2018/9/9, Sun.

 この日も五時半頃、早いうちから寝覚めた記憶が僅かにある。七時のアラームに至ると携帯を取って沈黙させ、それからまた微睡んで猫の夢など見ていたようだが、八時を迎える間際に意識が明るくなって、二重構えで仕掛けてあった時計のアラームのほうを鳴らないうちに解除した。湿り気の残って涼しく、ちょっと肌寒いとさえ言えそうな起き抜けだった。ハーフパンツを履いて上階に行き、顔を洗ってから食事を取る。モヤシとハムの炒め物、前夜から続くエノキの味噌汁に、これも前夜におろした分が余りに余っている生のキャベツ、そして飲むヨーグルトを一杯である。席に就いてものを食べはじめると、テレビから幼子のはしゃぐ声が聞こえて見れば番組は『小さな旅』、カメラはレポーターとともに一軒の家先に上って行き、そこで子どもらがビニールプールを出して水を掛け合い遊んでいた。しばらくすると今度は、ウェットスーツ姿の男が川で身を水平にして魚を採っているところが映る。先端に針のついた竹竿を用いて行う「しゃくり漁」で鮎を採っており、映った男性はまだ一七の高校生ながら、この伝統漁法を受け継ぐ町でただ一人の人間だと言う。薄青い透明さに澄んだ水中に苔のついた岩の周りを鮎が行き交うさまの映し出されるその川は「宮川」と言ったが、地域はどこかと思っているとじきに三重と出て、そう言えば(……)さんのブログにも名前が出てきた覚えがあるなと思い出した。映像に目を向けながら飯を食い、薬やサプリメントも飲むと皿を洗って、さらに早々と風呂も掃除した。そうすると緑茶を二杯分用意して自室に下り、コンピューターを起動させ、インターネット各所を瞥見してから早速日記を綴りはじめた。茶を啜りながら打鍵を進めて九時には前日分を仕上げ、それからこの日の記事にも文字を打ちこんで、まだ九時半を見ていない。朝から手早い仕事だが、寝過ごさず普段よりも早起きしたのは、今日、(……)さんの宅に昼食を呼ばれに行くからで、一〇時の出発よりも前に書くものを書いてしまいたかったからだ。それから上階に上がって、母親に頼まれて父親のズボンにアイロンを掛け、皺を取った。こちらの着替えは、上は麻素材の白無地の、ボタンの色がそれぞれ違ってカラフルな半袖シャツ、下はインクのような紺色のなかに細いストライプの入ったズボン、靴下はハーフサイズのものを選んだ。外着に着替えた頃には雲はまだ拭い取られていなかったが、雨を思わせる雰囲気は消えて、居間の窓から近所の屋根が発光しているのが見えた。白い曇り空が残っているものの、そのなかで空気に確かな陽射しが通っているその両義性がちょっと特殊なような天気の一幕だった。準備を済ませると自室で日記の読み返しをしていたのだが、二年前の九月九日の記事を読んでいるともう終わり間近のところで天井が鳴ったので、中断して外出へと向かった。時刻は一〇時を一〇分過ぎたところだった。父親の真っ青なカムリの助手席に乗り込み、Donny Hathaway『These Songs For You, Live!』のディスクをシステムに挿入して流しはじめる。出発し、街道に出てしばらく、(……)の小さな公園の前に掛かるとそこで極々小規模な祭りを催しており、囃子の楽が聞こえた。催しを背後に過ぎて歩道を見やっていると、弱い鼠色の法被姿の男性がおり、彼が公園のほうに向かって歩いて行きながら道端の空き地に唾を吐いているのを目撃した。(……)の踏切りで停まったあたりで陽光が膝の上に掛かって温かくなり、空に浮かんだ雲の形も定まって雨の名残りはほとんどなくなり、じきに夏日の気候が露わになった。国道一六号線に突き当たって南へ折れ、流れ出す"What's Going On"に合わせて口ずさんでいると、道路の横に在日米軍横田基地の敷地が広くひらけて、青空のなか彼方の低みには、建物の頭上を縁取るように入道雲が横に長く連なっているのだった。