眠剤を飲まなかったわけだが、それでもいつもと変わらず一一時四五分まで動くことができなかった。カーテンをひらくと窓には一面、激しく雨粒のぶち当たった痕が残っており、見通しが悪くなっていた。台風の日である。身体を起こしてベッドから下り、上階に行くと、母親は(……)で不在、天気が平気だったらと書き置きにはあり、おそらく夕刻まで仕事をしてくるようだった。洗面所で顔を洗い、冷蔵庫を覗くと、冷凍食品の丸いチキンが一つ、それに鮭がある。それらを電子レンジで熱しているあいだにトイレで用を足し、戻ってくると白米とともに食べた。皿を洗ってから薬剤を服用した時には、雨が降り増して窓は乳白色に染まっていた。それから風呂も洗ってしまうとガムを三粒口に放り込んで下階に下り、コンピューターを点けたが、パスワードを打ち込まないうちに床の汚れが目について、そろそろ埃も溜まってきたしこのあたりで掃除機を掛けておくかという心になった。それで上階の洗面所に掃除機を取りに行ってきて、戻ると狭苦しい自室の床を掃除し、ベッドの下やベッドと壁との隙間などにもノズルを突っ込んだ。掃除に切りをつけ、機械を上階の祖父母の部屋に置いてくると、コンピューターを立ち上げて、インターネットをちょっと回ってから日記を書きはじめた。時刻は既に一時近くになっていた。それから一時間で記述を現在時点まで追いつかせ、二時を回ったところで読書に取り組みはじめた。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』である。読み出してまもなく、母親の帰ってきた気配が上階に生まれた。仕事は夕方までにはならず、台風による注意報が発令されたので昼までで切り上げて来たのだった。帰ってきた時の物音のみでその後は動く気配がまったく立たないのは、おそらくはソファにじっと腰を下ろしてまたメルカリでも眺めているのに違いなかった。三時頃になると一度上階に上がって母親と顔を合わせ、ガムを三粒含んで帰ってくると窓に寄った。空は視線を引っ掛ける隙のないまっさらな白に埋め尽くされていたが、雨は一時止んでいるようだった。それからまた本を読んでいるうちに、ぱちぱちと雨粒が窓ガラスに弾ける時間もあった。四時半を過ぎた頃、市内放送が流れだした。妙に朗らかなような、慇懃で無害なような声音で何とか言っているのは、ダムから放水するという知らせではないかと推測され、直後にサイレンの音が宙に伸び上がって聞こえた。肌着にハーフパンツの格好では微かに肌寒いようだったので、こちらは読書の途中から薄布団を身に被せていたが、五時を回る頃合いになると例によって微睡みに捕えられる気配があった。完全に意識を落としはせず、窓に風が荒々しく寄せる音のたびに覚醒しながらも、本の頁に指を突っ込んだままに休んでいたが、五時半を越えたところで天井が大きく鳴った。それを機に立ち上がり、音の無遠慮さに微かな嫌気を感じながら上階に行くと、豚汁を作ろうと母親は言った。それで台所に入り、玉ねぎ、人参、大根を切り分けると、鍋に油を引いたが、水気が完全に拭い去られていなかったために油がばちばちと音を立てて激しく跳ねた。火力レバーを最弱にずらし、その上から生姜をすり下ろすと、跳ねが収まらないので熱されるのを待たずに野菜を投入した。しばらく炒めてから水を零れそうなくらいに注いで煮込みに入った。煮えるのを待つあいだはまず母親の貰ってきた「東京牛乳ラスク」をばりばりと食べたが、この時カウンター越しのテレビに、突風にやられたのだろうか駐車場や車道の途中で車がいくつも横転している映像を目にした。また車から火の上がっている映像も見かけたのだが、それがこの時だったかどうかは定かでない。それから届いていた段ボールの小箱を鋏で開封した。ホスファチジルセリンのサプリメントである。そうして朝刊を持ってふたたび水場に入ったところが、モヤシを茹でておいてと母親が言うので、記事を読む前にそのようにして、それから新聞に目を通して野菜が柔らかくなるのを待った。そうして、味付けである。味噌がもうほとんどなくなっていたので、パックに鍋から湯を汲んで(熱によってパックがぼこぼこと歪む)こびりついた少量の味噌を箸で溶かして行った。それだけでは足らないので、山梨の祖母から貰ったもう一種の味噌を溶かし入れ、それで豚汁を完成とした。母親が台所に入ってきてエノキダケを取り出し、豚汁に加えたり、モヤシと和え物にしようとしたりするのを尻目に、こちらの仕事は終わっただろうと判断して階段を下りて行った。時刻は六時一五分ほどだった。それから七時まで、ホスファチジルセリンのスレなどを無駄に閲覧してしまった。たかがサプリメント、劇的な効果はないだろうとわかってはいるのだが、それでも同時に少しでも効果があったという証言を得て気休めにしたいと、神経症的な性分が働くのだった。一応、記憶力が改善されたとする書き込みはいくつか見られはしたが、果たしてどうなるものか、ともかくもある程度の期間飲み続けてみないとわからないだろう。七時を越えたところで食事を取りに上階に行った。それぞれの品――米、鮭、豚汁、大根の煮物、豆モヤシとエノキダケの和え物――をよそって卓に就くと、テレビのニュースでは浸水した大阪湾岸の情景が映し出され、コンテナが水に浮かされて海の方へと流れて行っているということだった。ものを食べ終えると、こちらと入れ替わりのようにして母親が食膳を持って卓に就いた。