2018/12/25, Tue.

 例によって、一一時半まで長く寝過ごす。晴れ。夢を見た。こちらの友人という立場だったのだろうか、匿名的な男とともにプールに入っている。自分は幼少期からスポーツが苦手で、特に水泳が一番不得手であり、クロールの息継ぎが出来ないので二五メートルコースを泳ぎぎったことがないのだが、多分夢のなかでも金槌のままだったと思う。こちらとその男とは水着を身に着けず、全裸だった。ほか、従妹のK子によく似た、彼女をもとにしたらしい茶髪でショートカットの女性がおり、その顔にじっと見惚れた一幕があった。ほかにもう一人くらい女性がいたかもしれない。彼女らが男性たちと同じく裸だったかどうかは覚えていないが、淫夢の感触はなかった。
 上階に行くと、メモ書きには「B/K」及び買い物に出かけるとある。「B/K」というのは何のことかわからなかったが、どうも銀行(Bank)のことだったらしい。のちに聞いたところではしかし、銀行のATMに長蛇の列が出来ていて、金を下ろすのを諦めたと言う。
 食事は前夜の茄子と豚肉の炒め物の残りに白米、それに野菜や魚介ミックスの入った薄味のスープ。食後、風呂を洗い、緑茶を用意して、ナッツ類の小袋を二つ持って自室へ戻る。茶を飲みながら、Mさんのブログなどを回る。Franck Amsallem / Tim Ries Quartet『Regards』を流しながら爪を切る。これは充実作である。サックスのTim Riesは、確かThe Rolling Stonesのバックを務めていた人で、Stonesの曲をジャズにした作品や、『Live At Smalls』などを出していたと思う。またこの作品のリズム隊はScott ColleyとBill Stewartで、その二人の豪華な組み合わせに惹かれて、おそらくディスクユニオンで購入したものだろう。
 一時過ぎから書抜き、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』。BGMは順当にライブラリを下がり、Franck Avitabile『Right Time』に。二時まで。一旦上階に上がって、洗濯物を取り込む。母親帰宅済み。タオルや衣服を畳み、アイロンを掛けてから室へ帰って、ふたたび書抜きを続ける。三時半過ぎまで。それから前日の分、今日の分と日記を綴る。現在は四時二〇分。
 その後、「ジェイムズ・ジョイス」などの語ではてなキーワードを探って、目新しい好みの日記ブログがないか探求し、「ワニ狩り練習帳」というものを発見。実のところこのブログの存在は以前も見かけたことがあったと思うが、今回正式にブックマークに追加した。それから五時までの短いあいだに、新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』を読んだように思うのだが、よく覚えていない。
 夕食の支度。ブロッコリーをまず茹でた。軸を切り落とし、薄く切り分けてから先にフライパンの湯に投入する。しばらくしてから花序のほうも入れ、茹でたものを笊に上げておく。それから、鶏肉のソテーを調理。ピーマンとエリンギと玉ねぎを合わせる。これらを切っているあいだに母親がタブレットを持ってこちらの傍にやって来て、メルカリで買おうかなと思う服があるけれどどうかと意見を求めてくる。二九日に都心の高級な和食屋で、ロシアから帰国した兄とT子さん(兄嫁)、それに彼女の両親も交えて食事会があるのだが、それに着ていくかどうかはともかく(いま買ったとしても四日後には間に合わないだろう)、ちょっとよそ行きの綺麗な衣服が欲しいらしい。四つほど見たなかでは、黒地に花柄のものが一番無難に思われた。母親が気に入ったらしい、水色に金の装飾がなされているものは、その模様が何だかごてごてと派手に感じられて、苦笑とともにそれはちょっと、と口にした。それから鶏肉のササミを、一本で四つか五つほどに切り分け、小分けにした肉の真ん中にさらに切り込みを入れてから、フライパンで炒めはじめた。肉の色がわりあいに白くなったところで野菜とキノコを投入すると、フライパンがいっぱいになる。焼肉のタレで味を付けて終了。一方で汁物としては、昼の野菜スープに白菜などを足し、鍋の素で味付けをした。
