2018/8/25, Sat.

 早朝から何度も目覚めていたが、八時のアラームまで最終的な覚醒を待った。アラームが鳴るとゆっくりと身体を起こし、携帯電話を手に取って音を止めた。身体は重かった。上階に上がって行くと父親と顔を合わせたので挨拶し、母親の横を通って洗面所に入り、顔を洗った。前日の肉じゃがが残っていたが、それは食べずにハムエッグを作ることにした。オリーブオイルのパックを逆さにして残り少ない液体をすべてフライパンに垂らし、ハムを四枚敷いた上から卵を二つ割り落とした。それで出来たものを丼の米に乗せ、エノキダケの入った汁物とともに卓に運んで食べはじめた。向かいでは父親も食事を取っていた。
 食器を片付けると冷蔵庫からクッキーを二つ取り出し、自室に戻った。それを食べながら「(……)」の長々とした記事を読み、最新の日付まで読み通すと時刻は九時半、日記を記しはじめた。僅か一〇分そこそこで前日の記事を仕上げ、この日の分も綴ることができた。中身のない生を送っていることの証左である。
 その後、歯を磨いたり服を着替えたり、外出の支度を済ませて、一〇時一五分頃に家を発った。玄関を抜ける間際、でも出かけられるようになって良かったと言う母親の声が背後から聞こえたが、全然良くなどない、感じられなければ意味がないのだとこちらは思った。(……)さんの家の塀の影が路上にくっきりと映っていた。空気は澄んでおり、遠くの山も雲の白さも、すぐ間近の庭木の色合いもくっきりと強く際立っているように見えた。坂に入るとすぐにツクツクホウシの声が降ってきたが、蟬の声は全体として明らかに少なくなっていた。薄緑の葉っぱに繋がった団栗をぱきぱきと踏みながら上って行く。途中の家から女性が出てきて、扉に鍵を掛けてから道に踏み出しこちらの前を過ぎると、香水の匂いがあとに残った。
 駅のホームに降りていくと、特殊列車が入線してきたところだった。濃い紫色の車体にピンクのストライプが一本伸びていた。なかの席はテーブル式になっていて、飲み物やつまみの類が卓上に置かれ、乗客たちは卓を囲んで宴会のようにしているようだった。ホームの先へ陽射しのなかに出ると腕に水が湧き、背に転がるものの感触もあったが、風が流れて肌に涼しかった。
 乗車すると扉際に陣取った。車内の空気は涼しかったが、まだ背中には汗の玉が転がっていた。乗り換えた先でもドアの脇に就き、到着を待つあいだ、感じられない、感じられないと頭のなかに声が巡り、それで一体何の意味があるのだろうと疑問を投げかけていた。
 (……)に着き、階段を上って改札を抜ける。歩廊は照り返しが眩しく、目をほとんど閉じてしまうほどだった。そこを通って図書館に入館し、カウンターに本とCDを返却すると階段を上った。新着図書には一次大戦から二次大戦のヨーロッパ内戦を扱ったものや、確か『主権の二千年史』というタイトルの本などがあった。新着図書の離れると哲学の区画に移ったが、特に何も借りるつもりはなく、ここもすぐに離れて席を探そうと大窓のほうへと出た。土曜日とあって午前から混んでいて、窓際に空いている席はなく、テラス側も埋まっているのは明白だった。それで途中から何となくまた書架のあいだに入り、金子薫の、先日に読んでいない二作を手に取って眺めた。そのすぐ近くに金井美恵子があり、彼女の『目白雑録』のことを思い出したのでエッセイの区画に移動して、当該作を少々めくった。そのまたすぐ近くに「対談」と題に含まれた本があり、何かと見てみれば加藤典洋の著作だった。何となくひらいてみると、中原昌也の名前があったので、彼との対談のみ適当に拾い読みをした。
 日記を書きたかったのだが空席がなかったので諦めて、図書館をあとにした。外に出ると歩廊の眩しさがふたたび目に刺さる。コンビニのダストボックス脇で店員がゴミ袋の整理をしており、そのすぐ傍には配達のトラックが停まっている。そちらに横目を振りながら通路を渡って、改札を入った。ホームに降りるとベンチに座って、家を発ってからのことを手帳に記録して行った。そのうちに一一時半の電車がやって来たので乗車した。
