五時になる前に一度目を覚ましたが、もう心身に緊張感はさほどないようだ。薬を飲むのも億劫で(あるいは服薬せずとも眠れるか試してみるような心もあって)そのまま寝付き、多分二度ほど覚めながら最終的に七時五〇分まで眠った。起き抜けの自動思考の渦巻きというのも、もうほとんど気にならなくなっている。この朝は一体どういった連想からなのか、"In Your Own Sweet Way"が鳴る時間があったと思う。カーテンをひらくと、比較的すぐに起き上がる気力が身にやってきた。
上階に行き、母親に挨拶して、便所に行って放尿する(最後に起きた時、下世話な話だが股間の膨張、いわゆる「朝勃ち」があり、ということはおそらく身体的にはおおよそ健康だということなのだが、同時に尿意も大きかった)。それから洗面所に入り、櫛の付いたドライヤーで無造作に伸びた髪を梳かす(明日、切りに行く予定である)。特段のおかずはなかったので、卵を二つ、焼くことにした。黄身を固めないままにそれらを丼の米に乗せ、ほか、前夜から続く野菜スープや、ブロッコリーと人参である。卓に就いた時、初めはテレビはNHK朝の連続小説『わろてんか』を映していたが(このドラマに関してこちらに特段の関心はなく、以前は見ていたらしい母親も、先日、最近はあまり面白くないと言っていた)、じきにそれが終わると朝の情報番組『あさイチ』に移り変わる。内田有紀という女優が出演しており、彼女の最新出演作として、宮部みゆき原作『荒神』という作品が紹介されていた。江戸時代を舞台としていながら、「ゴジラ」に出てきそうな少々グロテスクな怪獣をCGで構成して混ぜ込むという趣向らしく、その舞台裏、メイキングの映像が少々見せられたのだが、怪獣の部分は実際の撮影の時には、緑色の棒を十字に組み合わせたものをスタッフが掲げて、怪獣の動きを模してのしのしと歩いていたり、やはり緑色の全身タイツ的な衣装に身を包み、バランスボールのようなものを抱えたスタッフに向かって役者が突撃していって、怪獣に跳ね飛ばされるシーンを撮っていたりと、そうした内情の暴露はちょっと面白かった。
母親の分もまとめて皿を洗い、それから風呂を洗って、シャワーで浴槽についた泡を流していると、インターフォンが鳴るのが聞こえた気がした。水を流し続けていたのだが、母親が出て行く様子がないので、シャワーを止めて、直接玄関に出ていくと、やはり人がいて、母親が修理を頼んだバイク屋である。修理の終わったのを届けにやってきたのだ。少々お待ち下さいと告げ、下階に下りて、バイク屋の人が来ていると母親に知らせた。そうしてもう一度玄関に戻り、いま参りますのでと言っておいてから、あとはやって来た母親に任せてこちらは浴室に戻り、風呂洗いを完了させた。「(……)」というらしいこのバイク店は(この店のある地域には、同僚にも一人いるので多分それと同じく、「(……)」と漢字を書くのだろうが、この名字の人が多いらしい)、父親によるとぼったくるという噂だということだったのだが、ちょっと見たところでは愛想の悪くなくて明るい感じの人で、特段悪徳というような印象は受けなかった。
そうして白湯を持って下階に戻ると(裸足で歩くと床が大層冷たいので、靴下を履いた)、コンピューターを立ち上げ、前日の記録を付けたのち、今日の記事をここまで書いた。九時二七分である。
それから、伸びていた手の爪を切ることにした。傍ら、何らかの音楽を掛けたいと思ったが、それでは朝にも勝手に頭のなかで鳴っていた"In Your Own Sweet Way"にしようかと、Miles Davis『Workin'』に入っているその音源を流し、ベッドの上にティッシュを一枚敷いて爪を切って行く。曲が終わると、ライブラリでその上にあった'Round About Midnight』が目に留まり、これを久々に聞くかと、まだ朝九時で陽射しも少々洩れて明るくなってきたところだというのに、"'Round Midnight"を掛けた。この時期のJohn Coltraneは三、四年後の彼とはまったくの別人で、誰が聞いてもわかると思うが端的に言って技術的には未熟であり、むしろここから僅か三年でよく"Giant Steps"のレベルまで持っていったなと、彼の努力のほどを窺って賞賛するような思いがいつも湧く。