 下階に戻り、一年前の日記を読みはじめようというところで、母親が部屋にやって来る。何かと思えば、隣のTさんに料理を届けに行くと言う。クリスマスだから何かあげに行ったほうが良いかと、先ほどの料理中にそういう話が出ていたのだ。それでふたたび台所に上がって行くと、盆の上に食事が三品ほど用意されている。アルミ製のものだろうか、耐熱容器に母親がスープを注ぎ、さらに冷凍の唐揚げを一つ加えたあとからこちらが盆を持ち、外に出た。午後六時の微風が首もとにひやりとする。勝手口のほうに階段を下りて行き、扉を叩きながら母親が繰り返しこんばんはと呼び掛けるが、応答がない。それで真っ暗な敷地を通って玄関に回ると、トイレにいるらしい気配があり、ちょっと待つと物音がしてTさんが姿を現した。彼女がゆっくりとした動作で玄関の戸を開けたところに料理を持ってきたことを告げ、玄関だと食卓まで距離があるので、勝手口のほうを開けてもらえるように言ってふたたび家の横に回った。料理を見たTさんは、「素晴らしいね」と言った。盆を渡すと、Tさんは銀色の調理台の上にそれを置いてから掛けられていたラップを取り除く。そこで盆だけを返してもらい、器はいいから、使い捨てだからと母親が伝える。辞去する前に、身体は大丈夫、と、この老婆はもう耳がいくらか遠いので声をやや張って訊くと、うーん、というような反応があった。やはりそう元気いっぱいというわけでもないのだろう。九八だ、呆れたね、と言う。大正九年、一九二〇年生まれということになる。母親が一〇〇歳まで頑張って、と定型句を言うのに、明日のことはわからない、とこちらもいつもながらの言で返されたあと、挨拶をして隣家を辞去した。
 それから自室に帰り、過去の日記を読み返した。引用――「こうしたことを考えてきた時に、いま思いついたのだが、自分の日記というものは、自分を絶えず変容させていくための、あるいは「より良く生きていく」ための(実に古典的な、古代ギリシア的なテーマだ)有力なツールなのではないか。ここに至って、自分にも腑に落ちるような「ために」が出てきた。自分においては、もはや「書くこと」が「生きること」に直結しているということなのだろう(「書くこと」と「生きること」の一致というのは、こちらが文を書きはじめた当初から惹かれていた(ロマン主義的な?)テーマで、そもそもMさんのブログを発見してその真似事を始め、現在に至るまでこうして続けているというのもそういうことなのだろうし、プルーストにせよカフカにせよウルフにせよミシェル・レリスにせよ、作品自体よりもそうした存在様式においてまずは興味を持ったのではないか)。言い換えれば、書くために生き、生きるために書くという永遠の循環のなかに自分という主体は既に投げ入れられているということであるはずで、自分の欲望としては、作品を出版して広く読まれようとか、人々を啓発しようとか、金をたくさん稼ごうとかいうことよりも、「書くこと」を通して「より良い」生の形を探究し/構築し、その「生」の道行きの内の具体的な、個々の瞬間において、非常に微細なもので良いので(自分は「慎ましい」、「欲のない」人間なのだ(?))何らかの「社会性」を確保していきたいと、概ねそんなところがあるのだろう」
