九時頃には山梨に向けて発つという話だったので、前夜は早めに床に就いたのだが、そのおかげで七時三五分には起床することができた。上階に行き、食事を済ませたのち、自室に戻ると、既に八時半かそのくらいになっていたような気がする。何をしたのだったかあまり覚えていないのだけれど、歯を磨き服を着替えたのち、九時になって出立する前に前日の日記を仕上げて投稿してしまおうという心があったので、キーボードに触れた。ほんの僅かに書き足していると、階上からもう出かけるらしき音が聞こえたが、慌てずに気持ちを落着けて記事を完成させ、ブログに投稿もしておくと部屋を出た。上階に行くと両親の姿はもはやなく、既に玄関を出て車に乗り込んでいるらしかったが、こちらは排泄欲求があったので便所に入り、用を足すと玄関を抜けた。
父親の車の助手席に乗り込む。発車する。道行くあいだ、自分の身体の感覚を確認すると、前日よりも定かな実在感があるので安堵する。しかし、森のあいだの勾配のある道を越えて行くのだが、左右の樹々に目を向けながら、ガラスを通して見ていたためかもしれないが、やはり何だか平面的に感じられるな、というところもあった。とは言え、フロントガラスに光が落ちて、目を眩しくさせるのには気分が和らぐ。
高速道路には乗らず、檜原村から峠の道を越えて行く。上りにせよ下りにせよ、左右にぐねぐねと大きく曲がる道が続いて、縦に揺れるのはこちらの心身に大した影響を与えないのだが、横揺れが覿面に効いて、胃のあたりが妙な感じになり、大層気持ちが悪くなった。時折り呻きを上げ、ラジオに耳をやりながら、気分の悪さが増大してくるのに耐える。ラジオは伊集院光がパーソナリティを務める番組を流しており、初めのうちは何だか良くわからないが、女性プロレスラーであるらしき人と、もう一人やはり何だか良くわからない人をゲストとして招き、もうなくなってしまって行くことはできない思い出の店の料理について語るコーナーなどを扱っていた。そのうちに、番組内容が切り替わって、山田洋次が出演する(生放送ではないような話だったと思うが)。それで小津安二郎について話を聞くのだが、伊集院光が言うには、小津と言えば二十歳ぐらいの頃に周囲から見ろ見ろと急かされて一応見たけれど、全然良さがわからなかった、それが四〇ぐらいになってから改めて見ると、とんでもなく凄い、という体験をしたらしい(題名を失念してしまったけれど、伊集院は、直接その体験をした作品だったか、それとも単に自分が一番好きな作品ということだったか、「テレビを買いに行くだけの話」を挙げて語っていた)。それはやはり、加齢に伴って変化するニュアンスに対する感受性の差なのだろうなと、穏当なところに落とした。ほか、山田洋次が、小津の作品の特徴を一言で表して、「上品さ」「品の良さ」と言っていたことは覚えている。そうしたことを聞いていた頃には、既に車は(……)に入っていた。
あらかじめ注文をしておいた(……)の前に停車する。店は一一時開店らしかったが、まだ一〇時四〇分かそこらだったのでいくらか待たなければならないところ、車内にいても窮屈なだけだし、座り続けて鈍った身体をほぐしたくもあったので、その辺を散歩してくると言って外に出た。母親もまた車を出て、近くにある(……)まで行ってみるということだった。こちらは外に出ると母親とは反対方向に歩きはじめて、明るく朗らかな光のなかを行く。どこか座ってぼんやりとできる場所でもあればと思ったのだが、周囲に適当なところが見当たらないので、足を停めずに裏路地に折れた。特段に物珍しいものがあるわけでもない。ちょっと行ったところで、元々来た方向に続く細道に入ると、並ぶ家々のベランダや窓外の柵に、布団が掛けられていたり洗濯物が干されたりしているのが、それ以上の何の意味ももたらすでもなくただ目に留まる。長方形の辺上を沿うような具合で、四角く回る形で戻ろうと思ったところが、細道がやや斜めになっていたようで、抜けると車の停まっている(……)のすぐ傍だった。まだ時間があったので、当てもなく今度は反対側に歩きはじめる。こちらは表の通りに沿っており、並ぶ建物によって蔭が作られて日なたは少なく、歩いていても肌寒さがあった。進んでいると、前方から来る人があって、見れば(……)に行っていた母親である。何人も並んでいたので、トイレだけを借りて戻ってきたと言う。そろそろ一一時になるというところだったので、合流して駐車場に戻り、両親が店内に入って寿司を受け取っているあいだに、こちらは車の脇に立ち尽くして待っていた。
