工藤庸子編訳『ボヴァリー夫人の手紙』筑摩書房、一九八六年
生れつき苦しまずにすむ人間がいるものです、無神経な人たちというのがそれだ。連中は仕合せですよ! でも彼らはおかげでどれほど多くのものを失っていることか! 奇妙なことに、生物の階級を上へ昇れば昇るほど、神経的な能力、すなわち苦しむ能力も増大するようです。苦しむことと考えることは、つまるところ同じものなのでしょうか。天才とは、要するに、苦痛を研ぎ澄ませること、つまり、対象そのものをいっそう完全かつ強烈に自分の魂に滲み透らせることにほかならないのかもしれません。おそらくモリエールの悲しみは、<人類>のあらゆる愚かしさ、彼が自分自身のなかにとりこんでしまったと感じていた人類の愚かしさから来ているのです。
ようやく共進会のなかほどまで来ました(今月できたのは十五ページほど、それも仕上がっているわけではありません)。さて出来は良いのか悪いのか? ぼくにはまったくわかりません。それにしても会話の難しさ、とりわけ会話に性格[﹅2]をもたせたいとなると! 会話によって色づけすること、しかもそのために会話の生気が失われたり不正確になったりせず、平凡でありながら常に格調高く保つこと、これはもう曲芸みたいなもんだ、ぼくの知るかぎり小説のなかでこんなことをやってのけた人はありません。会話は喜劇の文体で、語りの部分は叙事詩の文体で書かなければならないのです。
今夜は、すでに四回も書きなおしているあのいまいましい飾りランプの話を、新しいプランにしたがって、またやりはじめました。まったく壁に頭をぶつけて死んじまいたいくらいだ! 要するにこういう話です(一ページでこれを書く)、ひとりの男が村役場の正面の壁につぎつぎといくつもの飾りランプをつけるのを群衆が見て、しだいに昂奮が高まってゆく、それを色づけして見せるんです。そこに群がる人々が驚きと歓びでわめき立てるのが、見えなくちゃいけない。それも滑稽な誇張ぬき[﹅7]、作者の考察もぬきでやる。貴女はぼくの手紙にはときにびっくりするほど感心すると言ってくれる。とても良く書けていると思うわけですね。あんなのは小手先の仕事です! なぜって手紙には、ぼくの思ったことを書けばいい。でも、他人のために、彼らが考えるであろうように考える、そして彼らに喋らせるとなると、全然違うんですよ!(……)
(284~285; ルイーズ・コレ宛〔クロワッセ、一八五三年九月三十日〕金曜夜 午前零時)
- tofubeats feat. 藤井隆 "ディスコの神様"をyoutubeで何度も繰り返し再生しながら、軽運動をする。音楽が流れるなか、ベッドの上で両足の裏を合わせ、その上から手で掴みながら前屈の姿勢で静止する。また、例のヨガで言うところの「コブラのポーズ」――うつ伏せの状態から両手を前方に突いて身体を持ち上げ、背中をぐっと反らせる――も行って身体をほぐす。
- 午後五時、台所に入って、うどんを茹でるためにフライパンに湯を沸かす。水が沸騰に至るのを待つあいだにベランダに出ると、夕刻の外気は湿っぽい。思えばこの日は寝起きからどこか肌寒いようで、日中過ごすあいだもジャージを上下ともしっかり着込んでいたのだった。"ディスコの神様"のメロディを口のなかでリズミカルに鳴らしながら柵に寄ると、隣家の庭に鳥が二匹現れて、木の一本に留まった。鵯だった。鳥たちはそれから梢のあいだをくぐってばさばさと音を鳴らし、同時にぴよぴよと鳴き声も立てながら追いかけっこを始めた。一度は庭から飛び出して、我が家の畑の斜面に生えた梅の木に止まったが、またすぐに隣家の敷地へ戻って行くその姿を追いつつ、雄と雌との番いなのだろうかと思った。その後二匹は柚子の木の足もとに降り立った。こちらの位置からは姿が窺えず下草を分けてがさがさというその音のみを聞くあいだに上空を見上げると、この日は雲がひと繋がりに空を覆って全面白いそのなかに、東のほうでちょっと畝も生まれているのを目にすれば、空に境を画すもののなくてどこまでもなだらかにひらいているものだから、三方の端まで渡る空間の広さが前日よりも実感されるようだった。鳥たちはそのうちにまた飛び立って、家並みのあいだを通り抜けて林のほうへと去って行った。それを見届けたこちらは室内に戻り、北海道産小麦を使用したうどんを茹で、洗い桶に水を溜め、氷も使って冷たく締めると、笊に上げたそのあとから大根を千六本におろした。
- 夜半前、音楽。Charles Lloyd, "Darkness On The Delta Suite", "Dervish On The Glory B", "The Caravan Moves On"(『Hyperion With Higgins』)に、同じくCharles Lloyd, "Georgia"(『The Water Is Wide』)。『Hyperion With Higgins』の終盤三曲は、どれもギターのJohn Abercrombieが流麗に、わりと活躍している印象。"Dervish On The Glory B"は、実のところあまり似てはいないのだが、『Rabo de Nube』の"Booker's Garden"を思い起こさせるようで(どことなくファンキーなようなビート感のためだろう)、Brad Mehldauのピアノソロを中心にもう一度聞きたいようだ。その後、"The Caravan Moves On"を聞くと、冒頭、雰囲気をたっぷりと湛えたLloydのサックスと言い、行進めいた低音のタムのリズムと言い、遠くにゆらゆらと揺らめきつつ、切り絵のように黒一色の影と化しながら砂丘の上を行く隊列の様子が、まさしく眼裏に表象されるようだった(つまらない、退屈なイメージ化に過ぎないが)。
- 就床前、瞑想を行う。この日はアオマツムシの音は聞こえず、しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんと、原始的な楽器を振り鳴らすかのような虫の音が遠くに響くのみだった。鼻からゆっくりと呼吸をし、空気を吐き出しきって腹をへこませたままに静止するということを繰り返していると、じきに視界が蠢きだして、靄の収束が始まったが、だからと言って精神状態に大きな変化がもたらされるでなく、かつてのように繭に包まれたような心地良さというか、カプセルのなかで液体に浸っているような安楽さというのは訪れなかった。一五分ほど、座っていた。それから明かりを落とし、窓を開けたまま眠りに向かったが、久しぶりに寝付くのには少々苦戦して、結構な時間が掛かったようだ。