2018/2/14, Wed.

 例によって三時台に一度目覚める。さっさと薬を飲んだほうが良く寝付けて良いのだろうが、空気の寒さのために、起き上がって布団から少しでも身体を出すのが億劫で、身体はやはり少々緊張感を帯びているのだが、そのまま目を閉じていた。そうすると、イメージの展開がずっと続いたようで、あるいはそれは夢を見ていたということなのかもしれないが、ただ実感としてあまり眠っているという感じはなく、時折り姿勢を変えているうちに、時計をふたたび見るとそれでも時間が過ぎていて、六時頃になっていた。ここで服薬し、するとやはり効果があって心身の感じがちょっとほぐれて、多少眠りらしい眠りに入れたのではないか。ここで夢を見た。蓮實重彦がジャズについて書いた批評文を読んでいると言うか、その文字列だけがイメージとして見えるような感じのものだったと思うのだが、蓮實はレッド・何とかという(レッド・カスケイド、みたいな感じだったと思うが、これは多分間違っており、正確には思い出せない)ジャズピアニストが好きだという話で、このピアニストは勿論実在しないのだが、設定としては、どこかのジャズクラブを根拠地にして五〇年台から三六年間ほどずっと演奏を続け、そのあいだ様々なプレイヤーと共演してきたということだった。どちらかと言えば燻し銀的な、メジャーでないプレイヤーのようで、そうした人を好むというのは蓮實らしいなと思った覚えがある。こちらの夢のなかの蓮實はもう一人、先の人とはまたタイプの違うプレイヤーとしてお気に入りを挙げていたはずだが、それについては覚えていない。また、この夢、というか蓮實の批評文自体に既視感があって、ここ数日で同じ夢を一度既に見ていたような気もする。
 そうして、七時を回り、陽も昇って部屋には明るみが入りこんでいる。これ以上は眠れないだろうという感覚がありつつも、目を閉ざし、あるいはひらいて、寝床に留まってしまうそのあいだ、脳内には高速で、イメージなり完全な形を取らない言葉・声のようなものなりが、まさしく渦巻いており、次々と流れすぎて行く。その流れはほとんどが記憶に残らないほど速く、まさに奔流といった感じなのだが、その動きが自分で見えるのだ。こんなものを頭のなかに抱えていながら、よく自分は生活をこなせている、狂わずにいられるなと思い、これが今よりも酷くなってしまうと、ことによると狂うのかもしれないという不安もやはり感じた(こちらが考える「狂い」というのは、具体的には、自分の行動や言動について適切な判断が下せなくなること、他者の言語が理解できなくなること、他者とコミュニケーションを取れなくなること、というあたりが内実のようである)。
 七時半前になると起きようという気持ちが湧いて、布団を抜け出した。上階に行って、ストーブの前に座る。それから洗面所で顔を洗い、髪を調え、台所に出ると、おかずらしいものが何もなかったので、卵を二つ焼くことにした。また、母親が、焼売があると言って取り出してくれる。それらを用意し、また米はもう炊飯器に残った最後のものだったので、茶漬けにして、卓に並べた(そうしたことをしている最中、父親が出勤していった)。ものを食べているあいだ、テレビに目を向けたり、母親の言葉を聞いたり、それに対して心中でコメントをし、あるいは実際に言語を発して応答したり、そうした動きのなかで目の前の食事を味わわなくてはと思い、ゆっくりと咀嚼する感覚に注意を振り向けたり、そのように常に動き回ってやまない自分の意識の志向性のいちいちが、くっきりと見える感じがした。ここに不安が伴うと、おそらく自動感が生まれてくるのではないかと思うが、この時はそれがなかったようである。
