- このあたりで一度、自分の現在の症状についてまとめておこう。
- 1. 感受性の鈍麻――感情に関わるあらゆる形容詞の機能不全。プラス方面の情動は何一つ自分の内に生じてこない。悲しい、寂しい、心苦しいなどといったマイナス方面の情動も特段感じることはないが、そのなかで僅かながらも折りに覚えるようである唯一の感情は、瞬間的な苛立ちのそれである(しかしそれと言っても、病前に比べると格段に弱くなっている)。また、無力感、無意味感は自分の支配的な精神状態となっている。さらにまた、情動に限らず、広く物事の質を「感じる」という精神の機能そのものがうまく働かず、空洞化したような、内実を欠いたようなものになっている。快楽・快感といった類の感覚はまったくなくなった。
- 2. 欲望の消失――病前の自分における最も明確な欲望というのは、読み書きに関するそれだったと思うが、読みたい気持ちも書きたい気持ちも今は覚えない。と言いながらも一応本を読みはするのだが、それは一面では読書を完全に失いたくはないという未練のためなのかもしれず、別の面では単なる惰性によるものであり、まったく面白くはない。
- 3. 知的好奇心・物事への興味関心の衰微――欲望の消失と軌を一にしている。様々な物事に触れたり、書物や体験から知識や知見を得て、それを自分なりに発展させていきたいという探究心がなくなった。昨年末には本屋を訪れて哲学・思想の棚を見分しただけで、読みたい本がいくらでもあることに欲望や胸のときめきのようなものを感じていたことを記憶しているが、そういった感覚は消え去った。ほとんどすべての物事がおよそどうでも良いとしか感じられず、現状、ニュースを伝える新聞記事すらも読んでいない。
- 4. 思考力・創造性の衰退――これは他人にはわかりにくい事柄だろうが、自分のなかでは明白である。自分の思考というのは、絶えず自分の頭のうちに流れている一種の独り言のような形で、自分の「目に見え」、認識されている(「聞こえている」と言ったほうが正しいのかもしれないが)。その脳内を流れる自動思考の質が劣化し、範囲を制限されたように狭い種類の事柄に陥り、創造的・生産的と言うべき思考の類(そう言った時に主に想定されているのは、昨年の末あたりに日記に綴っていたような「考察」の類のことだ)が生まれなくなったことを自分は明確に自覚している。文学的・批評的感性の衰退と言い換えても良い。
- 5. 記憶力の低下――これも曖昧なところだが、多分間違いないと思う。日記を書くという習慣を失ってしまったからかもしれないが、その日のことを朝から順番に思い出そうとしても、記憶や印象に引っかかることがなくなっている。八月から九月までは一応以前と同様の形式の日記を再度試みたわけだが、その実践のなかでも記憶の手応えというのは稀薄なものだった。また、知識の類が思い出しにくくなっているような気がする。正確には、単語などの形で断片的に想起されはするが、いくらかの長さを持った情報としては再生されないといった形か。
- 6. 読書の質の低下――感受性が鈍麻したので当然のことだが、読書をしていても楽しかったり面白かったり興味深かったりするわけでなく、何かが印象に残るということもほとんどない。読んでいても文章の表面をただ虚しく引っ搔いているだけ、というような感覚であり、その内実を汲み取ることはできず、例えば小説の文体の質なども感知できなくなったと思う。また、言語的論理の形式に馴染めなくなったというか、多くの情報量を含んだ長い理屈が頭に浸透しなくなったということもあるように思う。書くにせよ、喋るにせよ、考えるにせよ、言語の操作が以前よりも不如意になった。
- 7. 食欲の消失――何かを食べたいという欲求が端的になくなった。腹が空になってきているという物理的な感覚はわかるが、そこに「空腹感」「食への欲求」を覚えることはまったくない。殊更にものを食べたくないわけではないが、積極的に食べたいわけでもない。したがって、一応普通に食事を取ることはできているが、そこに満足感の類は一切ない。また、美味を感じることもほとんどない。ものを食べていて不味いわけではなく、味がしないわけでもないが、特段に美味いとも感じない。
- 8. 不眠――「眠気」というものが自分の生活からは端的に消失した。欠伸は出る。しかしそれは健康的な睡眠欲を意味するものではなく、形骸化した単なる身体的反応の名残のようなものに過ぎない。夜になり、夜半が近づいても眠くなることはなく、床に就いてからはほぼ間違いなく一時間は意識を失わず、一応の眠りに入るまでに二時間掛かることもざらである。ちなみに朝は朝で切れ切れに目覚めており、眠いわけではないが身体を起こすことができず、いつまでもぐずぐずと床に留まってしまう。
- 9. 性欲の消失――おそらくは病気のためでもあり、いくらかは薬剤の作用によるものでもあるのではないかと思うが、性的欲求は相当に希薄化している。かくして、人間の三大欲求と言われるところの食欲・睡眠欲・性欲のどれも自分においては無縁のものとなった。
