2018/2/10, Sat.

 三時前に一度覚めた。この時、何らかの夢を見ていたのだが、そのなかで急に緊張が高まってそのまま覚醒するという形だった。薬を服用して寝付き、六時頃にももう一度覚めた記憶があるが、その後、最終的に八時二五分まで眠った。うまく入眠できず、眠っているのかいないのか、本当のところもわからないような眠りだった前日と比べて、この朝は一応眠ることができたようである。あまり寝床に留まることもなく、一〇分ほど経つと身体を起こした。と言うのは、この日は母親が九時頃に陶芸教室に出かけるという話だったのだが、その前に顔を合わせておきたいという気持ちがあったからである。
 それで上階に行って、挨拶をする。無造作に伸びてきた髪に寝癖がついているのを笑われた。洗面所に行き、顔を洗って櫛付きのドライヤーで髪を梳かす。食事は、炒飯である。母親はじきに出かけて行った。ものを食べると皿を洗い、そのまま風呂も洗ってから下階に下りた。
 インターネットを覗いたあと、一〇時ちょうどから読書を始めた。石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』である。ベッドの上で、窓から射し入ってくる光線を浴びながら、音読をしていく。晴れの日ではあるが、空には希薄な雲があり、陽射しは前日や前々日と比べると控えめで、太陽が雲の裏に隠れて陰る時間もあった。読んでいると、母親が帰ってきた音がした。母親はこの日、午後には前日面接を受けた職場(「(……)」という会社で、発達障害などのある子どもらと一緒に遊び、支援をするらしい)を見学(と言うか、実質初仕事ということなのだろうが)に行くとのことで、午前中の陶芸教室からそのまま向かうとのことだったが、思いのほかに早く終わったので、一旦帰ってきたのだった。一一時半まで本を読んだところで、中断して上階に行く。
 母親は、食事を取ったところだった。カップ蕎麦を利用した温蕎麦の残りが鍋にあったので、こちらもそれをいただくことにした。ほか、ゆで卵である。食後、母親が先日買ってきた苺風味のチョコレート菓子をいただき、また、オレンジ味のゼリー飲料も続けて貰い、どちらも美味く感じられ、ありがたいという気持ちが湧いたので、これはあとで記録しておくことにした(実は先日来、「感謝および良かったこと」として、その日に感謝したことを日記の別欄に記録しているのだ。このようにして、ささやかなことでもありがたいと感じることのできる感受性を失うことなく、それをより拡張させていきたいと考えているのだが、これもまた不安に対抗するための一手段として考えてもいる。自分の不安神経症は、最終的には不安そのものに対する不安、つまり再帰的な不安として定位されていると思われるのだが、それに対して、感謝・良かった・ありがたいというポジティヴな気持ち、再帰的な感謝を増幅させることによって対抗したいという考えである(感謝が再帰的なものであるのは、どのような感謝の情であれ最終的には、「自分が何かに感謝できるということそのものが最も感謝するべきことである」という地点に帰着すると思うからである)。
 昼食後、皿洗いを済ませて、南の窓辺に寄って陽の温もりをちょっと感じたあと、自室に帰った。そうして、久しぶりに過去の日記を読み返すことにしたのだが、二〇一六年一二月台の終盤までしか読めておらず、本当はその日の一年前の記事を読み返したいところが、もうとても追いつけないほどに距離が離れてしまったので、途中のものを読むのは諦めて、二月一〇日のものを読んだ。そうしてからふたたび、『記号の国』を読み出す。もう太陽が西寄りになって、通常の枕の位置には光が届かないようになっていたので、ベッドの端、南窓の際に寄って、ガラスの隅に浮かんでいる太陽の陽射し(高度も上がったので、もうあまり定かな感触もない)を辛うじて浴びる。時折り、窓外で立つ鳥(多分、鵯ではないか)の声に耳を取られながら、一時間四〇分を読んで、一気に読了してしまった。二日間で読んでしまったわけで、自分としては相当に速い。なかではやはり、「俳句」(意味の中断/免除、「悟り」)について述べられた部分などに主に興味が惹かれ、書抜き箇所として手帳にメモをするわけだが、自生思考があるということそのものに苦しめられている最近のこちらとしては、まさしくそうした、無秩序に増幅していく意味の停止/言語・思考の不在のような状態が実現されればなあという心だった。文中に引かれていた臨済義玄の言葉、「歩くときには、歩くことだけをせよ。座したときは、座すことだけをせよ。けっしてためらうな!」(「行かんと要せば即ち行け、座せんと要せば即ち座せ。一念心に仏果を希求する無し」)にも同じ憧れを抱いた。
