2018/2/23, Fri.

 一度目に覚めた時、六時直前で、以前よりも長く覚醒することなく寝られるようになっているのではと希望を持った。ただ例によって、薬の袋を寝床に持ってきておくのを忘れていたため、寒さのなかに起き上がるのが億劫で服薬できず、そうすると、その後はあまり深く眠った感じもしなかった。それでも目を閉じ続けて、八時二〇分になると自ずと覚醒が来た。また一日が始まってしまったか、という思いが少々あり、それはまたあの途切れなく続く思念の連鎖のなかに放り出されねばならない――と言うか、覚醒時から既に放り出されているわけだが――というような思いだった。呼吸をしながら寝床に留まって、時計が一秒を刻む音を聞いていても、時間がするすると流れ去って行き、気づけば一〇分なり一五分なりが経っている。我々は時の牢獄のなかに囚われているのだ、とこんなことを言っては格好付けが過ぎるが、それでも、大いなる時の流れとでも言うべきものがすべてを支配しており、自分自身の行動、思い、その存在さえもがその流れのなかで、そこから逃れようもなく、自動的に押し流され、過ぎ去って行く。例えば、寝床から起き上がろうと思った、あるいは心中にそのような言葉を作ったその意志、その言葉までもが、自分が作り出したものではなく、流れのなかで泡[あぶく]のように自動的に生じてきたもののように感じられるのだ。そのようにして、すべてはただ流れて行き、終末には死が待っているのだが、自分自身にとっての死というものが一体どういうものなのか、我々の誰も決して知ることはできない。
 八時三五分頃になると起き上がって上階に行った。今日も寒いねと母親に言って、ストーブの前に座る。それから便所で用を足し、食事の用意をする。前晩、風呂から出たあとに、米を新たに用意し、早朝に炊けるようにしておいた。母親はそれについて、礼を言ってくれた。その白米をよそり、納豆が食いたかったのだが、汁物に使ったようで冷蔵庫には目当てのものはなく、茶漬けにして食べることにした。そのほか、納豆とワカメと菜っ葉の汁物に、前夜の残りの煮物とサラダである。
 テレビは『あさイチ!』を映していて、この日も過去の放送の特集で、遠藤憲一が出演していた。それに目を向けながらものを食べると、母親が、何やら話を始める。話題が連想的・飛躍的に飛んでいき、要領の良い全体の要約が見えないままに細部の説明に拘泥し、本題を短く示すことなくその周囲を迂回してばかりいるその語りぶりは、バランスの良い物語的な構造を欠いており、ある種「小説」的と言えなくもないのかもしれないが、それはともかくとして、要点は、ガイドヘルパーというものの講習が三月の日曜日に毎週あるけれど、それを受けても良いものかどうか、ということだったようだ。この前日に「(……)」という団体に話を聞きに行ってきて、講習を受けて資格を取ればその団体にヘルパーとして登録し、例えば週一日からでも障害を持つ人の支援の仕事をできると言う。懸念材料としては、今、「(……)」という、これも発達障害のある子どもを支援するというものなので職種は似ているのだが、別の職場で働きはじめたばかりであること、(……)の仕事もあること、また日曜日となると父親が自治会のほうの用向きで忙しいこと、さらには三月頭に兄がロシアから帰ってくるような話もあり、そうすると皆で集まるのではないかということ、そしてまた父方の祖母の米寿の祝いに三月に集まろうというような話も出はじめていることと、そうした諸々が重なって忙しいだろうところに、また新しいことに手を出すと色々やりすぎではないかという思いがあったらしい。それで、ひとまずガイドヘルパーのほうは置いておき、今、「(……)」の仕事を始めたばかりなのだから、まずそちらの仕事がどうか、自分に合っているか、そうしたことを様子見したほうが良いのではないかと助言した。講習は毎月あるというので、チャンスはまだまだある。「(……)」の仕事だって、ガイドヘルパーのそれと多少重なるのだから、それに多少習熟してからのほうがタイミングとして良いのではないかという風に述べた。そのあいだ、インターフォンが鳴って母親が出に行くと、(……)(母方の祖父の末妹)からの届け物である。話が終わったあと、包みをひらいてみると、(……)(姪)がここで初節句を迎えるので、それに対する心付けと贈答品だった。両親宛に付されていた手紙を読ませてもらったが、和紙に直筆で挨拶文を綴ったもので、この人は毎度のことながら丁寧に心遣いを調えてくれるもので、母親としてはまたお返しをしなくてはという点で頭が痛いのだろうが、こうした今では古いようになったであろう作法は、個人的には好感を持つものである。
 風呂を洗うと、フロアに掃除機も掛けた。祖母の部屋から始めて、台所や玄関まで行ってから居間に戻り、仕事を終えようとしていたところ、母親が、洗面所とトイレはと言う。やっていないと答えると、それでは渡すようにと言うので、あとは任せることにして、白湯を持って下階に下りた。コンピューターに向かい合い、Amazonアソシエイトのレポートをまず見たが、始めてから二三日、未だクリック数二で停まっている。一日二〇から三〇程度のアクセスでは、そんなものだろう。アフィリエイトを導入したからと言って、読んだ本の感想などを無理に書こうとするのも面倒臭い、自然と浮かんできたものを書くスタンスで行きたいと思っている。これから記事の集積が進むうちに、いくらかなりと収益が発生してくれるとありがたい。
 それからここまで日記を書いて一一時前だが、朝には肌寒い曇天だったのが、先ほどちょっと陽が射して、今もベッドの枕元にうっすらとした明るみが乗っている。
 W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を読んだ。ベッドに乗って身体の上に布団を掛け、急がずにゆっくりとした調子で、一節一節の意味をきちんと取ろうとしながら音読をしていくのだが、これがなかなか充実した時間になった。ゼーバルトの語りというのは、いつの間にか別の時空、別の記憶、別のエピソードに移っているその理知的で淀みのない移行ぶりも洗練されているのだが、各部分での語りの内容も、具体的な情報や修飾が緻密に付与され、引き締まりながら充実しており、ただ読んでいるだけでわりと面白い、というようなところがあるようだ。歴史だとか人物史を魅力的に語るのが上手いな、という感じがあって、この時読んだなかでは、エドワード・フィッツジェラルドという人物の生涯を語ったくだりが読んでいて面白かった(それにしても、ゼーバルトのこの本に出てきて詳しく語られる人々というのは、皆、何らかの不幸のようなものを抱えて、翳を帯びたような人物ばかりではないか?)。それとは別の部分だが、書抜きたいと思った箇所を一つ、下に引いておく。「書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない」という一節は、どうしても自分の身に照らし合わせてしまう。自己客体化を徹底し、日々の生を書き綴るこの営みによって、自分は段々と狂いつつあるのではないかという疑念を、完全に否定し、拭い去ることがどうしてもできないでいるのだ。

