2018/8/20, Mon.

 七時のアラームで目覚めたが、二度寝を選び、一〇時半頃まで寝床に留まることになった。上階に起きて行って母親と顔を合わせたが、食事は昼に取ると言ってすぐに自室に戻った。前日の日記を綴らなければならなかったのだ。それで椅子に腰を据えて一〇時半過ぎから書きはじめ、一二時半に到ったところで一旦中断し、食事を取りに行くことにした。
 素麺に鶏肉のソテーと生野菜である。母親は出かける用事があると言った。友人に梅干しの樽を届けに行くのだった。この午前中にはまた宅配が届いていたのだが、その一つが父親が買った「マグマ塩」というものだった。健康に良い塩だって、と母親が言うのにこちらは、健康に良い塩なんて存在するのかと返した。小さな容器を一つ、母親に差し出されて受け取ると、裏面の説明に、ヒマラヤ山脈五〇〇〇メートルから採掘された太古の岩塩であるなどと書かれていた。胡散臭そうなものだが、しかし胡散臭さで言えばこちらが前夜に注文したバコパだっておそらく似たようなものだろう。食事を終えると抗精神病薬を服用し、食器を洗い、そのまま風呂も洗って下階に下りた。時刻は午後一時、ふたたび日記を書き綴ってブログに投稿し、それからこの日のこともここまで記した。
 二時半過ぎから保坂和志『未明の闘争』を読みはじめた。途中で家の前に車が停まったらしき響きが薄く伝わって来た。注文したバコパが届いたのだなと直感し、チャイムが鳴るのを待たずに立ち上がって室を抜けた。上階の受話器を取ると案の定、宅配便ですとの声があったので、ありがとうございますと早くも礼を言いつつ、玄関に出て行った。宅配員は茶髪の女性だった。ありがとうございますと礼をさらに繰り返しながら、差し出された紙に簡易印鑑で印を押した。そうして荷物を受け取って最後にまた一回、ありがとうございますと口にして別れ、居間に戻ると、ダンボール箱を早速開封した。薬剤の瓶を包んだビニールがダンボールに接着されてあるのを剝がし、箱入りの瓶を取り出して、ダンボールはその場で解体して祖父母の部屋に持って行った。サプリメントはテーブルの片隅に置いておき、それから自室での読書に戻った。
 しかしこの読書がまた途中から、いくらも進まないうちに昼寝へと陥ってしまい、たびたび意識を取り戻しながらも身体が痺れたように動かず、結局六時半頃まで寝床に留まることになった。部屋のなかには既に薄闇が満ちて、窓から見える空の青さはまっさらに淡く、そのなかにぼやけた月が覗いていた。六時四五分になって上階に行き、飲むヨーグルトを飲むと、炬燵テーブルの上にアイロン台を載せ、機械のスイッチを入れた。アイロンが温まるあいだに屈伸をして脚をほぐし、それから父親のシャツに高熱の器材を当てはじめた。ほか、前日に着て行ったカラフルなGAPのシャツ、父親のチノパン、母親のエプロンにハンカチ二枚を掛けるあいだ、目前のテレビには天気予報が流れていて、台風が接近していると伝えていた。翌日の天気は曇りで、今日よりもやや蒸し暑くなるだろうとのことだった。
 アイロン掛けを終えると食事に入った。解凍された米、豚汁、唐揚げに切り干し大根、豚しゃぶと生野菜のサラダというメニューだった。食後、抗精神病薬マグネシウムを飲むとともに、届いたばかりのバコパを一錠口にした。瓶のフィルムを除き、詰め物も取って匂いを嗅ぐと、漢方薬のような独特の香りがあった。ハーブの一種で、記憶力を良くするらしいと向かいの母親に説明すると、彼女は早速タブレットを取って検索をし、確かにそのような情報が記されているのを発見していた。しかし何度も言うが、サプリメントなど胡散臭い代物である。そんなに簡単に記憶力や思考力が開発されるわけはないだろう。バコパに関しては一応、海外の研究データもあるようなのだが、このハーブが仮にいくらかの効力を持っているとしても、それがこちら個人にうまく適合して効くかどうかは未知数である。そういうわけであまり期待はできないが、ともかくもいくらか飲み続けてみるつもりではある。
 入浴を済ませると自分の部屋に戻って、Jose James "Trouble"を流しはじめた。一曲歌うと同じそれがリピート再生されるなかベッドに乗って前屈を行い、腹筋運動もこなしてから音楽をSuchmos "YMM"に変更した。狭い部屋のなかをうろうろと動き回りながらそれを歌い、続けて"GAGA"も歌うと音楽の時間はそれで終わり、自分のブログにアクセスした。何とはなしに「保坂和志」の語からはてなキーワードに繋いで、彼の名前を含むブログを探っていると、なかに良さそうなものが一つあった。「葱と蒟蒻の日々」というもので、日記のようにして毎日綴られているもののようである。こちらが読むブログというのはすべて、明確な大きな主題を持つのではなく、日記形式で雑多な事々を取りこみながら毎日書かれているものだ。それでこのブログをブックマークバーに追加しておき、それから「(……)」を二日分読んだ。すると午後九時も間近、Ari Hoenig『Bert's Playground』をバックにしてこの日の日記を三〇分ほど綴った。
 喉が渇いていたので上階に行った。コップに水を汲んで氷を入れ、それとともにアイスを食べていると、母親が、お前のバッグを貸す、などとちょっと笑いながら訊いてくる。クラッチバッグのことだった。父親が翌日、ディズニーランドで催される会社の表彰式に出るとかで、先日わざわざジャケットからズボンまで服を一式揃えたのだったが、それに合う鞄がないのだった。別に良いと答えて下階に戻り、中原昌也『名もなき孤児たちの墓』の書抜きをしていると扉がノックされた。母親はノックなどしないので、父親だなとわかった。顔を見せた父親は風呂上がりでまだ暖気を纏っているような感じで、タオルを首に掛けており、照れくさいのか何なのかやたらとにこにこしながら、バッグを貸してくれるかと言うので、手近にあったそれを渡してやった。それからも書抜きを続け、三箇所を抜いたところで良しとして一年前の日記を読み返した。それも終わると、保坂和志『未明の闘争』の読書に入って、背景にArt Blakey & The Jazz Messengersなどが流れるなか、零時直前まで読み続けた。歯磨きは読書とともに済ませてしまった。そうして音楽を聞きはじめる。この夜はSuchmos『THE BAY』を一曲目から終盤まで流し、一時が近づいたところで、伸びてきてもじゃもじゃと煩わしい陰毛を処理することにして、ヘッドフォンをつけたままベッドに乗った。股間のあたりにティッシュを二枚敷いて、皮膚を傷つけることのないよう鋏で慎重に毛を切って行く。切り揃えるとティッシュを丸めて捨てて、就寝することにした。オランザピンとブロチゾラムを一錠ずつ口に入れ、洗面所で服用してきてから電灯を落とした。



