七時に携帯のアラームが鳴り響いた音で覚醒した。携帯電話は扉のすぐ脇の本棚の上面、本が二〇冊くらいは積まれたその横に置いてあった。こうすればアラームを止めるために扉のほうまで行かなければならず、二度寝を防げると考えたのだ。ところが実際には、床を抜けて重い頭でアラームを止めると、そのまま振り向いてベッドに戻ってしまった。しかし、眠気はさほどのものでなく意思の力が勝って、寝転がりながらも二度寝に陥ることはなさそうだった。ちょっと経つと起床したが、すぐに部屋を出ず、眠っているあいだに脚がこごっていたので読書のかたわらそれをほぐすことにした。そうしてゴルフボールを踏みながら中原昌也『名もなき孤児たちの墓』を読み、七時一八分で切ると上階に向かった。
洗面所に入って顔を洗い、冷蔵庫を覗くと、卵を焼こうかと思っていたが前日に炒めた茄子と大根の煮物が残っていたので、それで良かろうとなった。一皿のそれらをレンジで温めながら米をよそり、味噌汁を火に掛けて大根おろしを作る。品々を卓に運んで、席に就くと醤油味の茄子とともに米を咀嚼する。食べ終えたところで味噌汁を汲んでくるのを忘れていたので、よそったものを追加で啜り、朝食は終いとなった。そうして薬剤を服用してから食器を洗う。流しの洗い桶のなかには「オロナミンC」の瓶が二本入れられており、水に浸かって柔らかくなったそのラベルを、爪を使ってかりかりと剝がして行き、瓶が無地になるとそれを外の物置に持って行った。ミンミンゼミが早くも鳴きを散らしている午前八時前、日陰にいれば涼しい朝だが、太陽に当たられると既にその勢いが窺えた。
時間は前後して、確か流しにいた時のことだと思うが、母親が石橋幸がどうとか漏らして、なかうえけんじって知っていると尋ねてくる。中上健次だなと理解して、作家でもう死んでいると答えた。母親がそう訊いてきたのは、石橋幸という人のコンサート案内が兄宛に届いており、そのチラシに中上の評言、彼女は深くロシアの人々と共振する、というような言葉が記されてあったのだ。ロシア語の歌を演ずるらしい彼女の公演は紀伊国屋ホールで九月二五日に行われるとある。封筒のなかには兄に向けた自筆の手紙までわざわざ添えられており、兄は大学時代ロシア関連のサークルで活発に活動していたので、その時からの知り合いなのかもしれないと思われた。手紙には、日本は暑くてマガダンから帰ってきて以来夏負けしている、というようなことも記されており、マガダンと言えば収容所のあった街だなと思った。クセニヤ・メルニク/小川高義訳『五月の雪』で一部舞台となっていた土地だ。
外から戻ってきて、風呂はもう洗えるのかと訊くと、残り湯の量を見てみてと母親は答える。風呂桶の蓋をめくり、まだ結構ありそうだと伝えるとならばもう一度洗濯するからと返って、こちらは下階に戻った。コンピューターを点け、八時を回ったところから早速日記を書き出した。一六日の分を仕上げ、この日の分も綴って、九時過ぎに到っている。
それから多分、風呂を洗いに行ったのではなかったか。しかしよく覚えてはいない。記録によると九時半過ぎから運動を始めている。いつもながらのSuchmos "YMM"を背景にかけて屈伸から始め、前屈と腰上げ運動を行った。身体を少々ほぐすと一〇時も近く、外出の支度を始めなければならなかった。通院の日だったのだ。エディ・バウアーの薄青いチェックのシャツを身につけ、下は前日にも履いたベージュのジーンズを選んだ。歯磨きをしたのかどうか、記憶にない。バッグに本と手帳、それにお薬手帳を収めて上がって行き、そろそろ行こうと母親に告げた。彼女も準備を始めていたのだが、冷蔵庫のなかを覗いたり何かこまごまとしたことをやったりとぐずぐずしているのに痺れを切らして、こちらは先に外に出た。家屋根によって駐車場に生まれた日蔭と日なたとのちょうど境に立ち尽くして、何をするわけでもなく佇む。林からはツクツクホウシがリズミカルに鳴きを刻むのが聞こえ、その周りもほかの蟬たちの声で満たされていた。母親が玄関から出てきたのを機に道路に出て日なたのなかに入ると、道の先のほうに、上下を緑に挟まれてピンク色の百日紅が咲いているのが見えた。それを見やりながら乗車し、シートベルトを締めると発進する。