 ミドルトンの村はずれ、湿原のなかにあるマイケルの家にたどり着いた時分には、陽はすでに傾きかけていた。ヒース野の迷宮から逃れ出て、しずかな庭先で憩うことができるのが僥倖であったが、その話をするほどに、いまではあれがまるでただの捏[こしら]えごとだったかのような感じがしてくるのだった。マイケルが運んできてくれたポットのお茶から、玩具の蒸気機関よろしくときどきぽうっと湯気が立ち昇る。動くものはそれだけだった。庭のむこうの草原に立っている柳すら、灰色の葉一枚揺れていない。私たちは荒寥とした音もないこの八月について話した。何週間も鳥の影ひとつ見えない、とマイケルが言った。なんだか世界ががらんどうになってしまったみたいだ。すべてが凋落の一歩手前にあって、雑草だけがあいかわらず伸びさかっている、巻きつき植物は灌木を絞め殺し、蕁麻[イラクサ]の黄色い根はいよいよ地中にはびこり、牛蒡は伸びて人間の頭ひとつ越え、褐色腐れとダニが蔓延し、そればかりか、言葉や文章をやっとの思いで連ねた紙まで、うどん粉病にかかったような手触りがする。何日も何週間もむなしく頭を悩ませ、習慣で書いているのか、自己顕示欲から書いているのか、それともほかに取り柄がないから書くのか、それとも生というものへの不思議の感からか、真実への愛からか、絶望からか憤激からか、問われても答えようがない。書くことによって賢くなるのか、それとも正気を失っていくのかもさだかではない。もしかしたらわれわれみんな、自分の作品を築いたら築いた分だけ、現実を俯瞰できなくなってしまうのではないか。だからきっと、精神が拵えたものが込み入れば込み入るほどに、それが認識の深まりだと勘違いしてしまうのだろう。その一方でわれわれは、測りがたさという、じつは生のゆくえを本当にさだめているものをけっして摑めないことを、ぼんやりと承知してはいるのだ。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、171~172)

