七時のアラームで鷹揚と立ち上がり、しかし携帯を取ってベッドに戻り、陽射しを受けながら微睡みのなかに苦しんで幾許、九時台から段々と意識は浮上しはじめて、一〇時一五分に至って起床した。上がって行くと、前夜のカレーをドリアにしたと言う。顔を洗ってからそれを温め、マカロニサラダとともに食事を取るあいだ、新聞をめくって野田佳彦前首相のインタビュー記事を読んだ。食事を終えて薬を飲みながら読書欄もちょっと読み、台所で皿洗いをする。久しぶりに居間の気温計は三二度を越えており、窓から覗く近間の屋根が、あれはトタンなのだろうか、太陽を受けて隈なく白く密に発光し、そこだけ浮遊したかのようになっていた。風呂を洗うと前夜に引き続き緑茶を用意して、急須と湯呑みを持って自室に戻り、一服しながらこの日はまず読書に入った。朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』ももう二六〇頁を越えて最終盤である。ヴァカンスの様子を伝えるサルトルの手紙を読み、一時間が経って正午に至ったところで読書は区切り、陽光の感触の空気にないのにふと気づいてカーテンを搔き分けると、窓は滑らかに白く均されている。放尿してくると窓を閉ざし、Suchmos "YMM"を流して歌い、"GAGA"も続けて歌うと日記に取り組もうという心だったが、自分のブログを読み返したりしてしまって遅れて一二時半から打鍵を始めた。食事の前に台所のラジカセから、John Mayerの"Waiting On The World To Change"が流れ出すのを耳にして、大層久しぶりだ、大学時以来かと思ったところで、彼のライブ盤をBGMに据えようとしたが、やはり記憶を探ることから気が逸れてしまうようだったのですぐに消した。記述はいくらかのろのろとなされて行き、ここまで追いつかせた現在は二時が目前、背後を見やれば、雲は過ぎたようで一度は薄れた陽がまた復活しており、明るいが強い熱気の空気に籠もるでもなく、秋に寄って過ごしやすい晴れの午後となっている。上階に行って、前日に買ってきたアイスを冷凍庫から取り出すと、昨日歩いているあいだに溶けたものか、僅かに崩れてまた冷えて固まった痕跡があった。シリアル入りのチョコレートに包まれたミント味の柔らかいそれを零さないように慎重に食べ、それから下着や両親の寝間着を畳む。空気には温みが感じられ、そのなかで服を畳んでいると昼下がりの気分は穏やかなようで、また気分というものが微かながらも生まれるようになってきたかと思った。室に戻るとサルトル書簡集の残った数ページを読み終えてしまおうと本をひらき、まもなく読了してのち、続けて(……)さんのブログを読んだ。それから、先ほどは馴染まなかったJohn Mayerのライブ盤を共連れに、九月五日の夕刊から情報を写し、さらにサルトル書簡集の書抜きも早速始めた。アルバムの終いが迫ってそろそろ切りとしようというところで、荷物を下ろしたのか足を鳴らしたのか、天井から大きく打つような音が聞こえ、母親が帰ってきたのだなと判断した。音楽の終幕と同時に書抜きも切り良く仕舞えて、上階に上がって行くと母親の姿はないが、階段口の手すりにクリーニング屋のビニールを被せられた父親のワイシャツが数枚掛かっていたので、階を下りて衣装部屋に運んでおいた。それから玄関へ行って小窓を覗いたところ駐車場に車もなく、一度帰ってきてから忙しなくまた出かけたのだろうか。時刻は四時半、食事の支度までにはまだ少し間がある。こちらはともかく室に帰って、音楽を聞くことにした。Keith Jarrett Trio『Standards, Vol.1』から"All The Things You Are"を流し、『Vol.2』のほうからも前半の三曲を聞くのだが、椅子に腰を据えて目を閉じ音楽にじっと意識を向けているあいだ、聴覚の向かう先のその音楽が何だか曇っているようで、かつてはあったはずの鮮やかさ生々しさが感じ取れないこの感覚は、ごくごく軽いものではあるがやはりいくらか離人症的なのかもしれない。離人症状の説明としては世界がヴェールに包まれたような、との表現を良く見るが、確かに感覚対象の遠いような、あいだに何かが差し挟まれて直接触れられないような、とでも形容できそうに思われた。しかし勿論、それに苦痛が伴うわけではないから病態などとは言えず、触れたものがこちらの心身に響いてこないという個人的な不満があるのみである。音楽を聞いているあいだに母親は帰ってきており、上がって行くと台所で飯の支度を行っていた。