二〇一四年のことだったろうか、午後の三時くらいから自宅を出て数時間歩き詰め、宵闇の降りたなか一六号線に至って基地の施設の灯りが遠くに揺蕩うようになっていたのを、空の星が地上に降りて暗闇の海に揺れているようだとか何とか、そんなことを日記に綴ったその同じ道だった。基地のゲート前を過ぎて一路南、拝島橋を越えて八王子から高速道路に乗った。東の空に雲は変わらずもくもくと横一列に湧き広がって果てを占め、その上にはこちらは形の露わでない、遠目にはパウダー状のようにも見える薄雲が面に塗られて明るかった。高速に行くあいだは塀に囲まれた単調な景色の続いて、あまり印象に残るものもないが、ある時母親がふと、この花は何、と左手に流れて行くのを尋ねて、父親が夾竹桃だろうと答えたのに、これが夾竹桃かとこちらも目を向けたものの、高速で過ぎ去って行くので植物の姿形が見て取れず、濃いピンク色の花がついているくらいの情報しか認識できない、ということはあった。新板橋で高速を降りた。ナビの設定が妙だったようで、裏道に入ることになり、人々の通行の多い下町じみた界隈を進んでいると、目の前に巣鴨地蔵通り商店街の入口が現れた。ここがあの有名な、高年者の原宿と呼ばれるあの商店街なのか、王子からこんなに近いのかと母親は言ったが、あとで聞いたところではやはりそうなのだった。表に出たあとナビの設定をし直して、ふたたび裏道に入って行く途中、神輿を担いだ子どもらの一団とすれ違って、どこも祭りの頃合いなのだなと父親は笑った。そうこうして王子に至り、(……)さん宅から程近いパーキングに停車した。飲み物だけ買ってきてほしいとのことだったので、傍のファミリーマートに寄り、籠を持ってドリンクコーナーの前に立った。こちらはソルティライチを選び、母親はチューハイやノンアルコール飲料を籠に入れて行く。父親が(……)さんに電話するとビールを、とのことだったらしく、それを追加して会計に向かい、こちらがカウンターに籠を置くと、最後に母親が何個も入ったプチシュークリームを加えた。こちらが払おうと思って財布を出していたのだが、父親がスマートフォンを使った「クイックペイ」で支払ったので、こちらは二つの袋に分けられた荷物を受け取って退店した。荷物を提げて(……)さんの住むマンションへ向かい、入ると母親がインターフォンで到着を告げ、奥に進む扉のロックを解除してもらう。くぐるとエレベーターに乗って三階まで、降りて部屋に入るとエプロン姿の(……)さんが迎えてくれて、その足もとに(……)ちゃんもいた。お邪魔しますと靴を脱いで、用意されていたスリッパを履いて部屋の奥、リビングに入って行った。荷物をテーブルの上に置き、洗面所を借りて手を洗ってから、(……)さんがキッチンで食事の支度をしてくれていたあいだは一休みといった感じで、こちらは良く動き回る(……)ちゃんと戯れ、その頭を撫でてやったりしていた。赤ん坊というものは本当に良く動き、室内の色々なところへ次々と移って行き、彼女用の絵本の収められている箱のなかからは本を無造作に取り出して、ひらいてはページの上に指を差して何か声を上げているのだった。玩具のなかには二オクターブほどの範囲の小型のピアノがあった。(……)ちゃんはそれに興味を示さず、鍵盤を一度雑に叩いたのみで終わってしまったので、こちらが代わりというわけでもないが、Cマイナーペンタトニックのスケールに合わせて適当にフレーズを奏でていると、それを聞きつけた(……)さんが、(……)くんが弾いているの、と言ってキッチンから出てきて、凄いね、何でそんなに弾けるのと褒めてくれたので、スケールに添って適当にやっているだけですよと答えた。(……)さんはオペラ歌手として第一線で長年活躍していた人で、音大出のエリートであり、ピアノも勿論それなりに弾けて、こちらとは比べ物にならないくらいの音楽的能力を持ち合わせているのだが、楽譜がないのに弾けるっていうのが信じられないと彼女は言った。