2018/9/14, Fri.

 早朝、五時半に覚めている。静かな、軽い目覚めだった。ふたたび眠りに入り、八時のアラームを止めに立ち上がったはずだが、この時の記憶は残っていない。いつも通りベッドに戻ったらしく、九時頃から意識が浅くなって、目を閉じては二、三分、夢のようなヴィジョンを見てから目を開ける、ということを繰り返して時間が過ぎる。最終的に九時半前に起床することができた。上階に行き、母親に挨拶して、前夜の残り物である茄子と薩摩芋を温める。ほか、四角くビニールに包まれて冷凍されていた五目ご飯があった。そのビニールを剝ぎ取り、固まったものを椀に入れてこれも電子レンジに突っ込んで二分、そうして卓に移動して、新聞をめくりながら食事を取った。空になった食器を流しに運んで水を汲み、薬やサプリメントを摂ってから皿を洗った。そのまま風呂も洗うと一〇時頃だったはずだ。室に戻ってコンピューターを点けると、Youtubetofubeats "BABY"を流して、服を着替えながら爽やかな曲を口ずさんだ。上は橙、青、黄色の三色でカラフルなチェック柄を織り成したシャツに決めて、下は初め、濃緑一色のジーンズを久しぶりに履いてみたのだが、それで洗面所の鏡の前に行ってみるとサイズ感があまりしっくり来ず、少々色が褪せてもいるのでこれはもう資源回収に出すか古着屋に持って行くこととして、自室の収納には戻さずにひとまず兄の部屋の窓際の箱の上に畳んで置いておいた。そうして、芸のない選択だが、Levi'sの空色のジーンズをこの日も選んで履き、音楽は"WHAT YOU GOT"が掛かっていたそのあとに、"Don't Stop The Music feat. 森高千里"を繋げたのだが、便所に行ってしまったのでこの曲は聞けなかった。トイレットペーパーの空芯を持って階段を上がり、袋のなかに入れておいてから戻ると、SIRUP "SWIM"のスタジオライブ動画を流して歌い、それでコンピューターはシャットダウン、本と手帳をバッグに入れて階を上がった。南の窓に寄って外を見やれば、近所の路面には雨の跡が残って水溜まりも小さく生まれており、空は雲が覆っているものの、今は光が見えだして、正面の家の白い屋根が明るみはじめる。窓際に立っているうちに身にも温もりの掛かるようになり、すると棕櫚の木の天辺の葉に乗った白露が、微風を受けて揺らぐ足場の動きに応じて、艶を帯びては失いながら細かく震える。景色を眺めるのにも飽きると、ソファに就いて、母親が支度をしているあいだ瞑目し、記憶を辿って行った。そうして、行こうとの声に目をひらいて立ち上がり、母親はトイレに寄ると言うので鍵の入ったバッグを貰って、先に車に乗りこんだ。ここでも目を閉じて記憶を探ったが、母親はすぐにやって来た。発車して、市街を走り抜けて行くあいだ母親は、(……)さんの息子が同級生だとか、新聞に近藤サトというアナウンサーの話が載っていて、とか話す。(……)さんというのはこちらは知らないのだが、(……)さん夫婦のいた小家の前の家だと言い、そこの旦那が八九歳で亡くなったのだと朝起きていった際に聞いていた。その息子には、中学生の頃だかいじめられてあまり良い印象がないと母親は言う。一方、アナウンサーのほうは、震災を機に(母親は、阪神淡路?と自信なさげに言っていたが、今検索してみると東日本大震災のほうだった)白髪を染めるのを止めたという人で、何だか知らないが、偉いと思ったと母親は言って、感銘を受けたようだった。そうこうしているうちに医院の駐車場に着く。バッグを持って降り、ビルに入って階段を上がって行き、待合室に入るとこの日の混み具合はまあまあ、四、五人の先客がいる程度だった。受付に診察券と、月が変わったので保険証も提出し、カウンター前で立ったままに待って保険証が返ってくると席に就く。カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を持ってきたのだったが、何だか眠いようであまり頭も働かないような感じがして、本は取り出さずに目を閉じて、休憩半分、記憶を追うのを半分といった感じで過ごした。それでじきに三〇分が経ち、一一時半に達して、呼ばれるのもそろそろだろうと思われたため、本はもう読まずに残りの時間も瞑目して待った。そうして呼ばれると診察室に入り、医師に挨拶をして革張りの椅子に座る。この二週間、どうでしたかと問われるので、特にどうということもないのだが、調子は全然悪くはない、取り立てて良くもないが、と答えた。外出はあまりしなかったが、王子に兄の奥さんがいて、昼食を呼ばれに行ったと話し、日記はどうか、前回は縮小版と言っていたが、と来るのには、また多く書きはじめたと返答する。