雨が降ったあとで葉が露を帯びているかのように木々の緑が艶めいていた。市民会館跡地を右に折れ、坂を下ってから街道に入るあたりで、"Baby, I Love You"と繰り返す出来合いのポップスが車内に流れはじめた。つまらない音楽だった。街道を走るあいだ、東の空は明瞭な青さに晴れて雲の筋も少ないが、今夏の酷暑のなかでは今日の気温はそれほど高くないように思われた。坂を上っているあいだ、医者に菓子でも持っていかなくて良いだろうかと母親が漏らす。持っていく人もなかなかいないだろうとこちらは答え、完治したらで良いのではないか、完治があるのかわからないけれどと落とした。パニック障害がもう寛解だと思われた時期にこちらも、長年世話になった礼を持って行こうと思っていたのだったが、仕事なり読み書きなりにかまけてなかなか医者を訪れず、そうしているうちに年末の変調を招いたのだった。
医者の駐車場は混んでいた。前日まで盆の休みでこの日から通常営業だったため、人が多いだろうと推測された。ビルに入って上って行くと果たして、待合室の座席はほとんど埋まっていた。お願い致しますと受付に診察券を出し、別室に入ったがこちらにも一組先客があるくらいの賑わいだった。母親と並んで座り、中原昌也『名もなき孤児たちの墓』を読みはじめた。向かいに座っているもう一組は、高齢の夫妻に、三〇代くらいだろうかその息子という組み合わせの三人だった。父親の男性は薬と飲み物の入ったらしいビニール袋をがさがさといわせ、長い待ち時間を持て余しているようで、時折り席を立って待合室のほうに出て行ったり、受付に順番を尋ねたりしていた。待つあいだ、たびたび風が激しく荒れて窓をがたがたと揺さぶり、ビルの三階にあるこの部屋の周りを大きな音で包みこむのだった。首を曲げて外を見やると、その上端しか見えなかったが、外壁に取り付けられた医院の看板も揺れているのが窺えた。
六時間に満たない睡眠のためだろう、文字を追いながら瞼が落ちる瞬間があった。理由なき突然の暴力や唐突に訪れる極端な発想や取ってつけたような比喩が散らされた中原昌也の与太話は読んでいて面白いのかつまらないのかが良くわからない。と言うか最近は何を読んでいても面白いのかそうでないのかが明白でなく、と言って面白いか否かよりも、そこにある具体性・固有性を捉えることのほうが大事ではないかと思うのだが、それを感じる力も言語化する力もいまの自分には充分に備わっていない。待ち時間は長かった。一〇時半に到着し、呼ばれたのは正午が近くなった頃だった。受付の女性の声を聞き取ると、待合室を横切って診察室に向かい、ドアを二度ノックしてからなかに入る。こんにちはと言いながら椅子に腰掛けると、医師の一言目はいつも通り、この一週間どうでしたかというものだった。安定していると答え、それから、また文章を書きはじめたと報告した。どんなものをと言うのには日記をと答え、長さはどうですかとの問いには、前よりも長いかもしれないと一瞬言いかけたのだが、止まって、前と同じくらいですかねと口からは出た。実際には、哲学的・文学的な考察の類は書けなくなってしまったが、自分の行動を以前よりも細かく書いていると思うので、平均すると前よりも分量が多くなっているのではないか。自分としてはもう結構治ってきたなという感じなのですが、と言うと医師は笑った。今後の方針というか見通しはどのような、と続けて尋ねれば、薬はいまのままで維持し、もう少し経過を観察してみようとのことだった。そろそろ仕事も始めなきゃなと思っていますと会話の終盤で漏らしたが、と言って以前の塾講師に戻る気はもうあまりなく、かと言ってほかに何か明確な当てがあるわけでもなかった。処方は今回は二週間分ということになった。
診察は一〇分掛からず終わったと思う。一四三〇円を払って、どうもありがとうございましたと残して出て、階段を下りて行く。ビルを出ると隣の薬局に入って処方箋を差し出すとともに番号の書かれた紙を受け取った。六〇番だった。薬局は稀に見る混み方だった。僅かに残っていた席に腰掛け、中原昌也を読みはじめたが、まもなく呼ばれたのが四八番かそこらで、結構時間が掛かりそうだった。二〇分ほど待って呼ばれてカウンターに行き、薬剤師とやりとりを交わして一一二〇円を払い、薬局をあとにした。
