2018/7/31, Tue.

  • 九時台起床。朝食は炒飯。母親はこちらが上階に上がってまもなく、(……)に出かけて行った。
  • 「言葉」の記事より、カフカの言葉を繰り返し音読したのち、一〇時半頃外出。図書館へ。(……)のところに孫が遊びに来ているらしく、自転車でこちらに向かって走ってくる少年を見送るほかの子の姿が見えた。頭上から蟬の声の降り注ぐ林中の道を駅へと上って行く。
  • 図書館。CD棚の新着を見ると、山中千尋『MONK STUDIES』があった。それから文芸誌の棚の前に移り、「群像」を手に取って、大江健三郎についての蓮實重彦筒井康隆の対談をところどころ読む。蓮實は八〇年代あたりには、柄谷行人と一緒になって大江を批判してもいたはずだが(二人の『全対話』で読んだ覚えがある)、ここでは絶賛していると言って良い様子だった。その後、CD棚のジャズのコーナーをちょっと見てから上階へ。
  • 新着図書には、水声社「ブラジル現代文学コレクション」の、ジョアン・ギマランイス・ホーザ/高橋都彦訳『最初の物語』などが見られた。新着棚を確認してから哲学の区画に向かうと、ちょうどそこの通路に人がいて書架を見ることができなさそうだったので、フロアの一番端の通路に入り、新書をちょっと冷やかしてから先に小説を見に行った。海外文学の区画をうろついてどれにしようかと迷った結果、結局文庫の棚から、パヴェーゼ/河島英昭訳『祭の夜』に決めた。これは以前にも読んだことがあるものなのだが、今の感受性の状態で読んでみて、前と比較してどうだろうかと思ったのだ。
  • それから哲学の区画へ。二冊目を借りるかどうか、それを哲学にするかどうか迷ったのだが、変調以前はミシェル・フーコーの思考に触発されていたはずだというわけで、その頃の流れを引き継いで、フーコーについての解説書を二冊借りることにした。重田園江『ミシェル・フーコー』に、桜井哲夫現代思想冒険者たちSelect フーコー――知と権力』である。
  • 貸出手続きをすると(機械の画面に映し出される手続きの案内表示が新しくなっていた)、便所に行き、排便した。そうして退館すると、雲もそれなりにあったと思うが、歩廊の上に陽射しが明るく照っている。階段を下りてコンビニに入り、まず奥のほうのカウンターで年金を支払った。それから、セブンイレブンにも飲むヨーグルトは売っているのだろうかと思っていたのだが、パックの飲み物のところを見ると、セブンプレミアムの品があって、これを買ってみることにした。さらに昼食用にサンドウィッチとおにぎり二つ、あとはポテトチップスも籠に入れて会計を済ませ、駅に戻った。
  • (……)駅で、一二時半発の(……)行きを待つ。そのあいだは先ほど借りてきた桜井哲夫の本の序盤を読んでいた。
  • 帰宅すると扇風機を点け、本に目を向けながら買ってきたものを食う。始末を付けると下階に下りて服を着替え、ポテトチップスを食べた。その後ここまで日記を書いて、二時前である。
  • 借りてきたパヴェーゼ/河島英昭訳『祭の夜』を読みはじめた。途中、水分を補給しながら三時半まで読んだあとは、上階に上がって、ベランダの洗濯物を取りこんだ。四角いハンガーからタオルを外して畳み、洗面所へ持って行っておく。その後、パジャマや肌着を畳んで、炬燵テーブルの上に置いておいた。
  • そうして室に戻ったあとは、どのくらいからだったか忘れたが、ベッドに寝転んで微睡んでしまった。微睡むと言っても、眠気というもののまったく身に生じないいま、健康的な昼寝のそれなどではなく、浅い意識の状態が保たれていたのだが、それでも長く起き上がれずに、六時台まで休んでしまった。途中で母親が帰って来ており、夕食にはカレーを作ったと言う。
  • 七時を回って、食事を取りに行った。台所に用意されていたサラダの皿を見た時には、あまり腹が減っている感じがしなかったが、カレーは味が結構濃厚で、美味いと言って良いものだった。父親がじきに帰ってくると言う。母親が見せた携帯の画面に映った表示によれば、LINEで帰ると知らせがあったのは七時一二分、したがって、八時四〇分頃には帰宅する。それまでに二人とも風呂に入ってしまいたいわけだが、こちらは音読をしたい気がしたので母親に先を譲って下階に下り、ふたたびパヴェーゼを読んだ。
  • 八時を回ってから、何となくSuchmosを歌いたい気分になって、"STAY TUNE"を流した。そのまま、"Pinkvibes"も"Tobacco"も歌う用意ができていたのだが(と言うのはつまり、歌詞を検索してあったということだが)、音楽の途中で天井が鳴ったので、"STAY TUNE"が終わったあと、風呂に入りに行った。さほど時間を掛けずに出て、戻るとSuchmosを歌った。そのままキリンジ『3』の楽曲も流して口ずさんだのだが、結構歌ったことのあるはずの曲の歌詞を忘れていたりして、これも自分の頭の記憶力(想起力)が低下しているその証ではないかなどと疑い深く思いもした。九時四〇分頃まで歌ったあとは、Cornelius『Mellow Waves』を流して、ふたたび読書をした。(……)
  • 室に戻るとふたたび読書、表題にもなっている「祭の夜」に入っているが、やはり読んでいてあまり文の質感などを感じられないと言うか、取り立てて何の感覚も感想も湧き上がってこないというのが困りどころである。それでも読まないよりは読んだほうがやはり頭にとってましではないかと思われるし、結局本を読むくらいしかやることがないので、読書を続けるつもりではいる。読む時は音読をしており、その効果なのだろうか、気分は悪くなく、今日は図書館にも出かけてきたし、希死念慮もなくなった。このまま取り組みを続けることで感受性の鋭さも戻ってきてほしいと期待しているのだが、しかしやはり、そこまで劇的な変化は望めないのではないかと予測してはいる。端的に、昨年末あたりの頭の状態(執筆能力)に戻したいのだが、困難だろう。
  • 音楽、Bill Evans Trioを聞いてから就寝。床に就いてしばらくしてから目を開けると、部屋が薄青く澄んだような明るみに包まれており、それで月が出ているのだなと気づいた。カーテンを分けて南窓から眺めてみると、ちょうどまっすぐ視線を伸ばしたところに満月が出ていた。




石原吉郎『望郷と海』筑摩書房、一九七二年

 希望によって、人間がささえられるのではない(おそらく希望というものはこの地上には存在しないだろう)。希望を求めるその姿勢だけが、おそらく人間をささえているのだ。
 (258; 「1959年から1962年までのノートから」)