 座席の端が早々と取られてしまったので、席に就かずに扉の前に立ち尽くし、保坂和志『未明の闘争』に目を落としながら到着を待った。立川駅に着いて降りると階段口がごった返していたので、人々の脇を通り過ぎて反対側の階段まで移動し、そこを上った。改札を抜けて、壁画の前に立っていた(……)くんと(……)くんと合流した。法務省からロンドンに出向していた(……)くんとは、二年と数か月ぶりの再会だった。(……)くんが朝をほとんど食わずに来て腹を減らしているとのことだったので、とりあえず飯を食いに行こうとなり、こちらの一言でルミネのレストランフロアに向かった。エスカレーターを昇って行き、八階に着くとフロアガイドの前で小考し、お好み焼き屋「千房」に入ることに決定した。店に入ると入り口から左手の壁際の席に通された。
 店のオリジナルである「千房焼き」に、ミックス山芋焼き、それに葱焼きを注文した。料理が届くあいだに確認すると、(……)くんは二〇一六年の四月から留学していたということだった。彼はRUSIというイギリスのシンクタンク(検索してみると、英国王立防衛安全保障研究所という長たらしい名称が出てくる)に出向していて、連日安全保障関連の講演を聞きに行ってはそのレポートをまとめるという日々を送っていたと話した。
 焼き上げられた状態で届けられるお好み焼きを三つに分けて食べるわけだが、あまり喋らないからだろう、ものを食べるのはこちらが一番早く、早々に皿は空になって二人が食べている様子を眺めることになった。食事のあいだにどのような話をしたのか、まるで記憶が蘇ってこない。驚くほどに会話が覚えられなくなった――会話だけでなく、あらゆる事柄に対して何らかの定かな印象を抱くということがほとんどなくなってしまったのだが。お好み焼き三玉を食べてもまだ余裕があると三人一致したので、さらに牛タン焼きを注文して食った。
 財布に一万円しか入っていなかったので、ここはひとまず自分がまとめて支払うと申し出た。二人とも細かな金がなかったので精算はのちにとのことになり、代金を払って店をあとにすると、エレベーターに向かった。ちょうどやって来たのに滑り込み、一階まで下りてフロアに出てそのままビルを抜けた。毎月の会合に使っていたルノアールに行こうとの話になっていた。この時、道端で三脚を立てている人があって何かと思ったのだが、のちに喫茶店から出てきた時に通ると、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の幟が設置されており、こんにちは、こんにちは、と通行人に声を掛ける女性の姿があった。
 ルノアールに入店すると、入り口から左方の四人掛けに腰を下ろした。こちらはアイスココア、(……)くんはカフェゼリー・アンド・ココアフロート、(……)くんはカフェゼリー・アンド・オーレフロートを注文し、テーブルの上に並んだのはどれも薄茶色の一見して見分けがつきにくいグラスが三つとなった。ここでも(……)くんのロンドン生活の詳細とか、のちには大学時代の回想とかが語られたが、印象に残っているというほどのこともなく、仔細に思い出して綴ることはできない。(……)くんらが二人でやりとりをしているあいだは、こちらは言葉少なに相槌を打つことに徹していた――と言うか、上手い受け答えが思い浮かんでこないので、自ずとそうなってしまうのだった。彼らの話していることが自分に何の手応えも与えず、うまく理解できないと感じた瞬間もあった。こちらがいくらか口を動かして喋ったのは、自分の今の状態について話した時くらいだ――病気自慢しか話題がないというわけだ。こちらの話題に移ったのは(……)くんがトイレに立った時で、(……)くんに、最近本は読んでいるのかと訊かれ、読んではいるがうまく感じられないと答えたところからそれが始まったのだったと思う。戻ってきた(……)くんも相手にして、年末年始以来の症状の経緯や、薬のことや、とにかく感受性と記憶力が希薄になってしまったということなどを述べた。三人のあいだには沈黙が漂った。病気でものが感じられないのだ、などと言われても、それは言われたほうも困惑するほかないだろうとは思う。そのうちに話題はまた別のことに移って行った。
