寝付きが悪く、早朝からたびたび目を覚ましていた。八時のアラームに至って本格に覚め、アラームの響きと携帯の振動音をちょっと聞いてから起き上がり、遠くにあるそれを取ると、身体の凝[こご]りを感じながら耐えるようにその場に立っていたが、結局またもや床に戻ることとなった。九時まではあっという間に過ぎたと思う。そこからは時間が細かく流れて、様々な夢を見た。どこかから歩いて来て、草原のような広い土地を前にしたものが一つある。その向こうには墓場があり、さらにその先にはマンションが一つ、突き立っていて、そちらのほうに大学のキャンパスがあるのだという認識だった。近くには一人、女性がいて、彼女が道を先に行くそのあとを追うような形になったと思うのだが、町中に出た時には、そこはどこか外国になっており、店屋の看板に日本語が(それは平仮名だったかもしれない)記されているのを目にして、ここがカナダのケベック州なのだと気づいたはずだ。そのほか、下町じみた界隈をゆっくり歩きながら松浦寿輝が蓮實重彦にインタビューをするという夢もあったが、この蓮實重彦は、両目に合わせて形が分かれたものでなく一続きに長方形になったタイプのサングラスを掛けており、覚めたあとから思い返してみると現実の蓮實氏の容貌とは違った人物だった。また、ロラン・バルトとカフェで何か話をするような夢もあったはずで、その夢も色々な周辺情報に取り巻かれていたはずだが、詳細は覚えていない。起床は一〇時一五分になった。母親はこの日、(……)さんの母親と国分寺にパンケーキを食べに行くということで、瞼のひらいたままに固まったその少し前に、車のエンジンが掛かる音が聞こえてきていた。起き上がって上って行き、冷蔵庫から前夜の残り物――茄子の煮付けとベーコン・小松菜・ブナシメジの炒め物――を取り出し温め、白米は少なめに椀によそった。ほか、白菜などの入った野菜スープが作られてあったので、それを火に掛けてよそり、テーブルに就いて食事を始めた。雨が結構な勢いで降っており、大気は乳白色に濁って、山の姿は薄白い影に均されてその稜線が霞んでいた。食後、薬を飲むのだが、医師の処方には逆らうことになるものの、クエチアピンを二錠ではなく一錠とした。病気以来のこちらの感情や興味関心の希薄化、端的に言って「楽しい」「面白い」といったプラスの気分が湧いてこないことに関しては、物理的にはドーパミンの分泌が関わっているのではないかとこちらは踏んでいる。クエチアピンはドーパミンをブロックする作用があるので、減薬をしてみて自分に変化があるか試してみたいのだった。しかし同時に、クエチアピンを飲まなくなったとしても、自分の状態は特に変わらないだろうなというような見込みもある。ドーパミンの分泌低下が気分の平板さの原因なのだとして(そんなに単純なことではないとは思うが)、そのような状態に至ったのは薬剤の効果ではなくて、自分の原疾患によるものではないかとも思うのだ。要は、原因は不明だが、端的に頭がそのように変わってしまった、というだけのことではないかとも直感されるのだ。それから食器を洗い、風呂も洗ってから緑茶を用意しようとすると、ポットの線が抜けていた。それで接続を戻しておき、湯が沸くのを待つあいだに先に自室に下りて、コンピューターを点けた。日記記事を作成したりとひととき過ごしてから上階に戻り、緑茶を拵えて帰ってくると、この日はまず(……)さんのブログを読みはじめた。それで時刻は正午前、便所に行ってから部屋に戻ってきて、窓の外に目を向けると、雨は弱々しくなっており、山もまだ薄らいではいながらも緑の襞を取り戻していた。それからサプリメントの情報収集にまた余計な時間を使い、そののち日記を書きはじめた。一二時四〇分から初めて一時間ほど、前日の記事を進めて完成させ、ブログに投稿しておくと腹が減っているようだったので、食事を取りに行くことにした。階を上がると、午前に食わなかったサラダを冷蔵庫から出し、一方小さな豆腐を皿に乗せて電子レンジで加熱、さらに即席の味噌汁を用意した。そうして卓に就き、新聞の一面に目を落としながら、レタスやトマト、玉ねぎやインゲン豆を口に運んで行く。それからふと目を上げると雨は止んでいて、谷間に霧が僅かに残ってはいるが山は緑一色の姿を明らかにし、景色はくっきりとした輪郭を復活させている。食後に窓に寄って眺めると、山が偏差のない単色に染まっているのに対して、川の周辺には黄緑が混ざり、赤っぽいような褐色の梢もいくつか見られる。直上を見上げると空は視線を通すことのない厚い白だが、左方、東の低みに目を移せば雲の裾では灰色が露わで、煙の集合体めいて西空のほうまで大きく繋がったその雲の原が、刻々東から西へと動いているのがわかるのだった。それから食器を片付けて、ふたたび茶を拵えて自室に帰ると、この日の日記を綴りだし、現在は三時が目前となっている。