五六年付近のColtraneの演奏はのちの極端な饒舌さとはまるで反対の、朴訥さ、口下手さ、「煮えきらなさ」とでも言うべきニュアンスをそこここに漂わせているように思うのだが、"'Round Midnight"はしかしその時期のなかでも、比較的うまく吹いているような気がする、と、爪をやすり掛けするかたわらそんなことを考えながら聞いていると、掃除機を持った母親が部屋に来て、その音で音楽は乱されてしまった。バイクにはいくら掛かったのかと訊けば、まだ正式にわからないが、今のところで(……)円とか言った。特に悪そうな人でなかったではないかと言うと、そうだねと母親は同意し、しかし付近ではそういう噂があるのだと、だから(……)(川のこちら側)と(……)(川向こう)とで派閥争いみたいなものがあるんじゃない、と笑って言い、こちらも本当だろうかと笑った。
爪を切り終えるとその後、日記を僅かに書き足して、読書に入った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』である。ベッドに乗って布団を身体に被せ、窓から射し込む光を受けながら、例によって音読をしていく。しかし、この時の読書はやや散漫で、文を声に出して読みながら気が逸れることが多かったようだ。一一時を過ぎて区切りとしたが、眠気が湧いており、クッションに頭を預け、目を閉じて少々微睡んでしまう。微睡みのなかに安穏と安らいでいることに安心する自分があった。二〇分ほどうとうとと過ごすと、起き上がり、インターネットをちょっと覗いてから、書抜きを始めた。ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』から長い一箇所、続けて、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』から二箇所を抜いて、そうすると一時も近く、食事を取りに上階に行った。
母親は既に「(……)」の仕事に出かけており、姿はなかった。洗濯物が室内に入れてあったのだが、まだ陽射しの朗らかさが続いているので、もう少し出しておこうとベランダに吊るした(この時触れた空気の感触に寒さはなく、柔らかな調子だった)。母親は食事の支度も多少しておいてくれたのだが、それらを食べるのは夜に回すことにして、この時はカップ麺で済ませることに決めた。戸棚を見れば蕎麦があったのでそれを選び、胃の消化を助けるために大根おろしを用意する。温めた豆腐にも大根おろしを掛けて、卓に就いて食べはじめた。何の変哲もない、特別なところの何もない簡素な食事ではあるが、どれも美味く感じられた。飯が美味いということは、実にありがたいことである。パニック障害の最も酷かった時期のことを思い出すのだが、あの苦しみの日々のなかでは、食べるものに本当に味が感じられず、「砂を噛むような」という比喩の意味を身をもって体験した一日があった。そこから思うに、人間、食べるものが美味いと感じられているうちは、きっとまだ大丈夫なのだと思う。
母親が流しに残していった食器もまとめて洗い、片付けて、下階に戻ると日記を僅かに書き足した。現在、一時半である。その後、一四日の記事を完成させてから上階に行き、洗濯物を畳んだらしいが、このあたりのことはまったく覚えていない(現在は、二月一八日に至っている)。
自室に戻ると運動だが、腕振り体操を久しぶりに行った。腕を前後にぶらぶらと振るだけのもので、パニック障害に陥った初期の頃はよくやっていたものだが、柔軟をこなしたあとに最後にもまたやってみると、身体がほぐれて呼吸が落着いたものとなり、具合は悪くなさそうである。それから、(……)白湯を注いできて、日記を読み返し、続いて、三宅さんのブログも読んだ。最新記事からだいぶ遅れてしまっているのだが、この日読んだ一月三〇日の記事には、渡辺真也という人物によるらしい國分功一郎『中動態の世界』の書評が引かれており、そのなかに興味深い部分が含まれていたので、こちらにも転載させてもらう。存在を意味するbe動詞のルーツが「呼吸」を意味する語だったというのは、こちらが呼吸について考えていたことを裏付けるもので、自分はやはり仏教思想とかインド哲学のあたりをより勉強するべきではないのかという気がするものである。