しかし本当に、こちらがやっていたのは他愛のない戯れに過ぎないのだ。じきに食卓には料理が並び、食事が始まった頃には一時を迎えていた(室の角にある小さなテレビは『のど自慢』を映しており、ゲストのつるの剛士村下孝蔵の"初恋"を歌っていた)。メニューは親子丼と味噌汁にサラダ二種、そしてローストビーフだった。サラダは一方がレンコン・牛蒡・パプリカなどを和えてシャキシャキとした口当たりのもの、もう一方はアボカド・トマト・モッツァレラチーズ・エビにルッコラを添えたもので、味噌汁は豆腐とアオサが具になっていた。どの品も美味く感じられ、どれもうちの料理よりも美味いなと心中密かに独りごちた。食事のあいだはこちらの隣に(……)ちゃんも就き、(……)さんの手によって我々のものよりも細かくされた親子丼が赤子の口に運ばれていた。腹を満たして使用された食器をキッチンに運んでおくと、また何をするでもない合間の時間が訪れて、こちらはふたたび玩具のピアノで遊んでいると、(……)さんが本物のほうを弾いて良いよと笑って言って、Rolandアップライトピアノを点けてくれたので、そちらを弄った。何も弾けるわけでないので、またスケールに添って戯れたり、左手を指一本でルート音を移行させて行きながら、右手で当てずっぽうに旋律を作るといったことをやった。そうして三時に至った頃か、今度は大粒の葡萄が食卓に用意され、また皆でそれをつまんだ。この時、(……)さんがタブレットでモスクワの夫、つまりこちらの兄に連絡を取って、起き抜けの兄の、髭もいくらか生やしていて冴えないような顔が画面に映し出された。皆で兄と通話をしているあいだに、(……)ちゃんも葡萄を与えられていたのだが、じきに彼女は眠くなってきて、その時の顔が何故かきつく顰めたような、渋くふてくされたような表情だったので皆で笑った。赤子はソファの上に移され、仰向けで眠りに入った。モスクワはもう外はだいぶ涼しいと言った。兄はこちらとは反対に――最もこちらも最近は八キロも太ってしまい、人生で初めて腹が出るという経験をした、とこの席でも話したのだが――巨漢と言って良いほどに太っているのだが、最近は胡瓜ダイエットなるものを試みて胡瓜を良く買うようにしているらしく、また運動としては週に一度、ロシア人とバレーボールをしているという話で、皆本気になってやっているわけでないけれど、夢中なので楽しいよと述べた。兄との通話を終えて、葡萄も食べ終わると、そろそろ出かけようということになった。初めはバスに乗って旧古河庭園に行くような話だったのだが、近間で良いのではないかと変わって、歩いてすぐ傍の飛鳥山公園を散歩しようと決まった。それで(……)ちゃんをベビーカーに乗せて、連れ立って部屋を出た。陽射しはまだまだ旺盛だったが、厚い風がよく吹き、日蔭にいればさほど暑さのない午後四時前だった。マンションを出てしばらくは、こちらが一行の最後尾でベビーカーを押して行った。しばらく進むと王子神社があって、そこに立ち寄ることになった。正面入口は階段なので、迂回して段差のないほうから敷地内に入り、石畳の参道に乗って社殿のほうへ進んで行く。賽銭箱の手前は配慮がなされているのか坂になっていて、そこをベビーカーを押し上げて止まり、財布を探った。五円玉があったのでそれを箱に投げ入れ、二礼二拍手一礼の作法をこなしたが、こなすのみで特に何も願わなかった(本来そういう場所ではないのかもしれないが)。今の自分が願うべきことと言えば、感性の治癒以外にないだろう。母親は多色の紐を掴んで鐘を揺らしていたが、こちらはそれもせず、場をあとにした。神社を去る時は、迂回せず(……)さんがベビーカーを担いで短い階段を下り、それでここから押し手が替わることとなった。飛鳥山公園はもうすぐ傍、またちょっと歩いて通りを渡り、緩やかなスロープを辿って入園した。