かなり活動的になっていますねと言うので、どうでしょうかと疑問で受けると、この春に比べたらと念押しが続くので、春に比べればそれはそうだと応じた。頭の働きについては、病前に比べるとやはり劣るかと思うが、日記もまた書いていることだしある程度は戻ってきたのではないかと述べ、睡眠は、眠れてはいるが朝が起きられないと話した。睡眠について言えば、就寝前の薬を頂いていたんですが、それがなくても眠れるようになりましたと変化を報告し、それでオランザピンとブロチゾラムはもう必要ないということになった。クエチアピンについてもこちらとしては、減薬はどうかと思っているのだがと差し向けると、オランザピンがクエチアピンと同じようなものなので、あまり「ぼん、ぼん、ぼん、と」一気に外さなくても良いのではないかと医師は言って、こちらもまあそれで良いかとこだわらずに落とした。診察は五分程度で終了したと思う。会計(一四三〇円)を済ませて隣の薬局に移り、カウンターに近寄ってこんにちはと挨拶をすると、客の対応をしていた局員が背後に向けて、受付お願いしますと声を放つ。そうして奥の調剤室のほうから急いで出てきたのが、パーマを掛けた頭で小さな背丈の(……)さん、こちらの中高時代の同級生である。数か月前からこの薬局で働いているのを見かけているのだが、あちらがこちらを同級生の(……)として同定し、認識しているのかは定かではない。中学生の時に、クラスが同じだったこともあったはずだが、さほど関わりがあったわけでもない。彼女が差し出す三九番の紙を受け取り、黄色い席の上にバッグを置くとトイレを借りた。小便を放ったあとに、トイレットペーパーで便器を拭いておき、出ると席に就いて何をするでもなくいると、すぐに三九番の方、と声が掛かった。カウンターに行って局員を前にすると、首から下げた札の名前が、(……)、となっているのに気がついた。この人は以前は(……)さんだったはずで、結婚したのだなと思ったが、今、「お薬手帳」を見てみると、七月一三日の時点で既に印の名前が(……)の姓になっているので、名札の変化が遅れたのでなければこちらがこれまで気付かなかったのだろう。会計をして(八四〇円)薬局を去った時、日記のことが頭にあって、記述が行動の連鎖だけではやはりつまらず、その流れから浮かび上がるような要素、要は風景描写のようなものを取り入れていくらかの起伏を付けたいな、などと考えていたのだが、そこから日記ということで連想された作家が一人いて、しかし名前が思い出せなかった。『七〇歳の日記』などを書いているベルギーの作家で、と思いながら車に戻ると、東急で長崎ちゃんぽんでも食べるかと母親が言うので、良いではないかと賛成した。その前にまずは買い物というわけで、近間のスーパー「(……)」に移動するのだが、そのあいだに先ほどの作家について記憶を巡らせると、アン・ブーリンとか(英国王ヘンリー八世の第二王妃である)、アン・バートンとか(オランダのジャズ・シンガーである)の名が浮かんでくる。これらと響きが似ていたと思うのだがと引き続き名を求めていると、車に揺られているあいだに、そうだ、メイ・サートンだと記憶が繋がった。それからスーパーの駐車場に停まると、空には灰色が立ち籠めはじめていて、雨を思わせる気配である。自宅用と料理教室用のものと分けて買うと言うので、カートの上下に籠をそれぞれ乗せて入店した。まず入り口の脇にある一個二五円の玉ねぎをいくつか入手する。それからこちらはカートを押して、四本入りのバナナや豆腐や五個入りの茄子を二袋手もとに加えて行ったあと、カートを母親に預けてフロアを渡った。飲むヨーグルトを二本入手して小脇に抱えて戻り、カートと合流すると、ちょうど傍にあったビスケットの区画から、小袋が六つセットになった「たべっ子どうぶつ」を取って籠に入れた。その他諸々を入手して会計、一つ目の籠は母親が五〇〇〇円を出したが、それでもうお金がないと言うので、二つ目はこちらが千円札で支払った。台の上で荷物を整理すると退店し、車に戻って移すものは保冷ボックスに移し、そうして走り出すとぱらぱらと雨がフロントガラスに散る。洗濯物をいくらか出してきてしまったと言うので、外食はなしにして帰宅することになったが、母親が東急の本屋に注文した本が届いており、それだけ取りに行かねばならなかった。それで東急のビルへ、坂を上って上層階の駐車場に入り、母親が本屋に行っているあいだこちらは車内で瞑目して待った。さほどの時間は掛けずに母親は戻ってきた。そうして帰路へ、家が近づくにつれて雨はなくなって、空からも灰色が拭われて白に寄っていた。帰り着くと荷物を運び、買ったものを冷蔵庫に収める。