 Ⅰ』、田口茂『フッサールにおける<原自我>の問題』、山形賴洋『声と運動と他者』、吉永和加『感情から他者へ』、斎藤慶典『生命と自由』、菊地恵善『始めから考える』が、ここでメモされたものたちである。せっかく来たのだし、何かちょっと買おうかな、という気持ちが生じていた。そこで、少し前に発刊されたガタリの『カオスモーズ』の新装版のことを思い出し、ガタリの区画を見に行く。フェリックス・ガタリという思想家も、こちらはまだまったく読んだことがないが、何かしら「やばい」類の雰囲気を感じる気がする人で、『なぜ人は記号に従属するのか』だったか、そのような題の本も気になったのだが、ここでは『カオスモーズ』を取った。それ一冊で良かったはずが、何となくもう一冊何か欲しいなという気になっており、しかしいま自分が購入するほどに欲望を感じている相手となると、やはりミシェル・フーコーの著作となる。これが大概どれも値が張るので困るのだが、例の箱入りの三作、『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』のうちのどれか一つをそれでは買って帰ろうと心が決まり、見比べた結果、『言葉と物』に決定された。それで会計に向かおうというところだが、先ほど大学生らが立っていて見られなかったあたりの区画を眺めると(認知哲学とか科学哲学とかその類である)、ここにもまた面白そうな本がたくさんある。ジョン・マクダウェル『心と世界』、ブリュノ・ラトゥール『近代の<物神事実>崇拝について』、ヤン・エルスター『合理性を圧倒する感情』、ゼノン・W・ピリシン『ものと場所』、ブルーノ・ラトゥール『虚構の「近代」』、D・デイヴィドソン『行為と出来事』『真理と解釈』などである。それらをまた記録してから、棚のあいだを出た。
 メモを見ると、上の経緯は違っており、『カオスモーズ』を保持した時点で一旦区画を抜け、詩の棚を見に行っていた。松本圭二セレクションの続刊が出たという情報を入手していたからで、それがあるかと確認に行ったところ、確かに棚にあるのだが、手に取ってみても、これはまだだなという感じがしたので戻し、その後に海外文学の棚をちょっと眺めてみてもやはり心を大きく惹かれる瞬間が訪れないので、それでフーコーを買おうと決めたのだった。
 二冊を持って会計に向かうのだが、その前に文庫本も見ておくかという気になって、棚のあいだを通って壁際まで行き、岩波文庫の並びを前にしたところで、そうだ、ルソーだった、と思い出した。先日の、フーコー・セミナーの記録に収録されたルソー論を読んで以来、彼の『告白』を読まなければならないだろうと思っていたのだ(あまり精密に考えることができていないが、そのルソー論を読むに、要は自分の日記というのは、ルソーが『告白』でやったことを一日ごとにやっているようなものだと思われ、言わばルソーはこちらの先駆者に当たるからである)。しかし棚に『告白』はない(『エミール』はあった)。それで全集でもないかと思想の区画のほうに戻って見てみると、全集はないが、永見文雄『ジャン=ジャック・ルソー 自己充足の哲学』という大きな著作があって、これも面白そうだったので手帳にメモを取った。そうして、会計である。
 百貨店の外へ出たのが、四時過ぎくらいだったと思われる。並ぶビルの上方にのみ陽射しは掛かり、そこだけが薄いオレンジ色に彩られて、下方は既に日蔭の色のなかに入れられている(陽射しは、上空に向かって[﹅7]退いて行く/逃げて行く)。また確か、青い空のなかに薄白い月が出ていたのだと思う。LOFTやブックオフの入ったビルの横から駅へと向かう。
 ホームに下りると、席に座って眠りながら帰りたかったので、後発の電車に乗った。その一両目は、まだほかに誰も人がいなかった。席に就くと、二八日のことをメモに取り、その後、瞑目した。じきに眠り、(……)と(……)で目を覚ます。(……)に着いてホームに降りると、五時過ぎで既に一日は暮れており、濃い藍色の西空のなかに雲が黒く沈んで散らされている。例によって自販機でスナック菓子(チョコクッキー)を買い、ベンチに就いて読書をした。電車内でも古井由吉を読み続け、最寄り駅で降りると、坂道を行く。暗いなか、前方から箒の音が聞こえてくる。見れば、高年の男性が落葉の掃き掃除を行っている。この寒いなかにご苦労なことだとちょっと会釈をしながら通り掛けると、こんばんはと言ってきたので、こちらも挨拶を返した。
 帰宅すると、空腹感がほとんど頂点に達していたらしい。室に戻って着替えをし、記事の作成などを済ませておいてから、食事へ行った。鍋様のスープに煮込んだうどん、野菜炒め、また前日の残り物である肉巻きである(肉のなかにピーマンやエリンギが挟まれている)。食後、久しぶりに蕎麦茶を飲むことにして用意し、室に戻ると駅で買ったクッキーをつまみながら他人のブログを読んだ。
 その後、二八日の日記を綴る。一時間半をキーボードに触れながら過ごし、九時直前に至ったところで運動を行い、それから入浴に行った。湯のなかで息を吐ききる呼吸を繰り返し行い、出てくるとふたたび日記を書こうとコンピューターに向かい合ったのだが、モニターを見ていると鋭い頭痛が生じるために大して続けられず、一〇時四〇分で読書に移った。布団を身体に被せながら古井由吉『白髪の唄』を読んでいると、本を持つ両手が次第に温まってくる。零時まで読んだのち、インターネットを回り、その後、手帳にこの日のことをメモ書きした。三五分間で現在時まで記録を取ることができ、(……)そのあとふたたび読書をして、二時四〇分に就床した。