2018/8/12, Sun.

 一〇時台まで眠りに捕らえられていた。九時間ほどの睡眠となったわけだが、眠気がまったく生じないにもかかわらず、眠れば長く寝てしまうのが不思議である。起き上がると脚が重かった。上階に行き、テーブルに就いた母親に挨拶をしてから洗面所に向かったところで、カレーの匂いが鼻に漂った。顔を洗ってから便所に行くため玄関のほうに出ると、開け放たれた扉の向こうから、ミンミンゼミの鳴き声が響いている。用を足し、台所に戻るとフライパンを熱するかたわら大根をおろした。そうしてカレーとともに卓に運んで食べはじめる。新聞の一面には群馬で起きた墜落事件についてや、ドローン配送が始まるなどという記事が載っていたがあまり目を向けなかった。ものを食べ終えると、蚊を叩きながら皿を洗い、そのまま風呂洗いも行って、そうして下階に下りた。
 コンピューターを起動させるとまず、「(……)」を読んだ。それからTwitterに接続したのは、「日記がまた書けるようになって良かった」と前日呟いたのに対して、(……)という方からリプライがあったので、返信をしようと思ったのだ(この人はこちらの変調以来何度か、励ましや助言の言葉をくれた人である)。「たびたびのお気遣いをありがとうございました。感受性の希薄化を感じているのですが、ともかくも、また書けるようになったということだけでいまは良しとするべきでしょうね。大した文章ではないですが、読んでくださるのならありがたいです」と返答し、そうして早速日記を書きはじめた。まず前日の分、夜の九時以降のことを綴るのだが、やはり以前よりもすらすらと書けないような感じがする。それでも仕上げて、この日の記事にも入って進めると、現在時刻は正午前である。
 Suchmos "YMM"をリピート再生させながら、運動を行った。脚の筋を伸ばしたり、腹筋運動や腕立て伏せをしたりするのだが、鬱々と寝込んでいた時期のせいで身体は鈍く、ほとんど回数をこなせない。それから、二時間前にも食べたばかりなのだが、食事を取りに部屋を出た。上階に行くと、この朝はラジオ体操に出ていた(そのために五時起きだったと聞いた)父親がおり、作業着のズボンに上半身は裸になって食事を取ろうとしていた。朝食と同様、カレーをよそって食べる。皿を洗ってしまうと下階に戻り、一時直前から読書を始めた。この書見は五時半まで続くことになるのだが、そこに到ってみても四時間半の長きに渡ってものを読んだという感じはせず、欲望に駆られているわけでもなく、時間に応じた充実感もなかった。本を読むにせよ、音楽を聞くにせよ何をするにせよ、そもそも自分が日々を生きているということそのものに、以前はあったはずの実感が薄くなっており、張り合いがないようであるこれは、軽度のものではあるが、たしかに医者の診断通り現実感喪失症候群と言って良いのかもしれない。
 ベッドに腰掛けながらスツール型の椅子の上に本を置いたり、寝床に転がって左右に姿勢を変えながら読んだり、その二つの体勢を繰り返しながら読書をした。四時頃だったろうか、ベッドにいるあいだには薄い微睡みが訪れた瞬間もあったようだ。いつの間にかという感じで五時半に到っており、書見を中断した時には頁の上に薄暗さが浸透していた。外を見れば雲の広く掛かったなかに僅か切り込みが入って、合間から淡い水色が覗いていた。
 そうして食事の支度をするために上階に行った。何にしようかと母親は言ったそのすぐあと、魚を焼こうと思いつき、メカジキだろうか、冷凍になっていたものを取り出す。汁物は即席の豚汁があったので、それを飲めば良いだろうという話になった。こちらが便所に行っていたあいだに、調理台の上ではピーマンがいくつか、二つに切られてあった。魚を電子レンジで熱して解凍し、三枚をそれぞれ等分するとフライパンに油を引いて、チューブのニンニクと生姜のすりおろしを投入した。そうして魚とピーマンを炒めはじめ、良い具合になったところでオイスターソースと醤油を垂らした。