皿洗いを済ませて水を汲んできたこちらに母親は、今度は何のサプリメントを買ったのと問う。脳を構成する脂とか何とか、と、こちらも良くもわかっていないのだが答えると、そんなにいくつも飲んで大丈夫なの、先生に聞いてみたほうがいいんじゃないのと来る。そんな必要はないとこちらは返した。医師はサプリメントは否定派だろうし、こちら自身も頭の改善を大きく期待しているわけではない。今飲んでいるマグネシウムとバコパハーブにしても効果はないようだと断じたところ、母親は、それはまだわからないと受け、こちらの症状が良くなったのもそれを飲みはじめたからではないのかと言ったが、これは母親の勘違いでサプリメントに興味を持ったのは調子が上向いて以降のことである。その後、医者で処方されている薬を飲んでいてもおそらくこれ以上の回復は見込めないと思うとの見通しを話した。これ以上の回復というのは勿論、日記でも再三繰り返している通り、病前のような感受性と頭の働きを取り戻せるということだ。多分自分はあのような創造性をふたたび発揮できることはないだろうし、仮にできるとしたらそれは何年かあとのことになるのではないか。体感として、薬剤にはこれ以上の効果はないと思われ、現在と同じ心身と頭の状態でいずれは見切りを付けないといけないことになる。見切りを付けるというのは仕事に復帰するということだが、物事の説明を旨とする塾講師の職に戻る気はもはやなく、元々労働意欲の全然ない性分だから強いて勤めたいという職もなく、考えつくのは母親も行っていた発達障害の児童支援サービス「(……)」か、知り合いの古本屋に雇ってもらうかである。古本屋に関してはまずは話をしてみないといけないわけだが、話をすると言って、本を読んでいても面白くないんですよなどと話しても仕方がないだろうとこちらは言った。本が好きで好きでしょうがないっていうのが、と母親は受け、それが普通だろう、古本屋で働こうというからには、とこちらも応じ、以前はそうだったのだがと落とす。古本屋に話を持っていくにしても、せめてもう少しでも感受性が戻ってから、いくらかなりと本を読むのが楽しくなってからにしたいというのが実際のところだ(そうなる見込みは見えないのだが)。自分の症状において、寛解とはどこなのだろう? 日常生活を問題なく送れるということであれば、労働の一点を除いて自分はもうほとんど寛解に達しているようにも思える。しかし、病前の能力を取り戻すということなのであれば、それはほとんど不可能事ではないかと自分には思われる。ともかく、少々嘆きのような音調の話を続けたあと、母親は、(……)ちゃんを見てると本当に、癒されるっていうかと話題を変え、これ見たっけと携帯電話を差し出してみせる。それに対して夕刊を広げていたこちらは、いいよ、と払いのけ、可愛いとか癒されるとか、そういうことも感じられないんだと突き放した。実際そうで、赤子を見て可愛らしいと感じるほどの自然な感情の働きすらこちらにはもはや存在しないのだ。その後、入浴に行った。湯に浸かっているあいだ、強い雨風に薙がれる林の響きが絶えず窓から聞こえ、そのなかから虫たちの声が熱心なように立っていた。頭を洗ってからふたたび湯のなかにいると、父親が帰ってきて車の扉を閉める音がした。目をつぶって汗をだらだら流しながらこの日の記憶を思い返していたのだが、父親が家に入ってきてからしばらくして八時半頃、風呂に入るだろう父親を待たせてもと立ち上がって浴室を出た。髪を乾かして出てくると父親におかえりと挨拶し、飲むヨーグルトを一杯飲んだ。そうしてガムを三粒口に放り込んで下階に下り、しばらく噛んで味のなくなったものを捨てると、瞑想に入った。瞑想と言っても呼吸に集中するとかそういった類のものでなく、風呂にいた時と同じようにこの日の記憶を一つ一つ思い返して言葉にしていくのだった。枕の上で静止しながらそれを終えると、あっという間に二六分が経っていた。それから実際に日記に取り掛かり、今しがた思い返した記憶を文章として成型させていった。九時二〇分から始めて、現在時に追いつくまでには一時間強を費やすことになった。それから、「(……)」を読み、菅野完「正体を隠して活動する日本会議の「カルト性」」の記事を読んだ。この後者の記事をEvernoteにコピーしておく際、Twitterからの引用部がうまく貼付けされず処理に無駄な時間を掛けて、いつの間にか一一時半直前になっていた。この日は音楽を聞く時間は取らないことにして、そのままサルトルの書簡集に取り組む。一方で歯磨きをして、口をゆすいで戻ってくると窓の向こうから凛々と、澄んだ蟋蟀の鳴き声が入ってくるのに耳が寄って、野原などないが「野もせに」という言葉など思い出した。古井由吉の小説で知った表現だ。臥位での読書は一時間ほど続いた。零時半になると本を閉じ、瞑想に入って二〇分、一時になる前に消灯して布団を被った。この日も睡眠用の薬を飲まなかったので、眠りは遠かった。一時間ほど輾転反側しているあいだ、数日前と比べても多く、密度を増したらしい虫の音ばかりが聞こえて、雨風は止んでいるようだったが、二時を迎える頃に突然降り出し、厚くなって、しかしすぐに過ぎるかと思いきや風が加わって窓に斜めに打ちつけはじめたので、ひらいていたのを僅かな隙間を残してほとんど閉ざした。それからいつ、どのようにして眠りに就けたのかはわからない。