 食後もすぐには立たずにいると、母親がもう少し何か食べたいねと言って、林檎を剝いてくれる。それをいただいてから食卓を立って皿を洗い、そのまま風呂を洗ったのだったか、それともストーブの前に座ったのが先だったか、ともかく、温風に温められ、また同時に窓から射し入ってくる陽の暖かさも顔の左側に感じて、ありがたいという気持ちが湧いた。風呂を洗っている最中には、自分の心持ちが何だか明るいということに気づき、回復を証しているようでこれもありがたく思われた。その後、先日買ってきたアイスを食べようと思い立ち、チョコレート味のそれを持って、陽射しが温かいねと言いながら、光がもっとも当たっている炬燵テーブルの上に乗り、陽の感触を肌に浴びながら、アイスを少しずつ食べた。美味かった。テレビは、宝石類の整理や掃除方法、本物偽物の見分け方、査定額などについて放映していたが、これについては詳しく書くほどの興味はない。
 そうして白湯を持って自室に戻ってきて、今日は早速日記を綴るという気持ちになったので、ここまで書くと、現在は九時四〇分である。
 その後、ギターを弾いたりしたのちに、一〇時半過ぎから読書を始めた。南直哉『日常生活のなかの禅』である。音読をしている最中は、やはり脳が刺激されるのか、頭痛までは行かないが頭が固いような感覚が訪れ、その後、陽を浴びていることもあってかちょっと眠気が湧いて、目を閉じて休む数分もあった。南直哉の本を最後まで読み終えてしまっても、まだもう少し何か読みたいなという気持ちがあった。海外の小説でも読もうかと思い、何となくノサックが念頭に上がって来たのだが、迷いながら積んである本を眺めていると、岩波文庫ゴーゴリ/平田肇訳『外套・鼻』があるのに目が留まって、薄いものだし、先日後藤明生を読んだ流れでこれにするかというわけで、読みはじめた。そうして一二時一五分になると中断して、上階に行った。
 既に母親が米を炊き、また冷凍されていたキーマカレーを解凍しておいてくれた。母親が食べた残りを袋から米の上に掛け、電子レンジで温める。また、エノキダケとキャベツのサラダも卓に並べ、ものを食べた。デザートに、(……)(義姉)から貰ったというチョコレートをいただき、この時の食事はどの品も美味く感じられたので、そのことに感謝した。ちょっと休んでから立って皿を洗い、そのままアイロン掛けをする。最中、母親が、土曜日に父親と星を見に行こうと言っている、と話す。お前も行くかと訊くので、どちらでも、行っても良いと答えると、それでは行こうとなったので了承した。このあたりも、以前だったら間違いなく断って一人で家で過ごしていたはずで、ここ最近のこちらの、急激と言って良いだろう変化が現れている。
 その後、室に帰ってきて、日記を書き出し、二月一二日の記事を完成させて、現在、二時を回っている。振り向けば窓の外の空は、柔らかく、すっきりとして滑らかな青さに広がっており、良い天気である。
 その後、日記の読み返しをしてから、運動を行った。スクワットをしながら、自分が太腿に随分と力を籠めているのに、回復を実感した。それから、藤井隆 "ディスコの神様"を歌ったが、気分が持ち上がりすぎた感じがしたので、少々心を落着ける。そうしてSuchmos "STAY TUNE"も続けて流したのだが、やはり運動と音楽によって頭が浮き立っているような感覚があったので、音読をして気持ちを静めることにした。ゴーゴリの『外套』をゆっくりと読む。この時、話者の存在感というか、語り手がただニュートラルに物語を語ることに徹するのではなく、「読者」という語を用いたりもして、しばしば姿を現していることに気づいた。『外套』は一八四〇年に発表されたものだが、ほとんど不可視の、透明な話者による語りが成立する前の小説ということなのだろうか? ざっと読み返してみて、気づいた部分を、下にまとめておく。