こちらは光の遠のいて淡くなった空気のなかでまた寝間着を畳み、それから水やりをしに家の外に出た。午後五時の空気はさらりとして涼やかだった。家の南側に回ってホースで植木に水を撒き、屋内に帰ると台所に入ったが、既に豆苗を添えた厚揚げは完成、エノキダケの汁物もあとは味噌を入れるだけ、さらにサーモンやマグロの刺し身があって食べるものは大方揃っていたので、野菜だけ用意しようということでサラダ菜をちぎって笊に収めた。それから大きくて重いキャベツを半分に切断して、スライサーで桶のなかに細くおろして行き、いっぱいになるとこれも笊に上げて仕事は早々に終わり、下階に戻るとふたたび音楽を聞いた。『Standards, Vol.2』の後半三曲を流し、ライブ音源である『Tribute』から冒頭一三分の"Lover Man"も聞くと、脈絡なくLed Zeppelin "Stairway To Heaven"などという超有名曲に実に久々に耳を傾けた。そうして五〇分ほどの音楽鑑賞を終いにすると、Led Zeppelin『House of the Holy』を流して、そのまま運動に入った。前屈で脚をほぐしたあとに、腹筋運動は六五回、腕立て伏せは二三回と、前回よりも少しずつ回数を増やして行っている。すると七時が間近になったので食事を取るために部屋を出た。台所に入ると、小さく分けられたイカフライを熱し、キャベツと菜っ葉を大皿に盛って、刺し身をいくらか取り分け米は茶漬けにする。そのほか厚揚げと味噌汁を卓に並べて席に就き、食事を始めた。ものを食べているあいだはテレビにも碌に目を向けず、向かいの母親が何だかんだと話しているのに相槌も打たず、静かに黙々とものを口に運んで、薬剤を飲んで皿を洗うとすぐに散歩に出た。食事を取って汗の湧いた身体に外気が涼しかった。夜空はくすんでおり、濃度に波はありながら雲が全体を覆って星の一つも見えなかった。坂を上ってひと気のない裏道を行っていると林のほうから凛々と、蟋蟀の音が湧いて通りに満ちている。表に出ると方向を変えて、車の流れる横を向かい風に包まれながら行き、しばらくすると腕にぽつりと落ちるものがあって、気のせいかと思えばもう一度続いて雨だなと察せられた。降りはじめから粒が大きくこれはすぐに降り増すなと思っていると果たして、まもなく肌に当たる水の間隔が狭まってぽつぽつ来たが、本降りと言うほどの厚さにはならず、かえって涼しいような小雨のなかを、頭や肌着を湿らせながら急がず帰った。帰宅するとすぐさま風呂に入った。湯に浸かって記憶を思い返していると、雨音が窓に寄って大きくなって遅れて本格の降りとなっていたが、これもすぐに弱まって音はまた消えた。浴室から上がって身体を拭き、ドライヤーを吹きつける髪は短くしたので即座に乾く。出ると茶を用意して室に下り、一年前の日記を二日分読み返した。文章の感触というものを繊細に感じ取れていた頃であり、記録的情熱ではなく構成の欲望を試みていた時期であって、どちらの記述も今より力の籠ったものと思われたが、九月七日のほうをここに引いておきたい。
昼日中から薄灰色に沈みきって既に日暮れのような雨もよいに、室内もよほど暗んで、コンピューターのモニターが目に悪いほどになる。窓の内からは降っているともいないとも定かにはつかず、音もなく、ただ霧っぽい白さが湧いているのを見ていたが、夕刻を迎えて外に出ると、郵便受けの上に雫が溜まっていた。傘を持って坂に入ると、鵯の張る声が瞭々と通って、よほど衰えた蟬の声に取って替わりつつある。坂を出際にミンミンゼミの鳴きが一つ追ってきたが、上がらぬ気温に生気の鈍ったような、低く這うように間延びして勢いのない声だった。
風はない。しかし温くはなくて、と言ってとりたてて涼しくもない。湿り気を含んだ空気が、柔らかく安々と肌に馴染んでくる。路地を行くあいだの百日紅には、主として目を向けているものが三本ある。初めに当たるのは、街道から一度垂直に折れて進み、裏路地に入る角をもう一つ折れる間際の家の抱いたもので、近頃は萎えているようにも見えたが、この日は色を薄めた花の端に、新しい紅色が咲き継がれているのを見つけた。路地の中途の一軒に、低い塀からちょっと顔を出しているのが二つ目で、これはほかの二本よりも紅色が強く、極々小さな細い木で花も多くはないが衰えを知らず日増しに充実するようで、この日も目を向けると思わず驚くほどに赤々と、水を吸ってなおさら色濃くなったか、湿った空気のなかで目覚ましいほどに鮮やかだった。もう一本は、裏道の合間に直交した坂を渡ってすぐの家の、これはなかなかに高くすらりと伸びた木だが、今年は早めに枝を落とされて以来奮っていない。