道路に出ると風が吹きつけ、前髪を動かした。昼食はファミリーレストラン「バーミヤン」で取るという話になっていた。車に戻って乗り込み、裏道から抜けてすぐのところにあったレストランに入る。入店し、紙に名前を記した。我々の前には五名の一組が待っていた。そのグループが椅子を用いていたので、我々は立ったまま待つことになった。こちらはそのあいだにトイレに行ってきて、戻ってさらに待っていると、店員がカウンターから出てきて子どもの客を相手にして、雑多な商品の並んだなかからガチャポンの機械に鍵を差し込みはじめた。「ラッキーセット」と書かれたもので、どのような景品なのかは良く見なかったが、店員は機械をひらいてなかの品を一つ二つ取り出し、子どもに差し出してみせると、子どもはこっちがいいと言ってそのうちの一つを受け取っていた。東南アジア風の顔立ちをしている女性店員で、外国人ではないかと思われたが、日本語は達者で明るい雰囲気の人だった。そのあとにもそのガチャポンの前に溜まる子どもがいて、結構な人気ぶりだった。こちらの背後にも、見れば犬を模したものなりサンドウィッチを模したものなり、いくつもガチャポンの機械が設置されているのだった。
席に通され、メニューをひらく。母親は日替わりのランチと決めて、こちらは肉盛りのつけ麺を選ぶことにした。左のテーブルには、良く見なかったが多分中学生か高校生くらいの、私服の少女が二人おり、その奥、こちらの左斜め前は家族連れで、子どもが蓮華いっぱいにラーメンを乗せて啜っていた。しばらく待つとこちらの注文は届いて、温かな麺を汁に浸して啜り、肉を食いはじめたのだが、母親のものがなかなか来ない。セットの餃子三つが届いてからもまたしばらくあり、ようやく届いた頃にはこちらはもう食事を終える頃だったが、店員は大変申し訳ありませんお待たせ致しましたと慇懃に恐縮してみせた。母親の品は、唐揚げと豚しゃぶ、春巻きにキャベツが添えられたもので、それにご飯もついていたが、彼女は食べきれないと言って頻りにこちらに食べるように促してみせるのだった。求められるままにライスをもらい、唐揚げや春巻きをおかずにそれを食い、キャベツもつまんだので母親が実際食べたのは七割くらいだったのではないか。それでものちのち車のなかで、お腹が苦しいと彼女は漏らしてみせるのだった。
食事を終えたあとは買い物である。スーパー(……)に移動し、車を出ると、カートに籠を乗せて入店する。最初はこちらがカートを運んでおり、キャベツや豆腐、卵や鯖などがそのなかに入ったのだが、じきにこちらはカートを離れて、市の指定のゴミ袋を見に行った。その途中にビスケットの区画に掛かると、「たべっ子どうぶつ」のセットを見つけたので確保し、それから表示に従ってゴミ袋の場所を訪れたが、役所指定のものはない。それで母親を探しに戻り、途中でアイスも一つ保持して合流すると、指定の袋はレジの近くにあるとのことだった。それも含めて会計を済ませ、品物を袋に詰めるとカートを押しながら店をあとにし、車に戻って冷たい品を保冷ボックスに移し替えた。
アイスを食いながら乗車し、(……)に向かう。父親の肌着を新しく買いたいとのことだったのだ。(……)に着くと上層の駐車場に停めた。こちらは買い物には付き合わず、本を読みながら待つつもりだったが、駐車場内は暗くて文字が見えないので車を降り、屋内に入ってエレベーター近くのベンチに腰を下ろした。本を読みはじめたのはちょうど二時だった。それからぴったり三〇分待つと母親が戻ってきたので車に戻って、帰路に就いた。
帰ってくると買ったものらを取り出し、保冷ボックスを提げながら玄関の鍵を開ける。靴を脱ぐと居間に入って品物を冷蔵庫に詰めた。それからベランダの洗濯物を取りこみ、シャツも脱がずにそのままソファに座ってタオルを畳んだ。そこでシャツを洗面所に脱ぎ、肌着の緩い格好になって下着の類も畳んで行った。終えると室に帰ってハーフパンツに着替え、また上階に戻る。戸棚から買ってきたビスケットを早速取り出し、自分の部屋で食べながら東京新聞のサイトにアクセスした。「貧困LGBTに住まいを NPOが「支援ハウス」資金募集」という記事と、「辺野古、土砂投入きょうから可能 現場で抗議活動」の記事の二つを読んだ。それらを日記にコピー&ペーストしておき、ニュースカテゴリの内にも保存しておくと、休むことなく日記に取り掛かりはじめた。三時四〇分から始めたのだが、打鍵をしているうちにあっという間に午後五時を迎えてしまった。
