九時半が近くなって段々と意識が定かになってきた。カーテンをひらくと射し込む午前の陽が胸のあたりに当たって熱が溜まる。その熱さを嫌って遮光幕を閉じ、ちょっとしてから起き上がった。上階に行き、両親におはようと挨拶をしてから洗面所に入って顔を洗った。食事には、鮭があると言う。冷蔵庫に保存されていた皿を取り出し、一切れを取り分けて電子レンジで熱した。さらに、胃の助けにと小皿に大根をおろす。ほか、米と胡瓜のサラダが食卓には並んだ。新聞をめくりながら(書評面に山内マリコの本が取り上げられていた)塩気のある鮭と米を一緒に咀嚼する。ものを食べ終えたのと同じ頃、父親は床屋に電話を掛けて出かけていった。床屋のほかに、「(……)」などにも寄る用があるらしい。こちらは食器を片付け、洗濯機のなかにあった足ふきマットの類を三枚ベランダに干しておき、風呂を洗ってから室に帰った。
一〇時半前である。コンピューターを点け、早速前日の日記に取り掛かり、完成させるとブログに投稿した。本調子でなく、描写がうまくできないなどの問題はあるが、久しぶりに日記らしい日記を書いたと思う。文章力、言葉に対する感覚は変調前より下がっていることは間違いなく、書くことに対する欲望も自分のなかにあるのか定かでないが、ともかくもまた書き続けてみようかという気にはなっている。二〇一三年からちょうど丸五年、毎日書き続けてきたことで得られたものは、精神の変調によって半ばおしゃかになったかもしれない、しかしそれだったら今からまた五年間、書き続ければ良いのではないか。それによって自分が自分の望むように変化するのか、何かが得られるのか、それはわからない。しかし結局、自分には、読んで、書くぐらいしか人生でやることはないのだ。
ここまで記すと一一時過ぎだった。母親は帰ってきた父親とともに、「(……)」に出かけて行った。
それから椅子にじっと留まって、流していたRobert Glasper『Everything's Beautiful』の残りの曲を聞いた。Stevie Wonderが招かれてハーモニカを吹いている最終曲の"Right On Brotha"あたりが少々良かった気がするが、ほかにはあまりピンとくる感じがなかった。しかし、それが作品の質の問題なのか、こちらの感性の衰えの問題なのかはわからない。音楽の質感が以前に比べてうまく捉えられないのは確かで、結局それだ、質感、音楽であれ風景であれ文章であれそのもの自体の個別性を特徴づける質感、ニュアンス、差異、それを感じ取る力が下がってしまった。パニック障害の症状はもう完全になくなって、あの忌まわしい不安を感じることもないのだが、その他の感情や感覚を定かに感じることもない、この(絶対的な? そうでないことを願いたいが)平板さが自分の症状の本質である。
アルバムを最後まで聞き終えると、工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』を読みはじめた。仰向けになった寝床から見える空は白かった。しばらく読んでいると雨の音が立ちはじめたので、本を置いて上階に行き、ベランダに干された洗濯物をすべて室内に取りこんだ。下階のベランダにもシーツが干されていたのでそちらも仕舞いに行って、始末を付けるとそれを機に飯を食うことにした。寿司飯が出来ているという話だった。朝食に出た鮭の余りを胡瓜と一緒に米に混ぜこんだものである。上階に行って冷蔵庫を開け、目当てのものを皿に取り分け、卓に就くと新聞に目をやりながら口に運んだ。一面には、自民党の総裁選で石破茂が出馬表明との記事が出ていた。それを読み、飯のおかわりをしてさらに新聞をひらいて読んでいると、両親が帰ってきた。彼らも卓の向かいに就いて食事を始めるその一方でこちらは二面の、日米の閣僚間貿易協議についての記事を読んでいた。
そうして一時半からまた部屋で読書を始めている。図書館に出かけようかという気持ちが兆していたのだが、もう少し遅くなってからにするつもりだった。フローベールの言葉を部分的にノートにメモしながら一時間と二〇分読み、三時前になると本を閉じて支度を始めることにした。Robert Glasper『Black Radio』を流してごくごく軽く運動をしたあと、上階に行って上半身裸になり、デオドラントシートで身体を拭った。それからオレンジと青のチェック柄のシャツを身につけ、下階に戻ってズボンも履いた。"Cherish The Day"が流れ終わるとコンピューターを閉じ、本と手帳とともにリュックサックに入れた。気分次第で外で書き物をしてくるつもりだったのだ。そうして上階に行って水を飲み、母親に誘われてゼリーを食べたあと、階を下っておざなりな歯磨きをした。そうすると三時半前、家を出発した。