ペルシャのブラフマニズムから影響を受けたインドでは、そもそも意識は受動的に生まれるものだと認識されており、その思想は唯識仏教において完成したと私は考える。バラモン教の経典ヴェーダでは、梵我一如のことをサンスクリット語でTat Tvam asi(古英訳:That art thou. 我はそれなり)と表記するが、ここでは梵(ブラフマン)すなわち宇宙を、特定できないが故に便宜的に「それ」と表記し、「それ」を「我(アートマン)」と一致させることで、「主体」の成立を退けつつ全てを一元論的に内在化させている。
このasi (as, asmi)が英語のbe動詞(ドイツ語のsein)のルーツだが、これは呼吸を意味し、さらに英語のbe動詞やドイツ語のseinは対格を取らず、右辺と左辺を一格と一格で繋ぐという特徴を持つ。例えば I am a student. という文章では、a student が私と完全に一致するという訳ではなく、地にある私(我)が、天すなわち宇宙の中における[学生]という集合と重なり合い、我すなわち「内(主語=わたし)」と「外(補語としての a student)」の間を、呼吸という再帰的な動詞が繋いでいるのだが、私はこの文法に、同じインド・ヨーロッパ語で書かれたヴェーダの梵我一如の影響を感じる。
呼吸とは、全ての生き物が生命維持の為に常に行い、「吸う」と「吐く」という陰陽を持ち常に自らの身体へと再帰する、対格を持たない特殊な動詞である。「私」と「補語」を一格同士で結ぶ「呼吸する」という動詞は、外部の宇宙と繋がることで存在可能となる私を規定しているから、そこから規定される主格は再帰的である。故に、常に再帰的であり続ける呼吸を意味していたbe動詞やドイツ語のseinが、存在を意味する特殊な動詞になったのだろう。
その後、また腕振り体操をちょっとしてから、上階に行った。ゆで卵と林檎を食べる。陽射しはもう薄れて、外は白っぽい曇りになっていた。林檎は、一口一口、噛む感触を味わいながら、ゆっくりと食べることができた。そうして下階に戻り、ルソーを読みながら歯を磨いたあと、着替えをした。服を着替えているあいだ、脳内に"'Round Midnight"が流れており、ネクタイを締める一方でその自生音楽を聞く風になったのだが、しかしそれがあっても不安は覚えず、感触としてももうだいぶ薄いようだった。
上階に行くと、五時まで一〇分余っていたので、靴下を整理し、下着を畳み、それから出発した。坂を上って行くと、出口の付近で風が流れ、篠竹というやつだろうか、斜面の細い竹が鳴りを立て、道の反対側の脇に生えた草々もざわざわと揺れる。しかし、身を震わせるほどの肌寒さは感じなかった。
労働は余計な思考がなく、問題なくこなすことができ、結構楽しんで他人と話したりもしていたようである。九時半前に退勤すると駅に入り、通路を小走りに行って、電車に乗る。扉際で目を閉じて待ち、最寄りに降りたところ、ホーム上に雪はほとんどなくなっており、シャーベット状になったものが僅かに残っているのみで、それを爪先でちょっと踏んでみたりもした。
坂を下りて行き、道に出たところで、またもういまここの地点に来ているな、という、いつの間にかまたこの現在に至っているという気づきが訪れた。それに気づいて歩調をちょっと落としたその意志、その動き、それすらも含めて、すべてが自動的に流れて行くような感じがしたが、それに不安を覚えることはなかった。歩きながら自分の横を流れて行く家々や、空などに目を向け、こうしてすべては流れて行き、そしていつか死ぬのだ、と考えると、『ダロウェイ夫人』のなかの一節が想起された。
そんなわたしでも、一日が終われば次の日が来る。水曜日、木曜日、金曜日、土曜日……。朝には目覚め、空を見上げ、公園を歩き、ヒュー・ウィットブレッドと出会ったかと思うと、不意にピーターがやってくる。最後はこの薔薇の花。これで十分だわね。こんなことがあったあとに、死など到底信じられない――これがいずれ終わるなんて。わたしがこのすべてをいかに愛しているか、世界中の誰も知らない。この一瞬一瞬を……。
(ヴァージニア・ウルフ/土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社古典新訳文庫、二〇一〇年、214)