- 10. 瞑想の不全――少々特殊な事柄だが、瞑想という実践が自分においてはその内実を失った。病前の自分は瞑想によって、いわゆる「変性意識」の状態に容易に入ることができた。一種の主客合一に近づいた状態と言って良いのかもしれないが、自分の身体の存在が融解するかのようで、繭に包まれたような心地良さに浸される状態のことである。しかし病後、瞑想を試みてみても、心身がそうした状態に深化することはとんとなくなった。これはおそらく、病気によって何らかの脳内物質が分泌されなくなったか、あるいは分泌はされていても受容体のほうに何らかの問題が生まれており、その伝達機能がうまく働かなくなったためではないかと推測される。
- 11. 不安の消失――病後の自分の変化のなかで、唯一肯定的と言えそうなのがこれである。パニック障害=不安障害患者であった病前の自分にとって、不安とは常に潜在している主要な精神要素だったが、今次の変調が進むにつれて、正確には四月の途中あたりから、パニック障害の症状は鳴りを潜め、不安というものをまったく感じなくなった。例えば以前はカフェインを摂取すれば覿面に不安や緊張などの精神の変化に襲われたはずだが、不思議なことに、今はそうした現象も起こらない。それは喜ぶべきことのはずだが、これらの項目群のなかに並べてみると、これすらも否定的な変容のように思えてくる。すなわち、激しい自生思考に襲われた一月初頭の日記にも記したことだが、不安というものは自分の人間性を成り立たせている最終的な原理であり、むしろそれがあるからこそ自分はものを感じることができていたのではないかという仮説が信憑性を帯びてくるようにも思えるのだ。少なくとも、大方の精神機能が鈍麻した現状よりも、パニック障害でありながらもまざまざと物事を感じ取ることができていた過去の状態のほうが今の自分には輝いて見える。
- これらを踏まえて自分の症状の主要な特徴を分析しておくと、まずその第一は感受性と呼ばれている種類の精神機能の鈍麻である。物事の質を感じ分ける能力がほとんど機能不全に至っているわけだが、それは読書などの精神的な事柄から食事などの身体的な欲求まで、生の全域に及ぶ。「物事の質」というものを、「特殊性」とか「差異=ニュアンス」といった概念で置き換えることもできよう。端的に言って自分の症状の中核的な要素は、差異=ニュアンスを感知する能力の不能であり、それは身近で具体的な事柄のみならず、その時々の瞬間、時空そのものの特殊性といった抽象的な方面にまで当て嵌まる。通常の人間にとっては、朝は朝としての質を持ち、夜は夜としての質を備えており、その時々に応じた心身の状態なり気分なりが生じるはずだが、自分においては、食欲や睡眠欲の減退といった要素も相まって、それぞれの時間そのもののあいだに違いが感じられない。流れる時間そのものに手応えがないのだ。以前にも書いたことだが、食事の無味を表す比喩として「砂を噛むような」というものがある。これが食事のみならず、精神作用の全域にまで及び、その空虚な味気なさが精神の支配的な様態となって常に持続しているというのが今の自分の状態だと考えてもらうとわかりやすいかもしれない。
- あらゆる物事は自分にとっては、AでもBでもなく、悪いわけではないが良くもない、といった――ロラン・バルトとは違ってとてもこの概念を肯定的なものとして扱えないが――一種の「中性」の状態として現れる(「ものを食べたくないわけではないが、食べたいわけでもない」「不味いわけではないが、特に美味いわけでもない」)。自分においては二項対立が機能不全に陥っており、差異=ニュアンスの系列において物事がどちらにも突出することのない幅の狭さ[﹅4]、起伏のなさ[﹅5]がこちらの支配的な症状である。諸々の様態から、自分の病状は一応「うつ病」と診断されるに相応しい要素を備えていると思うが(実際、インターネット上で自己診断を試みてみても、「中程度のうつ病」といった判断が下される)、本質的にはそれは、「差異不全症」あるいは「無差異病」とでも呼ぶべき、心身の状態の絶対的な平板さ[﹅7]として現出している。
- 二項対立においてどちらの状態でもないという消極的な中途半端さとして選ばれた「中性」の状態は、しかし現実にはまったく純粋無垢な「中性」として評価されるものではない。「どちらでもない」「何も感じられない」という第三項の半端さそのものは、総体として否定的な意味合いを帯びるからだ。つまりそれは、「生は無意味だ」といった空虚感を生み出すのである。病前の自分の実感から導き出された仮説によれば、差異=ニュアンスとはそれ自体で「生命的」なものだった。それは人間の生を活性化させ、そこに生き生きとした[﹅7]起伏を与えるはずのものだった。そうした差異=ニュアンスを感じる能力を失ったいま、否定的な無意味感に付きまとわれているというのは、皮肉にも上の仮説が逆方向からの形で、自分の身において[﹅8]証明されたと言うべきかもしれない。