 ほかには牛蒡を煮るかというわけで、人参と牛蒡を薄く斜めに切っていく。さらに、先日(……)さんに貰った筍も入れようと母親が思いつき、それも切るとこれをまず湯がきに入った。こちらはその間、新聞を取ってきてひらき、適当に記事を眺める。母親は、メルカリに盆提灯が売り出されていたので驚いたと言った。売るようなものじゃないでしょと言うのに、こちらは興味が持てないので、そういう習慣もいずれは消滅するだろうとすげなく返す。ほか、台所にいたあいだに聞いた話としては、昼食中にも話題に出ていたのだが、近所の(……)さんという人が引っ越すのだということがあった。六四歳だかで夫を亡くして以来二十年一人暮らしをしてきたところ、ホームにでも入ろうかと思っていたら息子夫婦が新居を設けてそこに呼んでくれたのだと言う。母親はそれを自分の身に照らし合わせて、もし兄夫婦と一緒に住むことになったらと考え、複雑だなどと漏らしていた。また、父親の車がないことは便所に行った時に玄関の小窓から見て確認していたのだが、相撲開きに行ったのだと言う。この地区では九月の神社奉納祭に少年たちが相撲を行うのが習わしなのだが、その練習が今日から始まったのだろう。
 牛蒡の煮物が煮えるのを待つあいだに、台所に突っ立ったまま新聞を広げ、「首相 地方議員も囲い込み 3選に強い意欲 石破氏包囲網」、「物流悲鳴 担い手置き去り 規制緩和で参入続々 過当競争」の記事を読んだ。もう良いかと思われるところで火を消すと下階に戻った。六時半が近づいていた。先ほど読んだ記事の記述をちょっと日記に写しておき、そうして七時になると食事を取ることにした。
 階段を上がって行くと父親がいたのでおかえりと言ったのだが、台所に入って夕食を用意しているあいだにまたもや出かけて行った。また出かけるのかと問えば、(……)、と突き放したような風に母親は店名を口にする。自治会の会合である。納得したこちらは米をよそり、先ほど作った魚のソテーを電子レンジに入れ、そうして小皿に大根をおろす。即席の味噌汁にポットから湯を注いでいる時、テレビにはニュースが映っていて、五二〇人が亡くなった日航機墜落事故から三三年だと伝えていた。事故の現場である御巣鷹山に登る人々が見られ、そのなかに、結婚して今年はその報告に来ましたという二人がいた。卓に就いてものを食べはじめながらそれを眺めていると、次に、高円宮家の絢子女王が婚約したとの報が流れる。さらに、今日八月一二日は日中平和友好条約からちょうど四〇年だとテレビは続けた。そうして、当時の条約交渉の席にいた外交官の証言テープが紹介されるのだが、それによると鄧小平は、中国がこの先大国化しても覇権を求めないと明言したと言う。また、尖閣諸島(今年に入ってからも五〇回の領海侵入が繰り返されているとのことだった)についても、一〇〇年置いておいても良い、条約の精神に則って互いが受け容れられる解決策を探ろうとの言が伝えられた。
 食事を終えると皿を洗い、散歩、と母親に残して玄関を出た。林から聞こえる虫の音が、今日は気温が比較的低いためだろうか、数日前より薄いようだった。空気は殊更に蒸すのでなく、熱を持たずに肌に馴染み、歩きはじめは汗もさほど出てこない。道中、曇った空が一瞬、ぱっ、ぱっ、と明滅する薄光を掛けられるという現象が何度も見られたのだが、これが何なのか、その正体はわからない。空の遥か向こうで雷が落ちでもしているのだろうか? 街道との交差点で渡り、保育園のほうに続く路地に入って行き、駅が近づいてきた頃にはさすがに汗が湧き、腕が前後に振れるのに応じて脇の下や鎖骨のあたりがやや粘るようだった。ここまでの歩みにも、また駅を越えて自宅に戻るあいだにも、脳内での独り言、散漫な思考がついてくるのだが、その思考というものが変調以前よりもまとまりなく、音楽の想起も挟んで次々に移り変わって行き、統一感を持った形をなさないようだった。変調前よりも思考が(脳内での独り言が)下手になったというか、その範囲が制限されているように思われるのだが、これがこの先改善・向上されていくのかどうかはわからない。