 彼の名はアカーキイ・アカーキエウィッチといった。あるいは、読者はこの名前をいささか奇妙なわざとらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前はけっしてことさら選り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することができる。
 (7)

 こんなことをくだくだしく並べたのも、これが万やむを得ぬ事情から生じたことで、どうしてもほかには名前のつけようがなかったといういきさつを、読者にとくと了解していただきたいためにほかならないのである。(……)
 (8)

 こんな仕立屋のことなどは、もちろん多くを語る必要はないのであるが、小説中の人物は残らずその性格をはっきりさせておくのが定法[きまり]であるから、やむを得ずここでペトローヴィッチを一応紹介させてもらうことにする。
 (16)

 ところで、くだんの招待主の役人がいったいどこに住んでいたかは、残念ながら、しかと申しあげることができない。記憶力がひどく鈍り、ペテルブルグにある一切のもの、街という街、家という家が、すっかり頭の中で混乱してしまっているので、その中から何なり筋道を立てて引き出すということがはなはだむずかしいのである。
 (33)

 四時まで二〇分ほど読んだところで、食事を取りに上階に行った。ゆで卵に加えて豆腐を温め、さらにおにぎりを作って卓に就く。食べながら、例によって、苦しみというものは決してなくならないのだなどと考えていた。外面的にどんなに満たされているように見えようとも、何らかの苦しみは必ずある、なぜなら我々が感じ考える存在だからと、そんなことを思いながらおにぎりを食べていると、窓外で生まれた動きにはっと気づいて目を上げた。薄陽を掛けられた川沿いの樹々の前を、白い鳥がすうっと、まっすぐ右方へと宙を横切って滑空していくそのさまに、自ずと目を奪われ、気を取られていた。その後、同じ鳥なのかわからないが、今度は羽ばたきながら左のほうへ戻っていくのも見たのだが、まもなく、この瞬間も失われていく、いままさに失われつつあるのだと、またもや無常の感覚が湧き起こり、涙を催したのだが、それもすぐに収まった。無常感そのものすらも続かずに、絶え間なく移り変わっていくのだ。
 皿を洗うと下階へ戻り、歯を磨きながらまたゴーゴリを読んだ。この時、今度は、この小説のなかには妙に曖昧さが付き纏っているなということに気づいた。作品設定の細部において、「わからない」などという表明がたびたび見られるのだ(まず冒頭からして、「ある省のある局」と、アカーキイ・アカーキエウィッチの職場がぼかされている)。もう少し細かく作り込むか、それか別に言及しなくても良さそうなところを、わざわざはっきりしないということを明示するのである。やはりざっと読み返して気づいた部分を、のちに読んだ部分のものも含めて下に引く。

 ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。(……)つい最近にも、どこの市だったかしかとは覚えていないが、さる警察署長から上申書が提出されて(……)
 (6)

 この官吏の姓はバシマチキンといった。この名前そのものから、それが短靴[バシマク]に由来するものであることは明らかであるが、しかしいつ、いかなる時代に、どんなふうにして、その姓が短靴という言葉から出たものか――それは皆目わからない。
 (7)

 いつ、どういう時に、彼が官庁に入ったのか、また何人が彼を任命したのか、その点については誰ひとり記憶している者がなかった。
 (8~9)

 ところで女房のことが出たからには、彼女についても一言しておかずばなるまいが、残念ながら、それはあまりよく知られていないのである。
 (16)

 ペトローヴィッチは(……)円い嗅ぎ煙草入れを取った。それにはどこかの将軍の像がついていたが、いったいどういう将軍なのか、それは皆目わからない。というのは、その顔にあたる部分が指ですり剝げて、おまけに四角な紙きれが貼りつけてあったからである。
 (20)

 ところで、くだんの招待主の役人がいったいどこに住んでいたかは、残念ながら、しかと申しあげることができない。記憶力がひどく鈍り、ペテルブルグにある一切のもの、街という街、家という家が、すっかり頭の中で混乱してしまっているので、その中から何なり筋道を立てて引き出すということがはなはだむずかしいのである。
 (33)

 ところで、その有力な人物の職掌が何で、どんな役目についていたか、そのへんのことは今日までわかっていない。
 (41~42)

 ついに哀れなアカーキイ・アカーキエウィッチは息を引きとった。彼の部屋にも所持品にも封印はされなかった。(……)こうした品が残らず何人の手に渡ったかは知るよしもない。いや、正直なところ、この物語の作者には、そんなことはいっこう興味がないのである。
 (49)

 また、アカーキエウィッチが新調した外套を強奪される場面、そこまでの流れも、ゆっくりと音読していると何となく良い感じがしたので、引いておく。この強盗は結局、捜査もされず、犯人が誰だったのかもわからず、その後の物語のなかでその真相が明かされることはまったくなく、ヒントすらも与えられず、まったく純粋なこれだけの「事件」、言わばアカーキエウィッチを死に追いやるという機能しかほとんど果たしていないように思われる。

 (……)間もなく、彼の目の前には、昼間ですらあまり賑やかではなく、いわんや夜はなおさらさびしい通りが現われた。それが今は、ひとしおひっそり閑と静まり返り、街燈も稀にちらほらついているだけで――どうやら、もう油がつきかかっているらしい。木造の家や垣根がつづくだけで、どこにも人っ子ひとり見かけるではなく街路にはただ雪が光っているだけで、鎧扉[よろいど]をしめて寝しずまった、軒の低い陋屋がしょんぼりと黒ずんで見えていた。やがて彼は、向こう側にある家がやっと見える、まるでものすごい荒野みたいに思われる広場で街通りが中断されている場所へと近づいた。
 どこかとんと見当もつかないほど遠くの方に、まるで世界の涯[はて]にでも立っているように思われる交番の灯りがちらちらしていた。ここまで来るとアカーキイ・アカーキエウィッチの朗らかさも何だかひどく影が薄くなった。彼はその心に何か不吉なことでも予感するもののように、我にもない一種の恐怖を覚えながらその広場へ足を踏み入れた。後ろを振り返ったり、左右を見回したりしたが――あたりはまるで海のようだった。《いや、やはり見ないほうがいい。》 そう考えると彼は目をつぶって歩いて行った。やがて、もうそろそろ広場の端へ来たのではないかと思って目をあげたとたんに、突然、彼の面前、ほとんど鼻のさきに、何者か、髭をはやしたてあいがにゅっと立ちはだかっているのを見た。しかしそれがはたして何者やら、彼にはそれを見分けるだけの余裕もなかった。彼の目の中はぼうっとなって、胸が早鐘のように打ちはじめた。「やい、この外套はこちとらのもんだぞ!」と、その中の一人が彼の襟髪をひっつかみざま、雷のような声でどなった。アカーキイ・アカーキエウィッチは思わず《助けて!》と悲鳴をあげようとしたが、その時はやく、もう一人の男が「声をたててみやがれ!」とばかりに、役人の頭ほどもある大きなこぶしを彼の口もとへ突きつけた。アカーキイ・アカーキエウィッチは外套をはぎとられ、膝頭で尻を蹴られたように感じただけで、雪の上へあお向けに顚倒すると、それきり知覚を失ってしまった。しばらくして意識を取り戻して起ちあがった時には、もう誰もいなかった。彼はその広っぱの寒いこと、外套のなくなっていることを感じて、わめきはじめたが、とうていその声が広場の端までとどくはずはなかった。(……)
 (37~38)