肌がべたついて仕方ない、蒸し蒸しとした曇り空だった。道を歩いているとぽつりと一粒、視界をまっすぐ縦に落ちる雨粒が見え、続いて仲間たちもぽつぽつ現れはじめた。坂に入ると、重なり合った蟬の鳴き声が頭上から覆いかぶさってくる。木の間を抜けて遮蔽のないところまで来ると、雨はこの短い時間のあいだにも降り増しており、しかし濡れるのを厭うて急がずに坂を抜け、道を渡った。駅のホームで屋根の下に入り、電車が来るのを待った。じっとしているとリュックサックに覆われた背の熱が籠り、手首のあたりや肩甲骨のあたりに汗の玉が転がる感触が感じられた。
電車内には、山に行楽に行った帰りらしく、独特のリュックサックを足のあいだに置いて座る人々が多く見られた。(……)に着くと乗り換え、ちょっとごったがえすなかを向かいの電車に移る。席に就くと何をするでもなく、発車を待つ。右方に親と一緒に座った子供が猫の鳴き真似をしていた。発車するとしばらく揺られてから(……)で降りる。改札を抜け、駅舎を出ると、雨は弱くなっていた。通路を渡って図書館へ、カウンターで本を三冊返却するとCD棚を見に行く。新着作品のなかにDeep Purpleの名が見られて、まだ現役で活動していたのかと思ったが借りる気にはならない。Suchmos『The Bay』が誰にも借りられていないのはわかっていた。それを手に取り、ジャズの区画に行く。二枚目はElla Fitzgerald『's Wonderful: Live in Amsterdam 1957 & 1960』をすぐに選んだ。Ella Fitzgeraldは言うまでもなく素晴らしい歌手である。三枚目に何か良いものはないかと視線を推移させていると、Jose Jamesの、多分最新作だろうか、『Love In A Time of Madness』があったのでそれにすることにした。
三枚を手に掴んで階段を上がる。新着図書の棚の前には人がいたのでちょっと見やったのみで後回しとし、歴史の棚を先に見分したのだが、興味関心の喪失というのもこちらの変調以後の症状にあって、あたりにある書物たちに、以前だったら多く惹かれるものがあったのだろうが、あまり欲望をそそらない。ふたたび見に行った新着図書も同様で、以前は貪るようにして興味を惹いたタイトルを手帳にメモしていたのだけれど、そうする気も起こらない。したがって何があったのかも定かに覚えていないのだが、それから海外文学のほうを見に行った。ル・クレジオなどを読もうかと思ってもみるのだが(その棚の前に立った頃には、雨が止んだらしく外が明るくなっているのが遠くに窺えた)決心が付かず、じきに、小説とそれ以外を交互にという読書のルールを崩すことになるが、最近の日本文学を何冊かまとめて読んでみようかという気になった。保坂和志『朝露通信』などをチェックしたのち、以前から読んでみようかと思っていた名前があったのだが、記憶にあるのは下の名前の「薫」のみで、名字が思い出せなかった。それで棚をうろついているうちに中原昌也が目に留まり、これを読もうというわけで『名もなき孤児たちの墓』を借りることにした。まもなく、金井美恵子の名も想起され、目当ての人というのは金井美恵子の近くにあったのではないかという記憶も蘇ってきて、「か」の区画に行ってみると件のものが見つかった。金子薫という人だった。彼の(それとも彼女だろうか?)『アルタッドに捧ぐ』を二つ目に手元に持ち、金井美恵子の例のピース・オブ・ケーキどうのこうのも見てみるのだが、これは棚に戻し、あと一冊は保坂和志にするかと決まった。最初は『朝露通信』を思っていたのだが、気を変えて、以前一度読んだことのある(文学に触れはじめてまだ間もない時期、二〇一四年くらいだったのではないか)『未明の闘争』を保持して、これで文学は終わり、フロアを渡って哲学のほうを見に行った。熊野純彦のカントについての著作などもやや気になるのだが決意しきれず、そのうちに『人文死生学宣言』のことを思い出して、それにするかと相成った。そうしてCDと合わせて七点を貸出手続きし、棚のあいだを抜けて窓際の学習席を見渡してみると、空きが一つある。そこに入ってコンピューターを立ち上げたのが四時半過ぎ、ただちに作文に入った。途中、いくらも経たないうちに便意を催したので、席を立った。トイレに行ったが個室は三つとも塞がっていたので階を下り(階段の途中には薄陽が射しこんでおり、外に見える隣の敷地には地面が光を反射するのが見られ、また紅色の膨らんだ百日紅の梢のその花の合間に光点が引っかかって点滅していた)、下のフロアのトイレで排便を済ませた。