工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年
(……)ぼくがやってみたいのは、生きるためには呼吸をすればいいのと同じように、(こんな言い方ができるとすれば)ただ文章を書きさえすれば[﹅10]いい書物をつくることです。(……)
(252; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年六月二十五日〕土曜夜 一時)
*
(……)今日の午後で、訂正はやめることにしました、もう何がなんだかわからなくなってしまったので。ひとつの仕事にあまり長くかかりきっていると、目がチカチカしてくる。いま間違いだと思ったものが、五分後にはそうでないように思われてくる。こうなると、訂正のつぎに訂正の再訂正とつづいて、もはや果てしがない。ついにはただとりとめのないことをくり返すことになる、これはもう止める潮時です。(……)
(254; ルイーズ・コレ宛、クロワッセ〔一八五三年七月二日〕土曜 午前零時)
- せっかくの晴れ日、たまには肌に陽も浴びるものだろうと、ベランダに出てしばし外気のなかで読書をすることにした。吊るされた洗濯物のあいだをくぐって陽射しのなかに踏み入り、右手で額に庇を作りながら首を傾けるが、あまりの眩しさの圧力に視線が太陽の下で留められ、本体にまで到達できない。眼下の梅の木の、天を指す枝々のその両側に並んだ葉のそれぞれは、虫の蛹のように身を丸め、水気を失って艶などひと塗りほどもなく、褪せた緑に乾いている。近間の屋根の瓦の襞に斜めに白さが掛けられて、まるで輝く鱗のようだった。
- 日なたのなかに胡座で座りこんで、フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』を読み進める。右方から斜めにぶつかってくる熱線はなかなかに厚く、頭の上から裸足の先まで、顔を前にやや猫背になって本を覗くその身のすべてが浸けられるようで、じきに黒い肌着の裏の皮膚から前髪の掛かった額の上まで汗を帯びた。折に、風は通る。するとその清涼さに、肌着の触れる胸のあたりの水気がかえって強調されるようだった。
- 一時半から二時前まで二〇分強、身体に陽射しを吸収させて汗をかくとなかに入った。眩しい空気を見つめ続けた視界は室内で殊更に暗み、その上に普段は眼裏に見えるような靄った緑色が生じ被せられて、しばらく物の色形も仔細に見えなくなったが、飲むヨーグルトを冷蔵庫から取り出し一杯注[つ]いで、それをこくこく飲んでいるうちに平常に復した。
- 自室に戻ると、引き続き読書に励む。その裏に、Cecile McLorin Salvant『Womanchild』を流した。この女性ジャズボーカルは、音源を借りた当初(どうやら二〇一五年のことらしい)には集った面子(Aaron Diehl、Rodney Whitaker、Herlin Riley)から音の種類が透けて見えるようでもあって、実際聞いてみてもその予想とさして違わず大した印象も与えなかったはずだが、久方ぶりで掛けてみると、BGMとしての聴取ではあるがバックも含めてなかなか良質の作に思われた。
- フローベール/山田𣝣訳『ボヴァリー夫人』。シャルルとエンマは両人とも、窓辺に「肱をつく」。●19「晴れわたった夏の夕べ、生暖かい街路には人通りもなく、女中たちが家の戸口で羽根つきをして遊ぶころおい、彼はよく窓をあけて肱をついた」。→●54「往診に出かけるのを見送りにエンマは窓べに寄る。そして部屋着をふわりとまとったまま、窓敷居の、ジェラニウムの鉢を二つ置いたあいだに肱をついた」。→●85(ダンデルヴィリエ侯爵のヴォビエサール荘にて)「エンマはショールを肩にかけ、窓を開いて肱をついた」。
- エンマとその父親ルオーはともに、過去を思い返してそれが「遠い昔」になってしまったことを慨嘆する。●50 ルオー爺さん。シャルルとエンマが馬車で去っていくのを見て、「自分の結婚式のこと、若かった日のこと、妻がはじめて身ごもったときのことなどを思い起こした。(……)すべてなんと遠い昔のことだろう!」→●71~72「エンマは賞品授与式の日を思い出した。(……)なんと遠い昔のことだ! それもこれも今では遠いむかしのことになってしまった!」
- ●56「結婚するまで、エンマは恋をしているものと信じて疑わなかった。ところが、その恋から当然生まれてくるはずの幸福がいっこうにやってこないので、これはなにか自分が思い違いをしたのだろうと考えた」――「恋」と「幸福」の結びつき。
- ●62「母親をなくした当初、エンマはひどく泣いた。(……)ベルトーへ書いた手紙では、厭世的な感想をつらねたあげく、やがては自分も母と同じ墓に埋めてほしいと頼んだりした。(……)やがてエンマは飽きてきたが、(……)惰性から、つぎには虚栄心から続けてゆくうち、ついにある日ふと気づいてみれば気持もしずまり、(……)心にもはや一片の悲しみすらとどめなくなっていた」――エンマの「冷めやすさ」?
