2018/12/24, Mon.

 九時頃、携帯の振動の音で一度覚めたが、それからも長々と床に留まる。結局、随分と寝坊して一二時半起床。快晴。メールはTからのもので、昨日こちらにLINEでメッセージを送ったと知らせるものだった(スマートフォンを持っておらず、PC版のLINEを使っているこちらは常にログインしているわけではないので、こうして教えてくれたのだ)。
 上階へ。便所に入ろうとすると父親が外から入ってきたので、おはようと挨拶をする。母親は、Eさんとハンドベルのコンサートに出かけている。前夜、I.Y子さんから電話があり、Yのおばさんの調子が悪く、明日見舞いに行けないかという話が来ていたと思うのだが、それはお流れになったのだろうか。新聞を読みながらレトルトのカレーを熱し、父親とともに食す。父親はその後、何やら自治会館に出かけて行った。
 風呂を洗ってから自室へ。LINEにログインすると、一月二六日土曜日に、三鷹天文台の天望会に行こうと企画しているのでぜひ参加してくれとのことだった。こちらとKくん(Tの彼氏)の誕生日も祝ってくれると言う(偶然にも、Kくんはこちらと同様、一月一四日の生まれなのだ)。Tからもメッセージがあって、四月一九日公開の「劇場版 響け!ユーフォニアム ~誓いのフィナーレ~」の前売り券を買うので、観ようと思っているならどうかと。それほどの興味はなかったが、皆で見に行くならばそれも悪くあるまいというわけで、こちらの分も頼む。それからTとしばらくやりとりを交わす。そうして二時。FISHMANS "いかれたBABY"を歌ってから、洗濯物を取り込みに。ベランダに続く戸を開けて、吊るされたタオルを取ろうとすると、その向こうに皓々と広がる太陽があって眩しく、手もとが見えないほどである。乾いた風が吹いて、そのなかに枯れ葉が舞う。ベランダにも落葉や葉の屑がたくさん散っていて、これでは玄関前も掃き掃除をするようではと思うが、面倒なのでひとまず措いておく。タオルを畳んでおくと、そのほかの仕事も省いてふたたび自室へ。
 FISHMANSのベスト盤を流しつつ、Mさんのブログと一年前の日記を読む。"MELODY"が良いように思われた。その後、この日の日記を書いて三時。前日の分も仕上げる。
 上階で一人、カレー味のカップラーメンを食いながら、(……)を読む。ちょうど五時頃、近所の老婦人、Tさんから電話。退院の報告である。F病院からHに移り、さらに「A」という施設に入っていたと言う(おじさんのほうもここに入っていたとのことだ)。おばさんがどんな病気で運ばれたのかは不明。訊かなかったが、どうも意識は失っていたらしく、今は杖を突いて歩くようだと言う。おじさんとともに家に帰ってきた現在、火木土(と言っていたと思うのだが)でデイサービスに通っているらしい。赤いペンで情報をメモにまとめておく。
 米を三合研ぎ、茄子を炒めようと切っていると母親が帰ってきた。食事の支度は、茄子と豚肉の炒め物を作るのみ。汁物が僅か残っており、さらにサラダは母親が朝に作っておいた。自室に下りて、ローベルト・ヴァルザー/若林恵訳『助手』や、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』の書抜きをしたと思う。それで七時半。カップラーメンを食べて腹が減っていなかったので、先に入浴。その後夕食。炒め物のほか、鮭がおかずになったが、これが妙な弾力のある食感だった。今上帝の足跡を辿るNHKの番組(だったと思うが)をほんの少し目にする。汗をだらだら搔きながら沖縄戦の話に耳を傾ける姿。沖縄訪問は一一回に及んだと言う。九時前に父親が帰宅。飲み会だったらしい。これで四日連続、忘年会に行ったわけで、忙しいものだ。
 その後はふたたび書抜きをしたり、怠惰に過ごしたり。深更、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』を最初からふたたび読み出す。少しでも知識を定着させるために、もう一度読んだほうがいいと判断したのだ。読書の方式を同じ本を二度読むようにしようかとも考えるが、これは定かにそうした原則を打ち立てるかわからない。そこまでの興味を惹かれない本も、そこまでの価値を感じない本もあるだろう。書見後、二時一五分に消灯。




