明け方に一度、目覚めた覚えがある。例によって心身が緊張感に満たされており、この日はまた尿意の高潮があった(これは多分、寝る前に蕎麦茶を飲んだことが寄与しているのではないか)。それでトイレに立って用を足し、薬も服用してベッドに戻ったが、下腹部の緊張感がまだ取れない。ひとまず腰をもぞもぞと床に擦り付けるように動かして温めていると、症状が和らいで来たので安堵した。しかし定かに寝付くことはできず、眠りに入ったという感じのないまま七時を過ぎて、そのあたりでようやく入眠したようだった。そうして覚めると、九時五〇分頃である。床を抜けようというところでちょうど、上階で電話が鳴ったのが聞こえ、出た母親の声を聞けば予想通り(……)である。何だか知らないが前日に、こちらに用があるから、明日の朝に電話してくれという留守電が入っていたのだ。それで瞑想もせずに室を抜けて上がって行くと、今から(……)が来ると言う。この老婦人は祖母の友人だった人で、坂下に住んでおり、一二月一八日に我が家を訪れている。一時期鬱病のような状態になっていたことがあり、(……)こちらに用事というのは、(……)(その待合室でこちらは彼女と一度、行き会ったことがある)について聞きたいことがあるといったことだろうか、と考えるのが自然な推測ではあろう。
洗面所に入ってドライヤーを使って髪を調え、来るまでに排便しておこうと階段を下りかけたところが、そこでもう玄関外の階段を上がってくる足音が聞こえており、随分と早いなと思った。用を足してから上階に戻って玄関に出ると、(……)は壁際の腰掛けに就いており、母親は床の際に座してその横にはヒーターが置かれている。挨拶をする(……)。用というのがこれだった、というよりは、このような形で敢えて用向きを拵えることで、話をしに来る口実にしたというのが実際のところではないかという気がする。
母親は茶を用意しに一旦下がったので、床にあぐらを搔いて無造作に座ったこちらは、しばらく(……)と話をした。孫の(……)は中学生なのだが、インフルエンザで学級閉鎖が起こっているらしいとか、こちらも薬を飲まずにやれていたのだが、この年末年始でまたちょっと悪くなり、どうもよく眠れずに寝覚めしてしまう、などといった事柄である。その後、母親がチーズケーキを用意してきて、(……)は初めはお構いなく、と遠慮の口ぶりだったのだが、いざ目の前に出されると食べちゃおうかとなり、茶を飲みながら一欠片を平らげた。そうした様子や、話している時の声調からしても、前回に会った時よりも元気そうだという印象を受けたので、こちらは安心した。その後、母親が戻って座に加わると、二人のあいだで話が展開されるので(ここで(……)という、この奥さんも祖母の友人だった人の旦那さんが亡くなったのだが、その弔問に行くかどうか、いつ行くかとかいった話だった)こちらは黙り、しばらくして(……)が帰宅すると席を立ったが、こちらは今回は見送りには出ず、室内で挨拶するのみに済ませた。
そうして、食事を取る。母親は買い物に出かけ、食事を終えたこちらは食器や風呂を洗うのだが、そのあいだもどうも下腹部のほうで感覚がざわざわとして気に掛かるような感じだった。それで室に帰ると、コンピューターを立ち上げて、前立腺炎について調べた。自分は神経症もあってか頻尿気味のところもあり、以前、そのあたりのことについて調べていて、前立腺炎というものを知ったのだが、今回また、どうもそれではないかという可能性を考えたのだ。しかし、急性や細菌性でない慢性前立腺炎というのは、これも例の自律神経失調症なるものと似たようなもので、定かな原因が絞れず、ストレスでも発症するとかいうことらしいので、これもやはり自分の場合、神経症状の一つなのではないか。結局のところ、出来ることとしては、適度に運動をしながら、自分の心身にとって良くないことを生活のなかで見極めて行き、それを避けるようにするしかないのだろう。ひとまず、利尿作用のある飲み物はやはり自分には良くないように思われたので、ここのところ飲んでいた蕎麦茶もまた一旦取り止めることにした。
そうしてEvernoteに記事を作り、前日の記録を付けたのち、正午前からこの日のことをここまで記して、一二時半である。さらに前日の記事も綴って、今は一時二〇分になっている。書いているあいだにも、やはり下半身・下腹部のほうに感覚が乱れていて、睾丸痛めいたものや腰痛がたびたび生じていた。一八日の記事をブログに投稿したが、その際、「About」の欄に引いてあったロラン・バルトの言葉を、このような駄弁じみた日記に戻ったことだし、エピグラフめいた大袈裟な振舞いは止めにしようということで削除し、代わりに、「読者」とのあいだの最小限の回路を一応ひらいてはおくかということで、メールアドレスを載せておいた。ブログタイトルも極々単純に「駄弁」に変えようかとも思っているのだが、やはりもう少し格好付けた語句にしたい気持ちもあって、踏み切れずにいる。