帰路には雨がややあった。大した仕事でないのだが、労働というものはやはり疲れるなと、疲労感によって精神のひらかず狭く縮こまったようになっているのを感じながら行く。傘を打つ雨の音というものを、久しぶりに聞くような気がした。道中、周囲から盛んに鳴き寄せてくるのは、青松虫というものらしい。高く澄んだ声で、遠く聞いては鈴虫の音とも紛らわしいようで、今までそれと思っていたなかにもあるいは聞き違えがあったかもしれないが、後者に比べると青松虫は屈託なくまっすぐに、群れで堂々と鳴き盛るのではないか。鈴虫と言って思い出すのは家の近間から最寄り駅へ続く坂を夜通る時に聞こえるもので、そこに漂うのは輪郭の周囲に光暈めいた余韻をはらんだ音色であり、狐火を思わせて繊細に震えながら樹々の合間の闇の奥に見え隠れする控え目な声である。精妙な揺らぎのうちに金属の擦れ合うような感触もより強い、あれがまさしくそうなのだろう。
雨はじきにほとんど降り止んで虫の音の方が高くなり、またもや作句の頭が働き出したが、今回はうまく形にならなかった。街道を行く車が途切れると、道の左右からふたたび、青松虫の声が湧き出て鳴きしきっていた。
アオマツムシなどという虫の存在はすっかり忘れていて、凛と澄んで高く鳴るその声を蟋蟀の音とばかり思って聞き、今年の日記にもそう書いてきたが、この時期左右から道に溢れ、先ほどの散歩の途中にも蟋蟀として耳にしたのはおそらくこの虫なのだった。過去の日記の読み返しのあと、茶をおかわりしてくると現在の日記の作成に取り掛かり、温かい飲み物を啜りながらゆっくりキーを打って、ちょうど一〇時半を迎えて現在に追いついた。就床までの残りの時間は読み物に費やした。まず数日前の新聞から一記事読んでおき、それから金子薫『鳥打ちも夜更けには』を新しく読みはじめた。ベッドに仰向けになって読み進めて、零時四〇分を越えて切りの良いところに到達したので眠ることにして消灯した。眠気はやはりなく、仰向けの状態から姿勢を横に変えたりして、深呼吸をしながらしばらく過ごしていた覚えがあるが、入眠に苦労したというほどではなかったようだ。一時間は掛からなかったのではないか。
朝吹三吉・二宮フサ・海老坂武訳『女たちへの手紙 サルトル書簡集Ⅰ』人文書院、一九八五年
(……)あなたへの信頼の証拠として、今まで強がりからあなたに言い得なかった次のことを告白します。それは、ぼくの可愛いお嬢ちゃん、ぼくはあなたの心の中で第一の人間ではなく唯一の[﹅3]人間でありたい、ということです。ぼくはこの自分の気持をずっと前から知っていましたが、あなたに言うつもりはありませんでした。ぼくがこのことを言うのは、あなたにこの点でほんの少しでも変わってもらいたいためではなく、あなたへの信頼のしるしとしてぼくがあなたになし得る最も辛い告白をあなたに捧げるためです。(……)
(16; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)
*
(……)今夜ぼくは、あなたがいままでぼくから経験したことのない仕方であなたを愛しています。つまり、ぼくは旅行によって弱ってもいないし、あなたを身近に感じたいという欲望によって気が転倒してもいません。ぼくはあなたへの愛を統御し、それをあたかもぼく自身の構成要素のように自分の内部にとり込むのです。このことはぼくがあなたに口で言うよりもはるかに頻繁に起こることですが、あなたに手紙を書くときには稀にしか起こりません。ぼくの言う意味が判りますか、つまりぼくは外部の事象に注意を払いつつあなたを愛しているのです。トゥールーズでは、ぼくはただ単にあなたを愛するのです。しかし今夜は、ぼくは春の夜の中で[﹅6]あなたを愛しているのです。ぼくは窓をひらいて、あなたを愛しているのです。あなたはぼくに現前し、事物もぼくに現前しています。ぼくの愛はぼくをとり巻く事物を変容させ、ぼくをとり巻く事物はぼくの愛を変容させるのです。
(22; シモーヌ・ジョリヴェ宛; 1926年)
*
ぼくの愛する人。あなたには判らないだろう、ぼくがどれほどあなたのことを想っているか、一日中絶え間なくあなたで満ちみちたこの世界のただ中で。時によってはあなたが傍にいないのが淋しくてぼくは少し悲しい(ほんの少し、ごくごく少し)、ほかの時はぼくはカストールがこの世に存在すると考えて、この上なく幸福なのだ、彼女が焼き栗を買ってぶらつき廻っていると考えて。あなたがぼくの念頭から去ることは決してなく、ぼくは頭の中で絶えずあなたと会話をしている。(……)