上の記述と時間が前後するのだが、(……)に行くよりも(……)というスーパーに行って買い物をしたのが先だったと思う。店に行ってみると駐車場はいっぱいになっており、順番待ちをして路肩に並んでいる車も何台か見られた。父親が車に残ってスペースが空くのを待ちながら、母親とこちらが買い出しに行くことになった。こちらは気持ち悪さが抜けておらず、車内で休んでいたい気持ちがあったのだが、ともかくも車を降りて、店舗に向かう。店の入口には福袋の購入を待つ人々が横向きに列を成しており、そのあいだを通り抜けて店内に入った。籠を載せたカートを押して行く。店内を回るあいだ、身体がぶるぶると震えたが、これは離人症的な不安によるものではなく、腹が空になっていたことと、気持ちの悪さが残っていたことによるものだろう。四種類入った大きなピザや、チキンや手羽元などの惣菜や、サラダの類などを籠に入れて、会計を通った。品物を袋に収めて店を出ると(ふたたび福袋の列のあいだを抜けた)、車がどこに停まったのか探してうろついたのだが、ちょっとして母親が、手を振っている父親を見つけたので、そちらに行って、品を車に入れた。まだ寿司が出来るまでに時間があったので、母親はスーパーに隣接する洋品店を見に行くと言う。父親もトイレかどこかに行った。そのあいだ、こちらは車中で一人、何をするでもなく席に座っていたわけだが、陽射しが射し込んで顔に当たるのが大変に気持ち良かった。しばらく待っていると二人が戻ってきたので、その後、寿司屋に行った。
寿司を受け取ったあとはまた車を走らせて、(……)から山のほうへと上って行き、父親の実家に至る。坂上から下って家に至るほうのルートを取ったのだが、近づくと道に出てきた人があって、それが(……)だった。父親の姉である(……)の娘なので、こちらには従姉に当たる。同様に従兄である(……)(彼は生まれつき、知的障害を持っている)もいて、なぜだか頭に鉢巻をつけていた。降車し、挨拶を交わして、荷物を持って家に入る。
居間に入って祖母と挨拶を交わし、常設されている掘り炬燵に加えて、もう一つ出されている炬燵テーブルの一角に就いて身体を温めたが、じきに飯の支度をする様子だったので、こちらも台所に入って母親や(……)の手伝いをした。と言っても、買ってきたチキンを細かく切り分けて皿に盛ったり、同じくサラダを盛り付けたり、それらを運んだりという程度のことである。兄夫婦は一二時半頃、(……)に着くという話だったので、彼らの到着はまだだったが、先に食事を始めることになった。寿司やらチキンやらを適当につまんで腹に入れる。
食事というか、慎ましやかな宴席のようなものは、四時くらいまで続いたわけだが、そのあいだに二回、外に出る機会があった。と言うのは、(……)の息子である(……)(七歳)が遊びに行きたがったので(あまり室内でじっとしていられない性質らしい)、ついていったのだ。一度目は、兄夫婦が来る前だったかそのあとだったかわからないが、食事を取りはじめて比較的まもない頃に、(……)が障子を開けて外に行くと言うので、誰かに何か言われたわけでないが自発的に、すっと席を立って、俺と一緒に行こうと誘いを掛けた。(……)は、こちらがあまり知らない相手だったからだろう、うん、と言いつつもその声は低いものだった。それで玄関で靴を履きながら(祖母の家は、もう亡くなった祖父(父親の実父)が手ずから造ったもので、まだ幼かった(か、若かった)こちらの父親もそれを手伝ったという話だが、昔の家らしく土間と床の端の段差が大きくなっている)、横の(……)に、俺の名前知ってんの、と問いかけた。何だっけ、とか何とか笑いながら言うので、(……)というのだと自己紹介し、そうして外に出た。
一度目の外遊びと二度目の外遊びを整然と分けて書くような記憶の整理が付いていないので、一緒くたにして印象に残っていることを記してしまおうと思うが、どちらの場合もまず、玄関を出た付近の庭で遊んだ。遊ぶと言っても特に何があるでもなし、(……)が植木鉢を蹴ったり、何かどうでも良いようなものを拾ったり、土に刺さっていた細い支柱を抜いて振り回したりするのを、時折り言葉を掛けながら眺めているだけである。庭は以前はたくさんの鉢に花々が育てられていたのだが、祖父も死に、祖母も寄る年波で世話をするのが苦労だから、大方片付けられてしまったようだった。庭のうち、鉢を置くようにちょっと段になった一画があるのだが、その端に取り付けられていたやはり支柱めいた金属製の棒を、(……)は引っ張り放して遊んでいた(棒が撓って震えるので、「びよよよよ~ん」というような掛け声を出すのだ)。ほか、先に触れた支柱というのは、良くある園芸用の緑色のものだったが、(……)はこれを振り回すあいだ、槍(か剣だったか?)に見立てたり、銃に見立てたり(こちらに向けて銃弾を発射してきたが、こちらはそのイメージには付き合ってやらず、死なないぞ、と笑って返した)、次々と比喩的にイメージを変えて扱って、その比喩の移り変わりに何らかの印象を覚えたという瞬間もあった(そんなに大した出来事でないと思うのだが)。