その後、瞑想を行った。座って呼吸をしているあいだ、頭の内が高速で回るのが感じられ、様々なイメージも脳裏に浮かんでは消えていったが、それに対する不安はあまり感じなかった。そのうちに、頭蓋の感覚に意識が向いて、すると何と言ったら良いのか、スピリチュアルな方面で「エネルギーが溜まる」とか「上昇する」とか何とか言われる感覚だと思うが、まあそのような感じが湧き、意識が一挙に変容するのではないかとか、極端な話、気絶するのではないかとか、発作を招くのではないかとかいう懸念があってそれはちょっと怖い感覚なのだが、ホームポジションとしての呼吸にたびたび立ち返りつつそれをも観察し続けていると、頭の感覚の引っ掛かりがふっとなくなり、一つ別のフェイズに抜ける、という瞬間があり、要はここで何らかの安息的な脳内物質の分泌が盛んになったということなのだろうが、落着いて軽い心持ちに入った。その状態に入ると不思議なことに、下半身のほうを中心にざわめいていた神経症状がほとんど収まり、まさしく心身が静止している[﹅6]といった趣になった。しばらくその状態を続け、そろそろ良いかなと思ったところで顔や身体を擦り、腕を伸ばしながら目をひらいた。その後しばらくのあいだ、落着きと神経症状の欠如が続いていたので(またそのうちに復活してしまったのだが)、瞑想はこのようにして「成功」できれば、心身を安らげて神経症に対抗するために確かに「使える」手法ではある。
瞑想を行ったのは一時三一分から五〇分までのあいだである。その後、二時四六分から他人のブログを読み出すまでのあいだは、何をやっていたのか記憶が蘇ってこない。ブログを読むとそのまま新聞記事を書抜きし、三時半に至って運動を行った。その後ふたたび瞑想を行い、この時も先ほどと同様に「成功」することができた。時刻は四時一八分、歯磨きをして、服を着替えて出発に向かった。
道中には大した印象もないし、書くのも面倒臭いので省略する。勤務を終えたあとは、最近は毎度電車で帰っていたところ、やはり歩く時間を多く取ったほうが良いのではないかというわけで、久しぶりに夜道を徒歩で帰ることにした。往路帰路ともに歩けば、それだけで一時間ほどは脚を動かすことになる。夜気にさほどの寒さは感じなかった。働いている最中は、目の前の仕事に追われているから余計なことを考える間もなく(それがつまらないのではあるが)、時折り神経症状や緊張が生じながらも、薬のおかげで大方落着いてもいて、しかし我ながらこうした性向、不調を抱えながらも良くもやるものだと思うくらいにはそつなくこなしていると思う。しかし職場を離れて一人になり、自分の心身に意識を向けてみると、空腹のせいもあってかやはりどことなく緊張しているような、身体が自ずと何かに耐えているかのような固さがあり、心のうちはさほど乱れていないのだが、気づけば歯を食いしばりたがっているかのように、奥歯のほうに力が入っているのが観察された(これは数日前にもあった)。しかし、歩きながら呼吸を注視しているうちに、そうした緊張感も多少和らいで、口のなかの力も抜けてきたようだった。
帰宅後のこまごまとしたことも思い出すのが面倒なので記さないが、ぜひとも書いておかなければならないのは入浴中のことで、ここで束子健康法を久しぶりに丹念に実行したのだ。自分は数年前には、やはりあれも神経の乱れから来るものだったのだろうがアトピー的な症状を持っており、それでいつからか入浴時にも石鹸を使わなくなり、代わりに束子健康法と言って要は乾布摩擦の一種なのだが、そのまま束子で身体を擦るということを始めたのだけれど、長く続けているとやはり適当になるもので、これをなおざりにしていたのだ。この日は久しぶりに思い立って、腹回りとか腰の回りとか、さらには下半身に症状が出ているからと太腿とか脹脛とか足の裏とかを念入りに擦ってみたところ、非常に神経に効いている感じがあり、心身がすっきりとした。それでやはりいわゆる自律神経のバランスが乱れているのだなと自覚したのだが、しかし同時に、ここのところの自分の変調の原因が根本的にはそれだったのだとすると、考え方や認知といった抽象的なものを操作するのでなくて、肉体に働きかけることによってここを改善すれば良いのだから、それは簡単な話である。それで風呂を出たあとも、やはり下半身、脚を養い労るのが大事なのだなという認識の下、コンピューターなどには見向きもせずにさっさとベッドに転がり、本を読みながら膝で脹脛を刺激した。するとやはり、時間が経つにつれて身体が軽くなり、温まって神経症状もほとんど生じなくなる。『長生きしたけりゃふくらはぎを揉みなさい』とかいう本が良く新聞の広告に出ていたと思うが、自分の体感上、これは確かなことで、自律神経を調える、などというのはおそらく大方、血流の問題なのだ。要は血流を促進するような習慣を実行すれば良いというわけで、自分の場合、瞑想を一日に一回から三回ほど、柔軟を中心とした運動、入浴時の束子健康法、脹脛の刺激、これらを丁寧にやっていればおおよそ心身の健康を調えることができるのではないかという目星が付いた。薬剤の補助を借りつつそれらの(まさしく)「自己への配慮」を実践していれば、多分そのうちに不安に追いやられているような感じも消え、健やかな気分を大方保てるようになるだろうと今は見込んでいる。
読書は零時ちょうどから二時前まで、Catherine Wilson, Epicureanism: A Very Short Introductionと本村凌二『興亡の世界史 地中海世界とローマ帝国』を続けて読み、就床前の瞑想はせずに床に就いた。