- ●63「物事に熱中しやすい反面、根は実際的なエンマの心(……)」
- ●63「院長などは、エンマが最近尼僧院そのものすらを見下すようになったと、にがにがしく思っていた」。→104「いったいエンマはこのごろ何に対しても、だれに向かっても、軽蔑の色をあからさまにあらわすようになっていた」。
- ●63「エンマは家へ帰ると、はじめのうちは召使いたちを意のままに動かすのを楽しんでいたが、やがて田舎がくさくさして、尼僧院が恋しくなった」――今いる場所、現今の生活への倦怠。別の場所への志向。
- ●64「(……)おそらくは旅行に出るべきだったのだ。(……)ある特定の土地にだけ生えて、よそでは育ちにくい植物があるように、この地上のどこかには幸福を生むのに適した国がきっとあるのだと思われる」→●93「そのかわりかなたには,至福と情熱の広漠とした国土が地平の奥までひろがっていると思えた。(……)ちょうどインド特産の植物のように、恋愛もまた特別あつらえの土壌と特殊な気候とがあって、はじめて花開くものではなかろうか?」――別の場所への志向。「幸福」や「恋愛」は今この場所ではなく、「この地上のどこか」「かなた」にある「特定の土地」、「特別あつらえ」の環境において実現される。
- ●71「「ああ、なぜまた結婚なんかしてしまったんだろう?」/ひょっとしたら別の巡り合わせで、別の男といっしょになることだってありえたのではないかと、彼女は考えてみる」――結婚への後悔、および別の生への志向。
- ●71「そういえばお友だちはみんな今ごろどうしているだろう? きっと都会に住んで、街路の騒音、劇場のざわめき、舞踏会のまばゆい光につつまれて、心は浮きたち、感覚は花開くような生活を送っているにちがいない」――「都会」や社交的な生活への憧れ。
- ●71「(……)この私の生活は、天窓が北に向いた納屋のように冷たい。蜘蛛のように黙々と、倦怠が心の四すみの闇のなかに巣を張っている」。→●101「暖炉のぬくみにぐったりすると、前よりもひとしお重い倦怠がのしかかるのを感じた」。
- ●88「あの舞踏会はなんとまあ遠い昔のように思えることか!」――ヴォビエサール荘での舞踏会の遠さ。
- ●90「あの方はパリにおいでだ。あの遠いパリに! パリとはどんなところなのか? なんとすばらしい大きな名だろう! パリ! 彼女はその名を繰りかえしささやいては楽しんだ」。91「エンマはパリの地図を買った」。「エンマは『花壇』という婦人新聞や、『客間[サロン]の精』をとった。芝居の初演や競馬や夜会の記事は、すみからすみまで読みあさり、女歌手の初舞台や商店の店開きなどにも関心をもった」――パリへの憧れ。
- ●92。エンマにとっての「パリ」とは、「大使たちの社会」、「公爵夫人たちの社会」、そして「文士や女優」たちの暮らし、その三種類に大別され、それ以外のものではない。
- ●94~95「旅がしたい、尼僧院に帰りたいなどと思い、死んでしまいたい気がすると同時に、パリへ行って住みたいとも思った」――別の場所、別の生活への志向。
- ●96「エンマは自分の苗字になったこのボヴァリーという名が有名になってほしかった。その名が本屋の店頭をれいれいしく飾り、新聞紙上に繰りかえされ、フランス国内津々浦々まで知れわたってもらいたかった」――エンマの野心。
- ●97「そうでなくとも彼女は近来夫に対してますます気が立ってきていた」。→●97「自愛心が夫の身におよんで、神経がいらだつ(……)」→●99「裁縫をしても気がいら立ってたまらない」――たびたびの苛立ち。