ローベルト・ヴァルザー/若林恵訳『助手』鳥影社、二〇一一年

 夕食は焼き魚だった。焼き魚を食べたばかりで、そのすぐあとにこの世で最も悲惨な人間となることは、単純に言って不可能だった。この二つが折り合うことは決してなかった。
 (79)

     *

 今朝彼はいつもよりいくらか長くベッドにいた。窓を開け、ベッドで白い朝日を浴びて身体を光に照らした。これこそが味わいたかったことだ。例えば朝食のことを考えたり、その他もろもろのことも同様に。今日は何もかもが何と晴れやかで日曜らしいのだろう。晴れやかなものと日曜らしいものは、遠くからでも兄弟関係を結んだように見え、そして安らかな朝食に思いを馳せること、そう、それもそうした晴れやかなもの、日曜らしいものという糸で織られていた、そのことを今はっきりと感じるのだ。今日、例えば不愉快であったり、不機嫌もしくは憂鬱な気分であるなどということが、どうして可能だったろうか。あらゆるものの中に神秘に満ちた何かがあった。あらゆる思想、自分の脚、椅子に載っている衣服、簞笥や輝くばかりに清潔に洗ってあるカーテンの間や洗面台に。しかしこの神秘に満ちたものは平静さを失わせるようなものではなく、その正反対で、静かに憩い、微笑み、文字通り人を平和な気持ちにさせるのだった。そもそも彼は考えなしで、なぜそうなのかは全くわからず、しかし無理にその理由を見つけることもないようだった。考えなしというものには沢山の太陽があり、太陽があるところではヨーゼフは思わず、美味しそうに用意された朝食のテーブルのことを考えた。そう、この単純な考えと共に、この愚かだがほとんど甘美といえる日曜らしいものが、ともかく始まった。
 (85)

     *

 それは湿気の多い嵐のような日々だったが、それでも何か独特の魔力があった。居間は一気に憂鬱に、心地よくなった。外の湿気と寒さのせいで室内はいっそう快適になった。もう暖炉にも火が入った。霧のかかった灰色の風景によって、黄色や紅い葉が熱っぽく燃えて輝いた。桜の赤い葉には燃え立ち傷つき痛ましいところがあったが、他方それは美しく、人の気持ちを宥め、朗らかにしてくれた。しばしば草地や森林地域全体が、ヴェールと湿った布に覆われて姿を現し、上も下も、遠くも近くも何もかもが灰色で湿っていた。陰鬱な夢の中を通り抜けるように、彼はすべてを通り抜けて行った。けれどこうした天気やこんな世界もまた、ひそかな明朗さを表わしていた。木々の下を行くときには木々の匂いがし、熟した果実が草地や道に落ちる音が聞こえた。あらゆるものが二倍も三倍も静かになったような気がした。物音は眠り込んでいるか、あるいは音を立てるのを恐れているようだった。早朝や夜遅くには、霧笛の長い息づかいが湖上に響きわたり、遠く離れた場所から互いに船の到着を告げる警告信号を送り合った。それは、寄る辺ない動物たちの嘆きの声のように鳴り響いた。そう、霧は充分に深かった。その合間にまたよい天気の日もあった。そして快晴でもなく荒れた天気でもなく、特に穏やかでもなければ特に陰鬱でもない、晴れでも曇りでもな(end172)い、真に秋らしい日があった。朝から晩まで、まったく同じように明るくて暗いまま、午後四時が午前十一時と同じ世界像を呈示し、万物が心安らかに、いぶした金色に染まって少しだけ哀しげに横たわり、色彩は静かに自分自身の中に退き、いわば自分を心配して夢見ているようだった。このような日々を、ヨーゼフはどれほど愛したことか。そういう日、彼には何もかもが美しく軽やかで親しみがあるように思われた。自然の中のかすかな哀愁が彼を憂慮のない、ほとんど思考のない気分にさせた。すると、以前は厄介で大儀そうに思われていたことの多くが、もう厄介でも大儀でもなかった。そのような日々には心地よい忘れっぽさが、彼を素敵な村の通りに沿って行くよう駆り立てた。平静な気持ちで泰然として、善良に、思考豊かに世界を見つめることができた。どこへでも出かけて行くことができた、いつも青ざめて豊かな同じ光景、いつもと同じ顔があった。その顔は真剣な優しい視線で彼を見つめた。
 (172~173)

