2018/2/19, Mon.

 四時半頃だったろうか、一度目覚め、薬を服用してふたたび寝付いた。最終的な覚醒は八時五〇分である。ちょっと寝床に留まってから抜け出し、上階に行った。母親は(……)仕事で、既に出かけていた。前夜の残りの秋刀魚と、ポテトサラダ、それに即席の味噌汁を用意して食べたが、そのどれも美味く感じられた。特に、ポテトサラダを食べているあいだに、林檎が混ざっているものだったのだが、その甘味のあるのが舌に美味しく感じられた瞬間があった。
 食器を洗ってから浴室に行くと、湯が多く残っているので洗わなくて良いとの書置きがあったので、それに従って放置し、台所に出てヨーグルトを食べた。この時、ヨーグルトの味に集中せず、意識を向けずにさらりと食べてしまったことに食べ終えてから気づき、もっと味をよく感じれば良かったなと思った。諸々行動しているあいだ、例によって音楽や思念が次から次へと湧いてきて、これはもう仕方のないものなのだが、それに気づき、サティの呪文を入れることでそうした頭の流れがあっても気にならなくなってきたようである。
 室に降りると、コンピューターをちょっと弄ってから、読書を始めた。一〇時半で、ベッドに乗ると陽射しがまだよく顔に当たる時刻である。そうして音読していると眠気が差して目を瞑る数分もあり、正午近くに至って読書を終えても(本篇は読み終え、中山元の、なかなか長く力の入っているらしい解説の冒頭まで辿り着いた)、目を閉ざして休んでしまった。その五分ほどのあいだに、何やらよくわからないし覚えてもいないイメージがやはり展開し、巻き込まれるのだが、そのあとになってそこから出て、妄想、妄想という風にサティを入れることもできる。
 上階に行く。母親は、午後からはまた「(……)」の仕事で出かけるのだが、一旦帰ってきており、食事を取りはじめたところだった。こちらはソファに就き、脚を前に伸ばして、一休みする。それから母親の作ってくれたうどんを丼に用意し、味が薄いと言うので麺つゆをちょっと足し、また、スチームケースに入った生野菜も電子レンジで熱して卓に運んだ。そうして母親と言葉を交わしながらものを食べる。ほか、薩摩芋と林檎があったのだが、食べるもののどれも美味しく感じられた。食べ終えても卓に就いたまま一息ついていると、母親が、もう洗濯物を入れてしまおうと言ってベランダのほうに行き、吊るされたものを取りこみはじめたのだが、明るい空気のなかのその姿を見ていると、何故なのか、どのような思いなのかわからなかったが、涙の感覚が目の奥から湧いてくるのを感じたものの、そこまで高まりはしなかった。その後、皿を洗おうとする母親に、もう出る時間だろうからと制してこちらが食器を片付け、母親の出かけて行ったあとは、取り込まれたタオルを畳んだり、アイロン掛けをこなしたりした。その後、靴下や肌着なども整理しておき、下階に帰る。
 (……)ちょうど二時から日記を書き出して、現在二時半前である。
 それから、ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』および、エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』の書抜きをした。ビラ=マタスのほうに、「フェルナンド・サバテールは、スペインのことわざ「物事を哲学的に受け止める」というのは、諦めをもって受け止める、あるいは真剣に受け止めるという意味ではなく、喜びをもって[﹅6]受け止めるという意味だと書いている」と紹介されているが、本当にそうありたいものだなあと思った。書抜き後は一七日の日記に取り掛かり、三時四〇分まで綴ると、運動に移った。あまり時間がなかったので、柔軟と腕振り体操のみ行って、すると四時である。
 上階へ行った。台所に入って鍋をひらき、うどんが残っていることに気づいた。炊飯器の米は残り少なく、やや固まっていたので茶漬けにすることにして、余った分は皿に取ってラップを掛け、冷蔵庫に入れておいた。食事は集中することができて、味をよく感じながら食べられたようだった。ものを食べ終えると、窓の外、川向こうから煙が薄く立って流れて行くのを見つめる。
 そうして皿を洗い、米を研いで、ポットに湯を足しておき、下階へ下りて、歯ブラシをくわえながら自室に戻った。ルソー/永田千奈訳『孤独な散歩者の夢想』を読みながら歯磨きをして、身支度を整えて出発である。
 この日のあとのことはほとんどメモを取っておらず、思い出せないので省略しようと思うが、出勤時、三ツ辻で八百屋の旦那らと会話できたことは心に残っている。(……)




ミシェル・フーコーほか/田村俶・雲和子訳『自己のテクノロジー――フーコー・セミナーの記録』岩波書店(岩波モダンクラシックス)、一九九九年

 ヘレニズム世界が示した、人間存在についての新しい緊急の要請にたいしてグノーシス主義の思想が応じたのは、「なんじ自身を認識すべし、そうすれば、なんじは所有するだろう」であり、二世紀のヴァレンティヌス派のグノーシス主義者、テオドトゥスの著名な言葉では「われわれは誰であったか、われわれは何になっているか、われわれはどこにいたか、ないしは、どこに置かれていたか、どこへわれわれは急ぐのか、何からわれわれは救われるのか、誕生とは何か、そして再生とは何か、これらを認識すること」(『テオドトゥス抄録』78の2)である。あるいは、同時代人、グノーシス主義キリスト教神学者、アレクサンドレイアのクレメンスの言葉で繰り返して言うならば、「それで、……自らの自己を認識することは、あらゆる教訓のなかで最も偉大である。というのは、人がもしも自分自身を認識するなら、神を認識するだろうから」(『教育家』3の1)である。
 (69)