- ●98「心の底では彼女はなにかの事件を待ち望んでいた」――「事件」、変化の待望。→99「ではこうして、これからさき、いつも今日は昨日に、明日はまた今日に似た毎日が、数限りもなく、何物ももたらさずに、ずらずらと続いてゆくのか! ほかの人たちの生活は、たとえどんなに月並みでも、なにか事件のひとつぐらいは起こる機会があるものだ。(……)ところが自分にはなにも起こらない」――「事件」の不在、および「毎日」の無差異。
- ●102。エンマの家にときどきオルゴール弾きがやってくる。「それはどこかの遠い舞台の上でかなでられる曲、サロンで歌われる曲、夜ふけて明るいシャンデリアの下で踊られる曲だった。それはエンマの耳にまでやっととどいた社交界のこだまだった」――「社交界」の遠さ。
- エンマは常に自分の現在の居場所、現在の生活に満足できず、別の場所、別の生を求める女性である。田舎医者シャルル・ボヴァリーと結婚するやいなや、彼女はその「平穏無事の毎日」に幻滅し、「倦怠」を抱えこむが、実のところそれ以前、尼僧院の寄宿舎にいた当時からその性質は表れていた。院に入った当初、エンマはそこに発散している「神秘なけだるさ」に浸って宗教的生活に傾倒し、「苦行のため終日断食を試みたり、なにか果たすべき誓いはないかと」絶えず気を配ったりする。母親が死んだ際にも初めはひどく悲嘆に暮れたが、その悲しみが癒えるとともに宗教心も薄れて行き、尼僧院での「清浄な生活」にも「飽きて」しまって、最後には院そのものを「見下す」ようにさえなる。そうして実家に帰ったエンマは、やはり初めのうちだけは召使いたちを自由に操るのに楽しみを覚えていたものの、じきに「田舎がくさくさして、尼僧院が恋しく」なる。現在の居場所、生活に嫌気が差して、過去、「見下す」ようにして出てきた当の場所に戻りたくなるのである。
- シャルルとの結婚はエンマにとって、「くさくさ」とする実家での田舎生活から自分を救い出してくれる絶好の機会だっただろう。しかし、彼女がシャルルに「恋をしている」と思ったのは、端的に「思い違い」だった。シャルルとの生活は、彼女が期待したような「幸福」や「情熱」を与えてはくれなかった。彼女が書物のなかで知り、魅了されたそれらのものは、今この場所において現実化するのではなく、どこか遠くの、別の場所にあるものである。だから彼女は新婚早々に「旅行に出るべきだったのだ」と考え、またのちにはパリに住むことを夢想する。「ある特定の土地にだけ生えて、よそでは育ちにくい植物があるように、この地上のどこかには幸福を生むのに適した国がきっとある」のだ。
- 結婚を後悔し、別の夫、別の生の可能性を想像しながら倦怠を抱えている彼女に、一つの大きな「出来事」が訪れる。ダンデルヴィリエ侯爵の邸宅、ヴォビエサール荘への招待である。この華麗な舞踏会を体験し、そのなかで「子爵」と呼ばれる人物と踊って以来、彼女の夢想する「別の場所」は、より具体的なイメージでもって形作られることになる。すなわち、そこには「パリ」という一つの固有名詞が与えられることになったのだ。エンマは「子爵様」のいるパリに恋い焦がれ、街の地図を買ってはその上を指先で隈なく辿り、または婦人新聞や雑誌を読み漁って芝居や夜会や流行服についての情報に通暁し、さてはまたバルザックやジョルジュ・サンドの小説を読んで「子爵」の思い出が「織り込まれた」空想に耽る。