 二時を迎えたので、洗濯物を取りこみに行った。タオルを畳み、シャツにアイロンを掛けていると、その最中にインターフォンが鳴る。出れば(……)(行商の八百屋さんだが、出勤時に辻で会うほうとは別の人である)で、母親は不在なわけだが、どうせ来てもらったのだから何か買ってあげようというわけで、ちょっと待ってくださいと告げて、財布を取りに室に下り、戻って玄関を抜けた。どうも、と挨拶をして、今日は良い天気ですね、雪が降って以来随分と寒かったですね、などと話しながら、トラックに積載された品物を見回って行く。それで、ヨーグルトと、葱と、人参(一袋)を買うことにした。五五〇円をぴったりと払って、礼を言って玄関の戸を入り際、目に入った林のほうの宙が、薄陽によって本当に煙ったようになっており、また、樹々の至る所に光の斑点が付されているのにも目を奪われて、少々眺めた。このような、以前のような感受性の働き方は、不安に苛まれてばかりいた最近のこちらにはほとんどなかったものであり、それがここでふたたび生まれたのはありがたいことである。八百屋のトラックが去っていったあとには、木の葉を撫でる風の響きが残った。
 そうしてアイロン掛けに戻り、また下着を畳んだりもするのだが、そのあいだ、目の前のことに集中できているような感じがした。と言うか正確には、何らかの行動を実行しながらその裏で、無秩序に思考が蠢いているのを感じてもいるのだが、それが明確な言語となって聞こえては来ず、だいぶ後景に引いたような感じで、思考があってもあまり気にならない、という感じだった(完全に言語化されないままの思考が高速で流れていくのだが、それは次々と流れ、移り変わって、こちらを「通過して」いくものなので、不安を感じる暇もない、というような? また、意識の志向性が思考にばかり定位されず、殊更に努力せずとも、目の前の外界の物事のほうにもたびたび焦点が合ったようだ)。これは一か月強薬を飲み続けて、その効力が定着してきたということなのか、それとも音読の効果なのか、あるいはその相乗効果なのかわからないが、やはり何となく、音読は精神安定に良いのではないかという気がするので、これからも続けてみるつもりである。
 下階に戻ると三時前で、日記を書くことにしたのだが、Evernoteを見ると、ネットワーク接続の不具合で同期が出来ていないという表示が出ていたので、階段下の室にあるスイッチをかちかちとやりに行った。その帰り、突如として気まぐれに、ギターを弄る気持ちが湧いたので、それに従って隣室に入り、少々弾いたのだが、ここでもやはり、ギターを弾きながら余計な思考が湧くという感じがほとんどなかった。そうして自室に戻り、前日の記事よりも先に、この日のことをここまで書いて、四時直前となっている。
 それから前日、九日の記事を仕上げて投稿すると、四時四〇分である。書き物をしているあいだも、不安はなかった。そうして、上階に行って夕食の支度を始める。まず、米である。新たに四合を用意して研ぎ、もうだいぶ腹が減っていたので、すぐに炊きはじめてしまった。それから、鶏肉を茹でて色の白くなったものが冷蔵庫にあったのでそれを取り出し、ジャガイモとともに炒めることにした。芋を三つ、皮を剝き、薄めにスライスして、そのあと鶏肉も細かく切り分ける。ジャガイモは本当は、多少茹でてから炒めたほうが柔らかくほくほくとなって美味いのだろうが、面倒臭かったので、オリーブオイルをフライパンに引き、そのまま炒めはじめた。この時、久しぶりに音楽を歌いながらやるかという気になって、台所のラジカセで小沢健二『刹那』を流した。そうして、歌を口ずさみながらジャガイモを炒めて行くのだが、途中、結構焼き目もついたあたりで一欠片食べてみても、少々固さの残っており、やはり茹でたほうが良かったなと思われ、遅ればせながら水を使うかということで、ちょっと水を投入して蓋を閉じ、蒸らしてみることにした。待つあいだも歌を歌い続け、そうして鶏肉も加えて念入りに炒めてから、塩コショウをほんの少し振って完成とした。それから、汁物を作る。これは先ほど買った葱を使えば良かろうと決め、さらにちょうど絹の豆腐があったのでそれも入れることにした。湯が沸くのを待ちながら葱を斜めに切り(切り終えてしまったあとは、居間の窓のカーテンを閉めた)、湯に粉の出汁と味の素を振ったあと、鍋のなかに投入する。煮えるのを待って豆腐も切り分けて入れ、血圧を心配している母親に薄味でと言われているので、こちらも味噌を少なめに溶かして仕上げた。