 ここまで記して一二時四〇分ほどになり、上階を覗きに行ったのだが、母親は既に出かけていた。下階に戻ってくると、運動をしようと思っていたところが脚が隣室に向いてしまい、ギターをいじりはじめる。楽器を触っているあいだは、独我論めいたことを思い巡らせていたのだが、その後、自室に戻って運動を行い、また食事を取りに行くあいだなどは、結局やはり、呼吸が根源なのだと考えていた。呼吸という人体の機能が根本的な部分で生命維持を司っており、呼吸がなければ身体的・精神的の双方を含めて人間の成す諸活動が何もできない、と言うか我々が存在できないのは自明のことである。呼吸という機能は従って、存在の証となる働きであり、その呼吸を感じるということは、そのまま自らの存在を感じるということである(ここには本当は、論理的・言語的に飛躍が挟まっているような気もするのだが、ひとまずこのように考えたい)。自分はどちらかと言えばやはり、生き生きとした生を生きたいものだと考えるが、生き生きとした生というのが、自らと他者や世界の存在をその都度よく感じ取るような生き方だとするならば、恒常的に存在している呼吸の感覚に目を向け、またそれを経由して自分の行動や知覚をも現在の瞬間においてよく感じ取るような生き方がそうだとは言えないか。さらに、我々が存在の証である呼吸をどうして維持できているのかと言うと、それは当然、食べ物を食べることで身体の機能を保っているからである。栄養を摂取することで呼吸をすることができ、呼吸をすることによって身体を維持するという循環的な関係がここにはあるわけで、呼吸と食べることという二つの活動が、根源的な部分でまさしく我々を存在させていることは確かだと思われるが、食べなければ息をすることもできないのだから、我々は我々の外部にあるものを取りこむことでしか存在できないのであり、外部によって生かされているというのは明らかではないか? 概ねそのようなことを考え、目の前の食事を味わうことに集中しようとしたのだが、皮肉にも頭のなかにこうした思考が流れていたので、望むほど意識を向けることができなかった。昼食に取ったのは、焼売カレーに、煮物に、前夜のサラダにキャベツを足したものだった。その後、ヨーグルトを食べて皿を洗ったが、冷蔵庫をひらいた際に即席の味噌汁があったことに気づき、暖かい汁物が飲みたい気がしたので、ゆで卵とともに味噌汁も追加して摂取した。
 下階に戻ってくると、Mr. Children "ファスナー"やMaroon 5 "Sunday Morning"などを歌ったあと、現在のところまで日記を書き足してしまおうと思って取り掛かったのだが、独我論について検索して出て来た「独我論批判――永井均とそれ以外」(「翻訳論その他」)という記事を読んで、時間を使ってしまった。ここまで記すと、三時半前である。
 それから、石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』から二箇所を書抜き、日記の読み返しをした。二〇一七年二月二三日の日記では、「朝方に雨が降ったあと、日中は一時晴れ間も見えたようだが、今はまた雲がぐずぐずと、良く煮えた果肉のように形を崩しながら連なって青紫を帯び、下地の淡水色が露わになるのを妨害していた」という一文が、何やらちょっと良いように感じられた。「雨のよく降るこの星で」を始める以前の日記も、ブログに投稿していき、過去の分も含めた集積を段々と作っていこうと(それほど強くではないが)考えているので、二〇一六年一〇月一四日の記事も読み返し、ブログに投稿した(この記事は、あとでTwitterにもツイートを流しておいた。長らく何の発信もしていなかったTwitterを、ブログを広める手段としてふたたび使いはじめたわけである)。
 それから、椅子に座ってコンピューターを前にしたために、背中が強張ったので、ベッドに寝転がり、読書を始めた。仰向けの姿勢で、W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』を、一節ずつ間を置いて音読していく。この時読んだなかには、柴田元幸も解説のタイトルにしているが、「ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと」という、アシュベリー夫人の述懐の箇所があり、この部分を書抜くことにした。この発言にも、共感を覚えてしまうものである(しかし自分はまだ年若いのだから、この先、生というものに段々慣れて自足できるようになる可能性もあるだろう)。

 (……)それでわたしたちは呪われた魂みたく、ひとつところにずっと縛られて今日まできたのです。娘たちのえんえんとした縫い物、エドマンドがある日はじめた菜園、泊まり客をとる計画、みんな失敗に終わりました。十年ほど前にクララヒルの雑貨屋の窓にチラシを貼ってからというもの、あなたは、とアシュベリー夫人は言った、うちにいらしたはじめてのお客さまなのですよ。情けないがわたしはとことん実務にむかない人間、じくじくと物思いにふける性分です。家じゅうそろって甲斐性のない夢想家なのですわ、わたしに劣らず、子どもたちも。ときどき思うのですよ、この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と。(……)
 (W・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』白水社、二〇〇七年、207~208)