SIRUP "SWIM"を一度流して歌うと、そこからくるりに流れて、大層久しぶりに"ばらの花"など歌った。その後、くるりのほかの曲や小沢健二などもちょっと歌って(しかし歌を歌っても高揚感や陶酔感はおろか、僅かばかりの楽しいという感覚すらない)、それから新聞記事を書き写しはじめた。BGMには『川本真琴』を流した。書き抜きする記事のなかに建築家・坂茂のインタビューが含まれていたが、九月九日、飛鳥山の紙の博物館を訪れた際に、解説熱心な職員と父親のあいだで、段ボールや紙を使って被災地に仮設住宅を作る人がいますよね、などと話が交わされていたのがこの人だと思う。二〇年余り、災害が起きるたびに避難所に赴いて、紙管と布を使った間仕切りを設けて支援を続けているということだが、役所のほうから呼ばれたことは一度もないと言った。新聞記事を写すと四時半前、少々早いがもう夕食の支度をしてしまうことにして、上階に上がった。と言って汁物は野菜スープが残っている。おかずには芸がないがまた茄子でも焼けば良かろうと四つを切り分け、玉ねぎも一つ加えてフライパンで炒めた。ほかには小松菜でも茹でておくかともう一つのフライパンで湯にくぐらせたが、野菜の入っていた透明なビニール袋の表面を見れば、小松菜とゆで卵のサラダというレシピが記されている。ちょうどゆで卵が二つ、目の前にあったのでこれを作るかというわけで、茹でた小松菜を水に晒して冷やすとざくざくと切断してプラスチック製のパックに収め、卵のほうは輪切りにできるカッターで細かく刻んで野菜と混ぜた。その上にマヨネーズを掛けて箸で混ぜようというところで、インターフォンが鳴った。受話器を取ると、二軒先の(……)さんである。少々お待ちくださいと早口に言って出ていくと、回覧板を届けに来た次第で、至急のものなのでよろしくと言った。礼を言って室内に下がり、中身を見てみると、先に八九歳で亡くなったという(……)さんの訃報である。早速、玄関の電話機を使ってコピーを取っておき、それから台所に戻って小松菜にマヨネーズと、さらにケチャップを加えてかき混ぜた。そのあとから辛子も足して和え物は完成、冷蔵庫のなかで冷やしておき、そうして下階に戻ると時刻は五時過ぎだった。ベッドに横たわってカロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を読み、一時間が過ぎると母親が帰ってきたのでジャージの上着を羽織って顔を見せに行くと、(……)さんから貰い物をしたと言う。ジェモジェモ(Gemeaux Gemeaux)という名のガレット・クッキーに、成城石井の茶色い紙袋に入った「いちごバター」だった。この(……)さんの娘さんはこちらの高校の同級生で、二日後の月曜日に(……)・(……)・(……)らと映画を見に集うその面子のなかに彼女も入っているので、これでは何かお返しをするようだなと母親と言を合わせた。翌日に駅前の「(……)」にでも出向いてみることにして、回覧板のほうを母親に報告したのち、至急だと言っていたものだからとこちらが率先して次の(……)さんに届けに行くことにした。サンダル履きで外に出ると、林の奥からアオマツムシの鳴き声が凜々と湧き出てくる。雨に濡れた黄昏の小暗い道を少し行き、道路の脇から細道に入ると門の閂を外して敷地内に踏み入り、大きな玄関扉の前でインターフォンを押したが、反応がなかった。念のためにもう一度ボタンを押したものの何の動きもなかったので、順番を飛ばすことにして、道を戻ると間道に折れて(……)さんの宅に入る。扉横の呼鈴を押すとなかからどうぞと聞こえたので、横開きの扉を開けてごめんくださいと訪った。障子をひらいて現れた(……)さんのおばさんに、回覧板を持ってきたと告げると、隣ではなくてと言うので、(……)さんは出かけているようでいなかったと答えた。至急のものなのでよろしくお願いしますと言うと、(……)さんの、と事情を察してみせるので肯定し、いつなのと問うたのにはその場で回覧板をひらき、通夜が一七日だと確認すれば、明日になったら(……)さんの宅に行ってみると言う。了承して礼を言い、下がって扉を閉ざし、道に出て自宅に戻るあいだ、もう八〇も越えているので当然だが、以前よりも老いたような(……)さんの印象を思い返して、労りの言葉でも掛ければ良かったか、涼しくなってきたのでお身体に気をつけて程度言えば良かったかと思いながら歩いた。帰り着くと自室に戻り、ふたたび読書に入って、たびたび書抜き箇所をメモしながら読み進めているうちにあっという間に一時間が去った。AfD(ドイツのための選択肢)の党首代行であるアレクサンダー・ガウラントは、メスト・エジルというサッカーのドイツ代表がメッカ巡礼をしたことに触れて、「メッカへ行くような人間が、本当にドイツの民主主義で守られるべき存在なのか」「彼らはドイツ基本法に忠誠心を持っているのか?」