 そうすると、時刻は五時半を回ったころだった。"流星ビバップ"を歌いながら洗い物を済ませ、下階に戻ると、そのままの流れで久しぶりに、歌を歌いはじめた。このように、歌を歌おう、声を出そうという気分が自然と生まれたこと自体が、こちらの回復を示しているように思われる。最初は、ちょっと歌ってから、母親が帰ってくるまでのあいだに(母親の帰宅後に、一緒に食事を取ろうという気持ちだったのだ。以前はこんな心になったことはほとんどまったくなかったはずで、自分でも驚くべき変化なのだが、この点について多少の分析/解釈を加えておくと、例えばこちらが無意識のうちに抑圧していた「マザコン」傾向を認めるに至った、ということが言えるかもしれない。と言って別に自分は、以前のこちらも、今のこちらも、特段過剰に「マザコン」だとは自認していないが、もっとも、例のエディプス・コンプレックス的な図式に従うならば、素直にそれを認めるにせよ、反発するにせよ、すべての男子は最終的にはマザコンなのだということになるのかもしれないが、これは退屈な考え方ではあると思う。それはともかく、こちらがどちらかと言えば支持したいもう一つの解釈はと言えば、それはやはりこちらの内における「他者」像、「他者」に対する態度の転換で、思うに、自分にとって母親とはより広い「他者」を象徴する存在、最も身近で根源的な「他者」だったのではないか。同じ家族という小共同体のうちにありながら、明確に自分とは違う性質を持った存在、苛立たざるを得ない存在、端的に言って「話の通じない」存在として、こちらにとっての母親はあったと思うのだが、「他者」への姿勢が変化したことにより、そうした母親の存在を受け止め、受け入れ、彼女と概ね協和することができるようになったのではないだろうか。これは、ブログの読者の皆さんには、二八歳にもなって今更と思われるかもしれないし、あるいは逆に、二八歳にもなってマザコン的であると思われるかもしれないが、自分としては良い変化だと思うし、この思いやりのような心が、薬剤の効果によって精神が落着いているための一過性のものでないことを自分は願う)、いくらか書抜きをしようと思っていたのだが、勢いが止まらず、一時間ほど歌い続けてしまった。歌った曲を列挙しておくと、Suchmos "STAY TUNE"を皮切りに、Mr. Chilren "ファスナー", "NOT FOUND"、くるり "グッドモーニング", "ロックンロール", "How To Go "、小沢健二 "大人になれば", "ローラースケート・パーク"、James Morrison "Save Yourself"、Maroon 5 "She Will Be Loved", "Sunday Morning", "If I Never See Your Face Again"である。一人カラオケの前半部で、(……)のことを思い出す瞬間があり、この人は二〇一二年から二〇一三年のあたり、ちょうど文を書きはじめたのと同じ頃までこちらが恋慕していた高校の同級生の女性で、彼女のことと言うよりは正確には、彼女が、家族は大事にしなければいけないよという風に言っていたのを思い出し、それとともに一家の生活を支えてくれている父親のことなども思い合わせて、ああ、彼女が言っていたことは本当だった、自分は今までそうしたことを顧みず、良く感じ取ることなく、何と傲慢だったのだろうと反省し、歌を歌いながら感情が高ぶって涙を催す瞬間が何度かあった(彼女にまた会って、こうしたことを話してみたいとも思った)。このような感謝の情が湧くのは良いことだと思うが、しかし最近の自分は明らかに涙を催しすぎており、精神の安定の観点からするとややまずいと言うか、もう少し落着いて、動きの少ない頭と心になりたいという気はする。ともあれこの時、「他者に対して優しい人間になりたい」という気持ちが明確に自分のなかにあることを自認し、そうした気持ちがあることそのものに感謝したのだが、何とありきたりな、紋切り型の、「綺麗な」物語だろうか? 人によっては拒否感を催してしまうような言い草かもしれない(以前の自分もどちらかと言えば、そうした方面の人間だったと思うが、このように変化するほど、不安にこっぴどくやられたということなのだろう)。