2018/1/8, Mon.

  • 例によって深夜に覚める。5時前。どうも、発作で覚めたのでは、という感じがあった。薬剤の効果でブロックされていたのだろうが、何らかの神経症状の名残りらしき気配があったのだ。しばらく、寝つこうと試みる。ボディスキャンを行うが、手がうまく温かくならない。それで薬を飲み、床に戻ると、今度は途端に、手のみならず背まで温まる。そんなに一瞬で効くものだろうか?
  • 幻聴を聞く。何と言っていたのかは聞きとれなかったが、右耳の至近で何か、二フレーズほどささやく声を聞いた。中世のキリスト教徒だったらまちがいなく、天使か悪魔のそれだと思ったに違いない(どちらかと言えば、天使のほうを思わせる声だった)。それで意識が覚めたので、入眠時の幻聴の強いものだったのだろう。その後また、幻覚めいたものも。と言って、布団から手を出したつもりが、布団の上にその手が見えず、透明になっている、という程度のもので、正気づけば手はもちろん布団のなかにあるままだった。その他、明せき夢も見る。学校にいた。今、俺が夢の中にいるのはわかっているのだが、さてここからどう抜けだせば良いのか、などと考えていたようである。
  • 今のところ、こうした幻覚類は意識レベルの低くなった時に限られているようで、半ば夢のようなものに留まっているのだが、これが覚醒時にまで広がってくると厄介である。
  • 9時頃覚めたが、目をつぶってまた幻覚が出てくるか試したり、腰をもぞもぞさせたりして、床を抜けたのは9時40分頃だった。
  • 上階へ。(……)前日の味噌スープを温める一方、ハムと卵を焼く。卓へ。新聞。トランプが暴露本に対してどうのこうのとあったが、これはどうでも良い。ドイツの大連立交渉について読む。それから、日本の財政政策について。どうもやはり文の意味が読みとりづらい。何度も同じところをなぞってしまう。頭が多動的なままなのではないか。
  • 自分の頭は今や、常に何かに気づいていないと(集中していないと)済まない、というような感じになっているらしい。メタ認知を鍛えすぎてしまったのだろう、常に自分の意識の志向性が見えてしまうのだ。それが過剰に暴走してしまったのが今回の件なのだろうが、拡散する志向性が最終的にいつも戻ってくるホームポジションとして、呼吸を据えるのが良いのではないか。なぜなら呼吸は常にそこにあり、身体性と密に結びついているからである。自分の場合、今まではそのホームポジションが言語になっていたような気がする。脳内の言語を見つめすぎ、またあまり野放しにしすぎたために、その自己増殖と浸蝕を招いたのだ。今後は、うまくこの言語を飼いならしていかなければならないだろう。
  • 食後、洗い物をすませ、風呂も洗う。やはり心身に以前よりも落ちつきがないというか、静まり、というものがない気がする。意識してゆっくりと動作することはできるのだが、そうしながらも、何かに追い立てられているような感あある(内から)。歩行禅でもやったほうが良いのかもしれない。そう思い、部屋から湯のみを持ってきて白湯を注ぎ、戻るあいだ、丁寧な動作を心がけた。
  • ここまで書いて、11時半である。起き抜けには白く閉じた空だったが、今しがた、ちょっと陽が出ていた。
  • 古井由吉『白髪の唄』を読む。まず、先日読んだなかから、書き抜きをしておく箇所を探し、275頁の、「狂うのと、人心地がつくのとは、似ているのかもしれない」という、最近のこちらには何だか身につまされるような部分をチェックしておく。また、301頁に、紅い実のついたイイギリらしき枝を拾って持ち帰るという小挿話があり、そこに、「冬に感じた身体がしきりにその曖昧を求めていた」とあってなかなか面白い表現ではないかと思っていたところが、チェックする段になって「曖昧」でなく、「暖味」であるのに気づいた。これだと尋常だが、どうせなので書き抜くつもりである。ほか、313頁、「人への想像だけがゆらゆらと舞っては消える空部屋」という表現も少々気に入られた。また、この一節を含む一段落も妙だと言うか、いくつかの事柄が接続されているのだが、それが話者の中でどのようにつながっているのかはわからない。同様のことは『野川』の最後、それまでのエピソードをすべて並べた一連の部分でも起こっていたはずで、そこではわけのわからないカタルシスというか、大団円の感のようなものが生まれていたのだが、何かの論理が隠れているらしいがしかしその姿はおそらく読者には見えないようになっている、というこの見通せなさは、多分ムージルから学んだものの細かな応用なのだと思う。
  • 読書中、西窓のほうから薄陽が射して、本の頁の上に斜めに渡る。細くひらいたカーテンの隙間のレースにこされて、光と影とがそれぞれ何すじか、淡く頁を横切って、ところによって文字は光にちょっと輪郭をふくらませるようになり、また行間に紙の表面のきめがかすかに現れる、とこのように(無論、このままではないが)、見たものが自ずと描写されるのを感じながら、自分の頭は今、正常だな、前と同じ働き方をしているなと思った。