 ついでにそのほか『外套』の感想を述べておくと、外套を奪われたアカーキエウィッチが突然死んでしまう展開は急に思われたのだが、しかもその後、物語の最後に至って、幽霊として街を彷徨うようになるというのも、結構な急展開ではないだろうか。話者はそうしたことに自覚的で、「しかもたまたまそんなことになってこの貧弱な物語が、思いもかけぬ幻想的な結末を告げることになったのである」とか、「この徹頭徹尾真実な物語が、幻想的傾向を取るに至った(……)」などと述べている。この幽霊が、警察官らに取り押さえられようという際にくしゃみをして、警官の取り出した嗅ぎ煙草が目潰しとなって逃げることができるというのも、幽霊がくしゃみをするのだ、という点が何かちょっと面白かった。結局、アカーキエウィッチの幽霊はその後姿を現さなくなるのだが、物語の結びに至っては、突然、「はるかに背が高くて、すばらしく大きな口髭をたて」た別の幽霊が登場し、「そしてどうやらオブーホフ橋の方へ足を向けたようであったが、それなり夜の闇の中へ姿をかき消してしまった」という風に話が終わる。この最後の幽霊が何者なのかはまったくわからず、それまでの物語内容と何の連関もないように思われ、この小説は終幕までこのように、不透明さが付き纏っているようである。
 その後、身支度を済ませて出発した。道中、人の姿を目にすると、やはり自ずと殺害のイメージが湧いてきて、それはまったく気持ちの良いものではなく、自分が不安を感じているのがわかって、あまり人の姿を見られないようになった。不安とともに回る頭では、自分が無意識のうちに人を殺すということを欲しているのではないか、などと考えてしまうのだが、これはやはり加害恐怖の一種で、自分が人を殺してしまうということを(そのようなことになる現実的な根拠はまったくないのだが)恐れるが故に、かえってそうしたイメージが浮かんでしまうのだろう。今まで自分が不安を乗り越えてきた相対化のパターンからすると、例えば嘔吐恐怖だったら、別に電車のなかで吐瀉物を吐こうが、ちょっと迷惑は掛けてしまうがそれで人が死ぬわけでなし、結局大したことではない、というような考えを作ってきたわけだが、しかし今回、殺人に対する恐怖となると、別に人を殺したところで大したことではない、などという風には自分は考えたくはない。そのあたりの道徳観を相対化するのだったら、自分はまだしも、不安を抱えてこの苦しみをそのままに受け止めて生きたほうがましであると考え、自ずとこの妄想が収まるのを待とうというスタンスを取った。わざわざ道徳観を相対化しなくとも、「殺害や暴力のイメージが浮かぶ」という現象そのものを相対化すること、要はそれに慣れて、イメージが浮かんでもこれは単なる妄想であると払い、何とも思わなくなるということは可能なはずであり、それを待つことにしたのだ。
 この日は道中、そんな様子だったので、職場についてからも不安を感じたままで(何しろ、屋内にたくさん人がいるわけで、それらのいちいちに殺害のイメージが付き纏うのではなどと考えると、やはりそう落着いてはいられない)、薬を追加して服用することにした。そのおかげで勤務中は落着き、言葉を発する際の苦しさもなく、ほとんど以前と同じような感覚で働けたようで、他人とやりとりをしているうちに楽しいような気持ちを感じた場面もあった。
 そうしたなか、労働中でありながら手隙の時間にちょっと奥の、見えないところに引っ込んで、道中のことをメモに取った時間があったのだが、自分がそのようにしていることを考えるに、書く欲望が自分の内にあるのかどうかわからなくなったなどと言いつつ、むしろ意欲が増しているのでは、とも思われた。結局のところ、自分はやはりこの日々を書いていくほかないのではないか。自分がこの生において最終的に出来ることは、このくらいしかないのではないか、と言うか、より正確には、自分の人生の物事は、それがどのようなことであれ大方、この書くという領域へと還元されてしまう、そのような主体としてもはや自分は構成されてしまったのではないか。
 帰路は、薬を追加したためだろう、やはり心が落着いていて、最寄り駅から坂を下って行きながら、頭のなかの雑念があまり見えないなと思った。脳内の独り言がまったくないわけではなく、蠢きは感じるが、頭の奥のほうに引いたような具合だったのだ。そうした落着いた心持ちで考えてみると、自分は人を殺したいなどとはまったく思っていないなということが確信された。そのような欲望、衝動は自分のなかにはない。坂を出て、家までの道を歩くあいだ、前方に灯る電灯の光の白々とした本体から、蝶の口吻のようにいくつもの光の筋が、鋭いようでもありまた先をちょっと曲げて柔らかいようでもありながら、顔の傍にまで伸びてくるのを見ていた。
 夕食は、鶏肉とエリンギをバジルソースで和えた料理に、納豆とエノキダケの味噌汁、ほか、ほうれん草やモヤシとオクラの和え物である。テレビは、宮部みゆきの小説を深読みするという番組がやっていて、集まった作家やら批評家やらのなかに、高橋源一郎の顔が見られた。参加者がそれぞれに、これは「~~小説」であるというように、色々な解釈(まさしく解釈)を披露していくのだが、あまり興味は惹かれず、そのように統一的な意味体系の像を構築するよりは、それよりもやはり自分は、ここにこんなことが書いてあるよね、こんなものが、こんな動きがあるよね、ここのフレーズは素晴らしいよね、などという原始的な読み方のほうが楽しいのだろうなと思った(統合よりも断片化を志向する性向であるということだろうか)。
 デザートに先日買ってきたグミを食べ、両親にも分けた。また、苺も父親と分け合っていただき、髪を染めた母親が先に風呂に行ったので、こちらは室に下りてメモを取った。その後、風呂を待つあいだにゴーゴリ『鼻』を読んだのだが、これがまたなかなかに訳の分からない小説で、ある朝突然小官吏の鼻がなくなってしまっているという、カフカを連想させるかもしれない物語の起点はともかくとして、こちらがこの時驚いたのは、その後、このコワリョーフ氏が、自分の鼻が紳士となっていることを発見した時の部分である。下に、前後を含めて当該箇所を引く。