     *

 (……)それから食事が来た、なんてことだ、それはまさしく監禁室の食物で、豆も蕪もカリフラワーもない、小さな豚のヒレ肉すらない、スープと一切れのパンのみだった。味気ない乾いたパンと一口の水。スープも水のようであり、そのうえスプーンがまた、むかつくことにスープ鍋に鎖で繋いであり、それはまるで誰かがこの鉛を盗もうとしたかのようだったが、盗む理由など絶対になかった。しかしそれは実用的であり、軍隊的で侮辱的だった、その鎖は。それというのも監禁室の住人は言うまでもなく、お世辞を言われたり愛撫されたりご機嫌を取ってもらうためにそこにいたわけではなかったのだ。「軽蔑すべき行為には軽蔑すべき罰を」――どうやらこのことが食器に、明白かつ冷ややかに記されていたわけだ。
 (200)



新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』岩波新書(1585)、二〇一六年

 沖縄戦では、本土から来た約六万五〇〇〇の兵隊と、沖縄出身の兵隊約三万、それに民間人約九万四〇〇〇人が犠牲になったといわれる。そのほかに、朝鮮半島から軍夫やいわゆる「従軍慰安婦」として強制連行されてきた約一万人の人びとが犠牲になったといわれているが、その数は今なお明らかになっていない。
 (4)

     *

 いずれにせよ、マッカーサーを中心とする占領者にとって、天皇制の利用・軍事国家日本の非武装化・米軍による沖縄の分離軍事支配は、三位一体の関係にあった。ただ、沖縄を日本から分離し、ここをアメリカの排他的支配の下に置いて軍事的拠点として要塞化するという主張は、マッカーサーをはじめ米軍部には根強いものがあり、対日占領政策の上でもその既成事実化はすすんでいたが、それは必ずしもアメリカ政府としての方針になっていたわけではなかった。
 沖縄を長期的に保持するという方針を、大統領の諮問機関として設置された国家安全保障会議が決定するのは、四九年初めのことである。すでに中国大陸における国共内戦は、共産党の圧倒的優位のもとに展開し、米ソの対立も深刻化しつつあった。
 アメリカ政府は、四九年七月に始まる一九五〇会計年度に、初めて本格的な沖縄基地建設予算を計上した。四九年七月四日の米独立記念日に際し、マッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明した。「非武装国家日本」は、「アメリカの目下の同盟国」として位置づけなおされることになった。
 (10)

     *

 非武装国家日本の再軍備は、五〇年八月、GHQの指示による警察予備隊令(いわゆるポツダム政令)の公布(即日施行)によって始まった。日本の限定的再軍備は、米陸軍省などによってかなり早い時期から検討されていたが、五〇年六月に勃発した朝鮮戦争は、日本の再軍備に否定的だったマッカーサーなどにも、日本を「反共の防壁」とするためには、米戦略を補完する現地地上軍が必要であることを認識させたといえよう。(end11)
 警察予備隊は二年後、保安隊になり、さらに二年後、自衛隊になった。
 (11~12)