 「書くために生き、生きるために書くという永遠の循環のなかに自分という主体は既に投げ入れられている」などとはなかなかに格好良い言い分だが、精神の変調を通過してそれから一年が経った現在も、日記を書くという営みが未だ自分にとってこのような意味合いを保持しているかどうかは定かでない。まだ辛うじて文を書き続けていた二月の頃もそうだったが、もはや自分の生活をすべて文章化したいという誇大妄想的な野心は希薄になっている。「人は自分の欲望によって書く、そして私はまだ欲望しおえていないのだ」とロラン・バルトは書いたが、書くことに対するこちらの欲望が一年前よりも薄れているのは確かなところだ。それでもしかし、現実にはこうして、大したものではないとは言え文を綴っている自分がいるのはどういうことなのか? 消尽されたと思われた欲望が、僅かにその残滓を保っているのか、それとも単なる惰性や習慣の力によるものなのか。この日記というものが自分にとってどのような意味合いを持つのか、ということも定かではないし、その点に関して特段の思考や考察も湧いては来ない。書くことによって変容を続けるという試みが現実化すればそれは喜ばしいことだろうが、変調以来の自分は、変容/進歩/成長の欠けた停滞のなかにいる気がしてならないのだ。それ以前は他者の言葉を食物のように取り込み、その栄養分を吸収することで、肉体が肥え太るように少しずつ大きな精神へと変容できると確信していたし、実際に、二〇一三年に書くことを始めてから二〇一八年初までの五年間は確かに自分は成長していたと思うのだが、そうした確信も今は失われており、知識や見識をインプットしてもそれが自分の変容に繋がらないように思える。端的に言って、この一年間というもの自分の頭のなかには、それまでになかった新しい考えが生まれていないように感じられるのだ。日記をふたたび書き続けることで果たしてその停滞から抜け出すことができるのだろうか。
 七時になって食事を取りに行った。メニューは調理したもののほか、白米に唐揚げ、竹輪に大根の甘酢漬けである。鶏肉と唐揚げをおかずにして米をかっ喰らう。テレビは地元ローカル放送局の番組を流しており、近隣の唐揚げ屋や菓子屋などがいくつか紹介されていた。
 入浴後、九時一五分から二時間読書。歯を磨いたりしたのち(ここでふたたび、はてなキーワードを探ったような気もする)、また読書をして一時四五分に消灯。しばらく目を瞑ってから開けると、カーテンの薄白い色合いで月が出ているなと判別される。幕をめくって見上げると、直上にほとんど満月らしいのが浮かんで光を降らせていた。例によって眠気はなく、記憶を復習しながら一時間ほど眠れずにいて、三時を越えたらまた眠るのを諦めて起き上がって読書をしようと思っていたが、じきに寝付いたらしい。
 どのタイミングだったか忘れたが、この日は佐古忠彦「「アメリカが最も恐れた沖縄の男」瀬長亀次郎の一生涯」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52554)、「沖縄を熱狂させた、瀬長亀次郎「魂の演説」を聴け」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52613)という記事も読んだ。瀬長亀次郎というのは、『日本にとって沖縄とは何か』にも二、三回名前が出てきているが、「アメリカが最も恐れた男」という触れ込みの沖縄の政治家で、那覇市長やのちには衆議院議員を務めた人であり、この記事では、一九五二年四月一日琉球政府創立式典でただ一人立ち上がらなかったというエピソードが紹介されている。