手を洗い、ハンカチを持ってくるのを忘れたので濡れたのをポケットに突っ込みながら席に戻った。そうしてここまで綴ると現在は五時半を回った直後、書きはじめてから一時間が経っているのだが、この時間が過ぎるということにも以前のような実感が感じられない。これは日を過ごしていて、眠気がまったく生じないという現象にも関連があるだろう。どういうわけなのか変調以来、時間が過ぎて夜になるのに応じて眠くなるということがなくなってしまい、朝だろうが昼だろうが夜だろうが、心身の、あるいは精神の感覚が変わりなく感じられるのだ。あるいはこれは、上にも記した差異=ニュアンスの線で言い換えるなら、それぞれの時間の個別性・具体性が感じられなくなったということでもある。その結果、時間が過ぎても精神感覚に変化が生じず、過ぎる時間に実感が持てないといった事態が生じていると思われる。とにかく、ものが十全に感じられないというのは退屈なことである。これが果たして治るのかどうか、あまり期待は持てないと思うが、あるいは年末の頃のような、感受性鋭くものを深く感じ、書くべき思考が頭のなかを軽々と遊泳するといった状態のほうがむしろ異常で、それによってその後の変調を招いたのであって、自分の元々の感受性は今の程度の味気ないものであるのかもしれないという見方もある。
帰宅することにした。コンピューターや本をリュックサックに仕舞い、席を立つ。退館するとデッキ様になった通路の床が濡れ残っており、そこに空が映りこんでいた。歩を踏み出すと左方、マンションの窓の一つに、西に掛かった太陽の姿が膨らむが、一歩前に出るとすぐに見えなくなる。右方の本体のほうも見やりながら通路を渡り、駅に入った。ホームに下りるとちょうど電車が到着するところだった。乗車して、向かいの扉際に就く。空は雲がないわけでないが浮かんでいるものは希薄に背景に混ざり込みがちで、すっきりとした感触になっていた。(……)で降り、乗り換えのためにホームを進んで行くと、なぜだかわからないが妙に混み合っており、電車を待つ人々の列まで出来ている。その合間に入って乗り換えの電車が着くのを待ち、乗ると、浴衣を着たカップルの姿がいくつか見られた。こちらの左側に立っているそうしたカップルの一人の女性は、スマートフォンを横にして野球のアニメを見ていた。
降りて駅を抜け、坂に入ると、頭上でツクツクホウシが輪唱のようにして次々と鳴きを上げ、その周りをほかの蟬の声が背景音として取り囲む。道を辿って帰宅すると、すぐにシャツを脱いで洗面所の籠のなかに入れた。そうして室に戻り、リュックサックから荷物を取り出すと、ズボンも脱いでハーフパンツの格好になる。時刻は六時二〇分頃だった。コンピューターを電源に繋ぎ、借りてきたCDを早速インポートしはじめた。それが終わって何やかやしているともう七時、食事を取りに行く。
台所に入ると皿が置かれ、蒸した鶏肉と胡瓜に大根が一皿に取り分けられていた。ほか、フライパンには肉じゃがが作られてあって、それや米やマカロニのサラダをよそって卓に就く。父親も既に炬燵テーブルで食事を始めていた。テレビはニュースを掛けており、御巣鷹山の日航機墜落事故から明日で三三年、などと流れたり、沖縄の辺野古基地建設反対集会の様子が映ったりする。ものを食べ終わるとすぐに風呂に入った。
室に戻るとSuchmosをちょっと歌い、それから借りてきた彼らの『THE BAY』を流しながら日記を綴りはじめた。Suchmosのこのアルバムでは、以前、ライブ映像を目にしたことがあったが、冒頭の"YMM"がやはり格好良いと思う。ここまで記して、現在は九時直前に到っている。
工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』を読みはじめたのだが、最初のうちは背景に流しているSuchmosが折に気になって、散漫な読書だった。アルバムが終わると"YMM"をふたたび流して歌って、そうして音楽を消してベッドに移った。ここから読書は零時まで続く。書抜こうと思う箇所の、自分のなかで中核となる文言をノートに写しながら読み進めるのだが、フローベールのこの手紙は写そうと思う言葉が頻繁にあって、あまり実感はできないが面白いと言うべきなのだろう。例の有名な、「なんについて書かれたのでもない書物」の言葉も出てきたので、この部分は引用しておこうと思う。この時点でフローベールは三〇歳である。
