やはり早朝から覚醒を見たはずで、八時のアラームにも立ち上がったのだが、それらの時間のことはうまく記憶に残っていない。夢がいくつかあった。妙なバンドの演奏を聞いたり、ダウンタウンの浜田雅功が出てきたりしたはずだが、その詳細ももはや忘却の彼方である。初めのうち、空は晴れていて、太陽がいくらか昇った九時頃になると寝床に光が射しこんで、顔や背に熱を受けていたがじきにカーテンを閉ざした。それから、起きられそうでしかし起きられないままに、時計の針は少しずつ、しかし素早く流れて行って、一〇時半を過ぎてようやく起床を見た。その頃には空は一面、何の余計な付加情報もない平坦な白さだった。急須と湯呑みを持って上階に上がって行き、使用済みの茶葉を流しに空けてからポットの前に立つと、また線が抜けている。接続を戻しておいてから食べるものを探って冷蔵庫を覗いていると、出かけていた両親が帰ってきて、こちらは買ってこられた品々を受け取って冷蔵庫に収めた。食事は、前日に母親が買ってきた「箱根ベーカリー」のパンが一つ残っていると言うのでそれと、あとは豆腐に小松菜の和え物を食べることにした。卓に就き、チョコレートで渦巻き模様の入った丸いパンを噛みつつ、新聞記事をチェックする。食後は薬を、この日もクエチアピンは一錠で飲んで、食器を洗うと風呂場に入った。「カビキラー」を振りかけられた風呂場マットが床に置かれていたのでシャワーで洗剤を流し、それから浴槽を擦って洗ってしまうと、浴室を去って緑茶を用意し、下階に戻った。新聞に、「オメガ3脂肪酸」が不安の軽減に効果があるらしいという研究報告が載せられていたのを受けて、それについて検索してみたり、スレを覗いてみたりしたのだが、有益な書き込みは特にない。この「オメガ3脂肪酸」というのは青魚に含まれるDHAとかEPAとか呼ばれている成分のことで、これを摂ると頭が良くなるとか言われているものの、それは大した根拠のない俗説らしい。今回の不安軽減の報告についても、精神状態が全般的に上向くのだとしたら摂ってみたい気もするが、なぜ不安が和らぐのかその仕組みはわかっていないというから肝心なところは曖昧で、不安というのは現状自分の症状としてもなくなったものだから、おそらく今必要なものではないだろう――ただ、このサプリメントを摂ると寝起きが良くなるという報告もいくらか見られて、とにかく朝に弱い自分としてはそちらの効果を期待して摂取してみても良いのではと思わないでもないが、しかしいずれにせよ、先日、N-アセチルL-チロシンというドーパミン関連の新たな品を注文したところでもあるし、そんなに次々とどれもこれもと試すものでもあるまい。インターネットの閲覧を打ち切ると、日記を綴りはじめた。前日の記事は数文足しただけでさっさと完成し、この日のものに入ってここまで綴ると、ちょうど一二時半を迎えている。それからキリンジ『3』を掛けて、久しぶりに運動をすることにした。脚の関節の駆動が滑らかになるまで屈伸を何度も繰り返したあと、ベッドの上に乗って前屈、そのあとに腹筋運動を、休みを入れながら九〇回行うと時刻は一時に達した。上階に上がると洗面所に入って、電動シェーバーで伸びた髭を当たったのち、ちょうど振り返ったすぐそこに置かれてあった掃除機を持って自室に戻り、手早く床の埃を吸い取った。そうして祖父母の部屋に掃除機を片付けに行ったそのついでに、炬燵テーブルの前に座ってアイロン掛けを始めた。テレビで始まった『パネルクイズ アタック25』の冒頭には松田龍平が登場して、『泣き虫しょったんの奇跡』という映画の告知をしたのちに問題を出題するのだが、その様子がやや陰鬱そうだというか、口から吐き出す言葉にも勢いがなく、問題文など棒読みで、どことなく居心地が悪そうな風だったので、こんなキャラクターだったのかと勝手に親近感らしきものを覚えた。エプロンやハンカチにアイロンを施してしまうと自室に戻って服を着替え(エディ・バウアーのシャツに、例によって空色のジーンズ)、それから台所で飲むヨーグルトを一杯飲むと家を発った。(……)駅前の和菓子屋「(……)」を訪れ、翌日(……)さんに贈る品を求めるのだった。母親はまたメルカリで何か購入したらしく、コンビニでその支払いをしたいからついでに送って行こうかと言われていたが、歩く時間を作りたいので断ったのだ。天気は正午頃から曇ったりやや晴れたりを行き来していたが、今はまた陽が出てきていた。坂の入り口まで来ると、青緑色の団栗が散らばっていて、人に踏まれたり車に潰されたりして破片が擦り付けられたのだろう、路上には土汚れのような茶色がところどころ染みついていた。