新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』岩波新書(1585)、二〇一六年

 九六年四月一二日、橋本首相は、SACO[「沖縄に関する日米特別行動委員会」]の中間報告が発表される直前、突如、普天間基地の全面返還で合意したと発表した。橋本首相とモンデール駐日米大使との共同記者会見は、テレビで生中継され、大々的に宣伝された。
 続いて一五日、日米安保協議委員会(2+2)は、SACOの中間報告を受けて、普天間基地を含む在沖米軍基地一一カ所の全部及び一部を返還することを決定した。このような返還計画(end91)の発表を受けて、四月一七日、来日したクリントン米大統領と橋本首相によって、日米安保共同宣言が発表された。安保再定義である。そこには、「日米防衛協力のための指針」(七八年に制定されたいわゆるガイドライン)の見直しを開始することなどが明記され、太平洋地域における米軍の活動を自衛隊が後方支援するなど、日本の軍事的役割が飛躍的に増大する形での日米軍事協力の強化が明確にされた。
 (91~92)

     *

 普天間飛行場の返還は、九六年四月一二日に、三日後に発表されるSACO[「沖縄に関する日米特別行動委員会」]の中間報告と、それを受けた日米安保協議委決定の目玉の部分を先取りして、橋本首相によって直接発表された。沖縄民衆の基地の整理縮小・撤去要求の盛り上がりに対応し、クリントン米大統領の来日による安保再定義(「日米安保共同宣言」発表)を容易にする政治状況を作り出すための演出であった。三日後の九六年四月一五日のSACO中間報告には、次のように書かれている。
 「今後五~七年以内に、十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場を返還する。施設の移(end98)設を通じて、同飛行場の極めて重要な軍事上の機能及び能力は維持される。このためには、沖縄県における他の米軍の施設及び区域におけるヘリポートの建設、嘉手納飛行場における追加的な施設の整備、KC-130航空機の岩国飛行場への移駐及び危機に際しての施設の緊急使用についての日米共同の研究が必要となる」
 SACO中間報告は、普天間基地を含む一一カ所の全部及び一部の返還計画を示しているが、その計画によれば、沖縄の米軍基地は面積で二〇%減少し、全国比七五%の基地比率は七〇%に減少するとされた。しかし、そのほとんどは、ごく一部のこま切れ返還か、移設条件付き返還であり、基地の整理統合・集約化であり、老朽化した施設の更新であったといえる。面積的に最も大きいのは、北部訓練場の北半分の返還であった。
 九六年一二月、SACOの最終報告は、「三つの具体的代替案、すなわち①ヘリポート嘉手納飛行場への集約、②キャンプ・シュワブにおけるヘリポートの建設、並びに(end99)③海上施設の開発及び建設について検討」したが、「海上施設は、他の二案に比べて、米軍の運用能力を維持するとともに、沖縄県民の安全及び生活の質にも配意するとの観点から、最善の選択であると判断される。さらに、海上施設は、軍事施設として使用する間は固定施設としての機能し得る一方、その必要性が失われたときには撤去可能なものである」と結論付けた。
 北部訓練場の返還については、「海への出入りを確保するための土地および水域の提供」、「ヘリコプター着陸帯を、返還される区域から北部訓練場の残余の部分に移設する」などの条件がついていた。これが後に、東村高江周辺のヘリポート建設問題を生むことになる。
 翌九七年一月、日米両政府はその設置場所をキャンプ・シュワブ沖、すなわち名護市辺野古沖とすることに合意した。地元は、比嘉鉄也名護市長も市議会も、地域ぐるみで猛反発した。
 (98~100)

     *

 (……)二〇〇一年のいわゆる九・一一同時多発テロを受けて、ブッシュ政権対テロ戦争がはじまり、在日米軍再編交渉も始まっていた。東京経由で沖縄を訪問(〇三年一一月)したラムズフェルド米国防長官が、普天間基地を見て、「世界一危険な基地だ」と言ったというニュースも流れた。そうした中で那覇防衛施設局は、辺野古漁港から事前調査に乗り出そうとしたが、反対する住民・市民に阻止された。
 〇四年八月、ラムズフェルドの予言を証明するかのように普天間基地に隣接する沖縄国際大学普天間基地所属のヘリが墜落した。こうした事態に押されて那覇防衛施設局は、辺野古漁港に座り込む住民・市民を迂回して、はるか南の馬天港から船を出し、海上に櫓を組んで、ボーリング調査に着手しようとした。辺野古漁港からは、座り込んでいた人びとが小型船やカヌーで海に漕ぎ出し、海上における攻防が始まった。
 約一年後の〇五年一〇月二九日、日米安保協議委(2+2)は、「日米同盟 その望ましい未来と変革」を発表した。その中で、これまで沖縄県や名護市と協議してきた一五年使用期限付(end109)き軍民共用空港は沖縄側の頭越しにご破算にされ、辺野古崎のキャンプ・シュワブ兵舎地区を横切り、北東は大浦湾に、南西は辺野古海上にはみ出す一八〇〇メートルの滑走路を持ち、しかも大浦湾側には、逆L字型に、格納庫、燃料補給用桟橋、係船機能付護岸(佐世保に常駐する強襲揚陸艦用岸壁ともいわれる)を持つ空港が建設されることになった。
 (109~110)