ぼくが素晴らしいと思うもの、ぼくがつくってみたいもの、それはなんについて書かれたのでもない書物、外部へのつながりが何もなくて、ちょうど地球がなんの支えもなしに宙に浮いているように、文体の内的な力によってみずからを支えている書物、もしそんなことが可能なら、ほとんど主題がない、あるいはほとんど主題が見えない書物です。もっとも美しい作品とは、もっとも素材の少ない作品なんです。表現が考えに近づけば近づくほど、言葉がそこにぴったり貼りついて見えなくなればなるほど、美しさは増すのです。(……)
(101~102; ルイーズ・コレ宛、クロワッセ、一八五二年一月一六日金曜夕)
一月三日に(……)さんと電話で話した時に、フローベールは通常文学史の上ではリアリズムの作家とされているけれど、実はそうではなかったのではないかという思いつきを語り合ったものだが、この部分を見る限りそれは当たっているだろう(註にも、「<芸術>は、いわゆる現実[レアリテ]を写し出し、その対象あるいは素材に支えられて成立するのではない。「宙に浮く地球」という見事な比喩が示すように、書物は自己完結的な空間を形成し、内部に完璧な力学的調和をたたえるべきものなのである」という説明がある)。同じ註にはまた、「小説の筋だとか出来事だとか、そんなものはどうでもよいのです」というフローベールの言葉も引かれている。物語の「筋」に対立する彼特有の概念として、「分析」「解剖」「描写」といったものがあるらしいのだが、言わば近代小説の始まりの時点で既に、非-物語的な姿勢もフローベールのうちには内包されていたわけだ(しかしおそらく『ボヴァリー夫人』は、スキャンダラスな姦通小説として、「面白い物語」として広く読まれることになった)。一月三日の日記に記した記述を、改めて下に引いておきたい。
(……)まず、小説作品に「描写」的な細部がはっきりと取り入れられるようになったのが、概ねフローベールあたりからだという正統派文学史的な整理があると思う(これが確かなものなのか、それすらこちらは知らないのだが、ここではひとまずそういうことにしておいてほしい)。そうした理解では、「描写」とは現実世界の様相を緻密に、克明に写し取るための技術として認識されており、多分その後のゾラなどは実際にそういうつもりでやっていたと推測され、フローベールもゾラの先行者的な位置に置かれている気がするのだが(つまり、「リアリズム」の作家として位置づけられていると思うのだが)、しかし同時に、「描写」とはまた、物語的構造に対して過剰な細部として働くものでもあり、大きな構造に対する抵抗点として機能させることができるものでもある(絵画を遠くから一度見たあとに、近寄って様々な細部に目を凝らし、諸要素の配置を把握してのちふたたび距離を置いて眺めると、まったく違う様相として映る、そのようなイメージである)。ここで思い出されるのが、フローベールが書簡に記した(のだったと思うが)有名な言葉(と言いながら、引用を正確なものにできないのだが)、自分は何一つ言わない小説、何一つ書いていない小説を書きたいという宣言で(確か、「言語そのものの力によってのみ支えられている(だったか、「浮遊している」だったか)」というようなことも言っていたはずだ)、ここから推測するに、フローベールは現実世界のある側面を「そのまま」克明に写し取ろうなどとは考えていなかったのではないか? つまり、彼は「リアリズム」の作家などではなかったのではないか。
零時を越えると本を閉じ、音楽を聞きはじめた。借りてきた『's Wonderful - Live In Amsterdam 1957 & 1960』を途中まで聞き、次に一九六一年のBill Evans Trioの"All of You (take 1)"、Nina Simone "I Want A Little Sugar In My Bowl"と以前のお気に入りを流したあと、Ella Fitzgerald『Mack The Knife - Ella In Berlin』の冒頭、"Gone With The Wind"を聞いた。おそらくEllaのパフォーマンスというよりは録音の問題が大きいのだと思うが、アムステルダムの音源よりもベルリンのそれのほうが質が高く思われる。それから『Live In Amsterdam』に戻って数曲聞き、一時を迎えた。いつものことだが、眠気はまったくなかった。布団に潜りこんでからも勿論眠くなるということがなく、折に姿勢を変えながら転がっているのだが、入眠の気配がないにもかかわらず、いつもいつの間にか意識が落ちているのだ。どうやって眠っているのか、自分でもよくわからない。