エンリーケ・ビラ=マタス/木村榮一訳『パリに終わりはこない』河出書房新社、二〇一七年

 その日以降、自分の手で命を絶つと言って友人たちを困らせることはほとんどなくなった。しかし、その後も長い間――今年の八月にその考えが粉みじんに砕かれるまで――かっこよさと絶望感は本質的に結びついているという思い込みは消えなかった。それが本質的にかっこいいものでないと気付いたのは、パリのかつて住んでいた地区を悲しみに暮れ、絶望した死者のように歩き回っている時だった。この八月にそのことに気づいた。以来、喜びの中にかっこよさを見出すようになった。《何度か形而上学を研究しようと試みたが、至福感のおかげで中断してしまった》とマセドニオ・フェルナンデスは書いている。今の私は、生きる喜びを経験せずにこの世界に身を置いているのはかっこいいどころか、実につまらないことに思われる。フェルナンド・(end87)サバテールは、スペインのことわざ「物事を哲学的に受け止める」というのは、諦めをもって受け止める、あるいは真剣に受け止めるという意味ではなく、喜びをもって[﹅6]受け止めるという意味だと書いている。たしかにそのとおりである。つまるところ、絶望したければ永遠にそうしていればいいのだ。
 (87~88)

     *

 母にしてみれば、私があの町で暮らしていようがいまいが、どちらでもよかったのだ。母はほかのことに気をとられていた。たとえば、目に入るすべての数字を総計するというのがそれだった。目につくものすべて、路上を舞う新聞にまで目を通さないと気の済まない人もいるが、それと変わりなかった。母はあらゆる数字を足すことに夢中になっていた。そのせいで、たとえばすべての数字を足すと不吉な数になるというので、何人かの人たちには絶対に電話をかけようとしなかった。ホテルに関しても、ルーム番号の数字を足すと縁起の悪い数になるからと言って、その部屋に泊まろうとしなかったし、私が生まれた年も気に入らなくて、そのせいで、なるべく私から距離を置くようにしていた。
 私は父がいない頃合いを見計らって、パリから電話をかけて二言三言話をした。なんともよそよそしく奇妙な会話だった。ただし、それは私のせいではなかった。もちろん私にも多少変なところはある。しかし、ここまで書けば分かっていただけると思うが、とにかく母は一風変わっていた。たとえば、ひとつの灰皿にタバコの吸い殻が三つあるのが許せず、ボタンが取れていると大声でわめき立て、飛行機に尼僧が二人搭乗していると乗ろうとせず、金曜日に何かをはじめたり、終えたりすることはけっしてなかった。また、水道の蛇口を最後まできっちり締めなかったが、これにはイライラさせられた。
 私がパリで暮らしていることを、母はまったく気にかけていなかった。毎月電話をかけている中で、一度だけ態度が変化したことがある。一度きりだったが、そのせいで記憶に残っているのだろう。母の態度がいつもと違ったのは、あの日父がいつもより早く家に戻ってきたので、電話口にいた母は、心配しているふりをしなくてはと思い、《文学にあだな期待》をかけて気ままなボヘミア(end130)ン生活を送るのをやめて、バルセローナに戻ってくるように言ったのだ。あの時ほど電話口で戸惑いを覚えたことはなかったし、パリから私がかけた電話の中でもっとも奇妙なものとして記憶に残っている。母はごく若い頃、何度か短期間パリで暮らしたことがあり、そのせいかおかしな言葉を口にする癖があった。おかげで、結婚する前は、祖母が訪問客に向かって笑みを浮かべながら釈明するということが何度もあった。《この子はパリで暮らしたことがあるものでね》。祖母がそう言うと、来客はからかっているとも、愛情がこもっているともつかない表情を浮かべて、《そうなんですか、それで分かりましたわ、パリで暮らした経験がおありならね……》。
 《お前は壊れてひびの入ったレコードみたいな子だよ》。あの日、母はだしぬけにそう言った(ちょうどその時に父親が家に戻ってきた)のをはっきり覚えている。《二言目にはパリ、パリって言うけど、いったいパリに何があるんだい?》 その言葉を聞いて、びっくりして、もう少しで悲しみにかきくれてあの町の通りをほっつき歩いているんだと答えそうになった。しかし、それは言えなかった。《息子がひびの入ったレコードのようになっているのを見るのは》と母は続けた。《私だって辛いんだよ》。急に母が黙り込んだ。たいていそれは昔パリで身につけた、実に奇妙で天才的なひらめきの感じられるおかしなことを言いはじめる前触れだった。思った通り母はこう言った。《パリ、パリって、まるで壊れたレコードみたいに言ってるけど…パリだって、あちこちひびが入っているだろう。エッフェル塔をごらん、ひびが入っているみたいに筋だらけだろう。フランスの大金持ちのズボンには筋、ストライプが入っているし、コンシェルジュのおでこには筋、しわが寄っているじゃないか。どこもかしこも筋、筋、筋なんだよ。そして、お前はひびが入って壊れたこの王国一のレコードなんだ。そろそろひびだらけの人生を考え直すべき時が来たんじゃないの》。
 (130~131)