 本屋に行くことになっていた。と言うのは、(……)くんが水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズを買いたいということだったのだが、このシリーズの本はAmazonでも在庫がなく、横浜や川崎の本屋でも見つからず、立川のオリオン書房を除いては新宿紀伊國屋書店でしか見かけたことがないと言うのだった。実際、立川オリオン書房は海外文学が充実しており、今や少ないであろうこのジャンルの愛好家にとっては有難い本屋になっている。それで五時になる前だったかと思うが、退店した。空気に籠もった熱はまだまだ残っており、駅の方へ向かう途中、路面に点々と黒ずんだガムの跡が西陽を受けて白く染まり、光を放っていた。駅ビルの脇のエスカレーターを上がって駅舎の出入り口を通り、書店のほうに足を向けると、バス乗り場付近に行列が出来ている。なかに浴衣を着て扇を持ったカップルの姿が散見されて、何か催しでもあるのかと思われた。モノレールの駅の下をくぐっていると、横から照射された光に通行人の顔がことごとく明るみ、数歩進むと今度はその同じ光を我々も頬に受け、顔を明るくさせることになるのだった。屋根のないあたりまで来ると太鼓の音が聞こえた。通りすがりに目をやると、モノレール線路下の広場にはテントがいくつも設けられ、舞台も作られて催し物の雰囲気だった。
 建物に入ると、SUIT SELECTの店舗からヴィブラフォンのジャズが流れ出ている。その横を通ってエスカレーターを上り、オリオン書房に入店すると海外文学の区画に移動した。アレホ・カルペンティエールバロック協奏曲』が(……)くんの目当てだった。鼓直(つづみ・ただし)だとこちらが訳者を指摘すると、俺が「コチョク」だと思ってた人ね、と(……)くんは返した。この人は、ガルシア=マルケスの『族長の秋』を翻訳するという偉業を達成した人物なのだ。『族長の秋』は二〇一三年の夏、こちらの文学への耽溺を決定づけた書物であり、五回か六回読み返すほどこちらにとっては特別な作品だったのだが、今再読してもおそらくは面白く感じられないだろう。南米文学のコーナーには、ホセ・ドノソ『境界なき土地』も紹介されており(棚の途中にスペースを設けて表紙を見えるようにして置いてあった)、(……)くんがもう一冊購入に踏み切ったのは多分この著作だったのだと思う。ホセ・ドノソと言えば『夜のみだらな鳥』だが、その作品名を紹介しようとしても頭に浮かび上がって来ず、些細なことなのだがこうした部分でも自分の記憶力は劣化しているのではないかと危惧を抱いた一幕もあった。
 海外文学の棚の前を巡ってみても、欲しいと思うものも殊更に読みたいと感じる著作も見つからなかった。(……)くんが購入を済ませてきたところに声を掛けて、お好み焼きの精算を要求した。同じように(……)くんからも金を受け取ると、書店での要は済んだというわけで出口に向かった。途中、書架の横に「書物復権」のコーナーが設けられていた。二人が近くに置かれた雑貨などを見ている一方でこちらは、蓮實重彦『表象の奈落』などを取り上げて目次を眺めた。何年か前に読んだ時はこちらの経験値不足で書かれている内容のいくらも理解できなかったが、今これを読んだとしてもやはり手応えを得ることが出来ず、うまく理解できないように感じるのだろう――昨年末に掛けては段々と哲学的な著作に対する準備も出来ていたところであり、変調がなければミシェル・フーコーの後期の文献など読んで思索を深め、発展させていたはずなのだが、今は「思索」などという精神の働きが丸っきり消失してしまった。
 (……)くんがこの同じビルの一階にあるTreasure Factoryに寄っていくというので、ほかの二人も付き合うことにした。こちらとしては特に目当てもなかったが、所狭しと並べられた古着を漁っていると、United Arrows Green Label Relaxingのグレーのジャケットが発掘された。七八〇〇円のところを三割引のシールが貼られていた。すぐ傍におそらく揃いであろうスラックスも見つかった。ジャケットを羽織ってみるとかなりぴったりとしてちょうど良いサイズで、その姿を(……)くんに見られると、決まっているよと彼は褒めてくれた。(……)はお洒落だよね、服はどうやって選んでんのと続いたのに、着ていた青いチェック柄のシャツを示して、これは義理の姉がプレゼントしてくれたものだと言い、星のような小さな模様の散ったベージュのズボンのほうは、ずっと前に古着屋で買ったものだと言った。服など、もう一年かそこらは買っていないはずだった。今回のグレーのジャケットも、悪くはないが何か決定打に欠けるように思われて購入は見送った。