中原昌也『名もなき孤児たちの墓』新潮社、二〇〇六年

 典子は昔、バカだった。いまもそうだ。結局、バカだった。文筆などという職に向いているはずがなかった。文盲に等しかった。所詮何か書いても、まったく中身のないことしか書けなかった。何かを人に言って聞かす立場など務まるわけはなかった。文章を書いて、見ず知らずの人に読ませる仕事が、世の中でもっともふさわしくない人間だった。何故、彼女がそんな仕事に従事しているのか、誰も納得がいかなかったし、それは不幸なことに本人も同じであった。彼女が書くことによって、誰も幸せにならなかった。しかし、それでもっとも幸せでなかったのは彼女自身であった。ぜんぜん望んではいない仕事だった。仕方なくやっ(end86)ている仕事だった。彼女にとって文筆とは売春と同じだった。恥を売る、ということにはどちらも変わりはなかった。それはまったく同じだ。書くことは何の救いにもならなかった。もし書く苦しみが少しでも読者の共感を得たとしても、それは何の喜びも彼女に与えはしなかった。ただただ無駄で退屈なことだった。
 (86~87; 「典子は、昔」)

     *

 (……)文章をわざわざ書いて、それをわざわざ見ず知らずの人に読ませるなどという自然に反した不健康極まりない行為を繰り返して、まともな人間生活を営めるなんてことは絶対にあり得ないのだ。もし、そんなことを生業にしていながら慎ましく生きるのであればまだしも、家を買ったり海外旅行に行けるというのは信じられない。どこをどう狡猾にやれば、文筆業などというけったいな職業でそんな贅沢が出来るというのだろうか? 誰も欲していない、自分勝手な意見などダラダラと文章に書いて、いったい何が偉いのだろうか? 少しでも常人の神経を持っているのならそんな厚顔無恥なことをして大金を得ようなどという愚かな考えなど、決して持つに至らないはずだ。生計を立てる手段がどうしても文筆しかないという不幸を背負ってしまった者は、仕方なくその仕事に従事するしか道がないのは残酷な現実である。しかしこの世の中の文筆に携わる者たちは、いずれも傲慢そのものの大きな態度で闊歩しているのだ。(……)
 (88; 「典子は、昔」)

     *

 ちょうど上手い具合に、寄せては返す荒波が浜辺に当たって砕け散る音に聴こえなくもなかったし、時折器用にピーヒュウというカモメの鳴き声のような音さえも盛り込まれていた……だから彼の前で目を瞑れば、誰でも簡単に気の利いた海の情景が、即座に目の前に広がるのだった。
 それ程までに、浩二の鼻での呼吸は深くて、うるさかった。
 (134; 「女とつき合う柄じゃない」)