母親はチキンラーメンを作りに掛かり、こちらは自室に戻ってジャージに着替えた。しばらくしてから上がって行くとちょうどラーメンが出来たところ、盆に乗せられたものを台所からテーブルに運び、席に就いて食べはじめる。味が結構濃いねと母親は言った。そのほかホイップクリームの入ったデニッシュとバナナを半分ずつ食べ、食後はこちらがまとめて食器を洗ってしまう。そうして緑茶を用意して下階に下り、先ほど買ってきた「たべっ子どうぶつ」のビスケットをつまみながら一服した。顔や額の奥が澱んでいるような、疲労感のような眠気のような感覚が薄く頭のなかに生じていた。それでベッドに横になりたいところを我慢して、緑茶をもう二杯分拵えてきてから日記に取り掛かった。二時二〇分からちょうど二時間掛けてここまで至っている。自ら書いていながら、何か深い思索があるわけでもなし、物々に触れた時の生き生きとした感想があるわけでもなし、何の変哲もない生活の些末な行為ばかりをこまごまと記して、読む者の感覚を駆動させることもないだろうこのような文章を書いて、一体何になるのだろうと思わないでもない。その後、四時半からベッドに寝転んで読書を始めたのだが、薄々そうなるのではないかと思っていた通り、本はすぐに手放して眠りに落ちることになった。部屋が真っ暗闇に包まれた八時頃まで、三時間半も寝床に留まってしまう体たらくである。医者にちょっと出かけただけで疲労に襲われて、益体もなく長寝をしてしまう情けない身からすると、世の人々が毎日朝早くから晩遅くまでずっと働いているのが信じられないような思いがする。おそらく七時頃までは眠ってもかえって疲労が増すように感じていたと思われ、半醒半睡の時によくあるように、金縛りめいて頭のなかが痺れ、窒息するような感覚も訪れていたが、八時になる頃には心身が軽くなっていたようだ。起きて、食事に行く。台所にはカキフライの二つ乗った皿が用意されてあり、それにベーコン(先日両親が訪れた「サイボクハム」で買ったものだと言った)・小松菜・ブナシメジの炒め物、そして茄子の煮付けを加えてレンジで温める。そのほか汁物など用意して卓に就き、おかずとともに白米を咀嚼するあいだ、テレビは八神純子という歌手を取り上げていた。あまり興味はなかったが、米国で活動していた彼女は、二〇〇一年九月一一日の同時多発テロをきっかけとして活動休止に至ったというのがやや印象に残っている。あの事件によって、家を空けて子供たちから離れるのが怖くなったのだという風に話していた。母親はこちらよりも先に食事を終えており、父親が帰ってくる前に風呂に入ると言っていたわりに、何だかんだでぐずぐずとして立ち上がらない。彼女の使った食器もまとめて洗ってしまうと、こちらが先にさっさと入浴することにした。湯を浴びて出てきて、下階に帰る前にテーブルの端、ポットの前で緑茶を注いでいると、風呂場に行った母親が、またヤモリが出たと声を上げる。我が家では、粘土のように薄白い姿のヤモリが窓の裏に貼り付いているのがよく目撃されるのだ。随分長くいるな、梅雨頃からいるじゃないかとこちらが受けると母親は、智子さんにでも送るのだろうか、撮っておこうと携帯を持って行った。緑茶を持って自室に行くと、時刻は九時過ぎ、まず一年前の日記を読み返したが、このなかで自分の不安障害的な気質について綴っている断章がちょっと面白かったので、ここに引いておく。

 労働後、疲労感があるのは当然のことだが、この日は加えて虚しさのようなものを感じた覚えがある。夜道を行きながら薄い厭悪が滲むというか、どうにかして義務的な労働のない生活ができないか、あるいはせめてもう少し楽しいような居場所がないものかと、いつもながらの無益な思念が巡るのだが、さほど悪い職場でもなく、この日に何か特段の失敗や意気阻喪することがあったわけでもない。それでも虚しさや嫌気が生じるというのは、思うに、やはり人と接することそのものに何か、不安感のようなものを覚えているのではないか。これは例えば、裏路地で高校生などを追い抜いたり追い抜かされたりする時のことを考えてみても思い当たるのだが、そういう場合、こちらに向けられる彼ら彼女らの視線がどこか気になるようなのだ。また、人とすれ違う時なども、相手の顔をどれだけ見ても良いのか、目を逸らしたあと視線はどこに置けば良いのか、あるいは相手が知り合いならば挨拶はするか否か、するとしてどのタイミングですれば良いか、などを、半無意識的に神経質に迷いながら行動しているようなのだが、こうした極々日常的で短い対人の瞬間における振舞いの方法論というものは、こちらのなかで答えが見えず、一向に確立しない。