しかし、彼女の知っているパリのイメージとは、結局のところ、大使たちや公爵夫人や文士女優らの世界、要は「社交界」のそれに収斂されるものなのだ。そこにおいてこそ、彼女の憧憬は現実化する。「ちょうどインド特産の植物のように」、「恋愛」もまたきらびやかな「社交界」のような、「特別あつらえの土壌と特殊な気候とがあって、はじめて花開く」のだが、その「至福と情熱の広漠とした国土」は遥か「かなた」に位置している。「社交界」の存在は、昼下がりに時折り家を訪問するオルゴール弾きのそのメロディに乗せられて、かろうじて「こだま」としてエンマのもとにまで届くものでしかないのだ。
- 午後七時頃、(……)さん(どういう漢字を書くのかわからない)という父親の同級生が、贈り物を持ってきた。小田原の土産らしく、鈴廣の揚げ蒲鉾と母親は言い、鈴廣というのは地名だとこちらは思っていたところが、今検索してみると会社の屋号だった。父親にはもう一人、(……)さんという同級生がいて、先の(……)さんとは昔から三人で仲良くつるんでいた地元の仲間であるらしい。(……)さんは(……)あたりに住んでいて、こちらも何の機会にか、過去に両親がその宅まで行く車に同乗していたことがあり、またその奥さんは(……)の「(……)」で働いており(母親はこれについて、「(……)」との名を口にしていたが、この名の店も検索してみれば(……)には確かにあるらしいところ、しかしこれは鉄板料理屋のようなので混同ではないか)、以前に竹筒に入った寄せ豆腐を貰って食った覚えもあった。(……)さんという人のほうは、(……)かどこかに住んでいるらしい。
- 夜半から音楽。例のごとくKeith Jarrett Trio, "All The Things You Are"(『Standards, Vol.1』)を初めに流し、それからCharles Lloyd, "Secret Life Of Forbidden City", "Miss Jessye", "Hyperion With Higgins"(『Hyperion With Higgins』)、最後に一九六一年のBill Evans Trioの"All of You (take 2)"。Jarrett Trioのこのスタジオ版の"All The Things You Are"は、Jarrettの音運びやリズムの散らし方に少々不規則なところがあって(『Tribute』のライブ音源のほうがその点ではよほど安定していたのではないか)、ピアノのフレーズを追おうとしているといつも途中で一部拍子を見失ってしまう。また、Lloydのブロウの、回転の感覚の強さ。John Coltraneを引き継いだ形のものだろうと思うが、彼のそれは芯が抜けているように軽く、ふわふわとしている。ところで、曲名の"Forbidden City"とは何かと思ったら、これが紫禁城のことだった。Lloydのこのアルバムの曲名には、二曲目の"Bharati"(知恵と音楽を司るヒンドゥー教の女神らしい)にせよ、紫禁城にせよ、七曲目の"Dervish"にせよ、東洋的な要素が見受けられる(と言って、六六年録音の『In Europe』にも"Tagore"とか"Karma"とかが見えるから、昔からのことか)。
- 就床前に瞑想。窓の外ではアオマツムシが鳴きしきっている。それが時折り気まぐれに声を止めると、空間が広くなり、ずっと奥のほうから細く幽かな光の粒子線のようにして、ほかの虫の声が辛うじて届いてくるが、じきにまた近間で鳴きを上げるアオマツムシがその上を塗りつぶしてしまう。