     *

 対日平和条約には四九カ国が調印した。中華民国中華人民共和国は、いずれを中国の代表と認めるか米英の意見が合わず、いずれも対日講和会議には招かれなかった。朝鮮半島で内戦中の二カ国、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国も招かれなかった。インド、ビルマユーゴスラビアは欠席、ソ連ポーランドチェコスロバキアは調印を拒否した。
 (14)

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 対日平和条約が締結された同じ日の午後、日米両国の間で、日米安保条約が締結された。この安保条約は、軍隊をもたない日本の希望によって米軍が日本に駐留する権利を与えられた基地貸与協定とでもいうべきもので、米軍には、日本防衛の義務はなかった。それでいて、日本における内乱鎮圧のために出動することができた。条約の期限も定められていなかった。
 米軍の恒久的な日本駐留は、この条約によって根拠を与えられることになった。対日平和条約の第六条によって、連合国軍(占領軍)は、条約が効力を発生して九〇日以内に日本を撤退することになったが、占領軍の大部分を占めていた米軍は、日米安保条約に基づく駐留米軍として日本に居座り続けることとなったのである。
 (17)

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 一方、日本(ヤマト)では、「主権回復の日」の三日後には、皇居前広場でデモ隊と警官隊が激突し、死者まで出した「血のメーデー」事件が起きていた。五二年九月には石川県内灘村で米軍の砲弾試射場建設をめぐる反対闘争が発生し、五五年九月には米軍立川基地の拡張問題で警官隊と反対派との衝突(砂川闘争)が起きていた。五七年一月には米軍群馬県相馬ヶ原演習場で米兵による農婦射殺事件(ジラード事件)が起き、裁判権をめぐる問題がクローズアップされた。実は、対日平和条約発効の時点で、日本(ヤマト)全土には、沖縄の約八倍の米軍基地が存在していた。したがって、全国各地で、反米反基地闘争が続発しており、五〇年代の日米関係、サンフランシスコ体制は、決して安定したものではなかった。
 (23)

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 一方、アメリカ側が日本側の顔を立てるためにこの共同声明[五七年六月の岸・アイゼンハワー共同声明]の中に挿入したのが、「一切の米地上戦闘部隊の撤退を含む」在日米地上軍の大幅削減であるといわれた。しかし、海兵隊など在日米地上軍の撤退は、日米会談の結果ではなく、日本、韓国、台湾などの地上兵力を強化して極東防衛の前面に立て、その背後に米海空軍を配置するという当時の米極東戦略の一環としてとられた措置であった。日本から撤退した海兵隊などは、日本ではなかった沖縄へ移駐した。
 日本に置かれていた極東軍司令部も五七年七月一日に廃止され、ハワイに司令部を置く太平(end35)洋軍に統括されることになった。極東軍司令部の廃止にともなって沖縄統治は、大統領行政命令(「琉球列島の管理に関する行政命令」)によって基礎づけられ高等弁務官制がとられることになった。大統領行政命令によって高等弁務官制が実施されたのは、岸渡米の一〇日前、六月五日のことであった。
 岸・アイゼンハワー共同声明に海兵隊など地上戦闘部隊の撤退を盛り込んだのは、既定方針を政治的に利用しようとする思惑からであった。その狙いは、一方では本土の反米反基地闘争の鎮静化であり、他方では、沖縄の闘いに現実の壁の厚さを知らしめて両者を分断することであった(同時に沖縄に対しては、四原則に対する一定の経済的譲歩=軍用地料の引き上げなど、アメの政策も用意された)。
 米極東戦略の再編成は、「太平洋の要石」としての沖縄の比重を高めることとなった。それは、沖縄への「本土撤兵のしわ寄せ」(五七年六月二八日付東京新聞)を意味した。事実、五二年段階で八対一の比率だった米軍基地は、六〇年には、一対一になった。本土の基地が四分の一に減り、沖縄の基地が二倍に増えたからである。
 (35~36)