特に弾きたかったわけではないのだが、隣室に入って意味もなくギターを弄んだ。そろそろ夕食の支度をしなければという頭があったが、疲労していたのでちょっと休んでからにしようと自室に戻り、ベッドに寝転んで中原昌也『名もなき孤児たちの墓』を読み出した。ところが、少しのあいだのつもりがそのうちに眠気が差してきて、気づけば刺されたようにそれにやられて意識が混濁し、布団を被って結局八時過ぎまで眠ることになった。不甲斐ない体たらくである。呻きを上げながら暗い部屋のなかに起き上がり、食事を取るべく室を抜けた。
腹は減っていなかった。台所の鍋には素麺が煮込んであり、調理台の上にはパックに入ったバンバンジーがあった。そのほかに鯖のソテーなどもあったようなのだが、食欲がなかったので先の二つだけを食べることにしてそれぞれ食器に移した。母親を向かいにして卓に就き、夕刊に目をやりながら麺を啜る。一面には中央省庁で障害者の雇用数が水増しされていたという問題が伝えられていたが、読む頭は散漫で、またテレビにも時折り目を向けていた。そのテレビのほうは最初は録画したらしいNHK『あさイチ』を流していて、樹木希林が出演しており視聴者の悩みに答えていた。次に角野栄子という児童文学作家の回に切り替わったが、母親がこれは見た気がすると言って番組を終わらせ、その後は現在放送中の『ぴったんこカン・カン』が流れていた。二宮和也と木村拓哉が出演しており、服屋でファッションショーのようなことをやっていた。
薬を飲み、マグネシウム錠剤も流し込むと入浴に行った。出てくるとすぐに自室に行き、窓を閉めてSuchmos "YMM"を流しはじめた。歌ってからJose James "Truoble"に切り替え、リピート再生をさせながらベッドで前屈を行った。腹筋と腕立て伏せも僅かばかり行うと、Suchmos "Pinkvibes"、キリンジ "双子座グラフィティ"を流して口ずさみ、それで区切りをつけて窓をひらいた。そうして日記を書き足しているうちに一〇時を越えた。
インターネットを閲覧したあと、読書の開始を手帳にメモして、まず夕刊に目を通した。一面から「障害者雇用 省庁水増しか 対象外の職員を算入」を読み、二面からは三つの記事を選んで読んだ。「トランプ氏批判 米紙一斉に 有力紙が呼びかけ 社説掲載 380紙賛同 「報道の自由を」訴え」、「日本のヘイト対策を審査 国連委 人権・法の実効性など焦点」、「パレスチナ難民の学校 再開 国連 米拠出金凍結で財政危機」である。それから、Evernoteに保存してあるニュース記事のなかから、パレスチナ関連のものをいくつか読み返した。まず、昨年の一二月に米国によってエルサレムはイスラエルの首都であるという宣言が一方的に成されている。その後一月にこれを受けてパレスチナ解放機構がオスロ合意の崩壊を明言し、米国の仲介による和平交渉も拒否された。そのPLOを「兵糧攻め」する目論見なのだろう、米国はパレスチナ難民救済事業期間に対する資金拠出を保留する方針を決定、オスロ合意の崩壊が宣言されたのが一月一五日の夜、支援保留は翌一六日と即座の対応である。そしてそれ以来実際に米国からの支援金は大半が凍結され、UNRWAは九月末までの活動資金しかないと言う。一方五月からはイスラエルとハマスのあいだで戦闘が激化し、今月の八日から九日に掛けてはガザに大規模な空爆が行われたと言うが、こうした対立の悪化も首都エルサレム宣言に端を発しているわけで、結局はドナルド・トランプの招いた事態なのだろう。