- すべてが無意味だと感じるのは生の差異のなさそのものによるものでもあり、同時に、差異=ニュアンスの感得が不可能になったことによって、自分の主要な情熱だった読み書きの実践までもが無価値なものになったことにもよっている。自分において書くこととは単に何かの種類の文章を拵えることではなく、主に、日々に書くこと/日々を書くこと、自分の毎日の生そのものを書き綴ること、書くことと生きることを一致させることという意味合いを持っていた。そこにおいては物事を感じることはほとんどそのままそれを書くことと等しく結びついていたわけで、感受性が失われたことによって書くことが不可能になった――無理矢理試みたとしても、そこから充実感や達成感のようなものを得ることができなくなった――というのも理の当然である。自分は生を書くことによって、生に意味を付与し、生そのものの意味を生産していたに違いない。そこにおいては、自分が死に至るまでのすべての日々を隈なく文章化することという浪漫的な誇大妄想じみた目標が抱かれており、それこそが自分が生きる主要な目的のはずだったが、その実践が決定的に不可能になったいま、一体自分は生きていて何の意味があるのかという反語的な自問が脳裏を席巻するのも不思議なことではない。
- ではどうするか。生きる意味がなくなったので、空虚感に従って大人しく死を選ぶか。自分にとっては正直なところそれも魅力的であり、そのほうが手っ取り早く、また潔くもあると思うが、しかし端的に自分は死を恐れており、積極的にそれを欲望するわけではない。自分には自殺を敢行するほどの気概はないのだ。そうすると、無意味になった生をしかしともかくも、差し当たりはその無意味さのままに生きねばならないということになる。これはこれで難事だが、その道行きにおいてふたたび生の意味が生まれ出ることがあるのか――つまりは、かつてのように読み書きへの欲望とその実践による充実感が回復するか、あるいはそれに替わる何かが見出されることがあるのか。率直に言って、あまり期待はできないと思う。
- まずもって生の意味とは、主には持続的で長期的な欲望とその実現によって産出されるものだと思う。欲望や感受性、物事への関心が戻ってこないと、生の意味も何も、まるで話にならないのだ。それではそうした欲望や感受性の回帰、言い換えれば「無差異病」の治癒があり得るかと言うと、少なくとも実感としてその気配はまったく見えない。上に書いたようなことはすべて目新しい事柄ではなく、病状が統合失調症的なものからうつ的な症状に推移した三月四月当時から続いていることだ。つまり、自分の症状はこの半年間、本質的な点では何らの変容も被っていないということになる。本も読めなかった状態から一応はふたたび読書ができるようになり、外出も可能にはなったものの、それは単なる表面上の小さな変化に過ぎず、底の部分では、自分の病状は何一つ改善してなどいないのだ。
- そして、改善のための方策も定かではない。三月以来の半年余りのあいだ、薬剤の類は色々なものを飲んできたが、それらがほとんど何の効果もなかったことはいまや明白である。「うつ病」と見える自分の病状は、明らかに心理的な要因によるものではなく、よく言われるように「ストレス」によるものですらなく――なぜなら、年初の変調時においてそれほど明確なストレスを感じていたとは自分は自覚していないし、義務的な労働からも離れ、ストレスなどというものの見当たらない現在の環境においても、病状の改善が見られないからだ――おそらくは「脳」によるものである。それは多くの精神疾患に言われるように「心」の問題などではなく、自分の見るところ明白に脳内に器質的に何らかの障害が起こったことによるものに違いない。そして、脳機能の改善のために施せる策――脳内物質の分泌の操作――としては、現代の精神医療におけるその選択肢はまず第一に薬剤で、それで大方は尽きている。薬が効かない以上、ほかに主要で有効な手立てはまず存在しない。日光を浴びること、運動をすること、食事療法などがあるにはあるが、それらはどちらかと言えば傍系的なものであり、端的にそんなことで差異=ニュアンスがふたたび感じられるようになるのだとしたら、苦労はないだろう。
- つまりはこちらの見込みとしては、自分はおそらくこのまま、無意味そのものと化した生をそのままに生きていかねばならないだろうということだ。損なわれた[﹅5]生を、阻害/疎外された生を、言わば「偽物」の生を、それでも生きなければならない。そこにおいて現実的に期待できるのは、不感症の快癒による本当の自分、本来のアイデンティティへの回帰などではなく、まあせいぜい生の無意味性に幾分か慣れるといった程度のことでしかないだろう。人間は慣れる生き物であり、忘れる生き物であるから、今は物事を十全に感じられていた当時の記憶が残っており、それと現状を比較しては過去の「栄光時代」に焦がれているが、そうした記憶も次第に薄れて行き、無意味さがどうあがいても変わりようのない常態となって、それに殊更に打ちひしがれずに済むようになるのではないか。かくて、フローベールの言ったように、「人生というものは、いつもそこから降りてしまっているという条件のもとで、かつがつ耐えることができるんです」ということになるわけだ。