     *

 結局、共同防衛地域沖縄包含論は、五九年四月八日の自民党の「日米安保条約改正要綱」からは消えた。改定安保条約(現行の「日本とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」)では、第五条で、共同防衛地域(条約適用地域)を「日本国の施政の下にある領域」とし、その代わり第六条で、在日米軍は「日本の平和と安全」のためばかりでなく「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため……日本国において施設及び区域を使用することを許される」ことになった。
 「極東の平和と安全」を名目に米軍が勝手な行動をして日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐためとして、「条約第六条の実施に関する交換公文」が取り交わされ、装備における重要な変更(たとえば核の持ち込み)、日本からの戦闘行動などは、事前の協議の対象とすることになった。周知のように、この事前協議は、条約成立以来一度も行われていない。
 アメリカがベトナム内戦に直接介入して以来、横須賀、岩国、佐世保などの在日米軍もベト(end39)ナムに出動した。明らかに「日本国から行われる戦闘作戦行動」であった。しかし、沖縄を経由することによって、それは事前協議の対象にされなかった。「沖縄への移動は戦闘作戦行動ではなく、沖縄からベトナムへの出撃は、沖縄が安保条約の適用地域ではないから事前協議の対象にはならない」という国会答弁が、何回も、判を押したように繰り返された。
 安保適用地域の外に置かれた沖縄が果たさせられてきた役割の一つは、在日米軍の自由な軍事行動を保障することであった。沖縄は、安保体制を外から強化する役割を担わされていたのである。
 (39~40)

     *

 国会周辺が、連日万余の民衆で埋め尽くされ、全国各地で抗議行動が展開されるようになるのは、五月一九日(衆院特別委)、二〇日(衆院本会議)における警官隊を導入しての強行採決以降であった。安保改定阻止闘争は、民主主義擁護の闘いとして爆発的盛り上がりを示したのである。
 国鉄労組の早朝ストなど七六単組四六〇万人が参加したといわれる安保改定阻止第一次実力行使が行われたのは、六月四日のことである。衆院で承認された条約は、参院で採決されなく(end43)とも三〇日が経過すれば自然承認ということになる。六月一九日には、アイゼンハワー米大統領の訪日が予定されていたが、日程調整のため来日したハガチー大統領報道官の乗った車がデモ隊に包囲され米軍ヘリコプターで救出されたり(六月一〇日)、全学連による国会突入が行われたり(六月一五日)して、六月一六日、政府はマニラに居たアイゼンハワーに訪日延期を要請した。
 (43~44)

     *

 安保闘争が高揚期に向かう時期に、沖縄では、内外報道陣を招待した公開ナイキ(核弾頭が搭載可能な地対空ミサイル)発射演習が行われ、高等弁務官がミサイル・ホークの基地建設を発表し、米下院がメースB(核弾頭搭載の地対地ミサイル)基地建設を承認するなどということが行われたのは不思議でさえあった。沖縄への核兵器の搬入は五〇年代半ばに始まり、ベトナム戦争ピーク時の六七(end45)年には一三〇〇発近くが配備・貯蔵されていたことが米公文書で判明している(二〇一五年三月一四日付共同通信)。
 立法院がメースB持込み反対決議を行っても(六〇年五月六日)、ヤマトのどこからもこれに呼応する声明一つ出なかった。瀬長亀次郎は、沖縄の反基地闘争が困難な状況に置かれている第一の理由は、本土の反安保勢力が沖縄との具体的共闘を組むに至っていないことである、と指摘していた(「安保改定と沖縄」『世界』六〇年五月号)。
 六月二三日、改定安保条約の発効の日、岸首相は退陣を表明、翌七月、第一次池田勇人内閣が成立した。池田内閣は、所得倍増を唱えて経済政策を強調し、政治情勢の鎮静化に努めた。六〇年一一月の衆院議員選挙では、自民党が三〇〇議席近くを占め圧勝した。
 (45~46)