しかし、自分はこの紋切り型を堂々と生きたいと、少なくとも今のところはそう思っており、その願いがこの先消えないでほしいとも思っている。それは本心だろうか? わからない、ここ最近の自生思考の暴走のうちでは、自分のなかから「本心」というものが解体されてしまったように思えた時もあったし、そもそも人間に「本心」などというものがあるのかどうかすらわからず、疑う心もあるのだが、しかし自分は自分の意志で、こうした気持ちが自分の「本心」であると、今この瞬間は「信じて」おきたいと思う(「私の自由意志が最初に行う選択は、自由意志の存在を信ずるということだ」とウィリアム・ジェイムズは言った)。ところで、このように生活を舞台にして自分の「内面的な」事柄、「思い」ばかりを綴っていると、いかにも近代文学的な私小説のようなものをやっているのではないかという気がしてくるのだが、読者の皆さんの目にはどう映るのだろう? 自分はもはやこれを「小説」として書いているつもりはないし、「小説」にしようという心もないのだが、かと言って「日記」を綴っている、というような感じも(ほかに適した言い方がないので、便宜上そのように書くわけだが)薄くなってきたような気もする。
 随分と脱線してしまったが、話を戻すと、歌を歌い終えたあとは、書抜きを一箇所でもしようということで、ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から一部分(それが長かったが)を写した。空腹の状態を持続させてしまい、かつ歌を歌い散らして交感神経を活性化させてしまったのか、頭や身体が緊張しているような感じがあったので、書抜きの途中にこの日二度目の服薬をした。そうして、七時半頃になって上階に行く。
 初仕事を終えた母親の話を聞きながら食事を用意し、卓に就いて食べはじめた。母親が帰りに小さな惣菜の酢豚を買ってきてくれていたのだが、これが、玉ねぎや人参にまで味がよく染みていて、美味いものだった。八時に至って新聞を見ると、出川哲朗が充電バイクで旅をする番組がやっているとあったので(その前に、新聞の一面に、石牟礼道子の訃報(九〇歳だと言う)が出ているのを見て、ああ、と嘆息するような風になった。と言って、彼女の作品は何一つ読んだことがないのだが、『苦海浄土』はやはり読むべきではないかと思うし、水俣病闘争についてもできれば学びたいという心はある)、それを見ようと母親に言って番組を回してもらった。ロンドンブーツの田村亮と一緒に四国を旅しており、途中、和菓子屋に止まって、わらび餅をいただいたり、充電させてもらう代わりに客引きをやったりしているのだが、そうした様子を見ながら、こういう何でもない他人との交流というのはやはり良いものだなという印象を持った。父親が早く帰ってくるというので母親は風呂に行き、こちらは皿洗いを済ませると自室に帰って、ここまで日記を記した。現在は九時二〇分である。前日とはうってかわって、日記を書きながら不安がなく、精神がまとまりを得ている感じがするのだが、このように久しぶりに長々と自分語りを展開できたということ自体が、やはりこちらの回復を物語っているのではないだろうか?
 その後、入浴するために上階へ行った。帰ってきていた父親におかえりと挨拶する。父親は、寝間着の上にダウンジャケットを羽織り、いつも通り炬燵テーブルで食事を取りながら、オリンピックのスピードスケートを見ていた。こちらも下半身を伸ばしながらちょっとそれを眺めたあと、ベランダに干しっぱなしだった束子を取る。すると、雨が降っているのに気づいたのだが、訊けば父親が帰ってくる途中から少々降り出していたと言う。
 入浴する。温冷浴を、久しぶりに腕の付け根のほうにまで冷水を掛けて、念入りに行った。窓に静かに響く雨音に、頭が俳句を作る方向に向いたが、形にならなかった。上がると室に戻り、他人のブログを読もうとしたのだが、何か緊張するところがあってやめ、コンピューターは閉ざして、読書をすることにした。ロラン・バルト『記号の国』のあとに選んだのは、先般芥川賞を受賞した石井遊佳『百年泥』である。これは、三月の頭に控えた(……)たちとの会合で読むことになっているものだ。一〇時半から一時前まで、二時間以上、一気に八〇頁近くを読み、そうして眠りに向かった。一日出かけず、運動もせず、あまり疲労感が感じられなかったので、うまく眠れるか懸念があったのだが、自ずと入眠することができた。