(55; ボーヴォワール宛; ホテル・プランタニア、シャルル・ラフィット街、ル・アーヴル; 1931年10月9日金曜日)
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(……)ただ、それらの部屋が生あたたかく、薄暗く、強く匂うので、そして街路が眼の前にじつに涼しく、しかも同一平面上にあるので、街路が人々を引き寄せる。で、彼らは屋外[そと]に出る、節約心から電灯をつけないですますために、涼をとるために、そしてまたぼくの考えではおそらく人間中心主義から、他の人々と一緒にひしめき合うのを感じたいために。彼らは椅子やテーブルを路地に持ち出す、でなければ彼らの部屋の戸口と路地に跨った位置に置く。半ば屋内、半ば屋外のこの中間地帯で、彼らはその生活の主要な行為を行なうのだ。そういうわけで、もう屋内[なか]も屋外[そと]もなく、街路は彼らの部屋の延長となり、彼らは彼らの肉体の匂いと彼らの家具とで街路を満たす(end83)のだ。また彼らの身に起こる私的な事柄でも満たす。したがって想像してもらいたいが、ナポリの街路では、われわれは通りすがりに、無数の人々が屋外に坐って、フランス人なら人目を避けて行なうようなすべてのことをせっせと行なっているのを見るわけだ。そして彼らの背後の暗い奥まった処に彼らの調度品全部、彼らの箪笥、彼らのテーブル、彼らのベッド、それから彼らの好む小装飾品や家族の写真などをぼんやりと見分けることができる。屋外は屋内と有機的につながっているので、それはいつもぼくに、少し血のしみ出た粘膜が体外に出て無数のこまごました懐胎作用を行なっているかのような印象をあたえる。親愛なるヤロスラウ、ぼくは自然科学課目[P・C・N]修了試験の受験勉強をしていたとき、次のことを読んだ。ひとで[﹅3]は或る場合には《その胃を裏返し[デヴァジネ]にして露出する》、つまり胃を外に出し、体外で消化をはじめる、と。これを読んでぼくはひどい嫌悪感をもよおした。ところが、いまその記憶が甦ってきて、何千という家族が彼らの胃を(そして腸さえも)裏返しにして露出するナポリの路地の内臓器官的猥雑さと大らかさを強烈にぼくに感じさせたのだった。理解してもらえるだろうか、すべては屋外にあるが、それでいてすべては屋内と隣接し、接合し、有機的につながっているのだ。屋内、つまり貝殻の内部と。言い換れば、屋外で起こることに意味をあたえるのは、背後にある薄暗い洞窟――獣が夕方になると厚い木の鎧戸の背後に眠りに戻る洞窟――なのだ。(……)
(83~84; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)
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(……)ナポリにはぼくたちがイタリアのどこでも見なかったものがある、トリノでも、ミラノでも、ヴェネツィアでも、フィレンツェでも、ローマでも見なかったもの、つまり露台[バルコニー]だ。ここでは二階以上の階の扉窓にはどれも専用の露台が附属していて、それらはまるで劇場の小さなボックス席のように街路の上に張り出し、明るい緑色のペンキで塗られた鉄格子の柵がついている。そしてこれらの露台はパリやルワンのとは非常に異なっている、つまりそれらは飾りでもなければ贅沢品でもなく、呼吸のための器官なのだ。それらは室内の生あたたかさから逃がれ、少し屋外[そと]で生きることを可能にしてくれる。いってみれば、それらは二階あるいは三階に引き上げられた街路の小断片のようなものだ。そして事実、それらはほとんど一日中そこの居住者によって占められ、彼らは街頭のナポリ人が行なうことを二階あるいは三階で行なうわけだ。ある者は食べ、ある者は眠り、ある者は街頭の情景をぼんやり眺めている。そして交流[コミュニケーション]はバルコニーから街路へと直接に行なわれ、部屋に一度入り、階段を通るという必要がない。居住者は紐でむすばれた小さな籠を街路におろす。すると街頭の人々は場合に応じて籠を空にするか、満たすかし、バルコニーの男はそれをゆっくりと引(end89)き上げる。バルコニーはただ単に宙に浮いた街路なのだ。
(89~90; オルガ・コサキエヴィッツ宛; 1936年夏)