 (……)不意に彼は或る家の入口の傍で棒立ちになって立ちすくんでしまった。じつに奇態な現象がまのあたりに起こったのである。一台の馬車が玄関前にとまって、扉[と]があいたと思うと、中から礼服をつけた紳士が身をかがめて跳び下りるなり、階段を駆けあがっていった。その紳士が他ならぬ自分自身の鼻であることに気がついた時のコワリョーフの怖れと驚きとはそもいかばかりであったろう! 彼はじっとその場に立っているのも覚束なく感じたが、まるで熱病患者のようにブルブルふるえながらも、自分の鼻が馬車へ戻って来るまで、どうしても待っていようと決心した。二、三分たつと、はたして鼻は出て来た。彼は立襟のついた金の縫い取りをした礼服に鞣皮[なめしかわ]のズボンをはいて、腰には剣を吊っていた。羽毛[はね]のついた帽子から察すれば、彼は五等官の位にあるものと断定することができる。(……)
 (ゴーゴリ/平田肇訳『外套・鼻』岩波文庫、一九六五年改版(一九三八年初版)、69)

 おわかりのように、この紳士が自分の鼻であるということを気がつかせる根拠が、まったくもって、何一つ、ほんの一片の情報すらも明示されていないにもかかわらず、コワリョーフは無条件で、紳士が自分自身の鼻であることを確信するのだ。人間の姿をしたものが実は鼻であるなどと判断する理屈など、そうそう立てられるものでもないだろうから、ゴーゴリとしてはこのようにするしかなかったのかもしれないが、この唐突さ、強引さには驚かされた。
 その後入浴し、それからまた本を読み出したのだが、ベッドに横になっているうちにいつの間にか意識を失っていて、気づけば一時半前になっており、そのまま就寝した。