それからこちらは、東京新聞のサイトで省庁の障害者雇用水増し関連の記事をいくつか追った。そうして中原昌也の書見に入るのではなく、工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』を書抜くことにして、コンピューターを前にスツール椅子に就いて文章を写していった。それに切りをつけた頃にはもう零時が近かったと思う。次に、昨年の八月一六日と一七日の日記を読み返した。どちらも、今よりも自由に伸び伸びと思考を綴っていた。一六日にはBill Evans Trioを聞いての感想が記されていたので、ここに引用しておく。
Bill Evans Trio『The 1960 Birdland Sessions』を聞きはじめた。例の伝説的なVillage Vanguardでのライブから一年以上前の音源になる。一九六一年のBill Evans Trioのあの完成度が、それより一年前から現れているかどうかと思っていたのだが、三曲を聞いた限りでは、やはりさすがにこの時点では、まだ確かな形に至っていないようだ。例えばEvansのプレイにしても、一九六一年の"All of You"や"Waltz For Debby"などを聞くと、その「均整」の感覚、あまりの無駄のなさに惚れ惚れしてしまうのだが、六〇年の"Autumn Leaves"では余計な間延びと思われるようなフレーズが聞かれた。また、LaFaroもまだまだ大人しい。ソロを聞くと威勢の良さは六一年と遜色ないように思われるが、バッキングのあいだは、六一年のように隙あらば前面に出ようとするのでなく、装飾も控え目に大方リズムを刻むことに徹していたと思う。二曲目の"Our Delight"などは、Tadd Dameronの曲であり、ということは曲の形式からして古典的なビバップ調のものであって、LaFaroはここでは伝統的な四ビートのベーシストと化していた。この曲目から見ても、おそらくはまだ六一年のトリオのスタイルを掴めていないのだろう。まったくの印象になってしまうが、六一年のトリオは、例えばLaFaroがほとんどいつどのタイミングであってもピアノの旋律の合間に分け入って行くことができるような感じを受ける。互いの呼吸が「肌」に受ける感覚としてわかっていたのだろう、というようなことを思わせるのに対して、六〇年では(少なくとも三曲を聞いた限りでは)まだまだそのあたりの機微が精通されていないと思われる。Paul Motianについては、音質が悪くてドラムが詳細に分化して聞こえないために、何とも言えない。
それでおそらく零時を越えたと思う。歯ブラシを取ってきて、歯磨きをするあいだふたたび東京新聞のサイトから記事を読んだ。そうして口をゆすいでくると、音楽鑑賞に入った。Jose James, "Vanguard", "Come To My Door", "Heaven On The Ground (feat. Emily King)", "Do You Feel"(『No Beginning No End』: #4-#7)、Aretha Franklin, "Make It With You"(『Aretha At Fillmore West』: #5)、Bill Evans Trio, "All of You (take 3)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D3#4)で四〇分。既に一時を回っていたが、もう少し本を読みたい気がしたので、ベッドで『名もなき孤児たちの墓』を読み進めた。そうして一時四五分に消灯したが、布団に入ってから就寝前の薬を飲んでいないことに気づいたのでまた明かりを点け、洗面所に行って薬剤を服用した。戻ってくると電気を消し、布団のなかに身を包みこませた。
工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年
生れつき苦しまずにすむ人間がいるものです、無神経な人たちというのがそれだ。連中は仕合せですよ! でも彼らはおかげでどれほど多くのものを失っていることか! 奇妙なことに、生物の階級を上へ昇れば昇るほど、神経的な能力、すなわち苦しむ能力も増大するようです。苦しむことと考えることは、つまるところ同じものなのでしょうか。天才とは、要するに、苦痛を研ぎ澄ませること、つまり、対象そのものをいっそう完全かつ強烈に自分の魂に滲み透らせることにほかならないのかもしれません。おそらくモリエールの悲しみは、<人類>のあらゆる愚かしさ、彼が自分自身のなかにとりこんでしまったと感じていた人類の愚かしさから来ているのです。