 帰ってくると風呂に入った。頭を洗い、束子で腹のあたりをよく擦ってから上がる。洗面所では壁に取り付けられた扇風機を点け、タオルで頭をがしがしとやって水気をよく飛ばすと、パンツ一丁でドライヤーを取った。なおざりに髪を乾かすと室を出て、飲むヨーグルトをコップに注いで飲む。母親がメロンパンを半分くれると言うのでいただき、それをかじりながら階段を下って自室に戻った。時刻は八時半直前、日記を綴りはじめた。パンツ姿のまま椅子に腰を据えて進め、ここまで記すと一時間が経って九時半になっている。夢中になるほど集中しているわけではないのだが、あっという間、という感じである。このような調子で時間が過ぎていくのだから、一日も一生も短いものだろう。それにしても、その短い一日のうちに少なくない時間を割いて、このような日記を書いて、一体何になるというのか? 多分、何にもならないのだと思う。欲望に動かされている感じもなく、ある種の惰性で書かれているものかもしれないが、しかしまたできるようになったことをやめる気にはならない。結局、ほかにやることがないのだ。書くことこそが、自分の生に意味を与えてくれているのだろうか? 日記を書くだけで金が貰え、生きていけるのなら良いのだが。しかし、誰にとっても、自分自身にとってすらもどうでも良いような、些細で細々とした記述に満たされており、無駄に長々とした毎日のこの文章に付き合って、読んでくれている人がいるのだろうか? 楽しんでいる人が一人でもいるのだろうか? 誰か教えてほしい。
 一〇時からまた読書を始めた。スツール椅子をベッドの側に引き寄せ、その上に本を置き、じっと身体を動かさずに文を集中して追おうとするのだが、姿勢の固定に耐えられずにたびたび脚を組んだり、組み替えたりとしてしまう。読書は日付が変わる直前まで進められた。その終盤、歯を磨こうと室を出て洗面所に行くと、洗面台の上が何故か綺麗に片付けられており、一つのものも置かれていない。歯磨き粉はどこに行ったのかと、歯ブラシを持って母親の部屋を訪ねると、母親は布団の上に横たわってうとうとしていた。歯磨き粉はというこちらの声に意識を取り戻したようで、まだ眠そうな様子を残しながら上だと言ってみせる。それで上階に上がって行くと、飲み会から帰った父親がソファに腰掛け、前屈みになりながらカップ麺を啜っていた。おかえりと声を掛け、はい、と答えが返る。テレビには韓国ドラマが映っていた。そうしてこちらは洗面所で歯磨き粉を入手し、口のなかをごしごしやりながら下階に帰った。
 零時を迎えて(……)さんのブログ、「(……)」に接続してみると、更新されていたので最新の記事を読んだ。そこに日本にインターンに来ている中国人留学生の苦境、日本人によってもたらされる差別的な処遇について記されていて、これはひどいなと思った。力仕事や汚れ仕事を押し付けられ、朝食のパンは残り物が与えられるのだと言う。精神作用が感情的に希薄化している現在、また留学生らと直接の知り合いではないこともあってか、心が痛くなるような同情心とか、傲慢な日本人に対する生理的な嫌悪といったものは湧いてこないのだが、それでもこうした愚かしい状況がまかり通っていることに対しては理不尽を感じる。ブログを読んだあとは、Ella Fitzgerald『's Wonderful - Live In Amsterdam 1957 & 1960』を聞きはじめた。この夜は後半の一九六〇年代の公演を聞いた。三曲目に"Gone With The Wind"が演じられている。Ella Fitzgeraldのこの曲のパフォーマンスは『Mack The Knife - Ella In Berlin』のものが気に入りで、そちらと比べてどうかと言えば、甲乙付けがたいものの後者のほうが録音の質が良かったような印象があり、そちらに傾くか。アムステルダムの音源は、曲のアレンジがベルリンのものとまったく同じで、それで調べてみればこの二つの音源は同時期のもので、演奏のメンバーも同じなのだった。ベルリンのものが一九六〇年二月一三日、アムステルダムのものはすぐあとの二月二七日で、同じ欧州公演の一部なのだろう。曲目もほとんど重なっており、そうするとわざわざアムステルダムのものを聞くよりも、録音の良いベルリンの音源があれば良いのではないかと過ぎりもするのだが、それでも最後の"Roll 'Em Pete"は圧巻と言うべきだったろう。
 最後まで聞くと一時直前、洗面所に行ってオランザピンとブロチゾラムを服用し、室に戻って明かりを落として布団を被った。