2018/8/24, Fri.

 八時のアラームを活かすことができず、またもや一一時四〇分まで意識と身体が軽くならなかった。家中に人の気配はなかった。上がって行っても母親の姿はなく、玄関の小窓から外を覗けば車もなくなっているが、どこに出かけたのか書き置きの類はなかった。顔を洗うと、冷蔵庫から炒飯を取り出して電子レンジに突っ込み、それが熱されているあいだに便所に行って用を足した。戻ってくるとカキフライも二つ温めて卓に向かい、新聞をめくって記事をチェックしながらものを食べた。それから薬を飲んで皿を洗うと、風呂も洗って下階に下りた。部屋に入ってコンピューターを点すと同時に便意を催したので、トイレに行って出すものを出し、尻を拭いていると母親の帰ってきた音が伝わってきた。室を出て手を洗い、荷物があるかと思って上階に行ったところが何もない。どこに行ったのかと尋ねると、眼科に行ったということだった。
 自室に戻ってコンピューターを前にして、Evernoteにこの日の記事を作成しておくと、早速読書に入った。保坂和志『未明の闘争』である。一時間ほどそれを読んで区切り、日記を記しはじめたが、日記を書いていてもまったく面白くない。本を読んでいても何ら感情的な反応が起こらず、感想も浮かんでこず、それ以外の時間にあっても世界の細部が具体性を持って感知されるということがなくなってしまったので、必然書くといっても内容の薄い表層的な事柄しか綴ることができないからだ。感性も知性も失われた状態にあって文章など書いていても仕方ないなと思う。とにかく感受性が戻らないと何も話にならない。
 日記をつけると二時半だった。そこからまた、ここ数日そうであるように、寝床で横になってだらだらと休んでしまった。何か疲れているようで、気力が湧かず、本を読む気にも何をする気にもならなかったのだ。途中から布団を身に寄せながら結局六時頃まで横たわっていた。きちんと眠っていたわけではないが、いつの間にかそのくらい時間が経っていた。
 起き上がって上階に行くと、母親が肉じゃがを作ろうと言う。面倒臭く思ったが逆らわず、ジャガイモを取りに階段を下りた。廊下の途中の窓をひらくと、勝手口の下の物置スペースに接しているそこに、ジャガイモがいくつも籠に入れられて保存されているのだ。窓を開けると涼風が吹いて身体を撫でて行く。五個くらいジャガイモを取って上階に戻り、流しの前に立って皮剝きを使って皮を剝いて行く。それを横に立った母親が切り分けて、全部剝き終わらないうちに早くも玉ねぎや人参と一緒に炒めはじめた。その上にさらに細切れになった冷凍肉をばらばらとたくさん投入する。こちらは皮剝きを終えて追いつくと、箸を使ってフライパンのものを炒めた。隣のもう一つのフライパンではサバがソテーされていた。肉の色が大方変わったところで水を注ぎ、それでこちらは台所を離れた。夕刊を取りに玄関を出ると、東の空に浮かんだ雲の左の頬が薄赤く残光を反映していた。新聞を読みながら肉じゃがが煮えるのを待とうと思っていたのだが、そうした気持ちが湧かなかったので料理の残りは母親に任せることにして下階に下りた。
 そうして一二月の日記を読み返したのだが、全体として今より比べて相当に良く書けているように思われた。一二月二日の『ダロウェイ夫人』を読んでの感想などは、とても今の自分には感じられないものだし、それを除いてもちょっとした一文にも明らかに今よりものを良く感じ取っているのが窺われる。この頃が言ってみれば自分の読み書きの能力の最盛期だったのだろう。二〇一三年の一月から丸五年を費やしてそうした能力を養ってきたわけだが、それも年始以降の変調で、すべてとは言わないまでも半ば以上は失われてしまったわけだ。今から考えると、年末頃には保たれていた鋭い感受性と自分の不安障害はセットだったのではないかという気もする。不安というものが主体としての自分の底に第一原理として敷かれており、それがあるからこそ自分はものを感じることができていたのではないか。今、パニック障害の症状はまったくなくなり、生活のなかで何かに不安を覚えることもなくなったのだが、その替わりのようにして感性が働かなくなり、定かにものを感じたり、感受から発展して思考を展開させることができなくなった。不安もないが感性の喜びもない今の状態と比べると、不安がありつつも様々な感情や欲望が自分のうちに煌めいていた以前のほうが、やはり生としてましに思われる。年末の頃の頭の状態に戻れるならば戻りたいものだ。とにかくものが感じられない考えられないというのが今の自分の悩みの根本だが、これがこの先改善されて行くのかというと、やはりあまり期待はできないように思われる。そもそも自分の今の状態が鬱病なのか離人症なのか、基本的な診断すら最終的にははっきりしないのだから、精神疾患とは厄介なものだ。診断がはっきりしないのだから、症状への対処も、確かにこれが効く、というようなものにはなり得ない。そもそも「ものを感じられない病気」と言って、それに対して一体どんな治療の仕方があるというのか? 結局鬱症状を脱してまた読み書きができるようになったと言ったって、何かを感じることができない状態はほとんど変わっていないのだ。自分は年始から春にかけて何らかの不可逆的な変化を通過してしまい、元には戻れず、感性も思考力も希薄になった今このままで、そこから変化発展することはもうないのではないかと、どうしてもそのように考えられてならない。一年後、自分はどうなっているだろうか? 今と何も変わっていないのではないだろうか? 時間が経ってみなければいずれわからないことではあるが、もしそうだとすればこの生とはほとんど意味のない、無価値なものとなってしまうだろう。
 その後、新聞の記事を日記に写し、七時を回ったので食事を取りに行った。米にサバのソテー、肉じゃが、細切りにした胡瓜と大根にレタスを混ぜた生サラダで、あとから刺身蒟蒻も出てきた。テレビは子どもの面白映像の類を紹介していた。食事を終えて薬を飲むと、この日も散歩には出ず、さっさと風呂に入った。出てくると、階段を下りたところに置いてあった袋からクッキーの缶を取り出した。父親が夏の休み明けに、会社の人からハワイ土産として貰ってきたものらしい。居間に上がってサーフボードを模した形らしい缶を開封し、中身を一つ二つつまんだ。結構美味いものだった。チョコレートが溶けていたので冷蔵庫に入れておくことになったが、その前にチョコを用いていないやつを二つ確保して、自分の部屋に下りて行った。
 クッキーを食いながらインターネットを閲覧し、九時前から保坂和志『未明の闘争』を読みはじめた。BGMに流したのはU2『All That You Can't Leave Behind』だった。一時間ほど読むと日記に取り掛かり、ここまで記して一一時が間近となっている。
 歯を磨き、一一時半頃から音楽を聞きはじめた。Becca Stevens『Regina』から六曲、そして最後にBill Evans Trioの"All of You (take 1)"を聞くと既に零時を越えていた。それからちょっとだけインターネットを回り、半になる頃には薬を服用して床に就いた。いつものことだが、眠気はまったくなかった。意味のなさない呻き声を上げながら左右に姿勢を変えている途中、時計がほぼ一時を指しているのを確認した。それからしばらくして寝付いたようだが、いつも自分がどうやって入眠しているのか不思議である。