右手、川のほうに目をやりながら上っていると、そちらの木から立っていた鳴き声が、蟬のものではないかと遅れて気づいて、すると道を囲む近くの木立からもツクツクホウシの鳴きが降っているが、空気はもはや夏のものではない。草に覆われた斜面には彼岸花がいくつも並び、無数に分かれ湾曲して天を指す花の手の一本一本が、薄陽を受けて蠟細工のような光沢を帯びていた。街道を進んでいると、肌がいくらか汗の感覚を帯びている。何だかんだで外を歩けば音やら匂いやら次々と細かな情報が差し向けられて、その連続に、以前ほどではないにせよ、いくらか心身がひらくようだった。裏路地に入る角の一軒に生えた百日紅は、これも随分久しぶりに目にしたものだが、樹冠の全体に万遍なくピンク色を散らして、枝先にいくつか密集もあって、まだまだ花は続きそうである。自分の歩調ののろいのに、老いた身であるかのような、大病を患ったあとの病み上がりであるかのような幻想が湧くが、希死念慮の重かったうつ症状を大病と言うならばそれもそうかもしれない。緩く、ぬるい風を前から受けながら進んでいると、家屋の途切れて駐車場と土手上の線路にひらいた一画でアオマツムシの音が現れ響き、奥の林からは蟬の声が跳ねて重なり、目を振り上げれば宙には蜻蛉が舞っていた。歩きながら、過去にこだわらず、ともかくも毎日書けることを書くこと、それができれば良いのではないか、質は措いても、何であれ日々を書き続けることが自分が生きるということだったのではないかと頭の内に落ちてきて、「生きることを書くことによって書くことを生きること」という昔作った標語も浮かんだが、しかしそれはどういうことなのかと更なる言葉を繋げようとして続かなかった。駅前に出ると横断歩道を渡り、「(……)」に入店する。ガラスのウィンドウに寄って、「ノーブル」という白餡入りの焼き菓子の一〇個入りのがあるのを確認してから、壁のほうに並ぶ品々を見ていると、なかに五個入りのサブレの袋がある。そこで背後の、カウンターの奥に現れた年嵩の女性店員から、上品気な音調でいらっしゃいませ、と掛けられたので、頭を振ってこんにちはと挨拶をしてから、サブレの袋を二つ手に取った。翌日に皆で食べる用と、もう一つは自宅用である。そうして入り口近くのウィンドウに戻り、一〇個入りの箱を追加で注文して会計をした。合わせて三〇五〇円だった。一万円札をトレイに置き、小銭の詰まったなかから五〇円玉を探し当てて重ねると、奥で品物を袋に整理していた店員から、サブレのほうはビニール袋で良いか、それとも大きな紙袋にすべてまとめるかと問われたので、ビニール袋で構いませんと応じた。七〇〇〇円の釣りを受け取って財布に収めると、品物を持ち、どうもありがとうございましたと残して店をあとにした。横断歩道に立ち止まると、南の空にまだ高い太陽が雲から逃れたところであたりには日なたが敷かれ、顔の左側に厚い熱線が寄せられる。夏を思い起こさせるような陽光の調子だった。帰路のあいだも大方太陽は雲の合間に現れていて、陽射しが左頬についてきて暑いが、陽も浴びるものだろうと裏には入らず、目を細めながら表を歩いた。道のところどころで、庭木のある宅などから、車の響きに負けず昼日中から夕刻のように、アオマツムシの声が朗々と放たれて宙に伸び漂っていた。中学生か高校生か、唇の真っ赤な女子やら、手を叩きながら笑い合う男子やら、若者らといくらかすれ違ったが、どうも(……)高校で文化祭を催していたようで、通りがかりに道の奥に、門が開放されて多色で彩られたオブジェの類が何やら立っているのが見えたので、そこを訪れた者たちだったのだろう。帰宅すると時刻はおおよそ午後三時、居間のテーブルの上に買ってきたものを置いておき、シャツを脱いでしまうと(背中は汗で結構濡れていた)自室に戻って、ズボンも脱いでジャージに履き替える。それから緑茶を二杯分、それに「たべっ子どうぶつ」のビスケットを持ってきて、一服しながら「(……)」を読んだ。そうして四時前から日記に取り掛かると、これでまた一時間は掛かるだろうと歩くあいだに思った通り、現在時に追いついた頃にはもう五時が目前になっていた。今現在、九月一八日の午後七時前に至っていて、この日のこれ以降のことはほとんど記憶に残っていない。夕食の支度として茹でられたジャガイモを潰してポテトサラダを作り、ローストビーフの塊を薄くスライスして行った。六時頃から下階に戻ってギターに触れはじめ、そうしていて気分が持ち上がるでもないのだが、長く、一時間ほど弄り続けた。その後は食事と入浴、そうして一一時頃まで娯楽的な動画を視聴し続けたのち、カロリン・エムケ/浅井晶子訳『憎しみに抗って 不純なものへの賛歌』を一時間ほど読んで、例時過ぎには床に就いた。翌日、午前から川崎に出かけるために七時には起きなければならなかったからである。しかし、眠りは結構遠かったと思う。