     *

 沖縄県南部でまだ戦闘が続いている四五年六月、米軍はここに、日本を攻撃するための基地として、普天間飛行場を作った。普天間基地は、日本を守るための基地ではなく、日本を攻撃するための基地として、まず第一歩を踏み出すのである。
 (116)

     *

 六〇年、普天間基地は、空軍から海兵隊に移管され、海兵隊航空基地となった。朝鮮半島に近い山梨や岐阜に配備されていた海兵隊が、沖縄に移駐してきたからである。六二年、宜野湾村は、宜野湾市になったがドーナツ状に市の中央に普天間基地を抱え、都市機能を阻害されてきた。普天間基地の面積は約四八〇ヘクタール、宜野湾市の総面積の約二五%を占めている。キャンプ・瑞慶覧を含めると、宜野湾市の軍用地面積は、市の面積の約三二%を占めている。もっとも沖縄返還前までは、普天間基地の基地機能はそれほど高かったわけではない。ヘリが墜落した沖縄国際大学普天間基地に隣接して建設されたのも、復帰の時だった。
 沖縄返還に伴う第二段階の基地しわ寄せによって、普天間基地の機能は強化された。具体的にいえば、沖縄返還に際して、那覇空港にいた米海軍対潜哨戒機P3の移駐先について福田赳夫外相(後の首相)が、「岩国や三沢に移転されれば、政治問題を惹き起こす」と述べ、「日本本土ではなく沖縄の別の基地に移転」するようロジャーズ米国務長官に要請した結果、嘉手納移転が決まったのである。こうした交渉経緯を明らかにしたアメリカ側の公文書が明らかになるのは沖縄返還から二〇年以上も経過した九六年のことである。嘉手納に移転したP3は、日本政府が滑走路を整備した普天間基地で訓練を開始した。九〇年代になると、さらにヘリコプター部隊も普天間に常駐化するようになり、周辺住民は騒音被害に悩まされるようになった。
 (117)

     *

 普天間基地の危険性がとりわけ強調されるようになるのは、〇四年に沖縄国際大学普天間基地所属のヘリが墜落したことをきっかけとしている。普天間基地が、アメリカであれば米軍の飛行場安全基準違反で存在しえない基地であることを具体的資料を探し出して明らかにしたのは、当時の伊波洋一[いは・よういち]宜野湾市長だった。〇六年一一月一日、伊波市長は、「普天間基地安全不適格宣言」を発し、速やかな危険性の除去を訴えた。普天間基地周辺には、米軍の安全基準が土地利用を禁止しているクリアゾーンであることが明らかにされていなかったために、そこに公共施設・保育所・病院が一八カ所、住宅約八〇〇戸もでき、三六〇〇人もの住民が住みついてしまったのである。
 (118)

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 二〇〇七年九月二九日、宜野湾市海浜公園は、沖縄現代史上にも前例を見ない大群衆によって埋め尽くされた。この日、教科書検定意見の撤回を求めてここに集まった人びとの数は、およそ一一万人と報じられた。沖縄全県民の一割に近いこの尋常ならざる人の数は、一定の衝撃力を持った。検定の政治的中立性、正当性を強調していた政府にも、一定の揺らぎを生じさせた。
 (126)