初めの広場では、集団で大縄跳びを練習する若者のグループがいくつもあって、進んで行くとその次には噴水が出現し、水の噴出口付近に入りこんでいる親子や、パンツ一丁で動き回る幼児などが見られた。この公園には三つ、博物館の類があって、一つは忘れたがあとの二つは紙の博物館と渋沢栄一の史料館だった。通路を進んで行くと左手には遊具のある広場、右手に紙の博物館が現れて、こちらとしてはあまり興味を惹かれるものではなかったが、せっかく王子製紙の有名な王子に来たわけだし寄ってみるかとあいなった。入館すると父親が全員分のチケットを買ってくれ、それを受付の女性に差し出すとパンフレットと交換してもらえるのだった。展示室は円型の通路の外側の壁に様々な説明書きが設けられ、その足もとには模型などの資料を収めたガラスケースが設置され、室の中央には製紙に使う大砲にも似た機械が置かれていた。展示を漫然と眺めていると、もう七〇くらいだろうか高年のボランティアの男性が父親に説明をしはじめ、じきにそれが我々一同を相手にしたものに広がった。この人は語り好きの熱心なスタッフで、我々がゆっくりと順路を進むあいだ、各々の資料を示してやや早口に様々な知識を述べてくれるのだった。受け答えは大概父親か母親が担当し、こちらはあまり熱心に耳を傾けず、何やら嬉しそうに声を上げる(……)ちゃんの傍で彼女の頭を撫でたりしていたので、職員の話していたことを良くも覚えていないが、王子製紙は元々渋沢栄一が設立したこと、そしてこの飛鳥山に彼の別荘があり、そこから工場が稼働するのを渋沢が眺めていたという話は記憶した。初めのフロアは一階ではなく二階だった。そこから父親は階段で三階に、残りの三人はベビーカーがあったのでエレベーターで四階に上った。四階は紙の歴史の変遷を追ったコーナーらしかったが、やはりここも良くも見分していない。入ってすぐ脇に、世界最大級の木版画という孔雀明王像の図があって、これは元々仁和寺のものを木版によって複製したものらしく、それは近寄って少々じろじろと眺めた。ほか、一六〇〇年代のヨーロッパで出版された古い書物や、江戸時代の離縁状、通称「三下り半」などが資料として並ぶなかを回り、途中でこちらは便所に行った。トイレは三階だったので階段を下り、細い通路に親子連れが集っている横を通り過ぎて室に入り、用を足した。戻るとそろそろ出ようという話になっていたので、エレベーターで二階まで下りた。こまごまとした売り物の類を瞥見しつつ外に出ると時刻は四時半頃、受付の女性が表の看板を取りに出てきたりして、そろそろ閉館らしかった。入口付近には紙の原料となる植物の鉢が並べられていて、そのなかにパピルスがあって、これがパピルス紙のあれかと目をやった。細長く力ない葉のいくつか垂れ下がっているのに、古代エジプト人はよくここから紙を作ろうと思いつきましたねと(……)さんと話し、これ集めれば文字書けるんじゃね、みたいな、その発想力、と言って笑い合った。道に戻ってちょっと進むと渋沢栄一史料館があり、その向かいには渋沢の別荘のあるらしき敷地があった。門に寄ると四時半までと表示があって、既に時間は過ぎていたが、入口がひらいていたのでなかに入った。ここには青淵文庫という、渋沢が収集した『論語』関連の書物を収めたという施設と、晩香廬という小亭があった。敷地内をうろついていると、晩香廬のほうの女性スタッフが戸口から姿を現して、見られるならまだ大丈夫ですよ、といったことを知らせてくる。それでせっかくなので見学しようかと入口まで来たところが、入場にはチケットが必要だということがわかり、それを入手していなかった我々はやはり見学はできないのだった。どこでチケットを買うのかわからなかったが、おそらく渋沢史料館のほうの券でこちらの施設も見られるようになっていたのだろう。それで敷地を抜け、(……)ちゃんを遊ばせようということで遊具のある広場に戻り、足もとに枝のたくさん散らばっている木蔭の一角で(……)ちゃんをベビーカーから解放した。