ようやく共進会のなかほどまで来ました(今月できたのは十五ページほど、それも仕上がっているわけではありません)。さて出来は良いのか悪いのか? ぼくにはまったくわかりません。それにしても会話の難しさ、とりわけ会話に性格[﹅2]をもたせたいとなると! 会話によって色づけすること、しかもそのために会話の生気が失われたり不正確になったりせず、平凡でありながら常に格調高く保つこと、これはもう曲芸みたいなもんだ、ぼくの知るかぎり小説のなかでこんなことをやってのけた人はありません。会話は喜劇の文体で、語りの部分は叙事詩の文体で書かなければならないのです。
今夜は、すでに四回も書きなおしているあのいまいましい飾りランプの話を、新しいプランにしたがって、またやりはじめました。まったく壁に頭をぶつけて死んじまいたいくらいだ! 要するにこういう話です(一ページでこれを書く)、ひとりの男が村役場の正面の壁につぎつぎといくつもの飾りランプをつけるのを群衆が見て、しだいに昂奮が高まってゆく、それを色づけして見せるんです。そこに群がる人々が驚きと歓びでわめき立てるのが、見えなくちゃいけない。それも滑稽な誇張ぬき[﹅7]、作者の考察もぬきでやる。貴女はぼくの手紙にはときにびっくりするほど感心すると言ってくれる。とても良く書けていると思うわけですね。あんなのは小手先の仕事です! なぜって手紙には、ぼくの思ったことを書けばいい。でも、他人のために、彼らが考えるであろうように考える、そして彼らに喋らせるとなると、全然違うんですよ!(……)
(284~285; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年九月三十日〕金曜夜 午前零時)
*
[農業共進会の場面について、]ところでこの壮大なピラミッドが内包するものは、平凡陳腐、何ともささやかなロマンスでしかない。その意味では、これはアンチ・ヒーローたちの演じるアンチ・クライマックスだとも言えて、形式の緊張が内容の空無そのものを提示するところに、もっともフロベール的な<芸術>がある。
(287註)
*
この本は、ちょうど今さしかかっているところなど、ぼくを拷問の苦しみに合わせている(もっと強い言葉があればそれを使うんだが)、おかげでときには肉体的[﹅3]に病気になってしまう。(end288)ここ三週間ほど、ぼくはしょっちゅう、胸をしめつけられて気が遠くなるような感じにおそわれます。そうでなければ、胸を圧迫される感じ、あるいは食卓で吐き気をおぼえることもある。何もかもうんざりだ。今日だって、もし自尊心が邪魔をしなければ、大喜びで首を吊りたいくらいでした。確実に言えるのは、ときどきすべてをおっぽり出したくなるってこと、とりわけ『ボヴァリー』をね。こんな主題をとりあげようなんて、どうしてこんな呪わしい考えにとりつかれたんだろう! ああ、これでぼくは、身をもって<芸術>の苦患[﹅2]を知ったことになるでしょう!
(288~289; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年十月十七日〕月曜夜 一時)
*
(……)最近発表された草稿研究によれば、第二部八章、わずか二十五ページ(クラシック・ガルニエ版)のために、くり返しくり返し書きなおされた草稿は、保存されているものだけで、表と裏ほぼ全面を埋めつくした原稿用紙二百枚近くにのぼる。(……)
(290註)
*
(……)というわけで、ひとつの場面[﹅6]を書くのに、なんと七月末から十一月末までかけることになります! それもやって面白いならいいんですが! しかしこの小説は、どんなにうまく書けたところで、決してぼくの気に入ら(end291)ないでしょう。全体像がはっきりと見えてきた今となっても、嫌悪をおぼえるのみ。(……)
(291~292; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年十月二十五日〕火曜夕 午前零時)