     *

 政権交代が取りざたされるようになった〇七年七月の参院選から二年後の〇九年九月に、民主党鳩山政権が成立する。この間、沖縄に支持基盤を持たない民主党は、一貫して沖縄の世論に同調する見解を表明していた。
 たとえば、普天間の移転先は「国外、最低でも県外」という方針は、鳩山由紀夫代表のみの言葉ではない。〇八年にまとめられた民主党の「沖縄ビジョン」に明記されている。政権交代を生む〇九年の総選挙の直前、岡田克也幹事長も、「われわれは県外、あるいは国外に移転すべきだと主張しています」とし、その理由を、「沖縄という非常に狭いエリアに、嘉手納と普天間という大きな米軍基地が二つあり、これを今後三〇年五〇年と継続していくのか、ということが根本的な問題なのです。もし県内で移設したら必ず固定化するでしょう」と正論を述べていた(『世界』〇九年七月号)。
 (137)

     *

 しかし、周知のように鳩山民主党政権の「国外、少なくとも県外」の政策は、守旧勢力の集中砲火を浴びて挫折した。(end138)
 まず第一は、一足先に成立していたオバマ民主党政権への過剰な期待に裏切られたことである。鳩山民主党政権は、オバマ大統領の、とくに政権発足初期の核兵器根絶発言やイスラム世界に向けての和解発言を高く評価し、オバマ政権と手を携えて協調的日米関係を深化させることができると期待したに違いない。だが、ノーベル平和賞を受賞することにもなったオバマの発言は、結局空を切り、尻すぼみになる。普天間に関しても、ブッシュ政権から残留したゲーツ国防長官は、鳩山政権の政策変更を認めようとはしなかった。
 第二は、外務・防衛官僚の対米追随的態度である。後にウィキリークスなどによって明らかにされるように、普天間辺野古問題に関与していた日本の官僚たちは、アメリカ側に鳩山政権の政策修正に応じないよう働きかけていた。
 第三に、戦後の日米関係を微調整する可能性すらほとんど視野の中に入れることができなかったマスメディアの思考停止を挙げることができる。
 結局、鳩山政権は、一年も持たず、「沖縄ビジョン」の約束を反故にして退陣し、後継の民主党政権は、普天間辺野古問題を振り出しに戻して、辺野古新基地建設の手続きを進めることになる。しかし、沖縄の世論は、この裏切りを激しく糾弾し、さらに高揚していくことになる。
 (138~139)

     *

 野田政権成立以後のあわただしい動きの背景には、アメリカ側の事情があった。その根底には、米側の財政難による軍事費削減、直接的にはグアム移転費(グアムを米軍事拠点として再構築するための経費)をめぐるオバマ政権と、議会の駆け引きがあった。
 日米安保協議委員会(2+2)が、辺野古新基地建設を確認した翌日、米上院軍事委員会は、「財政緊縮が厳しく求められ、さらに政治的・大衆的反対に直面している今、沖縄とグアムの両方に大規模な軍事施設を建設するという課題を達成することは、現実的時間枠の中では不可能である」として、二〇一二年会計年国防権限法から、グアム移転予算約一億五六〇〇万ドルを削除した。(end142)
 そして「委員会は、国防長官に対して、任務の一体性を維持し、合衆国と日本の経費負担を最小化するとともに、普天間海兵隊飛行場を速やかに沖縄に返還し、嘉手納基地周辺住民に対する騒音負担を軽減するという目的に立って、キャンプ・シュワブにおける高価な代替施設建設ではなく[﹅26]、嘉手納基地にある空軍装備・人員の転出と現在普天間にある海兵隊の航空装備・人員の嘉手納への移転の実現可能性を研究するよう指示[﹅22]」していた(NPO法人ピースデポ「核兵器・核実験モニター」三七九号、一一年七月一日)。
 嘉手納統合案は、すでに一一年五月六日付のゲーツ国防長官宛て書簡で、カール・レビン米上院軍事委員会委員長(民主)、ジョン・マケイン筆頭理事(共和)、ジム・ウェッブ委員(民主)によって勧告されており、それが公式化したといえよう。上院本会議もこの全額削減案を可決したが、下院が全額承認していたため、両院協議会で調整の結果、一二月一二日全額削除で合意され、一二月末、一二会計年国防権限法が成立した。
 米軍再編は、軍事的必要性や財政状況を考慮してなされるものであって、住民に対する危険性の除去を前提にして行われるわけではない。もしそうならば、はじめから危険性を高めないような配慮を行うはずである。その意味で、米政府と議会の考え方の食い違いは、新基地建設を再検討するチャンスであった。だが、議会の動きに対して、米政府は、普天間問題の進展を(end143)示すことによって議会説得の材料にしようとした。日本政府もこれに同調して見直しのチャンスを失したのである。
 (142~144)