 音読をずっと続けていると喉が痛くなってきたので、五時付近で一度洗面所に立ち、嗽をした。そうして戻ってくると、もう少し寝転がっていたい気がしたので、読書をさらに続けた。そうして五時半前で中断した。そろそろ溜まっている日記を書かなくてはと思ったのだ。その前にしかし、暗くなっていたので上階に行って、居間のカーテンを閉めて食卓灯を点し、戻ってくると歌をいくらか歌った。そうして六時からここまで綴って、現在六時半を目前としている。
 それから二一日の記事も綴って、完成させてブログに投稿すると七時を回っていた。その頃には母親が帰ってきていた。台所でキャベツのサラダを取り分けていたので、ごめん、何もやっていないんだと言って、タオルを畳んだ。もっとも、汁物や、アジと野菜のソテーは、母親が出かける前に作っておいてくれたのだ。食事はそれらに、米や蒟蒻である。テレビはまた録画したものから何か見ようかと母親が言って、『アウト×デラックス』を流す。それを見ながら思ったのだが、人のことを悪く思いたくない、あるいは悪感情を感じたくないというような思いが、自分の分裂と神経症を生んでいるのではないか。思念自体が頭のなかに巡ってやまないことを怖れたり、煩わしく思ったりするのに加えて、「悪い」想念が浮かんでくることを嫌がる気持ちもある。「良い人」でありたい、良い格好をしたいという心の反面として、かえって「悪い」思念を呼び、それを気にしてしまうということなのかもしれない。以前はしかし、そのようなことは気になっていなかったはずだが、先の年始の錯乱のなかで、それがトラウマじみたものになってしまったのかもしれない(一月五日のことだが、医者からの帰り道、電車内で子どもらに対して「うるさい」という思念が浮かんだのに対し、まるで自分に属していない(とその日の日記にも書いたと思うが)悪い想念が浮かんできたかのように思われて恐怖したのを覚えている)。ここ最近では、脈絡なく、感情的な嫌悪は伴わずに、「気持ち悪い」という言葉が浮かんでくるのが鬱陶しいのだが、これについてもまた思い当たるのは、中学生時代のことで、当時は周囲の同級生らがやたらと誰々がキモいとか、誰々がうざいとか話してやまないのが、嫌で仕方がなかった。そうした感情の底には、多分自分がそう思われたくはないという自意識過剰、ナイーヴさがあったと思うのだが、これも小さいものだが一種のトラウマのようにして機能し、現在のこちらにおいてそうした思念というか言葉を呼んでしまっているのかもしれない。
 食後、風呂に入りながらもさらに頭は巡ったのだが、やはり主体は、分裂どころか散乱的なものとしてあり、瞬間瞬間において思念は高速で移り変わっていく。しかしそうした思念が思念に過ぎないこともまた確かであって、それはそれそのものではこの世界に何の影響も与えないのだから、思念が生じてくること自体を恐れる必要はない。散乱した思念のうちからあるものを拾い上げ、それを行動の面、現実の面へと反映させる原理が、おそらく要は「統合」ということなのではないか。主体は散乱された断片的な状態から、その都度仮に統合され、そしてまた次の瞬間には散乱し、という風に、そのあいだを行き来しながら暫定的に保持されている。自分においては今のところ、この「統合」の段階が問題なく働いている。と言うのはつまりは、鬱陶しい思念はあるものの、両極のあいだで過度に引き裂かれることなく、ある場において支障なく行動できているということだ。あとはまさしくヴィパッサナー瞑想の教えを生かして、「悪い」思念が生じてもそれはそれとして受け入れ、流して行くことだろうと、概ねそんなことを考えた。
 入浴後は、九時から五〇分間、日記を書いている。ここで二二日のものを完成させて投稿した。その後、他人のブログを読んで、一〇時半前から読書に入った。ベッドに寝転がったり、時折り起き上がったりしながらW・G・ゼーバルト/鈴木仁子訳『土星の環 イギリス行脚』をゆっくり音読し、日付が変わってちょっとすると、読了した。なかなか読み応えのあって面白い本だったと思う。それから歯磨きをして、次に何の本を読むか迷うところがあったのだが、ヴァージニア・ウルフ/御輿哲也訳『灯台へ』をここで再読してみたい気がしたので、眠る前にもう少し本を読むことにした。一時一〇分まで読んで、明かりを落として布団を被った。