傍には銀杏の樹があって、見上げればその葉の連なりが縦横に交錯して無秩序な輪郭線を描き、その隙間から青空の細かく覗いて、緑と青とで模様を成しているのが目を引くようだった。時刻は五時前、子供らのてんでに遊び回っているその先の空では、低くなった太陽が大きくその身を広げて、眩い光線を木々の下にも送りこんでいた。(……)ちゃんは土の上を元気に動き回り、(……)さんや父親に担がれて小型の滑り台を滑らせてもらったりしていた。こちらは(……)ちゃんの行く先に、バスケットボールのマークのようにして、両手を広げ脚もひらいて立ち塞がって戯れたが、どんどん横に歩いて行く赤子を追ってこちらも蟹のように横移動をするのだった。足もとに石の多い場所に来たり、人の動きの多い遊具の近くに行こうとすると抱きかかえて連れ戻していたが、赤子はじきに怖じることなく人々のなかに立ち入って行き、そのあとを母親が追いかけた。少し離れた位置に(……)さんと並んで話しつつ、滑り台やブランコや城を模したような巨大な遊具のそれぞれで遊び回る子どもたち、その群れの姿を全体として目の当たりにして、これだけ多くの動き、豊富な情報を受け取ればかつてはそれだけで気分が恍惚とひらいたようなこともあったものを、と感受性の衰えた現在の自分を心中嘆くようになったことがあったが、しかし人とはそのようにして歳を取っていくものかもしれない。五時を迎えて、そろそろ帰ろうということになった。「アスカルゴ」という乗り物があると(……)さんは言い、それに乗って帰ろうと一行で歩き出したところ、背後から、アスカルゴは四時までという言葉が聞こえてきた。振り向くとハーフパンツ姿の比較的若い男性がおり、「アスカルゴ」に乗れないいま、ベビーカーでそちらのほうに行くと大変だと思う、というようなことを言った。礼を言ってそれではと方向転換し、めっちゃ親切な人ですねと智子さんと笑った。男性もまた子の父親であり、多分自分も以前行ったら乗れなくて苦労したということがあったのだろう。子どもを遊ばせている男性の脇を過ぎる際にふたたび礼を言って、もと来た道を戻りはじめた。公園を抜けると横断歩道を二つ渡って、やはり往路をそのまま反対に戻って行く。(……)さんの部屋に着くと、間を置かずにそろそろ帰ろうと我々は言ったのだが、(……)さんが、マンゴージュースを飲んでいきませんかと言う。「ジャカルタじいさん」と呼ばれている彼女の父親――インドネシア日本人学校の理事長を務めている――が外国から持ってきたものだと言った。一人だとなかなか開ける機会もないからと(……)さんはパックのジュースを開封し、コップに注ぎはじめたので、我々もそれではといただくことにした。口をつけた母親は、南国の、トロピカルな味がすると言った。そうしてジュースを飲み干してまもなく、帰途に就くことになった。部屋を出た我々に、下まで送りますと言って(……)さんもふたたびベビーカーに(……)ちゃんを乗せてついてくる。時刻はもう六時頃だったろうか、外に出ると暗くなるのがいつの間にか早くなりましたねと(……)さんは漏らした。皆で駐車場まで移動し、(……)さんにありがとうございましたと礼を言い、(……)ちゃんにもばいばいと手を振る。すると赤ん坊は言語と動作の結びつきを理解しているようで、あちらもあどけなく、横にぶらぶらと手を振り返してくれるのだった。車に乗り込み、発車すると、窓越しに会釈し、また手を振りながら親子と別れた。しばらく走って、王子北から高速に乗った。あれは荒川なのだろうか途中で眼下に現れた川が、光を失った空を反映して真っ白な鏡のようになっていた。あたりは暗み、傍らの窓から見れば、深い青の空に星が一つ灯りもしているが、前方、西の方角の果てには暗青色の雲が広範囲に染みついていた。