     *

 一九六二年という年は、一〇月に、いわゆるキューバ危機が起こった年である。この年二月、ケネディ米大統領は対キューバ全面禁輸を指令し、キューバ米帝国主義をラテンアメリカ人民の敵として、中南米における革命の不可避性を宣言していた。植民地解放宣言との関連でいえば、アルジェリア民族解放戦争が勝利して(三月)、アルジェリアは独立し(七月)、東南アジアでは、南ベトナムの民族解放闘争が進展し、ラオスでも内戦が続いていた。アメリカと南ベ(end51)トナム政府は、この年一月、防衛力増強に関する共同声明を発表、続いて二月、米国防総省南ベトナム援助司令部を設置、ベトナム内戦に本格的に介入する態勢を整えていた。
 (51~52)

     *

 アメリカは、六五年二月七日を期して、いわゆる北爆(北ベトナム爆撃)を開始するが、その前触れは、六四年八月のいわゆるトンキン湾事件トンキン湾内で米駆逐艦北ベトナム魚雷艇に攻撃されたとして北ベトナム海軍基地を爆撃)であった。沖縄に駐留していた米海兵隊南ベトナムに上陸して直接地上戦に参加し、米軍タグボートの沖縄人乗組員がベトナム行を命じられたり、グアムから飛来したB52戦略爆撃機が沖縄から南ベトナムに出撃したりするといった事態が次々に発生した。
 (54)

     *

 沖縄返還を機に、在日米軍の再編統合が行われ、本土の基地が約三分の一に減り、沖縄の基地はほとんど減らなかったので、国土面積〇・六%の沖縄に、在日米軍基地(専用施設)の約七五%が集中するという状況も生み出された。第二の基地しわ寄せである。
 (69)

     *

 (……)沖縄返還協定が調印された翌月、つまり七一年七月、突如、キッシンジャー米大統領補佐官の秘密訪中があり、ニクソン米大統領の中国訪問が発表された。ベトナム政策に完全に行き詰まっていたアメリカは、中国とソ連の対立を利用し、「敵の敵は味方」という論理に従ってベトナム戦争の後ろ盾ともいうべき中国との関係改善に乗り出したのである。
 アメリカの中国封じ込め政策に協力していた日本は、頭越しの米中関係の改善に衝撃を受け、佐藤栄作から政権を引き継いだ田中角栄が急遽訪中(七二年九月)し、日中国交正常化に乗り出(end72)した。日中国交正常化によって、六九年の佐藤・ニクソン共同声明に「日本軍国主義の復活」を見てこれを激しく非難していた中国も、これ以後日米安保批判を行わなくなった。このことが、沖縄返還によって在日米軍基地を沖縄にしわ寄せしたこととあいまって、日米安保は、日本の政治的争点から消えていった。安保問題は、沖縄問題になった。
 第二のニクソンショックは、訪中発表の翌月の七一年八月、ニクソン米大統領によって発表されたドル防衛非常事態宣言であった。とりわけドルを通貨として使用させられていた沖縄の民衆にとって、変動為替相場制への移行は、これまで三六〇円に固定されていたドルの価値が、日々その価値を下落させていくことを意味した(復帰時は、一ドル=三〇六円)。沖縄返還協定粉砕、批准阻止の闘いもさることながら、多くの住民にとって、自分の所持金が、一ドル=三六〇円で換算されるかどうかは、きわめて重要な問題であった。
 (72~73)