 さらに探っていると、ZARAタータンチェックのジャケット、元々一五〇〇〇円ほどの品が未使用品にもかかわらず五〇〇〇円ほどになっているのを発見し、これは掘り出し物かと思ったが、羽織ってみるとサイズがきつく、ボタンを閉じられないくらいだったので、これでは駄目だなと諦めた。ある程度経ったところで三人とももう大丈夫だとなり、(……)くんも結局は何も買わないで店を去ることになった。外に出ると、目前はちょうど広場で、木の台車に載せられた太鼓が、調律を試しているかのように鳴らされ、ステージでは何か催しているらしくマイクを通した音声が聞こえていた。階段を上って高架歩廊を駅へと向かう。西南の空に掛けて雲が千切れ、薄オレンジ色が空の果てに溜まっていた。駅の傍まで来ると、先ほどのバス乗り場の行列がさらに増幅して、駅舎の入り口にまで届くほどに長々しいものとなっていた。並んでいるのはほとんど全員が若者に見え、浴衣姿も相当にあった。彼らの横を通り過ぎて駅構内に入り、ごった返す改札を通ったところで二人と向き合った。暇なので、と笑ってまた誘ってくれと言い、本がもう少し読めるようになったらまた読書会もやりたいと思っていると伝え、ありがとうと礼を言って別れた。
 電車は混んでおり、座れる座席はなく、辛うじて扉脇の位置を確保することができた。六時過ぎの発車とともに保坂和志『未明の闘争』を読みはじめた。暮れが進んで、地上の大半にはもはや光は届かず、線路の近くの家々は薄青い空気に包まれていた。(……)だったかそのあたりで座席の端の空きを見つけたのでそこに移り、左足の先を右膝のあたりに乗せて横柄な格好を取り、書物に視線を落とし続けた。(……)からの乗り換えには三〇分ほど待つ時間があった。電車を降りると西の山際に白く澄んだ残光が洩れており、小学校とその裏山の上に湧き上がった雲は青灰色に沈んでいた。ホームを歩いて自販機の前に行き、例によって小さなスナック菓子を三つ買う。それからベンチに腰掛けて、保坂和志『未明の闘争』を読みつつ電車の到着を待った。やって来た乗り換え電車に乗りこんだあとも、頁に目を向け続けて、最寄り駅で降りると七時過ぎだが、まだ熱の残った空気がズボンを通り抜けて脚に触れる。坂道に入ると摩擦の強い鈴虫の鳴き声が響いていた。電灯に照らし出された木の葉の影が路上で僅かに揺れる道を下って行き、平らな通りに出ると蟋蟀の声が左右から絶え間なく湧いてくる。風にようやく、涼しさが含まれはじめていた。
 家に帰り着くと、(……)くんに貰った土産を卓上に出した。書くのを忘れていたが、喫茶店でロンドン土産を貰っていたのだ。一つはバッキンガム宮殿の売店で売っているというクッキー、もう一つは、ヘイスティングスの戦いを模したイベントの様子が映っている3D写真だった。服を脱ぎ、下階で着替えてきてから夕食を取る。白米に大根の煮物、魚と中華丼の素を混ぜた料理だった。食べながら向かいの母親が、今日はたくさん話せたかとか、その子はどんな仕事をしているのとか訊いてくるのが煩わしく、大人気なくどうでもいいだろ!と声を上げた。テレビは歌番組を賑やかに流していた。すべてがから騒ぎでくだらなく感じられ、無意味な生だと思ったが、そうした空虚の感覚すら希薄だった。普通に感情というものを持ち合わせているすべての人間が羨ましく思えた。
 風呂に入ったあとは自室に戻り、インターネットを閲覧したあと、一〇時直前から日記を綴りはじめた。二時間を費やし、日付が変わる直前になると切って、喉が渇いていたので水を飲むために上階に行った。居間では父親が一人、ものを食べ、酒を飲みながら落語を見ていた。おかえりと声を掛け、氷の入った水を用意して席に就くと、今日は友だちと会ってきたのかといった感じで会話が始まった。そこから一時を回るまで、今日会ってきた二人のことや、先日に会った部谷さんのことや、症状の経過などについて話し続けた。話も尽きたところで、父親が皿のなかのサラダに全然手をつけていないのを見て、それ、食べちゃわないとと促した。続けて明日は休みなのかと訊けば、朝八時から相撲の土俵作りがあると言う。もう寝ようと父親が言って、互いにありがとうと礼を交わしてコップを片付け、部屋に下りた。眠る前にもう少し本を読みたいような気がしていた。それでベッドに寝転びながら保坂和志『未明の闘争』を追って、二時を越えたところで消灯した。