高速を走っているあいだ、こちらは目を閉じて少々うと、とする場面があり、その時には後部席の母親も同じく疲れに負けて微睡んでいたようで、父親が黙々と運転するなか、車内に声のない時間がいくらか続いたらしい。目覚めてまもなく、掛かっていたDonny Hathawayが終わると父親は、ニュースに変えるぞとこちらに了承を求めた。六時四〇分頃だった。掛かったNHKは最初、スウェーデンの移民について何やら話していたが、その番組はすぐに終わってニュースが述べられはじめた。次々と情報が送り出されてきて頭に入れる暇もないのだが、なかでは一つ、確か千葉市と言っていたか、横転したトレーラーに軽自動車が下敷きにされて、父親と息子とその妻の家族三人が死亡したという事故が記憶に残っている。(……)インターチェンジで高速を降りた頃には、テニスの大坂なおみ選手が全米オープンで優勝したという話題が取り上げられており、父親は嬉しそうに反応していた。しかしこの試合は、セリーナ・ウィリアムスという相手の選手が苛立ちのあまりラケットを地面に叩きつけ破壊したことで一ポイント、また審判に暴言を吐いたことによって一ゲームが大坂に当てられて、スポーツマンシップに則ったけちのつかない試合というわけではなかったようだ。それから見慣れた町をしばらく走り、クリーニング屋の裏の駐車場に停まった。父親がクリーニングを引き取りに行っているあいだ、こちらは"A Song For You"を音程もよくわからず下手くそに口ずさんでいたのだが、そうしていると背後の母親が、障害者のサポートをボランティアや仕事としてやってみる気はない、と訊いてきた。こちらはそこまでの気持ちはないよと答えて、行きつけの古本屋の話題を出し、どのように働きたいという意欲も特にないが、どうせ働くのならその店で働けるのが良いと思うと述べた。もっとも店主に頼んでみないと雇ってもらえるかはわかってもらえないわけだが、話を持っていくにしてもまあもう少し様子を見てみて、と半端に落としていると、父親が戻ってきた。そうしてまたしばらく走って帰宅し、降りたこちらは玄関の鍵を開け、荷物を居間に運び込んで、真っ暗な室の明かりを灯した。クリーニングから返ってきたスーツや礼服などを下階に運んだり、服を着替えたり排便したりしているあいだに、母親は既に台所で支度を始めていた。茄子を茹で、餃子を焼いている。手を洗ってからこちらも台所に立って、餃子の焼き加減を見張るとともに、柔らかくなった茄子を味噌で和えた。そうして一旦室に戻ると、夕食の前に(……)さんのブログを読み、すると時刻はもう八時半を迎えた。腹がまったく減っていなかったので(健康的な空腹感というものももはや全然感じることがない)、食事は餃子とサラダだけで取り、終えると入浴に行った。冷水を何度か下半身に浴びせて頭を洗ったあと、麻素材一〇〇パーセントのシャツを洗面器のなかで手洗いした。ホームクリーニング用洗剤を湯に垂らして服を揉み、湯を替えてゆすぐと絞って、シャツを持って風呂を上がった。洗濯機には先に洗われた洗濯物が入っていたので、それは一旦洗面台の上に移しておき、シャツを入れて脱水を行う。シャツが回っているのを待つあいだ、居間で座って新聞から、米国の対中関税が全輸入品にまで拡大されるかもしれないとの記事を途中まで読んだ。そうしてシャツを干しておくとともに、その他の洗濯物もついでにハンガーに掛け、仕舞えると茶を用意して自室に戻った。一服しながらインターネット記事を眺め、それから長くなるだろう日記に取り掛からねばならなかったが、その前にちょっと身体を休めようとベッドに転がって、金子薫『鳥打ちも夜更けには』を読んだ。三〇分で一〇頁をゆっくりと読み、それから日記を綴りはじめた。時刻は一〇時半過ぎだった。午前二時まであまり奮わない打鍵を続けて、午後五時あたりのことまで綴り、今日はここまでとして歯を磨き、床に就いた。それ以降の記憶を順に思い返しているうちに、あまり苦労せずに入眠したようだ。