  • 1時すぎまで読み、その後、PCは避けたかったので、携帯で(……)のブログを読んだ。それから、運動である。身体を動かすにはやはり音楽が欲しかったので、モニターをあまり見ないようにしながらPCを立ち上げ、tofubeats "WHAT YOU GOT" を流したのだが、音楽が頭に響く感じがしたので結局、すぐに消した。2時まで運動し、その後、上へ。
  • 読書中、窓ガラスを叩く音がして、雨が降り出したことに気づいていた。朝と同じ汁物に豆腐、卵でエネルギーを補給する。食後、味噌汁くらいは作っておいたほうが良かろうと、料理にかかる。ワカメと豆腐、ネギの簡単なものである。その後、米も新しくといでおく。
  • 料理をするあいだなどは、先ほど考えたように、ホームポジションとしての呼吸を意識した。一方、頭に言語が浮かんでくるのが不安になったり、自分が思ってもいないようなことが言語として浮かんできたりするのも特に困惑させられるのだが、しかしこれは気にせず、受け入れれば良いのだろう。ヴィパッサナー瞑想が教える通り、言語や思念とは所詮は心の反応にすぎず、端的に言って、去来するもの=次々と来ては去っていくものである。自分はどうやら、言語を実体化しすぎていたようだ。ある一つの事柄に対して、相反する二つの思いを抱くこともあるだろう(と言うか、そうしたことはむしろありふれているはずだ)。それどころか、もっとたくさんの、複雑に絡み合い、矛盾し合う反応を覚えることもあろう。今回自分は、不安障害的な性向が手伝ってか、それらの断片化された反応群のあいだに整理をつけられず、思考の統合を失いかけ、恐怖を覚えたらしいが、「自己」という点から考えると、それらの混乱した反応をすべて合わせた総体こそが自己である(これはおそらく、「自己」など存在しない、と言っているに等しい)。人間の反応、思考、感情は、すさまじく複雑で、自分は言語と密着しすぎたがためにその複雑に襲われてしまい、頭をやられかけたのかもしれない。要は、主体とは、散乱させられたもの[﹅9]としてある。その散乱した断片群のなかには、我々が目をそむけたいもの、抑圧したいもの、自分の一部として認めたくないものが当然含まれている。「悟り」という概念をひとまず、それらをも等しく受け入れていく態度として考えよう。そのようなある種の平等主義において、(はじめて?)「自由」が発生するとも考えられる。なぜなら、現実に「自己」「主体」として生きている我々は、何らかの行動をしていかなければならず、我々のうちに生起する反応群がいかに込み入ったものだろうとも、そのあいだにおいて何らかの判断を下していかなければならないからである。言いかえれば、自分のうちに発生した無数の相矛盾する反応のうち、我々が我々のものにするのはどれなのかを、我々は具体的な場において判断し、選択し、決定することができる。その判断(吟味)、選択、決定は、時には非常に責任を持たれた理性的なものでもあろうし、時にはただ何となくの、まるで無根拠なものでもあるだろう。具体的な瞬間ごとのそのような決定において、かろうじて、仮に作り上げられるもの、立ち上げられてはすぐにまた散乱していくもの、それが「主体」ではないのか。「主体感」とはそのようにして、その都度仮に確保されるのではないか。
  • すべての先行的な観念を相対化・解体し(今のところ、「悟り」をこのようなものとして考えておきたいが)、自己のすべての反応を受け入れる「悟り」の境地にあっては、判断・決定の選択肢は非常に広いはずである。極端な話、そこにおいて主体は、その都度いかようにも姿を変えることのできる「流体的なもの」として現前するのではないか? しかし、理論的にこう考えたとしても、先行的な観念が解体されつくしたとしても、現実的には、主体のその都度の選択をある程度規定し、方向づける具体的な条件が残っているだろう。一つはその場=時空における意味=力の配置のネットワークであり、一つは直前の時点から引き続く状況の文脈であり、一つは主体がそれまでに積み重ねてきた経験の記憶への照会である。以上の記述を踏まえて、ひとまずここでは「悟り」を次のように定式化しておきたい(もう、勤務に向かわねばならない)。すなわち、極限的な自己の微分と、徹底的な帰納主義による主体の高度な流体化、と。
  • ここからは、翌1月9日に記している。料理ののち、三時から五時直前まで上記を書いたのだが、そのあいだ、頭痛というか、頭の各部に何か変な感じが生じ、やはり脳内に目を向けたり、言語を考えるのがこわい、というところがあったようだ。文を書くことに集中すると、頭の症状が生じてくるようだった。そこで、呼吸に意識を戻してみるとそれだけで文を綴るスピードも緩くなり、心身の固さが少々取れる。そうしてやっていると、じきに神経症状もなくなり、良い気分で書くことができた。これほど多くの分量を紙の日記として書くというのははじめてだが、これはこれで面白いものである。キーボードとはスピードが違うので、当然、頭で考える文の速度も変わってくるし、それによって時には読点の位置も違ってくるだろう。文字を書くのに時間がかかるから、落ち着いて進めることができるというのも、今の自分にとっては良いだろう。