二回とも、しばらくすると家の裏手に広がっている斜面のほうに移動し、そこを上ったり下ったりとして遊んだ(こちらはあまり動かず、主にしゃがんで陽を浴びたりしていたが)。見上げると、山に近いところで空が広いが、その内に雲は一片もなく(二度目に来た時には、多分南の方角だったと思うが、山影の稜線に掛かって一塊の雲が湧いていて、(……)に、あそこにだけ雲があると注意を促した)、ただ青さのみが渡って満ち、背後を見てみても、斜めになった地面の上に生えて乾いた雑草の類の、至る所が光を帯びて煌めいている(か細い茎が金属的に映った)。前を向いていても、視界のそこここで風を受けて微かに揺れ動く小さな草々の立ちざわめきに、これは凄いなと思う瞬間があった。斜面を下りた先にはより広く緩やかな傾斜になった敷地があって、その一画に、芒だろうか草がいくらか固まって群れており、風が吹くとそこから穂の触れ合う音が立つのにも、凄いなといちいち感じ入っていた。
(……)は、斜面を滑り下りたいと考えて、一度室内に戻り、尻の下に敷くために紙袋を貰って来ていたが、勿論そんなものでうまく滑れるわけがない。そのうちに諦めて、紙袋に怒りをぶつけるようにして蹴飛ばしていた。二度目に斜面に来た時には、彼は今度は自らの脚で駆け下りようというつもりになって、一応は危ないぞとか怪我をするなよとか掛けつつも、まあ子どもの遊びはこういうものだろうと見守っていたところ、走って下りた(……)はその先で見事に転び、額をちょっと打ち付けていたようだった。しかし泣いたりもせず、失敗しちゃった、とか何とか言いながら戻ってきて、特に怪我もしていなかったようなので、安堵した。服の前面から背面から顔にまでついた土草の滓を払ってやり、随分と汚れたな、お母さんに怒られるぞ、などと笑って言ってからかったが、その後、報告に行って戻ってきた(……)によると、特に怒られず、はいはい、というような調子で答えられたと言う(上に記した草々の立ちざわめきを見たのは、この時、(……)を待っているあいだだったと思う。芒らしき草の触れ合う音は、三、四回耳にした)。
時系列に沿って正確に再構成することはできないが、室内でのことに話を戻そう。兄夫婦は、父親が迎えに行って、一時頃に着いたかと思う。その時、父親がオレンジジュースをついでに買ってきてくれたので、飲み物がなかったこちらはその後はそれを二、三杯飲んだ。二人が到着したので改めて乾杯をしようとなったところで、動き回りたくて仕方のないらしい(……)が、大人たちがそのような儀礼をもたもたと準備して待たせるのに我慢できず、また外に行きたいと主張するので、乾杯が終わったあとふたたびこちらが同行したのだった。そこから戻ってきたタイミングだったか、席を移って、(……)の横に座った。この人は高倉健が好きで、彼の出演する映画を愛好しており、何年か前に彼が死んでしまって以来がっかりしているという話を前回会った時に聞いていたので、そのあたりのことを振って、また話を聞いた。高倉健の出演作品はビデオに録画してあり、何回も繰り返して見ていると言う。そのなかで、今までに一番見たのは何ですか、と尋ねたところ、『居酒屋兆治』だという返答があった(耳にした時は、こちらは『居酒屋長寿』として認識していた)。監督は、と訊くと、降旗康男、と言う(こちらは初耳の名前だった)。山口瞳という作家が原作で、国立だか立川だかのガード下にあった飲み屋で実際に作家が体験したことを、舞台を函館に移して書いたものだという話だった。ほか、往路で聞いたラジオの話を出して、(……)が若い頃は小津というのは周囲でどのように言われていましたか、と尋ねたりもしたが、これには明確な返答は得られなかった(伊集院光が二〇歳だった頃というのは、(主として)蓮實重彦が小津安二郎の「神話」を解体し、多分『監督 小津安二郎』も出したあとだろうと踏んでいたので、それ以前の状況がどうだったのか、何らかの証言を得られないかと思ったのだ。それで言えば、山田洋次は、自分が若い頃には小津などというのは「古臭い」映画だと言われていた、と語っていた。しかし、色々と映画のことを勉強し、技術を積んで一周りしたあとに、気づけばその古臭いものに影響を受け、惹かれている自分に気づいた、というようなことも言っていた)。