石川美子訳『ロラン・バルト著作集 7 記号の国 1970』みすず書房、二〇〇四年

 (……)日本のいかなる料理にも中心[﹅2]はみられない(フランスでは、慣習によって食事の出される順序が決められており、料理には付けあわせが添えられたり、ソースがかけられたりして、食事の中心がつくられているのだが)。日本の料理では、すべてがべつの装飾をまた装飾するものとなっている。その(end37)理由は、まず、食卓のうえでも大皿のうえでも、食べものは断片の集まりにすぎず、どの断片も、食べる順序によって優劣の序列をつけられているようには見えないからである。食べることは、献立(料理を出す順序)を重んじることではなく、かろやかな箸づかいによって、いわば思いつきのままに、この色を選びとったりあの色を選びとったりすることなのである。その思いつきは、会話から独立した間接的な添えものであるかのように、ゆるやかに現れてくる(会話自体がたいへん静かなこともありうるのだが)。第二の理由は、この料理が――これこそが独自性なのだが――調理する時間と食べる時間とをただひとつの時間のなかで結びつけていることである。すきやき[﹅4]は、作るのにも、食べるのにも、そしていわゆる「語りあう」のにも、果てしなく長い時間のかかる料理であるが、それは調理が技術的にむずかしいからではない。煮えるはしから食べられてなくなってしまうので、それゆえ繰り返される[﹅6]という性質をもっているからである。すきやき[﹅4]には、始まりをしめすものしかない(食材に彩られた大皿が運ばれてくることである)。ひとたび「始まる」と、もはや時間も場所もはっきりとしなくなってしまう。中心のないものとなってしまう。とだえることのないテクストのように。
 (37~38)

     *

 しかしながら、包みは、まさに技術の完璧さゆえに、幾重にもなされていることが多い(包装をひらくのにひどく時間がかかる)ので、なかに入っている物――つまらない物であることがしばしばだが――を見るのを遅らせてしまう。というのも、品物のつまらなさと不釣りあいに包装が豪華であるというのが、まさに日本の包みの特質だからである。たとえば、砂糖菓子ひとつ、ほんのすこしの羊羹、俗悪な「みやげもの」(残念なことに日本もそんなものを作ったりできる)などが、宝石とおなじくらい豪華に包装されている。ようするに、贈られる物は中味ではなく、その箱であるかのようだ。大勢の小学生が、一日遠足に出かけて、なかに何が入っているのかわからない美しい箱を両親のもとに持ち帰ってくる。まるで小学生たちはとても遠いところへ行ってきたかのようであり、遠足は彼らにとっては箱の楽しみに集団で夢中になる機会であったかのようだ。したがって、箱は記号として機能しているのである。箱は、包装や遮断幕や仮面の役目をもち、なかに何かを隠し護りつつ指示している、ということで価値をもっている[﹅14]。すなわち、箱は代わりのものをあたえる[﹅11]のである――この表現を、両替をするという通貨的な意味と、だますという心理的な意味とに二重にとらえてほしい――。だが、箱のなかに入っているもの、箱が示しているもの自体は、非常に長いあいだ先延ばし[﹅4]にされる。箱の機能は、空間のなかで保護することではなく、時間のなかで延期してゆくことであるかのようだ。包装にこそ制(end73)作[﹅2]の(技巧の)仕事が注ぎこまれているのであるが、それゆえに品物のほうは存在感をうしなって、幻影になってゆく。包みから包みへとシニフィエは逃れ去り、ついにシニフィエをとらえたときには(包みのなかには、ささやかな何か[﹅2]がつねにあるのだから)、無意味で、つまらなくて、値打ちのないものであるように見える。シニフィアンの場である快楽はえられた。包みは空っぽなのではなく、空虚にされている。包みのなかにある品物や、記号のなかにあるシニフィエを発見することは、それを捨て去ることである。日本人が蟻のような熱心さで運んでいるのは、結局は空虚な記号なのだった。というのは日本には、運搬具とよべるようなものが豊富にあるからである。あらゆる種類の、あらゆる形の、あらゆる材質のものがある。包み、袋、バッグ、大かばん、布(ふじょう[﹅4][訳註: おそらくバルトの勘違いであり、袱紗か風呂敷のことであろう。]という、ものを包むハンカチまたは農婦のスカーフ)などがあって、市民はだれもが街ではなんらかの包みを持っている。その空虚な記号は、ひたすら大事にされて、すみやかに運ばれてゆく。あたかも、入念な仕上げや、縁どり、幻覚のような輪郭――日本の品物の根本となっている――が、空虚な記号をいたるところに運んでいこうとしているかのようである。物の豊富さと意味の深さのほうは退けられてしまっている。これは、まさに三つの性質があらゆる製品にたいして課せられているからである。正確さ、可動性、空虚さという性質が。
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