  • 「悟り」についての考察に思いのほかに時間がかかり、五時直前に至ってしまったので、急いで着がえをして、歯を磨いた。居間のカーテンを閉めておき、出発である。
  • 雨が続いていた。坂を上り、路面のおうとつにちらちらと、電灯の白さが散乱しているのを見下ろしながら街道へ向かう。真っ黒な水たまりの中を、ゆがんでぼやけた電灯の姿が、月のように渡っていく。街道を歩いているあいだ、車が途切れた間があって、そうするとその静けさと暗さに、もう夜も更けたような、これから行くのではなくてもう帰り道であるかのような錯覚が立った。水音に増幅された車の走行音が、やはりまだ頭に響く感じがする。
  • 裏路の途中で濡れた土のにおいが一瞬立った。庭もないような、あってもすべて舗装された駐車場のような家々のあいだでも、蛙のいる林を思わせる土のにおいが嗅がれるものだなと思った。進んで、取り壊された会館の裏の、駐車場やら線路やら、乏しい人家の灯やらを前にまた、もの侘しいような情を感じた。
  • 勤務の途中から、薬の効果らしく(出る前に一粒ずつ追加していた)、自足感めいたものがあった。座っていると眠気が兆してくるほどで、また、喋れば口は勝手にうまく動き、次の発言も自ずとつながってくるし、行動しても思考が実に滑らかにつながるものだった。
  • 帰路、(……)と久しぶりに一緒に帰る。卒業論文で難民を取り上げているということだけは以前に聞いていたので、もう少し詳しく教えてくれ、と言うと、ロールズって知ってますか、と来る。『正義論』の、と受けると、(……)は通じるとは思っていなかったのか、大袈裟に喜んだ。知っていると言って名前だけで、ロールズなど勿論読んだことはないのだが、例の「無知のヴェール」がどうのこうの、と半端な知識を提示すると、(……)が受けるには、ロールズ国民国家内における正義を考えたのだが、それをグローバルな概念として拡大しようとする動向があって、というようなことを言う。これも内実はまったく知らず、単なるイメージで、それは例えばアマルティア・センとか、と訊き、あとは、なぜ遠くの国の貧しい人に対して義務が……とうろ覚えの書名を挙げようとすると、(……)は、まさにそれです、と興奮した。自分でもこの本の存在をどこで知ったのか不明で、よく頭に出てきたなと思うのだが、トマス・ポッゲとかいう人のものらしい。
  • その後、相手ともう少し話したかったので、相手の帰路に合わせて会館跡の前から坂を下っていき、エルサレム首都認定はあれはまずいなあと思ったよ、などと床屋政談以下の感想をちょっと話したりもし、川を渡る手前で別れて裏に入った。中学校の裏手の坂まで来ると、樹々に接した道に霧が濃く湧いて、上った先も見えないほどである。こんなところを通っていると、本当に幻覚が見えてきやしないだろうなと恐れながら行くと、その上の裏路も、すぐ脇が林で、その下は川になっているからだろう、霧がひどかった。
  • 帰宅後はすぐに食事に。テレビは『プロフェッショナル』。ワイン用のブドウをつくるのに奮闘する人の話だったが、ブドウを収穫してワインにし、試飲した時に、職人の細君(フランス人と思う)が(日本語で)、彼自身が表れているワイン、という風に評していたのが印象的だった(実際にはもう少し違う言い方だったと思うが)。わりとありがちな評言ではあると思うが、人間性(概念)が物に具現化されるというテーマにはやはり惹かれるところがある(それは芸術と呼ばれる営みの仕事の一つであるはずだ)。あるいは、例えば音楽だったり文章だったりならばこちらにも、誰々らしいな、という感じ方はわかりやすいが、味にもそれがあるのだというのが新鮮だったのかもしれない。
  • その後は海外のファンを対象にしたJ-POPのイベントが流れており、脚を左右にひらいて身体をほぐしながら眺めはしたものの、特段の印象はない。風呂に行った。浸かっていると雨の音が薄くにじみだし、じきに少々高くなって、また収まった。呼吸を意識していると、水面に浮いた、垢なのか何なのか、細かなゴミの漂っているのに目の留まる時間がある。どれだけ動かずじっと身体を静止させていても、くり返し送り出されて水面を渡っていく弱い波紋があるのだが、それはこちらの左胸の鼓動が生み出しているものなのだ。定期的に水の上を滑るその微小な波に、浴槽の縁近くに映った電灯の白い姿が揺らされて、時折り額や髪から水滴が落ちると、より大きな波紋が既存の動きをすべて巻きこんで行く。
  • 入浴後、零時過ぎから半まで本を読み、就床。