帰宅すると、ストーブの前に座った。母親が、ここで始めた新しい仕事の資料が鞄に入っていると言って示してみせる。ADHDの子どもの特徴や、彼らに対する接し方の注意などがまとめられたものである。それをちょっと読んでから下階に下り、着替えてきて食事を取った。レンコンと鶏肉、野菜の汁物などである。テレビは『ダウンタウンなう』を選び、五木ひろしが出演してダウンタウンと酒を飲んだりしていたのだが、あまり面白く感じられず、じきに母親が、これ面白いと訊いてきたのに、あんまり、と答えると、彼女は番組を変更した。『たけしのニッポンのミカタ!』である。高齢になっても、五〇〇円で食べ放題バイキングの食堂を続けている八二歳の女性が紹介されるのを眺め、食事を終えると入浴に行った。この日はなぜだか頭や身体が重くて、湯のなかで目を瞑ってしまうほどであり、温冷浴を繰り返してもあまり眠気が散らなかった。束子摩擦も全身をやる気力はなく、腹から胸のあたりと足の裏だけで済ませて、出てくると零時近くになっていた。歯を磨きながらルソーを読んだものの、そのまま続けて読書をする気力もなく、ベッドに倒れ伏してちょっと微睡んだあと、零時に至るとさっさと就床した。
ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』岩波書店(岩波モダンクラシックス)、一九九九年
四世紀に私どもが見出すのは、exagoreusis〔「告白」を意味するギリシャ語〕という、自己開示のきわめて異なるテクノロジーであって、これは、exomologēsisにくらべてはるかに有名ではないが、いっそう重要なテクノロジーである。このテクノロジーは、異教の〔つまり古代ギリシャ・ローマの〕哲学学校の教師/師に関連する、口頭表現の訓練を思い出させる。自己にかんするストア派のいくつかのテクノロジーが、キリスト教の求道生活技術へ移行したものと私どもは認めることができる。
少なくとも、ヨアネス・クリュソストモス〔ギリシャ教会の説教者、三五四―四〇七年〕が提案した自己検討の一つの例は、『怒りについて』のなかでセネカが述べたのとまさしく同じ形式、同じ管理的性格のものであった。〔クリュソストモスによると〕朝にわれわれは自分の出費を考慮すべきであり、夕べにわれわれは自分自身の行動について決算報告をし、何が自分に有利であるか不利であるかを、軽率な言葉ではなく祈りをこめて検討すべく、自ら努めるべきである。これはまさしく自己検討のセネカ様式である。しかも、この自己検討はキリスト教文献では稀である点に注目することもまた重要である。
修道院を本位とするキリスト教における、自己検討のみごとに展開し磨きあげられた実践は、セネカの自己検討とは異なっているし、また、クリュソストモスとも、そしてexomologēsisとも非常に異なっている。この新しい種類の実践は、キリスト教の求道生活の二つの原理、つまり、服従と観想、の見地から理解されなければならない。
セネカでは、弟子の師にたいする関係は重要ではあったが、しかしそれは手段的なもの、専門家的なものであった。それは、弟子を良き助言を介して幸福な自立の生活へ導く師の力量に基礎を置いていた。その関係は、弟子がそうした生活に到達すると終わるのがしばしばであった。
一連の多数の理由によって、服従は修道院生活では非常に異なる性格をもっている。その服従がギリシャ・ローマ型の師弟関係と異なるのは、服従が単に自己改善への欲求に基づくものでなく、修道僧の生活のすべての側面に関係をもつ、という意味からである。修道僧の生活ではどんな要素も、師への完全な服従というこの基本的で永続的な関係をまぬかれるわけにはいかない。ヨアネス・カシアヌスは、東方の伝統に基づく古い原理をそのまま述べている。すなわち、「師の許しなくして修道僧の行なうことは、ことごとく盗みとなる」。この場合に、服従とは、師による行為の完全な規制であって、最終的な自立状態ではない。それは自己の犠牲、主体自身の意志の犠牲である。これは自己の新しいテクノロジーである。
修道僧は、何をするにも、よしんば死ぬ場合でさえも、自分の教導者の許可を得なければならない。許可なしに行なえば、それはことごとく盗みなのである。修道僧が自立しうるときは一瞬たりとも存在しない。彼自身が教導者になるときにも、彼は服従の精神を保たねばならない。その服従の精神を、師による行為の完全な規制から生じる永遠の犠牲として保持しなければならない。自己は、服従をとおして自己を構成しなければならない。(end58)