と述べている。これをエムケが取り上げて、基本法への忠誠心を疑われるべきはむしろガウラントのほうではないかと批判するのが真っ当で印象的だった。基本法によって国民の信教の自由は保障されているのだから、というところまでは順当だが、さらに一歩突っ込んで、それはガウラントもよく承知している、しかるが故に彼は、イスラム教は宗教ではないと言わねばならなかったと分析し(ガウラントは、「イスラム教は政治的な宗教です」と発言している)、この発言が事もあろうにアヤトラ・ホメイニの言葉の引用であることを続けて明かしてみせる、そうした手付きが鮮やかだった。そのほか、性概念の二極化を避けるための表記方法の努力――男性市民 Bürger と女性市民 Bürgerinnen を統合する形で、星印を用いた Bürger*innen を性別に関わらず「市民」の意としたり、男女混ざった複数の「教師たち」を表すのにLehrerとLehrerinnenを繋げて、LehrerInnen(女性を示す語尾inのIが大文字となっている)としたり――があるのを面白く思った。読書を中断したのは七時四〇分だったが、そこから自分のブログにアクセスし、気づくとどこからかリンクが繋がって昨年一一月の記事(「雨のよく降るこの星で」を「作品」にするという試みに見切りをつけ、「記録的熱情」にふたたび従って日記を書きはじめたその当初のもの)を読み返していたが、これはやはり今よりも面白く、よく書けているものだった。饒舌で闊達であり、思考や記憶が次々と繋がって語るべきことが自ずと湧き出て来ているのがよくわかる(たびたび括弧を使って挿入節を設けたり、スラッシュを挟んで複数の語を併記してみたり――それだけ表現の候補が頭のなかに浮かんでいたのだ――という点に、物事を細かく語るのがそれだけで楽しいというような饒舌さが表れている)。風景に対する感度も強く、意味/情報を仔細に掴みながら文調もうまく流れており、特に一一月一六日の記事に含まれていた一文――「空には先ほどから変わらず雲の網が形成されており、東側ではその隙間に醒めた水色が覗き、煤けたような鈍い乳白色の雲がそのなかにあるとあるかなしかの赤の色素をはらんだように見えるのだが、視線を西に振ればそちらは冷たい青さのうちに完全に沈み、山際は綿を厚く詰め込まれたように雲の壁が閉ざして残照など微塵もない」――は、読点で区切られた個々の部分に情報を固めるバランスの良さと言い、音調と言い、かなり適切に整った描写のように思われた。是非ともこの頃の能力を取り戻したいと、それは再三この日記に書きつけている通りだが、そのために出来ることと言って、結局は今の自分の乏しい感受性に辛うじて引っかかり、僅かながらも印象を与える物事をその都度記していくほかはない。食事に上がる頃には八時を回っていた。台所で料理を皿に盛っていると、帰宅した父親が居間に入ってきたのでおかえりと挨拶を掛ける。そうして卓に移動して食事を取ったが、自ら作った小松菜の和え物は、母親は辛子が利いていて美味いと言ったものの、こちらとしては大した味ではなかった。食後、食器を片付けてしまってから手持ち無沙汰に(風呂に入った父親がそろそろ出るかと待っていたのだ)立っていると、九時前のニュースが米国の中間選挙の見通しを述べる。民主党内で「プログレッシブ」と呼ばれる左派陣営の台頭が見られて、ニューヨークなどでは新人が重鎮を破る構図も出てきているが、保守的な地方でどこまで受け入れられるかは不透明だ、とのことだった。九月二日の新聞記事によれば、「リアル・クリア・ポリティクス」の調査(八月二九日現在)で、両党の支持率は共和党三九パーセントに対し民主党が四七パーセントで、下院で民主が過半数を奪還する可能性も十分にあるとの見込みである。その後一旦下階に下りていたが、父親が風呂を上がったのを聞きつけて階段を上って行くと、ニュースは今度は横田基地で日米友好祭が催されていると伝え、横田に配備予定のオスプレイが披露されたと言って機体の左右でプロペラを回す姿が映るのを、こちらはじっと見つめて、台所に立った父親も黙って注視しているようだった。それから風呂に入って出てくると緑茶を拵えて自室へ、この日の日記を記しはじめたが、じきに気づけば一時間が過ぎていて、時間が経つということの手応えがまったく感じられない。書き物に没頭しているという感じもなく、かと言って殊更散漫というわけでもなく、ただ淡々と、時というものがそれそのもので消えていく。その後、娯楽的な動画を視聴して時間を過ごし、零時四〇分に至って眠る前にもう少し本を読み進めることにした。「根源的/自然」の章の終わりまで切り良く進んで、一時半に就寝した。寝付くのには結構時間が掛かったと思う。