そのようにして(……)と話したあとだったと思うが、兄が世話していた(……)を受け取り、脚の上に抱きかかえて可愛がった。顔を寄せながら頭を撫でたり、手や足をぽんぽんと叩いたりするのだが、赤子が首を傾けてこちらの顔を見上げて来たりするのを見ると、やはり非常に愛らしいと思うものだった。
三時に至る前あたりになると、椅子もなく床に直接座っているために腰が疲れてきたので、廊下を挟んで隣の室に行って休むことにした。隣室に行ってみると二つに畳まれた布団があったので、ひらいて伸べ、仰向けになり、目を閉じてボディスキャンを行った。それから布団を被るかわりに、手近に積まれてあった座布団を二枚取って身体の上に載せ、持ってきていた古井由吉『白髪の唄』を読んだ。座布団を載せた胸から太腿までのあたりは熱が生じるけれど、本を持った両手が大層冷たかった。そうして転がっているとそのうちに(……)がやって来て、こちらの上に飛び乗ってくる。また、(……)も来て、掛け布団を持ってきて乗せてくれたので、礼を言ってしばらく本を読み続けたが、やはり両手は温かくならなかった。三時半頃まで読んだところで、居間に戻った。
その後、四時を過ぎたあたりで(……)の一家が帰ることになったので、外まで出てオレンジ色の車で去って行くのを見送った。その後は残ったものをまたちょっとつまんだり、マッサージチェアに乗ってその機能を堪能したりした(特に脚を左右から圧迫してくれるのが気持ち良く、兄夫婦が帰るまでのあいだ、何度も繰り返し稼働させて身体をほぐした)。兄夫婦は、五時台後半の電車で帰るということで、その頃になるとふたたび外に出て、父親の運転する車に乗って去って行くのを見送った。そうして戻ったあとは、居間の炬燵に入って、祖母と母親と席をともにしながら例によってあまり喋らず、そのうちに横になって眠りはじめた。しばらく微睡んだのち(じきに父親も戻ってきた)、起き上がって、そろそろ帰るものだろうと思っていたところが、母親と祖母の話が弾んでいるのを受けてだろうか、父親が一向に帰宅を切り出さない。こちらとしてはそろそろ帰りたいなという気持ちになっていたものの、久しぶりに会って女性同士で色々と話すこともあろうというわけで、口を出さず、池の水を抜いて外来種生物を駆除したり、掃除をしたりする番組を眺めて待った。そうして、山梨の宅を発った頃には、七時くらいになっていたと思う。
車に乗って長い時間を過ごすのが嫌だったので(車というものはこちらの体質に合わず、自分はすぐに酔ってしまうし、身体も大変固くなる)電車で帰ると言って、(……)で降ろしてもらった。改札を抜けたところで携帯電話を取り出すと、兄からメールが入っている。もう結構前の時間で、電車が遅れているようだから面倒臭いかもしれないぞとある。ホームに行ってみると実際、数分遅れて到着するというアナウンスが入った。兄にはもう駅に入ってしまった、わざわざすまんと返信をして、待合室の外側に寄り掛かって本を読みながら電車を待った。乗ると、扉際に立って読書を続ける。読んでいる文字の意味もそうだが、乗客の顔がくっきりと見え、また電車の物音にもよく耳が行って、知覚が先鋭化されていることが感じられた。じきに、若い男女がこちらの目の前に乗ってくる。たまに顔を寄せ合って、どうも口づけもしていたようにも思われたが、男の汗の臭いなのか、口臭なのか、そんなような臭気がこちらの鼻にまで届くのが不思議だった。
高尾で降りる。人混みを嫌って、乗客らがホームからの上り口へ大挙して向かうのを横目に立ち止まったが、人群れが消えるまで思いのほかに時間が掛かっていたのでここでも少々本を読んだ。最後尾についてエスカレーターを上がり、ホームを替えてふたたび電車に乗る。先頭の車両は結構空いており、ここでは座ることができた。ふたたび読書をしながら運ばれて、立川で降り、また乗り換える。また座り、やはり本を読んで到着を待つ。(……)に着くと、既に乗り換えが来ていたので、同じようにして最寄り駅に至った。
帰宅すると、既に九時半過ぎだったと思う。その後のことは特段、記憶に残っていない。書き物はせず、また読書を主に行って、二時過ぎに床に就いた。
この日の生活のあいだにも、ここ最近の自分の変調や、世界像の相対化などについて色々と思いを巡らせたが、よく覚えていないし、本日一月三日に至って自分の症候に大方の整理がついたので、そのあたりは三日の記事に書くつもりである。