修道院の生活の第二の特徴は、観想が最高の善と考えられている点である。修道僧の義務とは、自分の思考を神というあの最重要点へ絶えず向けることであり、自分の心は神の姿が見えるくらい充分に清らかであるのを確かめることである。その目的は、神への永遠なる観想である。
修道院における服従ならびに観想から発展した、自己のこのテクノロジーは、いくつかの一風変わった特徴をあらわす。カシアヌスはこの自己のテクノロジーについて、どちらかというと明瞭な解説を行なっているが、そのテクノロジーは彼がシリアおよびエジプトの修道院の伝統から借用した自己検討の原理である。
東方起源の、自己検討のこのテクノロジーは、服従と観想が支配的であって、行動とよりもはるかに多く思考とかかわっている。かつてセネカのほうは行動を重視してきた。が、カシアヌスの場合には標的は、一日の過ぎ去った行動ではなくて、現在の思考である。修道僧は自分の思考を絶えず神の方に向けているべきであるから、彼はこの思考の目下の流れを綿密に吟味しなければならない。こうして、この綿密な吟味の目標は、神の方にいたる思考とそうではない思考とを恒常的に識別することにある。現在へのこの絶え間なき関心は、セネカ流の、行為の記憶および行為と規則との照応とは異なっている。その関心たるや、ギリシャ人たちがlogismoi(「思案、理屈っぽい思考、抜け目ない考え」)という軽侮語を使って言及していた事柄である。
カシアヌスにはlogismoiにかんする語源の説明があるが、しかし私には、それが確実なものかどうかは分からない。すなわち、語源はco-agitationes〔「共同の働き」という意味のラテン語〕だというのである。精神というもの(end59)はpolukinetos、つまり「絶えず変わりやすい」(『セレヌス修道院長の第一講話』4)。カシアヌスにおいては、精神の絶えざる変わりやすさは精神の弱さである。それは人を神への観想から逸らせる(『ネステルス修道院長の第一講話』13)。
良心の綿密な吟味は、意識を不動のものとする努力、人を神から逸らせる精神の動きを除去する努力から成り立つ。そのことの意味は、行為と思考との、真理と現実とのそれぞれの関連を調べるために、われわれは意識に現われるあらゆる思考を検査しなければならない、われわれの精神を動かし、われわれの欲望をそそり、われわれの精神を神から逸らせるような何かが、この思考のなかに存在していないかどうかを調べなければならない、という点である。この綿密な吟味は、ひそかな欲望があるのだとの考え方に基づいている。
自己検討には三つの主要な型がある。第一は、現実というものに合致する思考についての自己検討(デカルト的)、第二は、われわれの思考が指針・規則に関与するその仕方についての自己検討(セネカ的)、第三は、隠れた思考と内的な不浄との関連についての自己検討。この最後の契機に始まるのが、キリスト教的な自己解釈学であって、それは内的な思考の解読をともなっている。それは、われわれ自身のなかには何か隠れたものがあって、われわれはその秘密を隠す自己幻影につねに陥っている、ということを含んでいる。
この種類の綿密な吟味を行なうためには、われわれは自分自身に気を配って直接自分の思考を証言しなければならない、とカシアヌスは言う。彼は類例を三つあげている。第一は粉ひき場の類例である(end60)(『モーセ修道院長の第一講話』18)。思考は穀粒のようなものであり、意識とは粉ひき場である。いろいろな穀粒のなかから、悪い穀粒と、われわれの救いたる良い粉・良いパンになるような、粉ひき場にもっていける穀粒とを選別するのは、粉屋としてのわれわれの役目である。
第二にカシアヌスがあげるのは軍隊の類例である(『セレヌス修道院長の第一講話』5)。良い兵士は右へ、悪い兵士は左へ行進せよと命令する士官の類例を彼は用いる。われわれは、兵士を良いと悪いの二列縦隊へと振り分ける士官のように行動すべきである。
第三に彼は両替商人の類例を用いる(『モーセ修道院長の第一講話』20―22)。良心とは、自己にかんする両替商人である。良心は貨幣を、その刻印と金属と出所を検査しなければならぬ。貨幣が不正な使い方をされてきたかどうかを調べるために重さを秤にかけねばならぬ。貨幣のうえに皇帝の肖像が刻まれているように、われわれの思考のうえには、神の姿が刻まれていなければならぬ。われわれは思考の質を検証しなければならぬ。神のこの刻印は、はたして真正であるのか? その純度はどうか? そこには欲望や肉欲が混じっていないか? こうしてわれわれは、セネカの場合と同じ比喩を見出すわけであるが、しかし意味するものは異なる。