     *

 もう一つ、八九年から九〇年にかけての「「慰霊の日」休日廃止反対運動」について触れておこう。沖縄では、六月二三日が沖縄戦の犠牲者の霊を慰める「慰霊の日」となっている。慰霊の日は、復帰前に「住民の祝祭日に関する立法」によって定められた。だが日本復帰と同時に、日本国憲法をはじめとする日本の法律が適用されることになり、それ以前の沖縄独自の立法はすべて消滅した。慰霊の日は、かろうじて県条例の中に残っていた。
 ところが八八年一二月、官公庁の隔週土曜(二年後から全土曜)閉庁制を実施するためと称して、地方自治法が改正され、「第四条の二(休日)」という条項が付け加えられた。この条項が列挙する日を地方公共団体の休日として、条例で定めることになった。逆にいえば、都道府県や市町村などが独自の休日を設けることはできなくなったのである。
 (……)
 県の「慰霊の日」を含まない休日条例案は、八九年六月議会に提出されたが、反対世論の盛り上がりで、県議会各派は立往生した。結局条例案は、九〇年三月の県議会で、全会一致で廃案になった。未解決のまま先送りされた「慰霊の日」休日廃止問題は、九〇年六月二三日、慰霊の日の沖縄戦戦没者追悼式に出席した海部俊樹首相が、「地域的特性を考慮すべきである」(end83)と発言したことによって解決することになった。
 (82~84)

     *

 九五年九月、沖縄で女子小学生が三人の米兵に暴行されるという凶悪事件が発生した。この衝撃的事件は、米軍側が、日米地位協定を盾に被疑者である米兵の身柄引き渡しを拒んだことから、日米地位協定の見直し要求へ、さらには日米安保の見直し要求へと発展していった。
 ちょうどこの時期、いわゆる「日米安保の再定義」の全容がほぼ明らかになりつつあった。東西冷戦の終焉、ソ連の崩壊によってその役割を終えたかに思われていた日米安保体制を意義付け直し、強化・拡大していこうという試みは、九五年一一月のクリントン米大統領の訪日によって完成する予定であった。安保再定義は、沖縄基地の維持・強化を前提としていた。
 (85)

     *

 沖縄が地位協定の見直し問題を提起したのは、このときが初めてではなかった。一九八五年に沖縄県北部の金武町で起きた米兵による殺人事件に関して県議会は、被疑者の身柄引き渡しと、それを拒んでいる地位協定の見直しを全会一致で可決し、外務省、防衛庁(現防衛省)、在日米軍司令部に要求していた。これに対し当時の安倍晋太郎外相は、参議院予算委における喜屋武真栄[きゃん・しんえい]議員の質問に対して、「地位協定は平等だから改正の必要はない」と答え、外務省の担当者も県議会代表団に対して同様の対応をしていた。
 沖縄県警がまとめた復帰後二三年間、七二年から九五年の米兵犯罪を検挙件数でみると四七(end86)八四件。凶悪事件だけを拾いあげても、殺人二二件、強盗三五六件、婦女暴行一一〇件(この種の事件は届け出がないケースが多いことを考慮すれば、この数字は氷山の一角に過ぎない)となっていた。
 (86~87)

     *

 [大田昌秀]知事の代理署名拒否は、世論の圧倒的支持を得た。一〇月二一日には、県議会全会派、県経営者協会、連合沖縄、県婦人連合会、県青年団協議会など一八団体が呼びかけ、約三〇〇団体が実行委員会に名を連ねた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれた。
 会場となった宜野湾市海浜公園には、八万五〇〇〇人の人びとが集まった。島ぐるみで一〇万人規模の集会が行われるのは、実に四〇年ぶりのことであった。(……)(end89)(……)
 この大会決議は、地位協定の見直しと基地の整理縮小を島ぐるみの要求として確認することとなった。一〇・二一県民大会をふまえて、一一月四日、村山富市首相と大田知事の最初の会談が行われた。知事は、代理署名拒否の方針を貫くことを改めて伝えるとともに、地位協定の見直しと、基地返還アクションプログラム策定を要請した。地位協定については、県の行政や県民の生活にかかわる一〇の条項について具体的問題点を指摘し、基地の整理縮小(撤去)については、二〇一五年までに基地を全面返還させ、その跡地利用として国際都市を形成していく構想が示された。
 (89~90)