     *

 新型輸送機オスプレイは、九〇年代から、普天間代替基地への配備が予定されていたにもかかわらず、事故の発生率が高いなどの懸念が持たれていたこともあって、日本政府は米側にその計画を明らかにしないよう求めていた。一一年六月、そのオスプレイを、突然翌年秋普天間基地に配備すると、県や宜野湾市に通告してきたのである。
 それに対して一二年九月に九万五〇〇〇人の県民を結集してオスプレイ配備に反対する県民大会が開かれたが、大会実行委員会の共同代表には、翁長雄志沖縄市長会会長が、県議会議長、連合沖縄会長などとともに共同代表に名を連ねていた。
 この大会を無視したオスプレイの強行配備に抗議して、普天間基地のゲート前で行われた抗(end146)議集会には、県民大会の共同代表も参加した。この集会は、座り込みによる基地封鎖行動に発展し、一〇月一日に実際にオスプレイが配備された後も連日、三年を越える現在もなお、雨の日も風の日も、普天間基地の二つのゲート(野嵩[のだけ]ゲートと大山ゲート)前では、米兵の出勤時と退勤時に、オスプレイ海兵隊の撤退を直接米兵に呼びかける行動が展開されている。安倍政権が、辺野古の新基地建設を強行しようとした一四年七月から始まった、キャンプ・シュワブ・ゲート前の座り込み行動は、その延長線上にあるといってよい。このころから、「島ぐるみ」とか、「オール沖縄」という言葉が頻繁に登場するようになった。
 (146~147)

     *

 埋立承認[(二〇一三年一二月二七日)]の条件は、沖縄振興予算の数百億円の増額と「五年以内の普天間基地の運用停止」であり、それが安倍首相との約束であった。
 沖縄振興予算は、概算要求を上回る三五〇一億円が計上された。沖縄振興予算と称されるもののからくりについて、詳しく触れる余裕はないが、一例だけを挙げておくと、福岡空港整備の予算が「福岡振興予算」と呼ばれることはないが、那覇空港整備の予算は、沖縄振興予算として計上される。学校法人沖縄科学技術大学院大学の関連予算も沖縄振興予算である。
 沖縄振興予算は、大田昌秀県政末期、九八年度の約四七〇〇億円をピークに国の財政事情もあって漸減傾向をたどり、一一年度には、約二三〇〇億円になっていた。これをせめて三〇〇(end151)〇億円台に戻したいというのが、仲井真知事の悲願であった。
 辺野古新基地建設とリンクさせてこの要望に応えたのが、民主党野田政権である。安倍政権は、それに多少の上積みをしたにすぎない。さらに安倍首相は、二一年度まで三〇〇〇億円台を確保することを約束した。これは野田首相が、将来の政権を拘束するものとして応じられなかったものであるが、安倍首相は意に介さなかった。それを世論に大きくアピールし、「結局沖縄は金で動く」という宣伝材料にもなった。仲井真知事もまた、「これでいい正月が迎えられる」と応じ、県民の顰蹙を買った。
 (151~152)