われわれは役割の点では、自分自身にかんする恒常的な両替商人でなければならぬ以上、前述の識別を行なって、ある思考が良質のものかどうかを認知することは、どのように可能であるのか? この「識別」は、どのように活発に行なうことができるのか? 方法は一つしかない。すなわち、すべての考えを自分の教導者に述べること、あらゆる事柄について自分の師に服従すること、自分の考えのすべ(end61)てをつねに口頭で表現すること。カシアヌスにあっては、自己検討は服従および思考の恒常的な口頭表現に従属する。この服従も口頭表現も、ストア主義にはあてはまらないのである。ところが修道僧は、自分の思考のみならず、どんな些細な意識の動きをも自分の意図をも自ら言葉にあらわすことによって、師にたいしてだけでなく自分自身にたいして解釈学的な関係に置かれる。この口頭表現こそは、思考の試金石ないしは貨幣なのである。
(57~62)
エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』河出書房新社、二〇一七年
(……)私たちは何かを(end73)学ぶためにこの世界に生まれてきたのに、何ひとつ学ぶことができなかった――つまり、生まれてきた時よりも無知になってこの世界から去っていく――、それがもし本当なら、講演から学びとることなど何もないだろう。いや、実を言うとその若い方はこれから話すことから少なからず大切なことを学び取るはずである。講演者である私が唯一確信しているのは以下のことである。つまり、営々としてものを書き続ける習慣というのは本来不条理なものだが、そんな中でわれわれが素晴らしいことを成し遂げるのは、きまって思ってもいない時である。それだけは間違いないと確信している。
(73~74)
*
この八月、私は一足先にパリへ行き、次の日に妻が来るのを待っていた。時間を持て余したので、夕方ホテルから散歩に出て、レンヌ通りを抜けてカフェ・ド・フロールまで歩いた。通りにあふれている大勢の人に混じってサン・ブノワ通りまで行った。そこに今も自分の住む家があるように思い、戻ってきたような気持ちになった。しかし、突然自分が亡霊でしかないことに思い当たった。つまり、許しを得て墓場からむっくり起き上がり、若い頃に親しんだ人気のない通りに踏み込んだ、ところが、そこはすっかり様変わりしていて、まるでそのことを確認するために地上に舞い戻って(end83)きたような感じがしたのだ。
悲しみに暮れる亡霊のように昔住んでいた地区を歩きながら、絶望した人間が亡霊、死者である場合、かっこよさなどどこにもないことに気づいた。私は大勢の人たちの間を縫うようにしてかつて慣れ親しんだ通りを歩きながら途方に暮れた。どうしていいか分からなかったし、まわりには知り合いもいなかった。階段をのぼって屋根裏部屋まで行っても、自分が以前暮らしていた家に入ることはできない。私はもはやそこの住人ではないのだ。許しをもらってよみがえった死者、亡霊のような存在だった。中年になった今、青春時代は遠い過去のものになり、深い溝で隔てられていると分かって、言い表しようのないショックを受けた。胸が痛くなり、絶え間なく変貌していく広大な宇宙のようなパリが、ずっと以前に自分とは無縁なものになってしまったことに気づいた。
夕方、私は亡霊のようにさまよっていた。われわれは誰もが死者として悲劇的な孤独の中に生きているのだ、とあの時ほど強く感じたことはなかった。昔なら、亡霊のように歩き回るのがひどく優雅でかっこよく思えただろう。しかし、八月のあの夕方、かつて暮らしていたパリのあの地区で自分はもはや誰でもない人間なのだと思い知らされて、絶望感の奥に言葉では言い表せないほど大きな災厄が潜んでいることに思い当たった。かつて住んでいた地区の通りを絶望感に浸って歩いても、楽しくもなんともなかった。死にたいと思うこと自体かっこいいものでないのなら、死者となってかつて暮らしていた場所をうろつき回るのはそれ以上にかっこ悪いことだったのだ。
(83~84)