大方の人間はそんなことは考えず、その場その場の流れに任せているはずで、このような些末な事柄に方法論などと言ってしまう点で(それほど本気で言っているわけでもないけれど――しかし、この問題は、カフカが日記に書きつけていた疑問、「数人の集団のなかにいる時に、無口だと思われないためには、どのタイミングでどの程度、どれくらいの回数喋れば良いのか?」といったそれとどこか重なり合うような気がする)、自分の自意識過剰が証される(馬鹿げたことだが、自分には挨拶という振舞いが、一つの「闘い」であるように思われることがある。そこでは、先手を打って朗らかに声を発してしまったほうが明らかに勝ちなのだが、自分はこの闘いが苦手で、勝利することはあまりない)。あるいはそれは自意識「過剰」というほどのものでなく、社会的な人間として当然持ち合わせるべき最低限の自意識なのかもしれないが、自分の場合その底に何か、人と接すること自体に対する、恐れと言っては言葉が強すぎるが、緊張や不安のようなものがかすかに含まれているように思うのだ。これは昔からそうだったはずで、パニック障害に陥ったのも結局、煎じ詰めれば、他人が世界が怖いということだったのではないか。自分はその点、社交不安あるいは対人恐怖的な性向の傾きがあるのだろうが、それがだいぶ改善されたいまになってもまだ多少残っているということなのかもしれない。要するに、ただ他人と対峙するだけでも緊張するというようなところが自分にはあって(ほかの人々にも多かれ少なかれあるのではないかと思うが)、そうした内向的な性質が人と接するにあたって自分を煩わせ、疲れさせるのではないか。そして、労働という公的領域においては関係は表面的なものに留まるから、この緊張もより助長され、疲労感も強くなり、それが虚しさや厭悪に繋がるということではないだろうか。古井由吉の使っていた言葉を用いて言い換えれば、世の「外圧」そのものに疲労するということで、これはおそらく誰もそうだろうが、この点で生というものは本質的に、世界との闘い/戦い・摩擦・齟齬、そういった側面があると言っても良いのかもしれない(カフカもやはり、世界と自分との戦いについてアフォリズムを拵えている――そもそもが戦いであり、齟齬こそが本質で、それがあるのが常態なのだと考えれば、何か煩わしいことがあってもそれほど心を乱されずに済む気もしてくるものだ)。(……)

 不安障害が消え去った今、他人と対峙する際のこうした神経質な緊張もほとんどなくなったと思うのだが、それはある種鈍感になったということでもあって、不安の残っていた一年前のほうが良くも悪くも物事を「繊細に」捉えていたということが、この記述から窺えると思う。日記を読んだあとは新聞記事を黙々と写し、それから一三日の新聞、一四日のものと読んでいると、九月一四日の時間はもはやほとんど尽きた。米国ではこの度、トランプ政権の内幕を描いた「FEAR」という本が出版されたらしい。それを紹介した記事に曰く、二〇一七年の四月にシリアで化学兵器が使用された際、ドナルド・トランプ放送禁止用語を使いながら、「あいつ(アサド大統領)をぶち殺そう! やるぞ。あいつらをたくさんぶち殺そう!」と発言したと言い、この凄まじい短絡性の発露は読んでいて印象に残るものだった。その後、歯磨きをしてしまうと、音楽鑑賞に入った。この日も聞くのはKeith Jarrett Trio、例によってスタジオ盤の"All The Things You Are"から始め、そのあと、ライブ盤である『Tribute』から"Just In Time"、"Ballad Of The Sad Young Men"、そして"All The Things You Are"と流した。"Ballad Of The Sad Young Men"が、佳曲であるように思われた。無駄がなく引き締まっており、美麗さを売りにしたピアノトリオのバラードとしては文句なしの、器を満たしきった演奏ではないか。"All The Things You Are"はとにかく楽曲自体が良いが、ライブ音源のほうはスタジオに比べるとだいぶこなれていて、Jarrettが感情に任せて乱れる場面がなかったようで、その分後者に感じられるスリリングな要素には欠けていたと思われる。こちらが繰り返し聞きたいと思うのは、一九八三年録音のスタジオ版のほうである。音楽は零時半までで切りとして、それからインターネットを閲覧し、一時二〇分に床に就いた。眠りはなかなかやって来ず、しばらくしてから時計を見やるともう二時に達するところで、もう四〇分も眠れないままでいるのかと思った。しかしそれから、多分三〇分はしないうちに入眠できたのではないか。